別離
樹木に背中を預けて、稽古に疲れた体を癒す。見上げた先には、中天に瞬く銀の月。は
っとする荘厳な美に撃たれて手を伸ばす。月に届けば――
そこで正気に返る。戻ってきてしまったことに対する一抹の消失感。銀に映える手のひ
らを見つめて、何があるというわけでもない。ただ、じっと見つめていた。
草原をなびくそよ風は渡る。さて、この前髪を揺らしていった風はどこまで飛んでゆく
のか。どこだろうかと考えて――苦笑する。この世界のどこかで止まるに決まってるじゃ
ないか。
この世界は、閉じてしまっているのだから。
今の自分はどこかおかしいようだ。うむ、おかしいと思えるということは俺はおかしく
ない。と考えているということは結果として俺はおかしいということなのか。
つまらない禅問答だ。こういった時は話し相手が欲しくなる。瞳を閉じて、話の合いそ
うな仲間を捜そう。爺い、塁摩、静嵐、深霜らの顔が浮かんでは消える。結論は、一人で
こうしているしかないってことだった。
それはないだろうとぼやく。半開きの目に何かの影が写った。それは笑う。
「いやあ殷雷、久しぶりね」
手を挙げる。気づいているぞ、との印。久しぶりに見た彼女は、昔と同じ笑みを全くそ
のままに残していた。恵潤刀、自分と同時期に造られた刀の宝貝。
「そうだな、久しぶりだ」
恵潤は黙って近づいてくる。俺まであと10歩、という所で立ち止まった。丁度恵潤の
体が月の光を遮る形となった。
「お前まで封印されたのか。何故だ?」
深い吐息に載せて、思ったままの言葉を口に出す。
「さてね。私が知りたいくらいよ」
俺とほぼ同時期に造られた刀は俺も含めて欠陥揃い。ただ唯一の例外が彼女だった。そ
う信じたかったのかもしれない。俺たちの一人だけでもこの世界にいないのならば、俺た
ち全員が認められていると思えたから。だが、その夢も潰えた。
この世界。欠陥品とされた者の堕ちる場所。逃れ得ぬ封印。そんな場所に、彼女までも
が来てしまった。
だが、皮肉なことに――今の恵潤は、月光に照らされた彼女は俺の見た中で最も輝いて
いた。
「ん? どしたの?」
「綺麗だな」
「やだ、よしなよ殷雷。あんたらしくもない」
苦笑するその仕草さえも特別にみえた。
「まあ取り敢えず歓迎するぞ」
「ん……そうだね」
恵潤があまり嬉しそうでないのも当然だろう。俺たち宝貝は全て道具としての宿命を持
っている。誰かに使ってもらいたいという欲求。それは日増しに強まっていき、やがては
自らの意志では押し留めることさえ不可能になる。果てに待っているのは、自我の崩壊だ。
それを防ぐために、互いに使用してもらって衝動を抑えることになっている。しかし、
本来道士あるいは仙人に使用されることを前提としている俺たちは宝貝という存在に使用
してもらっても満足できるものではない。いつか使われる日を待ち望んでの鍛錬と乾きを
押さえる努力。この二つがここにいる俺たちの全てだ。
「ねえ殷雷。どうして龍華は欠陥宝貝を封印しているんだと思う?」
どうして……封印……。
「欠陥品なら壊しても構わないはずよ。なのに、愚断のような危険極まりない宝貝まで封
印するに留めている」
封印……思ってるんだ……。
どうしてだか、頭が痛む。
「ごみ箱か何かと思ってるんじゃねえか? あの馬鹿仙人は」
「ふふ。それもあるかもね」
寂しい笑みを浮かべて振り向いた恵潤の顔が凍り付いた。
「殷雷どうしたってのよ。脂汗が出てるじゃない」
思ってるんだ……してみせろ殷雷……。
少し気分が悪いだけだ。こんなのはなんてことない。恵潤を安心させようとして、俺は
そう言ったはず。なのに次の瞬間には、俺の肌は土の感触を感じ取っていた。恵潤の悲鳴
が遠くに聞こえる。
追われる者の背中を見据える。追う者は龍華。立ち止まる男。逃げることを諦めたのだ。
男目がけて突き進む。女の声。気にせずに突進。殺す。だが間合いに……吹き飛ぶ女……
不可解な刀身……突き刺して目標達成……そこにあるのはナニかワカラナいモノ……男の
最後の絶叫が響く……せた……させた……お前は俺に……。
「……あ?」
不意に暗転した視界が戻る。駆け寄ってきていた恵潤を手で制して、背中を預けたまま
立ち上がった。
恵潤の瞳から目を逸らして、空を見上げる。先程の場所から動いている月。まるで現実
世界のように、時を刻む自転と公転。
「くそっ!」
現実と寸分違わぬ幻想世界。現と幻の境がどこまでも曖昧な、それでもどこか足りない
世界。気にくわない、何もかもが足りていて何もかもが不足。
気の狂うような痛みの中、ただ一つのものを求めている。この欠けた気持ちを埋めるも
のは俺を使用してくれる存在。だが、ここではその望みを叶えるべくもない。
苦悶する殷雷の姿を、恵潤はまるで我が事のように見つめていた。
裂ける贋の空。不変の檻が崩壊していた。
「ついに、呪縛より解き放たれたぞ」
吼える726個の白光たち。口々に出される娘に対する呪いと開封の喜び。
裂ける真の空。無数の宝貝たちが仙界から人間界へと旅立ってゆく。
その中で一人佇む殷雷刀。
彼は、自分の行動の意味するところを理解しきっていなかった。
「殷雷、何やってんのよ。早くしないと仙界からの出口が閉じちゃうじゃない」
切羽詰まった口調で話しかけてくる声に耳を傾ける。何故、俺はここに留まっているの
だ。人間界に行けば、自らの使用者が見つかるかもしれないのに。
分かっているはずなのに殷雷は恵潤の誘いを拒絶した。
「恵潤、お前は行け」
あちらは俺の言葉が意外だったようで、顔を歪ませている。
「あんた、まさかあの娘が放っておけないとか言うんじゃないでしょうね」
そうなのか? そうかもしれない。
「まったく、あんたもつくづく甘いよね」
「俺にギリギリまで付き合おうとしているお前だって充分甘いだろ」
「なるほど。それは言えるわ」
こうしている間にも、仙界と人間界を繋ぐ扉はその役割を終えようとしている。俺はと
もかく、恵潤まで巻き込むことはあるまい。
「さらばだ、恵潤刀」
二人の絆を断ちきるような強い口調で言った。恵潤は苦みを加えた顔を笑顔に変える。
だが、明らかに失敗している。それは笑顔ではない。
「じゃあね、殷雷。また会える時を楽しみにしてるわ」
その言葉を最後に恵潤も白光に変わり、仙界の空を飛んだ。
「また、か」
絶対にあり得ないことだ。俺は愚かにも封印に留まることを選び、恵潤はそれをよしと
せずに人間界へと消えた。二人の行く先が繋がることは決してない。
殷雷は目を閉じる。それに呼応するかのようにして、仙界と人間界を繋いでいた亀裂も
また閉じる。
暫くして、龍華が戻ってきた。流石にこの事態には狼狽を隠しきれないらしい。龍華は
俺を持ち上げると呟いた。
「殷雷刀か。やっぱりこれだけは残ったか。馬鹿な宝貝だ」
失礼な、との思いを形に表す前に封印を施される。身動き取れないこの状態は、以前の
つづらの中の生活より悪化したような気もする。
自らの選択に後悔するようには造られていなかった。それでも、過ちを犯してしまった
との想いが止むことはない。
まあいい。これでも人の手にされているだけましだろうと、自らを無理矢理に納得させ
る。それに――今見えている空は紛れもない本物だからな。
殷雷と恵潤。分かたれた二人の道が一つになるまでに、まだまだ時間を必要としていた。
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