その女を動物に喩えるならば、そう、猟犬こそが相応しい。それも、主人の喉笛を噛みちぎって野生に戻った猟犬だ。
人間から学び取った狡猾さと、生来の暴虐を両立させた存在から人が逃れ得るはずがない。
事実、女は先に見据えた獲物に一刻、一刻と近づいている。僅かに狭まる差は、非我の実力を示したものではない。女は次の一瞬にでも、獲物に食らいつくことができた。
じわじわと、いたぶるように。女は目標に近づいた。女は慎重だった。
「靴の宝貝か? それとも、視覚に影響を与える宝貝なのか?」
暗闇に沈んだ路地裏を、太陽の下の気軽さで女は走っていた。
女には敵わずとも、目標の動きも尋常ではなかった。路地裏に散らばる雑多な屑―朽ちかけた箱や、裏口に繋がる階段、偶には人間の死体がある―をことごとく避けて走っている。
目標に比べるなら、女の動きは粗雑である。幾度、足を障害物にぶつけたことか。しかし、彼女の動きは僅かなりとも揺るがない。
彼女に触れた物体はその瞬間に破壊された。その姿は、全てを破壊する槌のごとくだ。
女の背後は嵐が通った後の様相を呈していた。
駆ける間も女は思考を休めない。
「ここまで追いつめても何もしてこない。どうやら、攻撃に向いた宝貝ではなさそうね」
女の名は和穂。宝貝を追い求める女。
その名を聞いた者に、その姿を見た者に、戦慄と恐怖を与える名だ。
彼女は宝貝を追い求める。では、何のために?
にやりと和穂は笑う。獲物を追いつめた猟犬が見せる、獲物にとっての凶相だ。
和穂が宝貝を追い求める理由はともかくとして、現在の追走劇を楽しんでいるのは確かだった。
男は突然に、女を突き飛ばすと素早く夜の闇へ身を投げた。
女が訳も分からず床にへたり込むと、いつの間にやら傍らに何者かが立っていることにようやく気づいた。
宝貝の噂を聞きつけた和穂の姿を目の当たりにして、女は己が正気を疑った。
和穂は女の道士であった。
その時点で女の常識からかけ離れていたが、和穂の異常はそんなものでは止まらなかった。
道服の裾から見え隠れする、銀色に光る物は一体、どんな冗談なのだろう。
女の常識は、それが足袋の一種であると訴えていたが、この世界のどこに筋肉を持つ足袋があるというのだ。それは決して、足袋などではありえない。
それだけでは決定的な離脱には至らない。
和穂は片手に自らの背丈に匹敵しようかという大剣を背負っていた。武器には疎いこの女でも否応なしに気づかされる存在感を持つ剣は、まるで禍々しさを塗り固めて造ったかのようだ。
女に一顧だにせず、和穂もまた男を追って夜の闇へ飛び出した。
時間は少し遡る。
和穂は飯屋で少し遅めの昼食をとっていた。
ずるずると饂飩を飲み込んだ和穂は、水を一口飲むと、小声で言った。
「不味い」
地域ごとに異なるつゆの味はまあ、いいとしよう。葱はまあまあ新鮮だし、海から離れた場所で出てくる蒲鉾に望みを抱いたりもしない。
全ては麺にある。
麺が不味くて、麺類が上手いはずがないではないか。
仏頂面で残った饂飩を嫌々ながらも口に運んでいると、低く抑えた声が聞こえてきた。
「いいかい、このことは誰にも話すんじゃないよ」
一つの卓に三十過ぎの女が集まっていた。話者の女は一見して分かる。四角の卓の一隅だけが、余裕を持って座っていたからだ。
声色から察するに幽霊話の類だろうと和穂は見当をつける。
話者は聴衆の顔を一通り見回して、曰く、
「ここから東の方に百歩あまり歩くと、長屋町に出るだろう。
あそこの一角に住んでいる実弥は皆、知っているね?」
話者の取り巻きが知っているぞ、と声を上げた。
慌てて他の聴衆も賛同を示す。本当に実弥という娘を知っているかどうかは疑わしいものだ。
もし知らないとしても、この場を楽しむには、知っていることにするのが一番だった。
「実弥の夫が奉公に出かけて、もう何年になる? 三年さ。
三年にもなるのに、一度も帰ってきやしなかった。言いたくはないが、死んだのだろう。
あたしはそう思って、実弥に勧めたのさ。
いつまでも未亡人でいるのはよくない。あんたが管推を想う気持ちは分かるけど、あんたはこれからも生きていないといけないんだよ」
話者はいったん話を止めた。そろそろ核心に入りそうだ。
不味い饂飩を食うよりは楽しそうだと、和穂は盆を持って輪に近づいた。
「実弥も悩んでいたんだろう、はっきりしない返事だったね。
無理強いをするのもよくないと、その日はそれ以上言わずに帰ったけど、それで終わりにする私じゃないね。一ヶ月後に旦那を連れて様子を見に行ったら、これがまあ! 管推と仲良そうに話してるじゃないさ。
実弥も待ち続けた甲斐があったってもんだ。よかったねえ、一件落着だ。あたしの顔が綻んだって、そいつは当然ってものだろう?
ところが、旦那が変なことを言い出したのさ。
何をお前は嬉しそうにしてるんだ? まだ若い娘が独り、寂しそうに笛を吹いているだけじゃないか」
狐に化かされたんじゃないか、と野次が飛んだ。
女は憤然として反論した。
「へえ、私が嘘をついたって言うのかい?
面白いじゃない。論より証拠、あたしについてきな!」
話者が立ち上がった。わいわいがやがやと騒ぎながら、話者の後を一団がついてゆく。
和穂は黙考する。
一見、どこにでもありそうな幽霊話だ。だが、もしこれが実話だとしたら、この現象は何によって引き起こされているのだろう。
実弥と管推との間の愛か。まさか。
この世に存在する、この世ではあり得ない現象は宝貝によって引き起こされるのだ。不可能を可能にする神秘の道具、それが宝貝だ。
管推の背後を壁がふさいでいた。彼は自ら袋小路に陥ってしまった。
和穂は管推を追いつめたのだ。
開口一番の和穂の台詞はこうだ。
「あなた、宝貝を持っているでしょう。大人しく渡してくれたら手荒な真似はしないと約束するわ。
あなたにはあなたなりの事情があるんでしょうけど、そんなことは知ったことじゃない。
あなたに恨みはないけれど、同情心も持ってはいないのだから」
管推は、動かない。
諦めたのか、と和穂は思う。
「宝貝はどこ?」
管推は、動かない。
言外に自分の体を調べてみろと言っているようだ、と和穂は思った。
宝貝使いに近づくことは即、死を意味する。
にもかかわらず、無造作に和穂は管推に近づいた。
十歩の距離が五歩の距離へ、五歩の距離が二歩へと、両者の距離が縮まった。
そして、一歩の距離まで和穂は近づいた。
ここまで近づいては、例え彼女が持つ剣が宝貝であろうとも、例え彼女が道服の下にまとう鎧が宝貝であろうとも、管推の持つ宝貝の一撃は確実に和穂の命を奪うはずだ。
にもかかわらず、なおも無造作な動作で和穂は管推の肩に手をかけた。
笛の音が聞こえた。
「和穂。和穂」
声が聞こえる。
ぶっきらぼうな声だ。
それがこの上なく優しく聞こえるのは、やはり、あの人の声だからだろう。
「和穂。どうやら起きたようだな」
鷹のような眼孔を持つ、武人がそこにいた。
いつの間にか自分は鎧を脱いでいたが、それも当然だ。
この人が傍にいるのだから。
「まったく、さっさと起きたらどうだ」
それは心の裏返し。
なかなか起きないから心配したぞ、とこの人は言っている。
「殷雷」
和穂はただ、その言葉だけを口に乗せた。
「なんだ?」
和穂は優しく笑う。
殷雷に両手を伸ばした和穂の腕は、いつ六身鎧を装着したのだろうか。
和穂は殷雷の首を握った。
こきり、と音を立てて殷雷の首の骨は破砕した。
「甘い、甘いね。こんな蜜のような夢に漬かってられるほど、私は――」
「和穂。和穂」
声が聞こえる。
眠りの縁からわき上がるような声だ。
とてつもなく狡猾で、冷酷な声だ。
こんな声で私を起こそうとしているのだろうかと、和穂は笑う。
「和穂。どうやら起きたようだな」
夢の中と、全く同じ台詞を愚断剣は言った。
こいつはなんて皮肉だろう、と和穂は思う。
もしくは、私の心を覗いていた愚断の嫌がらせか。
「まったく、いつまで寝ているつもりだ」
心底から和穂を馬鹿にした口調で愚断は喋る。
なんだかんだ言って、この剣は結構正直なところがある。ある意味、そこがこいつの可愛いところかもしれないな、と和穂は思った。
「愚断」
和穂はただ、その言葉だけを口に乗せた。
「なんだ?」
和穂は優しく笑う。
「役に立たない剣だね、あれくらいの精神攻撃を打ち破れないようじゃ」
「なんだと!」
ほら、単純だ。
吠え猛る愚断の言葉は右から左へ受け流し、和穂は右手の指輪に鋭い目を向けた。
「捜魂環」
和穂の言葉に捜魂環は応えない。意志を持ち、人と会話できる彼だが、滅多に口を開くことはない。
「惜しかったな、捜魂環。主の無念を晴らすよい機会だったのにな。
さっきの私は無防備だった。宝貝使用者が私を殺すつもりなら殺せただろう」
捜魂環の歯ぎしりの音が聞こえてくるようだ。
捜魂環は和穂を憎んでいた。自らの使用者を殺されたという理由でだ。
それを知りつつ、和穂は捜魂環を使っている。
宝貝は、道具は、自分を使ってくれる人間ならば誰でもかまわない。
使用者の仇をとろうとする宝貝など、笑うしかない。
あの人以外に、そんな酔狂な宝貝が存在するなんて、笑うしかないではないか。
「見事な罠だったな、捜魂環」
和穂は言った。
当然、彼女は、火に油を注ぐ台詞と自覚している。
悶え苦しめ、捜魂環。お前のような宝貝がいると思うと、安心できるのだから。
和穂は実弥の住む長屋へ戻ってきていた。
「お前を惑わせた隙に管推が実弥を連れて逃げ出したとは考えないのか、和穂」
「おやおや、先程までだんまりかと思えば、やけに饒舌じゃないの捜魂環。
私がここに近づいちゃいけないのかしら」
捜魂環が口を閉じる気配を感じ、和穂はしのび笑う。
長屋の中から声が響く声は管推のものだ。
「実弥、俺と逃げよう!」
「これはまた、感動的な場面に出くわしたものだね」
嘲るように言って、和穂は長屋に足を踏み入れた。
和穂に気づいた管推が実弥をかばって叫ぶ。
「分かった、宝貝は渡す。だから実弥だけは助けてくれ!」
なるほど、こういう形に持ってきたか。
和穂は心の中で呟いた。
「大人しく渡してくれるなら手荒な真似はしない、と最初に言ったでしょう。
信じなさい」
「分かった、信用する」
管推は羽織っていた衣を和穂に投げた。
「それが宝貝、避災衣だ。身に降りかかった災難を――おい!?」
和穂が振るった愚断剣は避災衣を一刀両断にする。
冷めた顔で和穂は言った。
「何が宝貝だ。それに、私が用があるのは虚像なんかじゃないのよ。
実弥。これがお前の望みなのか?
死んだ夫が帰ってくると思っているのか。
そうね、管推が死んだとは限らないかもしれない。
けれど、あなたがすべきことは決して、夢の中に浸っていることじゃない!」
捜魂環が示した位置へ向けて剣を振り下ろす。
実弥が吹いていた笛が二つになった瞬間、管推の姿は暗闇に溶けて消えてしまった。
望全界、使用者の望みを現実に映し出す宝貝か。
生憎と私の望みは殷雷に会うことじゃない。
そんな甘い考えはとっくの昔に捨ててしまった。いや、そんな甘いことを考える資格がなくなってしまったんだ。
今の私の望みは地上に散らばった宝貝、全756個を集めること。
仙界に戻ったところで、今の私じゃ血生臭くて仙人にはなれないだろうけど、龍華師匠に頼めば殷雷は再生できるだろうから。
だから、待っていて殷雷。私は絶対に、宝貝を揃えて仙界へ戻るのだから。