淵より湧ずる泉の音
一
おしながきの上から目をぴょこと出して、和穂はこれまで一緒に旅をしてきた旅の伴
すなわち向かいの席に座っている殷雷に声をかけた。
「ねえ、殷雷はどれを頼む?」
殷雷は何の反応も示さなかった。
どこか調子が悪いのかな。和穂が少し不安になって見守る。
殷雷の顔はおしながきで隠されているため、和穂からは伺い知ることはできない。
10秒経っても、30秒経っても、果ては一分待っても殷雷は動かない。
和穂は決心して殷雷の肩に手をのせた。殷雷の体を前後に揺すってみる。
「殷雷、どうしたの。私で助けになれるなら話してみて」
無言。ゆすゆす。やはり無言。ゆすゆす。
無視を決め込んでいた殷雷も、いつまでも自分の体を揺すり続けている和穂に
根負けして仕方なく口を開いた。重々しい口調で告げる。
「うむ。冷や麦と素麺とどちらを頼もうか迷っていてな。どちらがいいか」
「お姉さん、私は素麺をお願いします」
すぱっと思考を切り替えて、和穂はちょうど近くにいた店員に注文を告げた。
和穂が注文してから暫く、盆に品を乗せた店員が和穂たちの座る机の横に来た。
素麺を置いて、すぐ立ち去ろうとした店員を押しとどめた殷雷が冷や麦を注文する。
注文を終えて一息ついた殷雷は目の前にあるふきんに目を留めた。麺処にしては
気が利いている。
己の手を拭き取った殷雷はようやく、和穂がもの言いたそうに自分を見つめている
ことに気付いた。
「どうした。宝貝が移動し始めたのか?」
「ううん、宝貝の場所は変わってないよ。そうじゃなくて。
この素麺どこか変じゃないかな?」
自信なさそうな和穂の声。殷雷は和穂の前に運ばれてきた品を注意深く見つめた。
竹筒を縦に切って容器とし、麺を盛りつけている。風流ではあるが、田舎の麺処には
不釣り合いではないかと殷雷は考えた。
次に、つゆ一杯のなんということのない陶器。色つやも焼き具合もまだまだ甘い。
もう一つの陶器、湯呑み茶碗に注がれているのは花茶(ジャスミン)か。
最後には小皿に盛られたわさび、刻み葱、千切りの油揚げ。
「見たところどうということもない、普通の素麺だが。はて、味が変だったのか?」
「まだ食べてないけどね」
殷雷がどこをどうみても、和穂の異常とする理由は見えてこない。
「どうして水の中に麺を浮かべてないのかな。それにこの麺、パサパサして
美味しくなさそう」
殷雷はようやく原因を突き止めた。気のない声で和穂に尋ね返す。
「和穂よ。おまえの知っている素麺というのはどういったものだ?」
「透明な容器にたくさんの水を入れて、その中に麺を浮かべていて。
うーん、違いはそれだけかな。あとはおつゆに葱とかを入れて食べたよ」
小皿を指して、やはり納得できないのかうーんと唸りながら首を捻っている。
「ここではそれは無理だ」
「え、そうなの?」
二
仙人が作り出した神秘の道具、宝貝。その力は地を裂き、天にも届くという。
数々の民間伝承に記載されている驚異の力。だが所詮、宝貝などは作り話に
すぎないというのが一般的な解釈だ。事実、宝貝を手にしたと主張する者が
実際にその宝貝の力を発言させたという話を聞いたことはないだろう。
ところが、現在の地上には宝貝がごまんとあった。一人の仙人の不手際に
よって仙界から地上に降り注いだ宝貝。その数は併せて七二六個。
宝貝が存在する。それだけでもトンでもないことなのだが、なお悪いことに
それらの宝貝たちはそれぞれの欠陥を背負っていた。機能障害から、果ては
残虐なその性ゆえに欠陥と認定された物まで。
地上に宝貝をばらまいてしまったことに責任を感じた仙人は、自らの仙術を
封じた上で宝貝回収の旅に出た。その仙人こそ、和穂。そして殷雷は自由自在に
刀と人間、二つの形態に化けることのできる刀であった。
「あ、これも美味しいね。つゆを気持ち濃いめにするといいのかな」
食生活の違いに苦悩していた和穂は、今は微塵もそのような雰囲気を
見せずに笑顔で素麺に挑んでいた。
そして殷雷は、うどん鉢に盛られて自分の目の前に鎮座する冷や麦を
なんとはなしに見つめていた。こちらは水を張った中に麺が沈んでいる。
和穂の主張した素麺の形である。
うどん鉢。なんと風流とかけ離れた器であろうか。これで涼しさを
表そうというのだろうか。目の前の和穂の素麺は竹筒に盛られている。
比較すると余計に惨めに見えた。
仙界と違い、未だ人間界には硝子製品を製造する技術は一般的ではない。
硝子精製は腕の立つ一部の職人芸であり、富豪の嗜好品であった。
それでも余計に暑苦しさを放ってくるうどん鉢を責めたくて仕方がない。
100点満点で評価するとしたら、これだけで80点引いても文句を
言われる筋合いはない。殷雷はそこまで思っていた。
そう言えば―殷雷は硝子の器に盛られた冷や麦を思い出した。
『水中に浮かべるなど笑止千万!
つゆに麺を浸けたときに薄めてしまうではないか。
第一、暑いからと言って冷たいものを食しようとする風習が間違っておるのだ。
心構えがなっておらん。
しかも、胃腸の調子を悪化させてしまうではないか。夏ばてで弱った胃腸を
更に苛めて何になる!」
『俺たちは宝貝だから胃腸の調子なんて関係ないだろ』
どう考えても正論のはずだが、その反論は爆燎の逆鱗に触ってしまった。
口を閉じたその瞬間に右拳の一撃が鳩尾に入った。そのまま自分の体は宙に浮き、
受け身を取れずに地面に叩きつけられた。
どちらもいい思い出ではなかった。
三
「あんた。あんた。早く起きなよ」
女房の声で俺は眠りから覚める。毎朝それこそ飽きるほどに繰り返された光景。
だが、俺はこんな日常が嫌いではない。
俺は寝ぼけ眼のまま部屋を見渡す。ここ十年来変わらぬ光景が俺を迎え入れる。
「ほら、さっさと市場へ行かないといい魚が手に入んないよ!」
女房の声が険を帯びてきていた。これもありふれた風景だ。慣れているのだが、
やはりそれでも怖かった。
俺は慌てて布団から抜け出した。そうしなければ女房に尻を蹴飛ばされるからだ。
窓の外の風景―これまた変わるものではないが、なんとはなしに見つめる。
上着を腕に通す間ずっとだ。
昨日より僅かにそらは暗く立ちこめている。
夏至から一ヶ月経った頃、そんないつも通りの朝の風景だった。
「今日仕入れる魚はどれがいっかな」
「仕入れの魚を考えるのもいいけど、買わなくていいもの買ってくるんじゃないよ」
「そうは言っても習慣だから難しくてよ。偶には俺の趣味だって役に立つだろ?」
店の厨房に顔を向けて、俺は片目を閉じて格好をつけてみた。
女房の顔が鬼面の様相に変わって俺をにらみつけてくる。家計を任せている以上、
俺に発言権がないことはここ十年で十分理解している。
「それと…分かってるね」
女房は俺がさっき向いていた方角を見据えていた。
「はいなはいな。分かってます」
女房の金切り声を背に、俺は意気揚々とはいかないものの、今日の記念すべき一歩を
踏み出した。
上のまぶたと下のまぶた。一緒になるのが幸せなんだよとまぶたの精霊が和穂に
呼びかける。誘惑になんとかうち勝っている今の和穂のまぶたはどうにか開いている。
ただ、足下はふらついていて危なっかしい。
「うう〜。こんな朝早くにどこ行くのよ」
殷雷は幾分歩幅を緩めて遅れがちな和穂に歩調を合わせながら、
「俺たちは今、魚市場を目指している。
宿屋の親父の体調が悪いらしくて、俺が仕入れの手伝いを引き受けたからだ」
手にした棍で調子を付けて肩を叩きながら殷雷は歩く。
「仕入れに行くんだ。そういえば、私が魚市場に行くのって初めてだよね。
でも、殷雷は競りの方法を知っているの?」
「初めてだがな、方法は親父に聞いてきたから大丈夫だろ。
『あんたの闇の中でも鋭い光を放つ瞳と、一声で子供が皆逃げちまうような声さえ
あれば大丈夫だ』
と言ってたし、なんとかなるだろ」
それは誉めているのかどうか分からないな。そう和穂は思ったけれども、
今にも眠りそうな和穂はただ虚ろに歩を進めている。
押し寄せる波が目の前に開ける頃には、和穂の体は潮の香りをいっぱいに
受けていた。気持ちよさそうな表情で目を細める。
一方の殷雷は、気持ち悪そうな表情をしていた。それが不思議で和穂は尋ねる。
「ねえ、その顔どうしたの? 青ざめているけど」
殷雷はああ、と前置きをふんで魚市場の臭いが臭いと言った。一つ一つだと
どうということもないがこうも集まるとな、とも言った。
海岸線には昨日からの漁を終えて帰ったのだろう、釣り具や網を乗せる船が
そこかしこに浮かんでいる。
「宝貝のこともちゃんと聞かないとね」
「言われるまでもない。お前こそちゃんと俺についてこい」
二人そろって市場へ入る。市場では積み卸しも済んで、種類ごとに場所が
分かれていた。
和穂がついて間もなく、宝貝について聞き回る時間も無いうちに競りが開始された。
野太い男たちの怒号があちらこちらから襲ってくる。睡眠時間を取れなかった和穂には
深淵の奥底より届けられる太古の妖音に聞こえた。
すっかり参ってしまった和穂は競りを殷雷に任せて外へ出ることにした。
魚の生臭さの充満した市場から出て、ようやく和穂は一息つくことができた。
潮の香りは更に強力な臭いにかき消されていたが、それでも内よりは格段に澄んだ
空気を思い切り吸い込む。吸って、はく。それを繰り返す。
ようやく眠気も収まってきて、まだ残っている船頭に話を聞いて回ろうと波打ち際へ
歩いていった。
一方その頃殷雷も、市場の中で情報を集めていた。
「よう、最近変わったことはないかい」
「見かけない顔の人間を見かけるようになったな」
殷雷に指を向けて男は笑って言った。
「冗談はいい。どんなに小さなことでもいいんだ」
「変わったことねえ」
「どんなに小さな事でもいい。海の様子とか、他の漁師とか、顧客でも誰でも
何でもいい」
ぐるりと市場を一回りしながら尋ね回った。しかしそれでも有益な、つまりは
宝貝に繋がっていると確信できる情報はない。変わったことは無いと言われるか、
競争相手の妬みを聞かされるばかりだった。
ここでは有用な情報は得られないのではなかろうか、と思いながらも尋ね回る。
そんな中、
「そういや、喜久屋の旦那の注文が突然減っちまったんだよなあ。
おかげで最近、売り上げが落ち込んで大変だよ」
宝貝に繋がるのだろうか? と思いながら話を続けさせる。
「喜久屋と言えば、俺たちが昨日昼飯を食べた麺処がそんな名前だったな。
具体的には、どんなふうにだ?」
「いやね、魚は今まで通り買って行ってくれるんだけどね。
それが不思議なことに、かつおや昆布、つまり出汁に使う材料だけとんとご無沙汰
になっちまって」
「俺たちが店に行った時には、かなり繁盛している様子だったがな」
「あら。忘れた頃に買っていくだけになっちまったんで、もう廃業なのかなと
思っていたけど」
他二、三当たり障りの無い話に間をつぶして殷雷は足を外へ向けた。
確信できるほど確かだとは言えないが、今までで一番当たってみるだけの
価値がありそうだった。
外に出てみると、船頭たちに聞き込みを終えた和穂が近くの石を枕にして無防備に
眠っていた。
四
「というわけだ」
行きに通った道を潮風に背を受けて二人は歩いていた。喜久屋への道筋、殷雷は
漁師に聞いた話を和穂に説明する。
「そんなにくどくど言わなくても解ってるって」
殷雷が話し終えると、和穂は妙な受け答えを返した。
何度も繰り返した覚えはないんだがな、と思いながら、
「むう、分かっているならいいのだが」
「昨日食べた冷や麦が美味しかったから今日も食べたいんだよね」
和穂はあっけらかんとした口調で言った。
殷雷は和穂の言葉の意味を慎重に考えた。
「素麺も美味しかったから私もあそこで食べたい」
ね、と和穂は殷雷に笑いかける。和穂の予想通り、殷雷は仏頂面を見せた。
しかし、その原因は和穂の予想通りではない。
「違う!」
殷雷はたまらず丹田に力を込めて大声を張り上げた。
続いて両手を和穂の頭に添える。そしてゆっくりと、万力の力を込めて和穂の
頬をつねりあげる。
「前からうすうすと感じ取っていたのだが。和穂。お前は俺を何よりも三度の飯が
好きな道楽宝貝だとでも思ってはいやしまいか?」
そんなことないよ、と言おうとしても、頬をつねられているので言葉には出せない。
「敢えてここではっきりとさせておこう。俺は誇り高き武器の宝貝だ。いいな!」
憤激やるかたなし。殷雷は両手を離すとずんずんと歩みも荒く早足で歩き始めた。
ひりひり痛む頬を押さえながら、慌てて和穂はついてゆく。
和穂の目には、変哲のない麺処に見えた。
殷雷の目には、恐るべき悪鬼羅刹の澄む居城に映っていた。
二人に先駆けて店に入った村人には、『喜久屋』という看板が見えていた。
二人はそろって店に足を踏み入れた。昨日と同じく盛況だった。
混雑している店内で待たされる。席が全て埋まっているそうだ。
しかしそこは麺類、あまり待たずに席に通された。二人は素麺を注文した。
「問題はどういった方法で店主を引っ張り出すかだが」
「どの人が店主さんなのかも分からないしね」
もしかしたら給仕にしか見えないあの店員が店主なのかもしれない。
それは極端な話としても、相手の姿形を知らない二人はなんとしても『店主』に
会う機会を作らなければならない。
殷雷は、一つずつ方法を思い浮かべてみる。
方法その1。
『つゆに小動物の死骸を入れて難癖をつける』
食べ物を粗末にし、この上なく下卑た行為でしかないため、これは最終手段とした。
方法その2―思い浮かべるより早く、店内に食器の割れる音が響き渡った。
現場と思しき場所に目を向けてみる。
机を敷いて寝ている男が一人。その男をにやにやと嫌らしく、そして馬鹿にして笑う
男たちが三人。三人の顔はのべて赤い。おそらく昼間から酒を飲んでいたのだろう。
どこからみても真っ当な人間には見えない。典型的なごろつきだ。
そこまでで誰に味方すべきなのか判断し、殷雷は自らもめ事に首を突っ込むために
歩き始めた。
和穂は手を止めてこちらを見ている。いいから食ってな。殷雷の瞳からそれと
悟って和穂は再び素麺と向き合った。
「そこまでにしておきな」
ずず〜っ。ずず、ず、ちゅ。
殷雷の台詞に素麺をすする音が重なった。室内の空気が止まる。
ずじゅ、ずじゅ〜っ、ちゅる。
凍った空気に響き渡ったその音に、笑いの糸が切れたように室内の全員に
笑いが巻き起こった。殷雷も笑った。自棄になって「ふはは」と笑った。
やがて誰ともなく笑いが止まってゆく。再び張りつめた空気に覆われる。
殷雷は横目で和穂を見た。和穂の素麺はもうなかった。
何も起きないと残念がった人々は和穂から殷雷へと視線を移す。
すっくと立ち、男三人を威嚇する殷雷。しかしどこか間抜けだった。
痛ましさも入っている視線から意識を逸らし、殷雷は指を動かして相手を挑発する。
酒で理性―いや、本能までをも麻痺させた男たちは、先程の間抜けな姿もあり、
殷雷の気迫・実力を理解できていなかった。
ぱん、ぱん。手の平を叩いて埃を落とす。殷雷の足下には三人の男が重なるように
倒れている。
どこからか拍手が打ち鳴らされる。すぐに満場に広がる拍手。そこから殷雷を
取り囲んだ野次馬を窮屈そうに抜け出して来たその男、割烹着に身を包んだ男が
進み出て、
「いやあ、お見事」
「ここの店主―賈無窮か?」
あちこちに染みが見あたる割には清潔さを感じる割烹着を着た男は頷いた。
五
「宝貝を返してもらおうか」
殷雷は出し抜けに言い放った。宝貝。その言葉に賈無窮の目に動揺が走ったのを
殷雷は見逃さない。賈無窮は周り、二人に無遠慮な視線を向けている客を見た。
「見たところ、あなたは武人のようだが」
殷雷は黙って頷いた。正確に言うと武器の宝貝であって武人ではないが、幾多もの
武術を人の姿をして操れる殷雷だ。だがそれを説明するのは面倒くさい。
「ならさぞかし多くの武勇譚もお持ちでしょう。閉店後にお話をお聞かせ願えません
でしょうか」
宝貝のことは閉店後に。そう含みを持たせた言葉に殷雷は頷いて席に戻った。
そして、愕然とする。
「しまった。麺が伸びてやがる。おい店主、新しい玉と交換してくれぬか」
「お代は頂きますよ」
殷雷は一瞬愕然とした顔を見せるが、それを誰にも悟らせることなく伸びた麺を
食べ始めた。しかし、憮然とした表情までは隠しきれなかった。
喜久屋は正午をやや過ぎたあたりが一番混雑する。その混雑は一刻ほど続く。
その後は、一人、二人がいるかいないか。その程度だ。
夕方になると、店は閉まる。ここいらの店はみんなそうだ。晩飯は家族の待つ
家へ帰って家族と一緒に食べる。だから、夜は営業する必要がない。
その、客のいない喜久屋でも、明かりは灯っている。晩飯は店の残り物を利用して
一階の店舗の机を利用して食べるからだ。ちなみに二階は住居として使用されている。
今日は珍しく四人もその部屋の中にいた。昼間の盛況を知っているならば、
閑散とした感じは打ち消しようもなかったけれども。
静寂の空間に佇む男女二組。一組は、言わずとしれた和穂と殷雷。もう一組は
賈無窮と賈玉の二人。この店を切り盛りする夫婦である。
殷雷は賈夫妻の座る卓まで一口も口を開かずに進んだ。無造作に椅子を引いて座る。
和穂も殷雷に倣って神妙な面もちを見せていた。
互いに男女が相対する構図の中、まず殷雷が口火を切った。卓上、中央に置かれた
壺に目線を飛ばして、
「この壺が宝貝なんだな?」
嘘は許さぬ、と殷雷は眼差し鋭く賈無窮を射抜く。
「ああ。この後に及んで下手な隠し立てや小細工は好きじゃない」
昼間は店主と客という間柄だったから丁寧な語調だったのだなと、殷雷は知った。
「閉店後と言ったのは客を無用な争いに巻き込みたくなかったからだな?」
「それもあるが、妻を説得する時間も欲しかった」
妻―賈玉の顔はとても穏やかとは言い難い顔で、
「ふん。あんたらにすんなりと渡す筋合いはないのさ」
一歩も引くものか、とその顔が物語っていた。賈無窮の説得は失敗だったか。
「あのすみませんが、のどが渇いたのでお水をいただけませんか?」
場を和まそうとした和穂の台詞は虚しく消えていった。
殷雷は空の茶呑みをこつこつと叩き―自分二人だけ茶をいれてやがる。
「賈無窮、店を囲んだのはお前の仕業か? それとも、こっとの賈玉なのか?」
何を言われたのか理解できないと物語る賈無窮の顔。
その妻は、夫の狼狽を鼻で笑っていた。殷雷は賈玉の顔面に棍を突きつける。
賈玉は自分以外の全ての意志を無視していた。
「みんな、やっておしまい!」
その声を合図に、戸から窓から男たちが姿を現した。鍵はあらかじめ外されていた。
賈玉の喉元、少し下を狙って棍を打ち込む。気道を塞がれて賈玉は机に倒れ込んだ。
殷雷は横に移動して和穂をかばう。賈無窮は気を失った賈玉を抱きかかえた。
店の入り口には5人、窓からは3人か。
まだ夕闇が残っていた。雪崩れこんだ男が4人の区別をきっちりとつけられる
くらいには明かりが残っていた。それでも、侵入者は一人の男の姿を見失った。
男が立っていた辺りに白煙が漂ったのがその原因か。しかし、そんな煙など
なかったはずなのに。
戸惑う侵入者の目の前で、煙が晴れる。そこには、誰もいなかった。その代わりに
侵入者の目の前に一人の少女。少女のギラリと光る猛禽類の眼と合った時には、
侵入者の体は崩れ落ちていた。
殷雷の眼差しをそのまま宿した和穂は更に次の標的へと向かう。手にしていた棍を
投げつけると、入り口から現れた侵入者は揃ってなぎ倒される。
今、和穂の体はその手に持った殷雷刀によって動かされていた。
ずぶの素人だ。ちんぴらでももうちょっとうまく立ち回るだろう。
それにしても、賈玉は昼間の騒ぎを見ていなかったとみえる。もしあの時場に
居合わせたならば、まだ手応えのある相手を雇っただろう。
殷雷は残った三人に和穂の体を向き直らせた。びくっと震える侵入者。
六
誰かが自分の頬を叩いていた。痛い。強すぎる。もっと手加減できないものか。
うっすらと開いた目にまず飛び込んできたのは銀髪と金色の瞳。それらが、
自分をのぞき込んでいた。奴だ。賈玉は自分の敗北をようやく知った。
「俺をなめてもらっちゃ困るな。武器の宝貝をずぶの素人で止めようなんざ。
ま、こんな田舎に俺と張り合える相手がいるとも思えんが」
「ちっ、あたしの行動は全くの無意味だったのかい」
自分を支えていた夫の手をはねのけて賈玉は起きあがった。
落ち着いて、殷雷を見据える。指の上でくるくると壺を回していた。
「白泉壺、汲んでも汲んでも尽きることない壺か。話は賈無窮から聞かせてもらった」
「賈玉、もういいんだ」
肩にかけた賈無窮の手を、賈玉はやはり振り払った。
「大方、もうけが減るのが嫌だったんだろ」
「違う! そんな理由じゃない!」
殷雷の言葉を遮っての、賈玉の悲痛とも言える声。賈玉の頬に流れる涙を見て殷雷は
動揺する。
賈玉は賈無窮を労るように見つめ、
「毎朝毎朝、仕込みを休みことのないあんたが、あんたが少しでも楽になるように。
私は、それだけを考えて」
賈無窮は驚いたような顔を見せた。そして、ふっと顔を和ませる。
「俺は別に苦痛だなんて思ってないさ。毎朝の仕込み、それをたゆまず続けること。
それが職人としての心懸けなんだよ」
「あんた、私を許してくれる?」
「許すも何も、俺の身を案じてしてくれたことじゃないか。
それに、俺も謝らなくてはな。俺も殷雷と同じく、ちっぽけな金のために動いていた
とばかり思っていたんだ。俺こそ、許してもらいたい」
夫婦がしっかと抱き合う中、静かに訪問者は戸を閉めて立ち去った。
殷雷は黙って先頭を切って歩いていた。和穂が追い越して殷雷の顔を見ようとすると
殷雷も速度を上げた。結果、和穂に見えるのは殷雷の背中だけだ。
「もしかして、泣いてない?」
「馬鹿を言うな。よくあるお涙頂戴の話に、武人が涙を見せると思うのか?」
「でも、背中が震えてるよ?」
他人には分からない程小さい震え。でも和穂には分かった。
「ほら、こっちを向いてよ!」
『白泉壺』 内に蓄えられた液体は、汲んでも汲んでも尽きることがない。
ゆえに、どうやっても中身を捨てられないという欠陥を持つ。
[index]