スチャラカもくれんタマスダれ
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                 一

「ふう……これまでは商売繁盛、万事順調と来てるなあ」
 三十路を更に幾つかとうのたった壮年の男はそう呟いて引き出しを開けた。
無数の銀貨が散らばるその中に、数枚の金貨が交ざっている。
鈍く輝く金貨を一枚手にとって、男は一人ほくそ笑んだ。
「副業にいいかと思って始めたこの商売だったが、
いっそのことこの家業を辞めて専念するかな」
 己の望む『明るい未来像』を脳裏に描き、男はそれまで手にしていた鍬を
無造作に梁にに立てかけて暫しの休息と洒落込んだ。
 照りつける日差しを遮ってくれるこの小屋は男が自力で作り上げたものなのだが、
男にとっては掛け替えのないものだった。厳しい仕事を暫し忘れさせてくれる
憩いの場所として。そして、今では彼の副業の仕事場として。
 今は赤土しか見えない野に実り豊かな秋の穂撓む風景を
胸中で重ねながら男はゆっくりと目を閉じた。

                 *

 辺りの土が被さってすっかり区別の無くなってしまった畦道を一人の青年と
一人の少女が連れ立って歩いていた。
 黒い袖付き外套を羽織った武人風の青年は視線をまっすぐ前方に向けて歩いていたが
少女の方はというと捜し物でもあるのか、きょろきょろとあちこちに頭を動かしながら
歩いていた。
 その危なっかしさを見かねて青年が声をかけた。
「おい和穂。何を捜しているのか知らないが、そう視線を彷徨わせていると転ぶぞ」
 和穂と呼ばれた少女は白い大きな袖付きの服を着ていた。
二本の大きい黒の線が特徴ともいえるその服は俗に道服と呼ばれている。
 和穂は青年の言葉に不満そうに眉を曇らせて言った。
「子供じゃないんだし、そう転んだりしないよ」
 小柄な体型やくりっとした眼の為に実年齢より若く見られることの多い和穂は
青年――殷雷が普段しつこくからかっていることもあり、子供扱いされることへの
抵抗感がかなりあった。

「ねえ、この畑には何を植えるのかな」
 殷雷は頭に重しを乗せられたような気分になった。
そうだよな、こいつはこういう奴だよと声には出さずに呟く。
「和穂……これは畑ではなくて田圃だぞ。まあ、まだ水を張っちゃいないから
判らなかったのかもしれんが」
 あちこちに点在しているかかしを見れば判りそうな物だがと殷雷は考えた。
しかし口に出すのも億劫だった。
 和穂という少女は時々ぽっかりと日常の知識が抜けていることがある。
それは彼女が深窓のお嬢様だからというのではなく――
「じゃああの大きな一つ目のお化けはなんだろう?」
 もうどうにでもしてくれと殷雷は溜息を吐いた。
それでも律儀に説明してしまうのは性格なのだろう。

 かかしについて説明しても、和穂のふらふらは直らなかった。
「だから転ぶぞ。頭が重いからな」
「頭が重いって言うなら、殷雷の方が余程重そうじゃない」
 和穂の髪は後ろで括っていて先端は股にまで達していた。
髪飾りを取ればもっと下まで体を隠すことになるだろう。
 しかし殷雷は更にその上をいっていた。後ろで括っているのは一緒なのだが、
その髪は括った状態で足の踝辺りまで延びていた。括り紐を解けば髪は間違いなく
地面にだらしなく散らばることとなるだろう。
 長い髪などは激しく運動するときには殊の外邪魔なもので、武人風の殷雷が
度を超えた長髪をしているのはいかなる理由だろうか。
 閑話休題。殷雷が「頭が重い」と言ったのは和穂の髪の毛の長さを
皮肉っていったのではなかった。そう、言いたかったのは。
「いや違った。眉だ、眉。ぶっとくて重そうだよな」
 きりりと和穂の眉が怒りで釣り上がった。
 確かに穏和な顔つきに太い眉はどこか浮いている。
そして、それは本人も十分承知していて、年頃の娘らしくとても気にしていた。

                 *

「おーい和穂ぉ。宝貝の反応はどっちに出ているんだ?」
 和穂は黙って前方――よりは少し左より――を指さした。
殷雷が眉に言及した時からずっとこの調子である。
 終始不機嫌な表情で殷雷から視線を逸らしていて、一言も喋らない。
言い過ぎたかとちと反省した殷雷もどうにかして機嫌を取ろうとしてみたのだが、
どれも巧くいかなかった。
 まあこいつは後でも良かろうと殷雷は宝貝の反応が出ていた方角を注視した。
遠くに霞んで見える山は今から警戒することもなかろう。
まだ苗もまだ植えられていない田。敵が地面に潜っている事もありえるが、
地面を踏んでいる足に異常な振動は伝わってきてはいない。
そして五間ほどさきに立っている小屋。どうやら一番怪しいのは
畦道に接しているさして見栄えのしない小屋らしかった。

                 *

 宝貝。それは仙人が自らの誇りと技とをかけて作り上げた神秘の道具である。
種類は実に様々であった。持ち主に実力を遙かに越えた力を与える鎧。
天空を舞うどの鳥たちよりも速く疾走する靴。天候を己の思うがままに支配する筆。
 ただし宝貝は仙人たちの住まう地、すなわち仙人界にしか存在しないはずであった。
しかし一人の仙人の失敗によって併せて726個の宝貝が人間たちの住む地上界に
ばらまかれてしまった。
 やるせないことに現在地上界に存在する宝貝にはどれも必ず固有の欠陥が
潜んでいた。機能的に障害があるならまだましだった。中には性格の非情さ、残忍さを
欠陥として持つ宝貝も少なからず存在していた。
 さて、宝貝を地上界に解放してしまった仙人は責任を感じ、自ら宝貝回収に
地上界に赴くことを希望した。その仙人こそ、和穂である。ただし地上界に
無用の混乱を起こさぬ為、和穂は術を封じられていた。
 また彼女一人ではあまりに心許ないと一人護衛が付けられることとなった。
これこそが殷雷である。彼も宝貝であり非情になりきれないという欠陥を抱えていた。

                 二

 小屋の中では壮年の男が一人寝そべっていた。殷雷は和穂に小声で囁いた。
「どうだ、宝貝の反応は?」
 今回は和穂からも答えが返ってきた。
「わからないよ。ここからは近いみたいだけど」
 ――これだ。いつものことながら殷雷は目眩にも似た感覚に襲われた。
和穂が宝貝回収に旅立つ際に与えられた宝貝は二つ。回収した宝貝を
しまっておく為の『断縁獄』。和穂の腰にくくりつけている宝貝がそうである。
内部には外見からは想像できないような広大な空間が広がっている。
 もう一つは和穂の耳たぶに付けられている真珠大の質素な耳飾り。
名は『索具輪』と言う。宝貝の在処を示す能力を持っているのだが時として
原因不明の不調が起こっていた。致命的にも、目指している宝貝に近づけば近づく程に
精度が落ちてしまう。
 遠くでは正確に。近くではあいまいに。見方によっては
同じ事だとも言えなくもない。だが索具輪に頼るしかない和穂たちにとっては
まさに死活問題であった。実際この不調が巡りに巡って視線をくぐり抜けねば
ならなくなってしまったことすらあった。

                 *

 小屋の内部は畦道から何の隔たりもなく見据えられた。
いや小屋と言うよりは日差しを避けるための庇に過ぎなかった。
 狭い空間の片隅には小皿が積み上げられていた。建物に違い清潔に磨かれていた。
皿の側にはたわしも置いてあった。恐らく近くの用水路を使って洗っているのだろう。
 小屋は大きく分けて上部と下部に分かれていた。
その境は大きく板がはみ出していてどうやら机代わりにこの上に皿を置くようだった。
また、こんな張り紙も見うけられた。
 筆で書かれた力強い「焼き鳥」という文字の横には羽をむしり取られた
小鳥の丸焼きの姿を墨で描いてあった。
これが辺りを旅する人々を目当てとした焼鳥屋で無いというなら何だと言うのか。
「おい親父、ネギ三本に塩二本。あ、タレはたっぷりつけてくれ」
 夢うつつの状態でも殷雷の言葉が聞こえていたとすれば一種の特技だろう。
それはともかく男は注文を復唱した。
「へい、らっしゃい! ネギ三本に塩二本ですね。しめて――」
 店主の言葉は二人に戦慄の表情を巻き起こした。
尻尾を見て猫だと見当を付けて声をかけたらぬっと姿を現したのは虎だった。
赤ピーマンだと思って口の中に入れたらそれが赤唐辛子だった。
そんな時に人が浮かべる表情に似ているかもしれなかった。
 そう男が告げてきた値段はあまりに高額、法外とも言える代物だったのだ。
町中と違い競合する相手は無く、ましてや検査官も居ない郊外のこと、
少しくらい吹っ掛けられることは覚悟もしていたし、寧ろ当然と言ってもよいのだが。
「おい……もう一度いくらか教えてくれねえか」
 男は殷雷の要望に気さくに応じた。
「声が小さかったですかね? すいませんね、眠っていたもんで。しめて――」
 今度もまた同じ答えが返ってきた。どうやら二人の聞き間違えでもないらしい。
「と、ところで店主。材料は何を使っているんだ?」
 平然とした顔で――実際は装っているに過ぎないのだが――殷雷は尋ねた。
一面に広がった稲の植え付けを待つ田圃に辺りは囲まれていた。
養鶏場の姿は影形も見えず、また養鶏場に付き物の異臭も
殷雷の俊敏な感覚にひっかかってきてはいない。
「ああそれなら。ほら今もそこに。それに店主はやめてくださいよ。
何か恥ずかしくてね。安周でいいですから」
 安周への警戒はそのままに、天へと向けた安周の人差し指に従って
殷雷は頭上を振り仰いだ。雲一つないいい天気だ。
「ね、ねえ殷雷。わたし良く見えないんだけど」
 和穂にも「ああ、小鳥が飛んでいるな」程度なら判ったが、詳しい鳥の種類までは
判別出来なかった。一方尋常ならざる視力を持つ殷雷には鳥の羽ばたく
一挙動まで手の内に取るように分かっていた。
「雀だな。ぴよぴよ。それなりに旨いぞ」
「そ、そんな! 可哀想だよ」
 凍り付いた和穂の声を殷雷は聞きとがめた。
「お前らしくもない偏愛精神だな。雀だろうと鶏だろうと命を取って食べる、
この点においては変わりないだろうに」
「それに雀は折角実った稲を食べてしまうんです。
最近は案山子の効果も薄くなってきて大変ですよ」
「えっ、そうなんだ……あんなに可愛いのに」
 見かけの愛らしさと害虫としての存在と。どうやら心の中で可愛さが勝ったらしく
「う〜ん、それでもやっぱり……」
と呟く和穂。殷雷は今、和穂の機嫌が直っている事に気が付いた。
「へいっ、お待ちどうっ!」
 これだけ値段が張っているんだしそれは天にも昇るほど美味しいんだろうなあと
期待して見つめる中、安周は串に肉やネギを刺してタレにつけ込んで、
次々と七輪で焼いては皿へ移していった。
 食欲を誘う香ばしい匂いと程良く焼けた焦げの色が和穂をその虜にした。
あれよあれよと言う間に皿の上に串が五本並んでいた。
和穂が手を伸ばして串を一本掴んだその横で、
殷雷は手にしていた棍を安周の眼前に突きつけていた。
「その七輪が宝貝だな。大人しく渡せばそれでよし、
でなけりゃちと痛い目に遭って貰うぜ」
 猛禽類に似た殷雷の瞳が鋭く睨み付ける先で、安周の人の良い笑みが翳って行く。
驚愕と焦燥と恐怖が立ち替わり入れ替わりその表に現れる。
一人自体を理解していない和穂は手にした串を皿に戻して二人の様子を伺っていた。
七輪の中で炎が勢いよく燃え盛り、吹き出したそれは和穂に襲いかかった。
 和穂はすばやく和穂を突き飛ばし、自らは炎と和穂との間に潜り込んで
和穂をかばいにかかった。宝貝である殷雷は地上の如何なる熱をも防ぎきる。

                 *

 殷雷に突き飛ばされて和穂は宙に浮いた。直後の爆風に後押しされ
回転を増した体は何度も地面の上を転がった。十何度目かを和穂が数えた頃に
ようやく体は回転を止めた。あちこち痛む体をさすりつつ起きあがる。
 爆風の影響で作られた溝を遡ってゆくと殷雷の外套が目に入った。
普段つやのある外套も今は煤で酷く汚れてしまっていた。
「殷雷……大丈夫?」
 ゆっくりと殷雷は振り返った。これまた全身煤で覆われている中、
隙間から見え隠れしているそれは火傷の様に和穂には思えた。
「大変だ! ほら薬をつけたげるからこっちに来てよ」
「大した傷ではない。それよりも安周を追うぞ!」
 殷雷の言葉はしっかりしていて、傷の程度が浅いことを物語っていた。
 和穂は殷雷の後ろに無事だった焼き鳥を発見した。ところが
五本纏めて殷雷の手が掴み取り、一気に肉を口に放り込んでしまった。
そして呆気にとられる和穂に急げと目で促して走り出す。
 和穂も慌てて走り出した。だが先に逃げている安周とどっこいどっこい。
それを見て殷雷は速度を落とし、和穂が近づいてくると刀に姿を戻した。
殷雷刀を和穂が掴むと同時に、殷雷の瞳と不敵な笑みが和穂に宿った。
 それまでとはまるで比較にならない速度で和穂は駆けた。
今や殷雷刀が和穂の体を操っていた。それは今の和穂には殷雷と同じ動きが可能だ、
と言うことを表していた。

                 *

 ――お前の持つ宝貝を狙っている者たちがいる。名は和穂、そして殷雷――
 夢は名前を告げると共に少女と青年の姿を脳裏に映してきた。
どちらも安周の知らない人間だった。
 これは夢。宝貝を手に入れた者たちに送られた夢。
 ――和穂は仙術を封じられている。怖れることはない。殷雷は刀の宝貝だが、
情にもろいという欠陥を持つ。注意すればあながち怖れるほどの相手ではない――
 馬鹿な馬鹿な馬鹿な! あれはちょっと風変わりの夢に過ぎなかったはずだ。
夢が現実に降りかかってくることがあろうとは!
記憶の蚊帳の外だった九ヶ月前の夢は今現実となって安周を苛んでいた。
 ――彼らの持つ宝貝は二つ。宝貝の在処を示す『索具輪』に、
726個の宝貝を収納するだけの空間を持つ『断縁獄』。
ゆめゆめ断縁獄からは目を逸らすな。さもなくばその身は紹興酒と化すであろう――
 嫌だ! どぶろくになって一生を終えるなどまっぴら御免だ!
 必死になって逃げようとする安周の目に、知り合いの漁師の姿が頼もしく映った。
た、助けてくれっ! あいつらを殺してくれっ!

                 *

 安周を追いかけながら和穂は殷雷に尋ねた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
 声はしっかりしていたからといって安心出来ない。
「……実を言うと、人の姿をとっていると結構痛い」
 殷雷の言葉に和穂は飛び上がって驚いた。
「それじゃあ今すぐに手当しないと!」
 和穂の言葉に殷雷は諾としなかった。
「索具輪の調子に問題の無い時ならともかく、
今の精度じゃ悠長に傷の手当てをしている暇はない。それに――」
 和穂の頭めがけて飛来した矢を弾き飛ばして殷雷は言った。
「向こうもそんな時間を許してはくれないみたいだな」

 和穂に対しては大したこと無い様に装いつつも、殷雷の胸中は穏やかではなかった。
「ああくそ、まさか宝貝を燃やす程の火力とはな」
 身に危険を感じとっさに刀の姿に戻ったものの、
考えてみれば人の姿でも刀の姿でも耐火の性質に変わりはない。
 和穂の胸を狙ってきた矢を叩き落としながら殷雷は状況を分析する。
「炎は間違いなく和穂を狙っていた。人間にあれほどの熱量の炎を向ける理由は何だ?
骨まで焼き尽くしてやろうと思ったにしても、そんな火力ではなかったぞ!」
 また一定の間隔をおいて矢が飛んできた。今の矢は放っておけば和穂の首に
突き刺さっていただろう。こいつは弓の名手と認めてやってもいいだろうな、
と殷雷は腹立ち紛れに考える。
 間近に迫った漁師が次の矢をつがえる前に、更に加速して猟師らしき人物の
後頭部を殴って気絶させた。
「大体こいつもだ。どうして人体の急所ばっか狙ってきやがる」
 七輪の炎、そして猟師の矢。どちらにも明らかに殺意が込められていた。
殷雷が考え込む間にも安周との距離は縮まってゆく。
 ついに和穂の追跡に安周も気が付いた。
振り返ってこちらを見つけた時の安周の表情に殷雷は何か既視感を抱いた。
それが何だったかを思い出す暇もなく、再び七輪に火が点った。

 直撃せずとも触れるだけで和穂を炭と変えてしまうだろう炎。
その弾道・速度を一瞬の内に弾き出して殷雷は動いた。
完全に躱していても、その余熱が和穂の肌をチリチリと焼いた。
しかし、何だ? 熱量にしては余熱が小規模過ぎる様に思えた。
 駄目だ。これ以上近づいた時、和穂を守りきる事が出来ない。
和穂の身の安全を第一に据えて判断し、殷雷は安周の追撃を中止した。
なあに、安周の向かう所は分かっている。
殷雷の目には畦道の先に存在する小村が見えていた。

                 三

 座り心地良さそうな岩を見つけて、殷雷はそこに座っていた。
横に大きく差し出した腕のその先で、和穂は火傷に効く軟膏を患部に塗って、
薬が乾くまでの時間を殷雷の節くれ立った指先を見ながら過ごしていた。
殷雷はそっぽを向いて気恥ずかしげな面もちをしている。
 やがて乾いてきた頃を見計らって、和穂は殷雷の手に包帯を巻いていった。
その手つきも確かなもので、こうした事が何度も繰り返されていると見て取れた。
最後に包帯に止めをして和穂はうん、と満足そうに頷いた。
「まあ、ようやくまともな手つきになってきたよな」
「そりゃあ、ね。ほら、顔も見せてよ」

 殷雷の火傷は和穂が危惧していた程酷いものではなかった。
灰越しでは良く見えなかったというのもあったが、殷雷の体を洗い流せば、
火傷は皮膚の露出していた顔や手にだけ見られていた。
 むしろ酷い有様だと判明したのは殷雷の外套である。
殷雷刀の鞘が変じた姿である外套は醜く焼けただれ、
爆発の威力をまざまざと見せつけていた。

 和穂は殷雷の顔を見て、はてどうやって治療しようかなと思った。
傷は顔全体に広がっていた。傷を覆うように包帯を巻いたらどうだろう。
 顔を包帯ですっぽりと覆った男。男はその両眼だけが外気に触れていた。
そして、闇の中でも爛々と輝くその瞳。
 怪しかった。更に言うと、私は犯罪者ですと全身全霊で
主張しているようなものだった。
 なら特に酷い箇所には軟膏をしませた布を貼って応急手当しておこう。
そうと決まればと、和穂は再度軟膏を保存してある入れ物の蓋を外した。

「うん、終わったよ。でもこっちはどうしようか」
 こっちとは殷雷の外套のことだ。今は傍の低木に吊してある。
「そうだな……断縁獄に放り込んでおいてくれ。時間が経てば元通りになるだろ」
「でも外套を着ていた方が安全じゃない?」
 殷雷の怪我が大したこと無かったのも、全て外套のお陰なのだから、
和穂が心配するのも尤もだった。
「奴が火種を起こして実際に火が発生するまでには避けるに十分な時間がある。
それさえ分かっていればそう易々とはくらわんから問題ない」
「でも、安周さんが火種を起こした状態で私たちを待ち受けていたらどうするの?」
「それだとちとやばいが、まあ直撃を食らったりはないだろ」
「でも、直に受けなくても……宝貝を融かす程の熱なんでしょ?
だったら周りの温度だって」
 和穂の言葉を遮って殷雷は落ち着いた声音で説明を始めた。
和穂の不安を取り除いてやろうとしてだ。
「炎は宝貝によって制御されていた。詳しいことは分からないが、
余熱は信じられない程に抑えられていた。余程近づかない限り
周りに影響を与える事はまずあるまい。
 熱に対する感覚はさほど鋭くはないのだが、どうも何か緩衝材の様な物が
あったみたいなのだが……」
 和穂は暫く考えてからこう言った。
「よく分からないけど、氷水に熱湯を注いだみたいになっているのかな?」
 うむと殷雷は呻いた。仙術の極意もこう解釈されては身も蓋もない。
「それだけではまだ何か足りないと思うが。
 これで余熱は心配しなくていいと分かったな?
第一、余熱なんざ発生していたなら、ここいら一体火の海になってるぜ」
 その光景を思い描き、流石の和穂も恐怖に身震いした。
脅かしすぎたか? 殷雷は話の矛先を微妙に変えてみた。
「ちなみに。どうして余熱を抑えてあるのか判るか和穂?」
 幾ら考えても和穂の頭の中にはこれと言った答えは出てこなかった。
「多分あの七輪は温度も調節出来る。あと、炎の内部は均一の温度だった」
 まだ和穂には判らない。殷雷は続けて口を開いた。
「七輪は勿論戦闘用の宝貝ではない」
 それくらいは和穂も知っていた。携帯用のかまどだ。
肉や魚を焼いたりするときに使う。ふと、思い出される道中での殷雷の言葉。
『おっ、いい焼き加減だねえ。生臭さを感じさせず、
それでいて零れんばかりに溢れる肉汁と今にも崩れてしまいそうに柔らかい身。
おっさんただ者じゃねえな』
「わかったっ! 美味しく焼ける――そう言えば、私の分の焼き鳥も食べたでしょ!」
 殷雷に掴みかかりながら、和穂は心の片隅で全く別のことを考えていた。

                 *

 やっぱり咄嗟に私を庇ってくれたから怪我したんだ。
和穂は術を使えない自分のみを恨み、そして――何よりも嬉しかった。
 非情に徹しきれない事を欠陥として師の龍華に封印された殷雷。
あの時、七輪の炎に襲われた和穂を守るためには二つの手立てがあった。
七輪を破壊する。これは論外だ。仙術的な力が、炎が暴走する恐れがある。
 一つは、過去に起こったように殷雷が和穂との間に立って庇うこと。
 一つは、即座に安周を殺すこと。所有者の意志が死という形で消滅すれば、
宝貝はその機能を即座に停止する。
 どちらが安全か、効率的に宝貝回収を進められるかは言うまでもない。
そんなことはとっくに承知のはずの殷雷は、それでも敢えて前者を選んだ。
和穂の出来るだけ人を傷つけたくない、という想いを護る為に。
 そう、武器の宝貝としてはあるまじき失態。殷雷は紛れもなく欠陥宝貝だ。
けれども和穂にはどうしてもそれが欠陥だとは思えなかった。
それは、一つの新しい可能性なんだ。自分と殷雷だからこそ実現される。
私の相棒は……殷雷でないと駄目なんだ。

                 *

「そう言えば何で七輪が宝貝だって判ったの?」
 和穂の言葉に見晴らしを良くするために木に登っていた殷雷はずり落ちた。
とはいえ途中の枝を掴んであっさりと体勢を戻す所などは流石だった。
そこまで大げさな対応をしなくてもと不満の和穂を眺めながら
殷雷は気の抜けた表情で言った。
「あのなぁ……石炭も入れず点火もせずに熱の出る七輪があってたまるか!」
 最後の方など怒鳴り声になっていた。激高した声の調子に和穂はどぎまぎした。
慌てて弁解する。
「そうなんだ。私、便利なものがあるなあって思ってた」
「そんな便利なものがあるかあーーーー。つっ!」
 間の抜けた反応に思わず大口を開いて、火傷を負った筋肉も含めて総動員して
殷雷の脳天に稲妻が駆けめぐった。虫歯の時にも似て貫通力のある痛みの引く間もなく
死体をはい回る蛆が脳内に巣くっているような気にさせるジワジワと来る痛みに
思考は支配される。

 心配そうにこちらを見つめてくる和穂の視線をこそばゆく思いながら
殷雷はずっと安周の逃げ込んだ小村を見張っていた。
 安周は村の中でも一際大きい建物に入ったきり一度も外に出ていない。
自分たちに追われていた時の安周は確かに紛れもない恐怖に身を支配されていた。
ならば、一人きりで自分の殻に閉じこもっているのか? それにしては建物を訪れる
村人の人数は時間を追うごとに増してきていた。
自棄を起こして厄介なことをしでかさないでくれると嬉しいのだが。
 その時、鐘の音が村中に、いや辺りの田圃や山や海にまで響き渡った。
その鐘は非常招集の合図だったのだろう、田畑から、森から、
労働に勤しんでいた者たちは先を争うように村へと戻っていった。
「どうしたんだろう!?」
「さあな。向こうに聞いてくれ」
 素っ気なく答えながらも、殷雷はこれが厄介事の始まりだと確信していた。
 和穂たちが緊張して見つめる中、集まった村人たちは四半時後には
己の家へと帰っていった。和穂は安堵の溜息を吐き、殷雷は更に警戒心を強める。
 それからそれほど間を置かずに村人たちは手にそれぞれの獲物を外出していった。
鍬に森に弓矢に斧に……。それらは生活のための道具でもあり、
危急の秋には己のみを守る武具ともなった。
 村人たちは三〜五人を一団として村の内部を巡邏し始めた。
中でも警備を厳しく行っている場所は、村を取り巻いている柵のすぐ内側と
安周の逃げ込んだ、そして今もいるであろう建物であった。
 殷雷は一つ一つ分析してその結果を和穂にも説明し、最後にこう付け加えた。
「素人が束になった所でどうという事もないが、
どうしてここまでして安周を守ろうとしていやがる?」
 殷雷は首をひねった。和穂にも同じく理由は判らなかった。
「……まあいい。行くぞ、和穂」
 日が暮れる前に決着を付ける必要があった。戦いという慣れないものに
混戦になりがちな狭い場所。これに日没が加われば村人たちの間で
同士討ちが発生してしまうだろう。

                 *

 刀の姿に戻った殷雷を手に和穂は畦道を駆けた。
「ねえ、村の人が首に下げている笛だけど」
「良いところに気が付いたな。そりゃ敵が着たら皆に知らせる為だろう。
誰にも見つからずってのは無理だからまずは正面から突破するぞ!」
 ぐんぐんと速度を上げて和穂の足は小刻みに、それでいて力強く大地を蹴った。
相手に見つからない様に、といった配慮は一切無い。
巨岩が坂を転げ落ちる様に、音と煙をなびかせて和穂は村の正門へ向かう。
あと二町(約218メートル)と殷雷が距離を弾き出した。
 大気を揺るがす何かを和穂は察知した。弓が、放たれていた。
刀で弾くまでもなくまるで見当違いの場所に落下する。
「くそっ! なんて速さだ」
「獣と変わりゃしねえ!」
 村人たちから戸惑いの声が次々とあがる。いや、中にはやり甲斐や
敵対心を振るわせた者もいて、えびらから矢をつがえて第二射を放った。
 山のように降り注ぐ中から体に当たる物だけを選んで弾き落としながら進む中で、
村の正門の扉が軋み声を立てながら閉まっていった。
 全く躊躇せずに和穂は一っ飛びに入り口を飛び越した。すぐ内側で待機していた
村人たちが槍や手銛など、長柄の武器を突きだして動きを止めんとした。
 和穂は空中で刀を振るう。着地と同時に穂先が落下し、武器は単なる棒と化した。
言葉を失って立ちつくした隙に当て身を食らわし気絶させる。
 弓を射かけてきた村人はだんだんと後ろへ下がりながら、なお散発的に射ってくる。
入れ替わりに斧や鉈で武装した村人たちが近づいて来る。そのすぐ後方には
長柄の武器を持つ村人たちが控えていた。
「意外だな。それなりにまともな戦術を採ってくるとは」
「困ったことになりそう?」
 心配そうに問いかけてくる和穂に殷雷は鼻で笑う。
「まあ見てろって、所詮奴らは素人に過ぎないってことを教えてやるから」

                 *

 いざ戦場においては一対一の真剣勝負など見られることは少ない。
あったとしてもそれは将同士の間のこと。兵卒には関係ない。
 よって当然の事ながら、数々の剣術においては一対多数の戦い方が
取り入れられている。しかも殷雷は制作者龍華仙人によって一対多数の戦い方に加えて
団体戦における戦術までも言葉通りにその身に刻み込まれていた。

 殷雷の指示に従って和穂は直進した。相手の獲物が届くまであと三歩の所で
和穂は近くの民家へ飛び移った。中央突破と相手に思わせ戦力を集中させた所で
迂回したのだ。主力をやり過ごして一直線に安周の逃げ込んだ建物へ疾走する。
村人も気付いて声を上げたがもう遅い。建物を警備しているのはわずかに二人。
ここまで巧く行くとはなと、声を立てずに殷雷は笑う。
 警備のすぐ前に飛び降りて紫電の勢いで二人を気絶させる。
和穂のお気に入りの髪飾りを解いて帯に挟む。和穂の髪の毛がばあっと広がった。
雷気を通じて中を探ると一人分の人間の気配が感じ取れた。
 扉のすぐ横の壁に身を潜め、そこから扉を縦横無数に切り裂いた。
扉を開けた瞬間に不意打ちを食らわないようとの配慮である。
扉の破片がバラバラと落ちる。内部の動きに細心の注意を払いながら
建物内部に踏み込んだ。
 男が、柱に寄り添ってに座っていた。これは―違う、安周ではない。
似せてはいるが別人だ。大きく円を描くようにして移動する。
だんだんと半径を縮めて男に近づいていった。
 男もこちらと自分の間に柱を挟み込む様にして動いた。
だが決して逃げようとはしなかった。高手小手に縛り上げられた上に
猿轡まで噛まされていてはどのみち無理だったろうが。
 男の頭をひっ掴んで顔を向き直らせて殷雷は言った。
「てめえ、安周をどこへやった!」
「うむーっ、むももまむううーっ!」
 男は途端に暴れ出したが、和穂の手はしっかりと男の頭を掴んで離さなかった。
その内に追っ手の足音も近づいてくる。
「ちいっ、一時撤退だ和穂!」
 男を柱に縛り付けている縄を斬り肩に担ぎ上げる。そのまま入り口とは逆位置の壁に
向き直り殷雷刀を煌めかせる。そこを蹴りつけれ壁に抜け道を作ると
和穂たちは追っ手の声を振り切って一目散に村からおさらばした。

                 四

「た、頼むから助けてくれ! 私には帰りを待ちわびている妻と子供がいるんだ!」
 連れ出した男の第一声がそれだった。手を縛っていた縄を解き、猿轡を外してやると
男はそう言ったきりじりじりと後ずさるばかりで和穂の顔を見ようともしなかった。
安周が和穂たちの事をどう説明したのか酷く男は怯えていた。
「安周さんの行方を出来れば教えてくれませんか?」
 和穂は精一杯の笑顔を浮かべて説得しようとした。男は建物内で聞いた
ドスの利いた声との差に違和感を抱きながらも、優しげな声色に導かれて顔を上げた。
するとどうであろう、それまでいなかったはずの銀髪の男が少女の横に
立っているではないか!
凄まじい威圧感を殷雷から感じ取りながら恐る恐る男は口を開いた。
「喋ったら、もうお前は用無しだって殺したりしませんよね?」
「そうだな、それはお前の協力次第だな」
「殷雷っ! どうしてそういつも人を脅かす様なことばっかり言うのよ!
―コホン。私達は故あって宝貝を集めているのですが、
安周さんは宝貝と聞くなり突然私たちを襲ってきて」
 男は狐に抓まれた様な顔つきで言った。
「宝貝だって? そんなのは老人が作ったおとぎ話さ」
「いいえ。本当です。―殷雷、ちょっとお願い」
 殷雷は男の前に仁王立ちした。男の頬を冷や汗が流れ落ちる。
前置き無しに殷雷は軽い音と煙を立てて刀の姿に残った。
「済みません、その刀を握って貰えませんか?」
 男は恐る恐る地面に横たわっている一振りの刀に手を伸ばした。
「よう、本日はお日柄も良くこんちこれまた」
 脈絡無く脳に直に響いてきた声に驚いて男は殷雷刀を投げ捨てた。
殷雷は慌てず騒がず空中で一回転し―人の姿で腕組みをして男を見据えた。
「嘘だろ……」
 男が宝貝の存在を認めてくれたのを見て取り、和穂は話を先に進めた。
「安周さんの持っている宝貝に関わらずこの世界に散らばっている宝貝には
欠陥があって、使い道によってはとっても危険な物なんです。
 お願いです。決して安周さんにも村の人にも危害を加えたりはしません。
どうか、安周さんの行き先に心当たりがあったら教えて頂けませんか?」

 和穂の真剣な眼差しが男をじっと見つめていた。
男はやや逡巡した表情を覗かせたが、やがて
「わかった。君の話を信じよう。私の名は伍匡。君たちは?」
「私は和穂です。それからこっちは私の護衛役の殷雷。
さっき見てもらいましたけど、殷雷は刀の宝貝です」
 護衛役と聞いて渋い顔をする殷雷が文句を言う前に伍匡が口を開く。
謎が解けた様に晴れやかな顔をして。
「あの七輪は宝貝だったのか。なるほどそれで」
 和穂が興味があると言って話を促した。殷雷はどうでも良さそうな
話が語られるように思えた。欠伸が自然に出てくる。

                 *

「今から一ヶ月程前、私の経営する療養所に娘さんの患者が運び込まれて来ました。
目は落ち窪み頬はこけて皮膚はカサカサに乾燥していました」
「へえ、伍匡さんはお医者さんなんですね」
それには全く気付いていない和穂はただ感心していた。
「そんなに尊敬される程のものじゃありませんよ。
 それで、その娘さんは『安周…』とばかり呟いていたんです。
いえ、そうやって呟く事が出来るのが不思議なくらいの有様で」
「何ですか? その人は安周さんの恋人とか?」
 まあ取りあえずこいつも女の子だったなと思いながら、
殷雷は顔だけ聞く振りをしていた。
「いいえ。ただ安周の店に毎日と通っていたそうです。
しかしその時、彼女は一週間ほど通っていなかった。小遣いが尽きていたそうです」
「勿論助けようとしたんだよな?」
 真面目に聞いていない事を隠すために問いかける殷雷。
「そりゃあもう。ですが情けないかな、手も足も出なくて。
匙を投げて安周の家に向かったんです」
「それで、焼き鳥を食べて直ってしまったと?」
 伍匡は和穂の先を読んで尋ねた問いに苦笑した。
「それで直ってしまったら私たち医者は必要ありませんよ。
ですが、顔色が急に良くなりましてね。一週間で恢復しましたよ」
「おい、これでこの話はお終いか?」
 殷雷には是非伍匡に尋ねたい事柄―つまり安周の居場所がどこか―が
あったのでこの辺で話を切り上げて欲しかった。
「いえ。同じような事件がそれからも幾度か発生して……村中に知れ渡りました。
その時には村人のほとんどが口にしていたので、安周の言うことには逆らうな、
機嫌を損ねるな、といった風潮が生まれていきました」
「じゃあ、さっき村人全員で私達を襲ってきたのは」
「今日息も絶え絶えに這々の体で村に帰ってきた安周は『恐ろしい二人組に命を
狙われている。助けてほしい』と。宝貝が村から失われてしまったら
我々はどうなってしまうのか……あとは言わなくてもいいでしょう」
「でもどうして縛られていたんですか?」
 伍匡は自嘲気味に笑って
「私は武器になるものなんて持っていませんからね。
それで、安周の身代わりをさせられたんです」
「成る程、事の次第は大体判った。それで伍匡、お前も食べた事があるのか?」
 嘘は許さぬと殷雷が棍を伍匡の喉元に突きつける中で伍匡はかぶりを振った。
「妻が『いくら旨いからってあんな高い物を食べるな』というもので。
 そう言えば、あの娘さんの症状は痛み止めを間違えて多量に投与してしまった
時のものに良く似ていたなあ」
 適当に話を聞いていた殷雷の額に深い深い皺が刻まれた。
「おい、まさか芥子の実から採った痛み止めじゃないだろうな?」
「いやまあ、若き日の過ちと言うやつですか……」
 遠い目をして遙か彼方を見つめる伍匡を不思議そうに和穂が見つめていた。

「それより、安周がどこに行ったか知らないのか?」
「多分、隠し通路から逃げたんでしょうね。村長の家にいざという時に子供達だけでも
逃がす為の隠し通路があるそうです。ただ生憎と詳しい事は」
「ちっ、使えない奴め。で、村長の家はどれだ?」
「私がいた建物ですよ。殷雷さんが壁を壊した」
 殷雷のこめかみが激しく震えた。八つ当たり気味に伍匡を殴りつけると、
和穂が後ろから抱きかかえて止めに来た。
『胸が当たって気持ちいいじゃねえか……もとい、和穂にそんな胸は無いか』
「ねえ……なにかもの凄く、失礼な事考えてない?」
 殷雷の髪を引っ張りながら和穂が低い声で問いかけてくる。意外と鋭い。
「それでは行くぞ。伍匡、お前はここにいろよ。無事に帰ったら怪しまれるからな」

                 *

 警戒網は村に再度戻ってきた時にも健在であった。
それでも殷雷は村人をあざ笑うかの様に警戒網を一気に突破する。
 村長の家に辿り着いて殷雷は辺りを探った。地下に空間があることを認め、
床を踏み抜いて和穂は地下に降り立った。周りにはこれも万が一の時の為だろう、
食料を貯蔵したたるが据えられていた。しかし地下道への入り口は見あたらない。
 壁を叩いて反響で向こう側に通路があるか確かめてゆく。
その内に音の違う場所に辿り着いた。樽を除けると壁に偽装した扉があった。
本当に子供用らしく入り口の高さは低かった。
「ふう。お前が子供で本当に助かったぜ」
 殷雷の憎まれ口に言い返すことが出来ず、和穂は黙って入り口をくぐった。

 灯りのない地下道を出口まっしぐらに駆ける。
迷わないよう道はひたすら、ただ前方に向かって延びていた。
程なく、頭上から紅い夕日が射し込んで来る突き当たりにぶつかった。
 地面に置かれていた鉤付きの投げ縄を手に取り、しかしそれは用いずに
尋常ならざる脚力でもって脱出した。出口は井戸に見せかけていて、そこに腰掛ける。
「でもさ、安周さんをどうやって見つけるの?」
「そう遠くに行っていない事を祈るばかりだな―和穂、聞こえたな?」
「うん。爆発音と……人の悲鳴だった。大変、早く助けないと!」
 和穂は悲鳴の聞こえてきた方角に向かって走りだした。
すると、安周は山賊らしき身なりの良くない男たちに追いかけられていた。
「変だな。山賊なんか赤子の手を捻るようなもんだろうに」
「そんな事言ってないで助けようよ!」
  へいへいとぼやく殷雷を手にした和穂は山賊達を一人また一人と屠ってゆく。

 完全に片が付いた事を見て取った和穂は安周に振り向いた。
安周は蛇に睨まれた蛙の如くに怯えている。
「く、来るなっ! 焼き殺されたくは、ないだろう」
 安周の恫喝に和穂の―殷雷の表情はぴくりとも動かない。
無言の時間が二人の間を流れてゆく。それを止めた物は哄笑だった。
 殷雷は和穂の口を借りて呵々と笑い、和穂は無造作に安周へ近づいていった。
『ちょっと殷雷、大丈夫なの?』
『なあに、大丈夫だって。そう怖じ気づくな』
 そうとまで言われては和穂も殷雷に従うしかなかった。
安周の持つ七輪に火が灯り、和穂の手は素早く殷雷刀を庇いにかかった。
驚いて和穂は逃げようとする。だが時既に遅し。膨れあがったそれは和穂を襲う!

 和穂が目を開けると、そこは銀世界でも死後の世界でも無く、安周が目の前にいた。
そして自分の手は七輪をもてあそんでいた。
 返せと一声叫んで飛びついてきた安周から和穂すっと体をそらした。
人の姿に戻った殷雷は和穂から七輪を取り上げる。
「宝貝『萄旨炉』か。からくりが解ければどういう事もない」
「でも、どうして無事だったの?」
「一種の安全弁だな。人間、あるいは人間の形を取るものには無効となるってな。
術を使って人の形を取る道士に配慮したんだろうな。
 前回は咄嗟に刀の姿に戻っていたから傷を負ったんだ。
身を守るための機構が裏目に出るとは皮肉なもんだ」

                 *

 和穂は殷雷の話に耳を傾けながら安周が他にも宝貝も持っていないかどうか
索具輪で探っていた。
「うん。安周さんは他に宝貝を持ってないよ」
「よし! それじゃ次の宝貝目指して出発するか!」
 安周は二人の姿が遠ざかるのをただじっと見つめていた。
と、急に和穂の足が止まり、安周に振り向いてきた。
「あ、そうだ」
「ひいっ、どぶろくにはなりたくないんだあっ!」
 安周の悲鳴に和穂は苦笑いした。ようやく殷雷はかつて安周の瞳から感じた
既視感の正体を突き止めた。前に出会った雨師の表情そっくりだったのだ。
「全く夢の送り主も困ったもんだ。これ以上下手な流言をばらまかれる前に
どうにかせねば。」
「それより前にやる事があるでしょ。村の人はどうするの?」
「放っておいても時期に直るだろ。何なら手荒な治療法を教えてやってもいい」
「そうじゃなくて、『萄旨炉』を破壊すれば解決するんじゃない?」
 殷雷はまだ断縁獄に仕舞ってはいなかった『萄旨炉』に問いかけた。
そして、気合いを込めた棍の一撃で『萄旨炉』を破壊した。
「あれ?」
「どうしたんだ和穂?」
 ここで和穂が首を捻る理由はないはずだ。そう殷雷は考えたのだが。
「おかしいよ。いつもなら『くう、こんな素晴らしい宝貝を壊さねばならないのか!』
とか食い意地の張った事を言うはずなのに!」
 和穂の目の前で、殷雷の目が細く鋭く研ぎ澄まされていった。
「ほほう……お前は俺の事をそういう風に思っていたんだな。
戦いに生きる武器の宝貝であるこの俺を」
 吹き荒れる風が和穂の道服をはためかせた。和穂の頬を冷や汗が伝ってゆく。
殷雷は冷たい声で告げた。
「これから暫く、一人で飯を食うんだな」
 それから一週間、和穂は侘びしい食卓に座ることとなった。



『萄旨炉』
 七輪の宝貝。道炎から宝貝を融かすほどの炎まで熱を調節出来る。
それだけでなく、萄旨炉自身が判断して適当に加熱する事も可能。
 龍華は「人を惹き付ける味」に挑戦したのだが、どこかずれていやしまいか。

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