男は土を手に取った。暫く手の平の上、物言わぬ土をじっと見つめる。かと思えば手を
揺する。指の隙間から土がこぼれてゆく。さらさらとした土の感触が掌に残った。男の額
に刻まれた皺が深くなった。残った土を地面に戻した男は襦袢の裾で乱暴に手を拭いた。
男の背後、あぜ道を歩いていた女が声をかける。
「や、儀堂。今年は順調に育ってる?」
女の問いに儀堂は首を横に振った。ゆっくりと背後に向き直った儀堂の面からは先ほど
の沈痛な面もちが消え失せている。
儀堂はありふれた麻の着物で身を包んでいた。薄汚い着物は彼の端正な面とは不釣り合
いだった。だがそんなことを感じさせないだけの端正さであることも事実だった。
女は儀堂よりは質の良い着物を羽織っていた。だが都の人々からすれば儀堂の着物と一
緒くたにされてしまう、その程度の質だった。女の顔は端正ではなかった。その代わりに
力強さがあった。如何なる苦難をも自分の力で乗り越えてみせる、そう人に思わせる笑顔
を持っていた。
「そう? ちゃんと芽も出ているし、どこが悪いのよ」
女は儀堂の問いが腑に落ちなかったようだ。確かに女――彩朱がそう言いたくなる気持
ちも分かる。生命の萌芽、言葉通りの光景に心が浮き立っているのだろう。
儀堂は苦笑いをその端正な面に浮かべた。一端は消えた面もちが一瞬だけかすめた。儀
堂は痛めぬように優しく初芽を撫でながら答えた。
「根の張りが弱いんですよ。土壌が良くないからこそ、根は張ってくれないとゆくゆくは
成長が止まってしまいます。それに、土も乾燥気味です。今年はせっかく黒土を購入した
というのに」
これでは村の土と大して変わらない。まるで黒土の栄養が何者かに吸い取られているよ
うだ。儀堂は己の考えに身震いした。馬鹿な、妄想もいいところだと自らの考えを否定で
きない何かがこの村を覆っている。そう思っているのは儀堂一人ではない。多くの村人に
共通する思いだった。もっとも、口にする者は誰もいない。村人たちが住む場所はこの村
以外にありえないからだ。
「おーい? ちょっと聞いてるの儀堂」
「少し考え事をしていたもので、すみません」
あーいいよいいよ、と儀堂の謝罪を受け流しながら彩朱は笑った。
「性格を直せとは言わないけど、その癖だけは直した方がいいと思うわよ」
真面目くさった表情で忠告すると、彩朱は解いていた荷を再び背負う。
「いつもと違いますね。今日は何を運んでいるんですか」
普段は男たちに混じって丸太を担っている彩朱が今日は布で包装された荷を背にしてい
た。
「あ、これ。これはうーん」
いつになく彩朱は歯切れが悪い。滅多に見せない彩朱の仕草に儀堂は新鮮さを感じた。
「そう、乙女の秘密ってやつよ。うん」
「は、はあ……」
それ以上訊ねてはいけないような気がして儀堂はそれ以上聞かなかった。このとき彩朱
の機嫌を損ねてでも訊ねておくべきだったと、儀堂は後悔することになる。
儀堂は彩朱に好意を抱いていた。勿論、男女の仲という意味での好意だ。儀堂は今まで
自分の気持ちを彩朱に伝えたことはない。現在の関係を壊すことが恐ろしかったのだ。村
人のほとんどが敵視とは言わないまでも自分のことを蔑視する環境では尚更のことだった。
儀堂たちが住む村は十年という単位で苦難が続いている。数年ぶりの豊作があったとし
ても、それまでの、もしくはこれからの不作をなんとか埋め合わせることで精一杯になる
ようなぎりぎりの生活の毎日。
そんな余裕のない村の中で儀堂は一人観賞用の花を育てている。花が食えるか、と悪し
様に罵倒する村人も多い。観賞に耐えうる花を出荷したときの現金収入がなければ、儀堂
は村社会から完全に排斥されていただろう。肩身狭く暮らしている儀堂の数少ない理解者
の一人が彩朱だった。
その年は一〇年来の不作に襲われていた。年中不作というべき村では不作とは一般的に
は大凶作のことを指していた。儀堂の菜園も例外ではなく、販路に乗せる花はついに一本
も送り出すことが出来なかった。凶作にあえぐ村人たちの言葉は非常だった。
「なんでお前に貴重な食料を分けなきゃならないんだよ」
「これに懲りたら花を育てるのなんかやめて、何でもいいから食えるものを作るんだな」
「はこべらでも構わないぜ。美味いとは言わねえが、腹の足しにはなるからな」
凶作は人の心も不作にする。儀堂は村人たちの心中を理解できるだけに何も言い返せな
かった。口に出せない思いは腹に溜まり続け、鬱屈する。彼はやるせない思いをあろうこ
とか自分が大切に育ててきた子ども達にぶつけだした。葉を踏み荒らし、茎を折り、根ご
と土から引っ張り出す。一刻もすれば、辛うじて根腐らなかった幸運なもの全てが命の灯
火を消してしまった。
「なにしてんの?」
「見て分かりませんか?」
「あんたがヤケになって八つ当たりしてるってことなら誰だって分かるわよ」
突然話しかけてきた女に儀堂は見覚えがあった。見覚えはあったが、ただそれだけだ。
小さな村社会、村人で知らない顔などないが、誰とも親しいわけでもない。彩朱という名
の女と面向かって二人で話すのはこれが初めてだった。
興味本位で声をかけてきたのだろうと思って儀堂は返事をしなかった。図星を指された
裏返しもあって、さらに地面を踏みつける。
「儀堂、やめなさい!」
やめない。やめることができない。やらずにはいられない。
なおも制止しようと声を張り上げていた彩朱は言葉による説得を諦めたのか、儀堂に向
かい走り出した。儀堂は自らの畑を荒らし続ける。制止されても振りほどく自信があった。
優男に見える儀堂だが農作業をしているだけあって見かけ以上に腕力を有している。
彩朱の行動は儀堂の予想を超えていた。彩朱の拳が儀堂の頬に入った。間髪入れずに第
二撃が腹に入る。最後に掌底を喰らって儀堂の体は崩れ落ちた。
彩朱は儀堂を見下ろす形となった。
「あんた、自分の仕事をどう思っているの。腹の足しにならないつまらない仕事だと思っ
てるの」
「違う」
冷えた地面に儀堂の頭も通常の働きを取り戻していた。
「なら二度とヤケにならないこと。いいわね?」
彩朱は自分を見上げていた儀堂の頭を踏みつけた。これで儀堂が頷いたことにするつも
りだ。無茶苦茶な女だ、と儀堂は苦笑した。暴行を受けたというのに何故か恨む気になれ
ない不思議な感覚だった。
「よしよし」
儀堂は気付いた。自分と真正面からぶつかってくる人間に出会うのは久しぶりだったと
いうことに。恨むどころではない。感謝しなければならない。彼女はずっと彼が求めてき
た者なのだから。
「ほれ」
彩朱から手を差し出した。どうやら掴まれと言いたいようだ。
「いいですよ。自分で立ち上がれます」
一人でなければならない。でなければ、彩朱は自分を見限るだろう。だから儀堂は自分
の力で立ち上がった。満足そうに彩朱は頷いた。微笑みがこぼれている。彩朱の表情に儀
堂は自分の行動に対して満足感を覚えた。
「私はね。こんな村だからこそ、あんたみたいな人間が必要だと思うのよ。何よその意外
そうな表情は」
儀堂にとっての「久しぶり」がまた増えた。
「もし、もしだよ。私が母親になったとして、子どもに今の村の姿はあまり見せたくない。
村の悪口は言いたくないけど、この村は暗すぎる。明日が見えない、見たくない。自分が
生きているのかも分からなくなってくる。その点、花は生きてるって教えてくれる。
分かってるわよ。育つためには苦難もある。咲く花の美しさは一瞬で過ぎゆき、あとは
悲しいけど枯れていってしまう。でも人間を含めて生きるってそういうことでしょ。子ど
もたちにはそれを分かって欲しいのよ。咲いた花だけ見ても分からない。だから私は花を
育てる仕事を続けてもらいたい」
儀堂が花の栽培に興味を持ったのは、彩朱の言うような理由ではない。村に珍しく訪れ
た行商人の花飾りの美しさに引かれたことが始まりだ。儀堂は行商人にねだって花の種を
手に入れた。さっそく裏庭に種を植えて水をやって、丹精こめて育てた。結果、たった一
つの種だけが花を咲かせた。色褪せた花。儀堂は花飾りとかけはなれた色遣いに絶望し、
花を踏みつぶした。
すでに初めから自分は間違っていたのか。そして、今まで過ちに気付かなかったのか。
自分は「花」の一部しか見ていなかったということに、命を軽々しく扱っていたことに。
儀堂は自分を支えてきた地面が消滅したような気分に捕らわれていた。どこまでも続く
墜落感。
「続けてくれるかな」
その一言が儀堂に新たな地面を与えた。儀堂は慎重に新しい地面を踏みつけた。どっし
りとした質感が靴底を通して伝わってくる。迷うことはない。いや、迷うことなど許され
ない。
「あなたの子どもに、生きるということを見せてあげますよ」
儀堂は笑った。
「子どもが生まれてくるかどうか分からないけどね」
彩朱は笑った。
闇の帳が落ちた中、明るい光が二人を覆っていた。
「あなたの子どもに、生きるということを見せてあげますよ」
その言葉は今も儀堂の心の中にあった。その形を少し変えて。
二人が本当に知り合ってから、彩朱と儀堂はよく話すようになった。多くは「いや親父
がさあ」といった類の愚痴で色気も何もなかったが、それでも儀堂には外とない時間だっ
た。尊敬はいつかしら思慕へと変化していた。儀堂は彩朱の到来を今か今かと待ち受ける
日々が続いた。
心を彩朱に奪われた儀堂はそれゆえに花の栽培に一層の精力を傾けた。いつもと変わら
ないいつもの陽気、いつも儀堂にちょっかいを出してくる男がこれまたいつも通りに話し
かけてきた。
「へっへっへ〜、儀堂。知ってるか?」
「知りませんね」
相手を無駄だと悟った儀堂は男を無視することに決めた。男は厳しく拒絶すれば鼻白ん
だ表情で帰っていくのが常だった。だが今日は違った。
「ほほぅ。そいつは可哀想だ。今なら銅銭五枚で教えてやるぜ」
「結構です」
「まあそういうなよ。お前にとって大事な、それこそちんけな花なんかより重要な情報だ」
「結構だと申し上げたはずです」
「あのなあ」
男はどうしても話したくてたまらないらしく、儀堂の返事を聞かずに喋り始めた。初め
は無視していた儀堂の顔が恐怖と失望に彩られる。
曰く、彩朱が男と会っている。数日に一度、定期的に男に手作りの弁当を届けている。
毎日にしないのは親に感づかれないためらしい。男も満更じゃないらしい。それどころか
非常に熱意がこもっている。道ばたに座り込んで二人で話しているところを見た奴がいる。
手を繋いで歩いているところを見た奴がいる。熱く接吻を交わしている二人を見たやつが
いる。物陰に隠れて二人裸になって
「ぶぼべっ」
儀堂は黙っていられず男を張り倒した。儀堂は男に馬乗りになって押さえつけた。
「それで、男っていうのは誰のことだ?」
「へへ。教えてもらいたかったら」
儀堂は男の左腕の関節を外した。苦悶する男を冷ややかな目で見下ろし、
「男は」
「豹、豹絶だ」
「そうか」
儀堂は男の右腕の関節も外した。悲鳴を聞きつけて村人たちが集まってきていたが儀堂
は意に介しなかった。
何ということはない。自分の恋は道化に過ぎなかった。ただそれだけのことだ。ただそ
れだけのこと。儀堂は自らに暗示を刻みつけるように、その言葉を繰り返し口にした。た
だそれだけのこと。
一週間後。儀堂は岩に腰掛け、無気力な目で畑を見つめていた。これまでの日課を覚え
る体が植物の世話を続けていた。日課が終わると、どこからとも知れない怒りが、畑を破
壊しようと暴れ出す。止める気力はない。それでも今まで植物は生長を続けていた。止ま
った儀堂の時を嘲るように哀れむように。そして儀堂は気付いていた。これからも自分は
この仕事を死ぬまで続けていくだろうと。
「やあ、久しぶり」
「ええ。お久しぶりです。体調はいかがですか」
「ん、まあまあ」
悲しげな表情と歯切れの悪い口調は彩朱には似合わないと儀堂は思った。
「おめでとうございます。豹絶と成婚が決まったのでしょう」
「ん、やっぱ知ってたか」
「まあ私が発端のようなものですから」
儀堂が殴り倒した男を介抱した男達は余程口が軽かったらしく、次の日の昼間には彩朱
の親が豹絶に殴りかかるという事件が起こった。その場は村人が仲裁に入って事なきを得
たのだが、彩朱の親の矛先は自然彩朱へと向かった。俺は娘を愛していると日頃豪語して
いる親だっただけに村人たちの注目は事態の進展を見守った。結果、あっけなく親は娘に
説得されて今に至る。
という話を噂話として聞いていた。儀堂に聞こえるように話す村人たちの無遠慮も一部
ありがたくはあった。ともあれ彩朱の近況を知ることができたのだから。
「それにしてもよくお父様が承知なさいましたね」
「あれには苦労したわ。最後には可愛い娘には逆らえないみたいだったけどね」
会話がばったりと途絶える。儀堂も彩朱も肝心のことは言い出しづらかった。
「それより安心したよ。また畑を自分で荒らしているんじゃないかと思った」
「そんなことはありえません。もう二度と」
何故かと促す彩朱に応えて、
「約束したでしょう。あなたの子どもに、生きるということを見せてあげますよ」
自分の恋は実らなかった。けれども、目の前の女性が自分の生き方を変えてくれたこと
はこれから一生感謝し続ける。それに、恋破れたとしても、自分の好きな女性に無様な自
分を見せるわけにはいかないものだ。
「私はさ、気付いていたんだよ。あんたの気持ちに」
「そうですか」
「そうですかって儀堂。あんたはそれで」
いいのかい、と言いそうになって彩朱は口を閉じた。それは儀堂を振った自分の言える
台詞ではない。
「それでは私の思いを聞いてもらいましょうか」
「私とあなたの子どもに、生きるということを見せてあげたいのです」
「駄目。私には子どもを生みたい他の人がいるから」
「やれやれ振られてしまいましたか」
儀堂は大げさに首を振った。痛ましい者を見る目で自分を見やる彩朱に儀堂は笑った。
「亭主持ちの人間が他の男と親しげに話さない方がいいでしょう。豹絶にこれ以上恨まれ
たくもないですし」
儀堂は完璧な微笑みを浮かべている。そう自分では信じていた。
「それもそうね。亭主を尻に敷くまで会わない方がいいか」
彩朱は意地の悪い笑顔を浮かべている。そう自分では信じていた。
ともに他人から見たら奇妙な笑顔だった。二人は気付かなかった。気付かなかったふり
をした。
更に一ヶ月後。彩朱と豹絶の二人は無事祝宴を上げた。儀堂は祝宴に姿を見せなかった。
宴会から解放された二人は新居に向かっていた。
「うう……おえ……」
「ああもう、だから自分の酒量はわきまえておきなさいと事前に言っておいたでしょ!」
「しかし、勧められるものを断るわけにもいかないだろ」
「それにも限度がある。これも事前に言っていたはずよ」
彩朱は山仕事で鍛えているだけあり、豹絶の体重を支えて疲れた顔を見せていなかった。
「うう……とこりゃなんだ?」
「話を逸らそうたってそうは行かないよ」
「違う違う。なんだこりゃ。随分と古ぼけた花飾りだな」
まだ掲げられていない表札の釘にかけられたものを豹絶は手に取った。彩朱は首を曲げ
て豹絶の手に視線を向けた。豹絶の言うようにボロボロの花飾りだ。
「それでこれがそのときの花飾りなんです」
「ほほうこれは何というか」
「誤魔化さないで結構ですよ。もう何年も前のものですからすっかり傷んでしまいました」
「儀堂の花飾りよ」
儀堂が園芸を始めるきっかけになったという花飾りだ。彩朱は豹絶の手から花飾りを奪
い駆けだす。
三歩と走らぬうちに豹絶に肩を掴まれた。酒に酔っているとは思えぬ力でどうしても引
きはがせない。
「どこへ行くつもりだ?」
「儀堂の家よ!」
「お前がそれだけ焦るんだから、そいつは儀堂にとって大切なものなんだろうな」
「そうよ、だから離しなさい」
「駄目だ」
豹絶は手に更に力を込めた。彩朱が痛いと苦情を言っても力を緩めようとはしない。
「どうして邪魔するのよ。まさか嫉妬だとか言わないわよね」
「馬鹿。新婚初夜にそんな嫉妬だなんて言わないでくれよ。まあそれも無いとは言わない
が、一番の理由は儀堂の為だ」
「どうして儀堂の為になるってのよ! これは儀堂が園芸を始めるきっかけになった」
「それなら尚更だ。そんな大切なものを手放してまで俺たちを祝おうとしてくれているん
だぞ、あいつは。飛びっきりの馬鹿じゃねえか。馬鹿だが嫌いじゃねえ。けどな彩朱。お
前の行動はあいつに恥をかかせることにしかならないんだよ」
「恥ですって」
「そうだ。お前が儀堂に返しに行ったら儀堂の立場はどうなる」
「そんなの下らない面子じゃない」
「かもな。けどその意地をなくしちまったら人間お終いだ。奴の気持ちを察してやれ。そ
れが唯一、祝いを受ける俺たちにできることだ」
彩朱は俯いて体を震わせた。やがて、花飾りを豹絶に渡す。
「わかってくれたか。いい子だ」
彩朱の肘が豹絶にめり込んだ。
「誰がいい子よ。ほら、さっさと我が家に入りなさい」
「そうそう、それでこそ彩朱だ」
「微妙に褒めてないわね」
夜が明けた。一晩中、彩朱が来ないことを祈り続けた儀堂はほっとした。花飾りは純粋
に祝いの気持ちもあったが豹絶を試す意味もあった。儀堂の意図を理解し彩朱を包み込ん
だ豹絶は合格だ。
儀堂は背伸びをして家を出た。眠たいが今日も仕事だ。約束はまだ果たされていないの
だから。
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