スチャラカもくれんタマスダれ
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「いやあ、良い天気だね」
 女は蒼空を飛翔する鷹に呼びかけた。
 鋭いまなざしに厳しさを感じさせる動作、どことなく鷹に似ている女である。
 女が言ったように天気は快晴。空はどこまでも青く澄み渡り、心地よい風が涼を運んでいる。
 赤を基調とした服で全身を飾った女は、自身の服装とは対照的な色づかいの空のなかで、より煌びやかさを増して見えた。
 女は鷹と話し続ける。酔狂ではない。女には鷹の声が伝わるし、鷹には女の意志が伝わっているのだ。
「思いっきり体を動かしてみたくなる陽気だと思わないか。どうだ、久しぶりに競争してみるのはどうだろう」
 鷹は女に答えて一声鳴いた。
「うん、今度にしてくれ? それじゃ仕方ないな。次の楽しみに取っておこう」
 女は鷹の言葉に頷き、寂しげに鷹を見送った。
 次にやってきた鷲とも女は親しげに挨拶を交わした。鷲は鷹ほどには忙しくなかったので女の提案に賛成した。
 勝負が始まった。大空の支配者たる誇りを賭けた戦いだ。
 湖、林、草原、火山。眼下に広がる大自然。大空――鳥の世界を一羽と一人が駆けめぐる。
 この空を翔んでいる女の名は龍華。
 無論、ただの人間が空を翔べるはずがない。空を翔け地を巡り、水を苦とせず火を操る天地玄妙の奥義に通じた者。人は彼らを仙人と呼ぶ。
 ここは仙人が住む世界。桃源郷の果てにあるといわれる秘境、仙界である。
 龍華と鷲の戦いは互角だった。抜きつ抜かれつの激しい戦いだ。競技の終着点たる九遙山を、彼らはほぼ同時に通過した。
 互いの健闘をたたえて龍華は鷲に別れを告げた。
 心の赴くままに大空を駆けめぐった興奮を抑えるかのように龍華はゆるゆると高度を下げてゆく。やがて大地を踏みしめた龍華の目の前には、山肌に口を開けた洞窟があった。
 内部には鍾乳石が立ち並んでいた。あまりに無機質な空間のため、人の侵入を拒んでいるようにも感じさせる。
 龍華は頓着しない。ごく無造作に足を踏み入れる。すると、洞窟内の景色が一転した。
 朱塗りの柱が縦横に組み合わされて無数の部屋が立ち並んでいる。明らかに人工物であり、埃が積まれていないことがここに人が住んでいることを表していた。
 ここは龍華が洞府、九遙洞。洞府とは仙人の住居であり、工房であり、物置であり、書庫であり、仙人にとっての全てがつまっている場所のことだ。
 洞府にはその洞府を所有する仙人と修行中の弟子が住んでいる。一人前となった弟子は師匠とは別の山に彼の洞府を構えるため、一つの洞府に二人以上の仙人がいるという事態はありえない。
 今は年若い同居人が住んでいた。ちなみに、龍華は弟子を取ったことがない。「宝貝作りに忙しくて弟子を取っている暇がない」とは龍華の言だ。宝貝とは仙人が造る神秘の道具のことであるが、この物語には関係ない。
 住居として用いている区画の一つで愛らしい相貌の同居人、和穂を見つけると龍華は帰ったぞと声をかけた。
 首を巡らせて声の主を見つけた和穂はあっと満面の笑みを浮かべた。そして、小さな体をぶつけるようにして龍華に飛びついた。
「おかえりなさい。りゅーかしゃおじえ」
 やや舌足らずな声が龍華を迎える。
「きょうはちょっとおそかったね」
 その声に不満の響きを感じ取った龍華は慌てて弁解する。
「すまない。鷲とのかけっこに夢中になってしまった」
「わしとかけっこ? ねえねえ、どちらがかったの?」
 と不満そうな感じはどこへやら、体を乗り出して尋ねる和穂に龍華の相貌は緩んだ。
「そりゃあ私が勝ったに決まってるだろ」
 平然と龍華は嘘をついた。
 和穂は無邪気に喜んでいる。
「わーーー! すごいすごい」
 なおも詳しい話をせびる和穂の相手をする片手間に中華鍋や調味料の準備を整える。
 和穂も腹を空かせていることだし、少量のものを数品作るよりはいいだろうと本日の献立は炒飯に決定した。
 炒飯を食べる和穂を見つめながら龍華は本日の競争について語って聞かせた。
 競争ののお話が一段落すると、和穂は興奮した様子で口を開いた。
「まましも、にゅーか」
「こら、食べ物を口に入れたまま喋るんじゃない」
 ごくりと炒飯を飲み込んだ和穂は言った。
「わたしも、りゅーかしゃおじえみたいに、おそらをとびたいな?」
「和穂には難しいんじゃないかな」
「えーーー? ぱたぱたー。ぱたぱたーってとびたいのに」
 手を鳥の羽に見立てて、和穂は両腕を上下させる。
 よく見るとその頬が少し赤かった。
 
 昼をやや過ぎた頃に九遙洞を客人が訪れた。
 和穂が昼寝を始めてすぐ、見計らったかのように現れたその人物の名は護玄と言う。
 自他共に認める龍華の友人であり、龍華を原因とする有象無象の厄介事の後始末に翻弄されてきた苦労人だ。
 来訪に気づいた龍華は棚から碁盤を取り出した。厄介事と縁遠いときに護玄が九遙洞に来る用事と言えば碁を打つためと決まっている。
 案の定、碁盤を見つけた護玄の瞳が輝いた。
 陽が落ちる頃、勝負は五局目に差し掛かっていた。
 手持ちぶさたに碁石を手の中でもてあそんでいる龍華とは対照的に護玄は深く皺を寄せて考え込んでいる。
 局所的にはよい手を打っているのだが、大局的には問題のある手を打つことが多い。これが護玄の碁の腕前に対する龍華の評価だ。
 仙界に存在する山の数ほど戦ってきた二人の対戦成績は龍華の全勝。定石くらい覚えろと口を酸っぱくしているのだが、どうしたことか護玄には碁の定石というものが理解できないらしい。この一点だけで碁と護玄の相性が分かるといったものだ。
 大長考の末に差し込まれた護玄の碁石がパチリと音を立てる。
 いいのだなと喉まで出かかった言葉を飲み込み――なにしろ指摘すると護玄が怒る――龍華は蝶の羽が一交差する時間で考えをまとめると、相手にとどめを刺すべく碁石を掴んだ。
 更に、互いに十手を加えた頃になってようやく護玄は自らの敗北を悟っていた。
 勝負の後は茶を飲みながらお互いの手について、正確には護玄の手と言うべきだ、論評を加えるのが常となっていた。
 龍華はさきほどまでの対局で護玄はどう打つべきであったかを指導していた。だが、なかなか護玄は説明に納得しない。こうすればよかったのだろうと言えば試合よりもなお悪い手を提案し、分かったぞと言うので確かめてみればてんで的違いな理解をしている。
「以上だ、分かったか」
「分かった……と思う」
 曖昧な応えに不信感は否応なく増大する。
 敢えて追求せずにお茶菓子を勧め、急須のお湯を取り替えようと立ち上がった龍華を護玄は手で制した。
「そういえば和穂はどうしたのだ。昼寝にしても起きてくる時間ではないか」
「今日は少し熱があるようだから寝かせてある。顔を見るなら今度にしてくれないか」
「それならば都合がいい。龍華、和穂の今後のことだが」
 露骨に不快そうな表情を貼り付けた龍華は苛立ちを含んだ声で答える。
「そのことについては既に決めているはずだ。和穂が四歳になるのを待ち、人間界に帰す」
「お前が決めたことだ。俺に依存はない。だが考えてもみろ、この期に及んで和穂を手放せるのか」
 外見的には親子にも見える二人だが、和穂は龍華が産んだ子供ではない。九遙山に捨てられていた和穂を龍華が拾ってきたのだ。
 本来、仙術に関する知識も力を持たない和穂は仙界へ来ることはできない。九遙山はたまたま仙界と人間界が重なる土地であることと、人間界と仙界が繋がっているときに龍華に発見されるというという二つの幸福に恵まれていたため、和穂は今仙界にいる。
 余談だが九遙山という名前は人間界と仙界が繋がる土地であることから来ている。すぐ傍に接しているにも関わらず「遠く届かない」仙界への想いが、最も大きい数字である九を使うことによって、「九遙山」と表現されているのだ。
 閑話休題。
 龍華が和穂の面倒をみようと思ったのは、自分が見つけた赤子を見捨てるのは心苦しいという理由からだった。せいぜい乳離れできるまでは育ててもいいだろう、という腹づもりだ。
 だが、やがておしめが取れるまでは育てないとと思うようになり、せめて言葉を話すまでは、せめて言葉を理解できるまでにはと、ずるずると決断を先延ばしにしてきた結果、いまや和穂は三歳を数えていた。
 龍華の声は珍しく自嘲が含まれていた。
「和穂を一生私の下働きとして縛れというのか」
 単なる人間が仙界で暮らすとは、そういうことだ。
 仙界とて絶対平和ではない。盗賊はいないかも知れないが、その代わりに人間界では存在できない獰猛な動物が存在する。
「いや、もう一つの道、仙人になるという道が残されている」
「仙人か」
 龍華は顔をしかめる。そこに驚きの表情はない。
 単なる人間では暮らすことができなければ、人間を越えた人間になればいいだけだ。
「やはり気づいていたか」
 だが龍華はその道を選ぼうとは思っていなかった。なぜならば、
「私に鬼になれというのか」
 仙人になるための修行のつらさは言葉で言い表せるものではない。自力で仙界へ渡ることができるほどに優れた人間でさえ何十年あるいは何百年と修行して、はじめて仙人として大成できるのだ。
 長く苦しい修行を申しつける師匠という存在は弟子にとって鬼という他ない。
 乗り気でない龍華を取りなすかのような口調で護玄は言った。
「どうしてもというなら俺の弟子にしてもいい」
「お前がか? 気に入った奴だけを弟子にするお前にしては随分と気が急いているようじゃないか」
「なに、仙術の素養が全くない人間をいっぱしの仙人にするというのも、興味をそそられるだろう」
 一瞬だけ考え込んだ龍華は頭を下げた。
「申し出には感謝する。だが、これは私と和穂の問題だ。お前の手を借りたくはない」
「わかってるさ。ただ、和穂が仕込むに値する人材だと分かり、誰の弟子でもないのならば、龍華が何といっても俺の弟子にするからな」
 護玄なりの励ましの言葉を受け取った龍華は応える。
「そのときはお願いするさ」
 やはり、龍華にしては弱気な発言だった。
 
 
 二日後の朝、護玄はけたたましい騒音にたたき起こされた。
 目覚まし時計をかけていたのだろうかと寝ぼけた頭で考える。
 ええい違うと頭を振ると、何者かが侵入したときのために警報装置を仕掛けていたことを思い出した。
 進入経路は音階で区別できるようにしてある。招かれざる客は正々堂々玄関から仕掛けてきたようだ。
 そこまで判断した次の瞬間には護玄は洞府の玄関に跳躍している。
 符を取り出して玄関に仕掛けた罠を発動させようと前を向くと、外部からの力で破壊された扉の向こうに龍華の顔がった。
 安心するどころか胃が急に痛み出した。
「やあ、護玄……突然体を折り曲げてどうしたんだ。拾い食いしたのでもあるまいし」
 早朝の闖入者は龍華だった。
 過去の経験からすると、こういうときの龍華は決まって厄介事を持ち込んでくる。
「それでも近頃は落ち着いていると安心していたのに。これは俺の油断なのか?」
「自戒もよいが、まずは私の話を聞いてはくれないだろうか」
 護玄は虚空から急須と湯呑みを取り出した。熱い茶が体に染み渡る。
 落ち着いたところで龍華に話しを促した。
「確か、護玄は師匠から書庫の管理を仰せつかっていたな。仙界屈指と言われるその書庫で調べ物をしたいのだ」
「その程度なら申請書を出してもらえば――」
 申請書さえあれば通常二、三日で師匠から書庫の閲覧許可は下りる。
 護玄は龍華の意図に合点がいった。閲覧許可をちんたら待っている時間がないので、無理をおして本を読ませろと言いたいのだろう。
「いくら生真面目な護玄とはいえ、書類を出し忘れることくらいあるだろう」
 申請書を受け取っていたが、師匠に出すのを忘れていたことにしろと龍華は言う。
 しれっとした顔で言っているが、規則違反であることに変わりはない。
 龍華が無茶を言うのはいつものことなので気にならない。それよりも気になるのは日頃の龍華らしからぬ苛立った口調である。
「そもそも、急に書庫を閲覧したいなどと、理由があるのだろう。話してくれないか」
 よく見ると龍華の顔には疲労の後がある。肉体的なそれではなく、精神的なものだ。
 一昨日和穂が引いた風邪が未だに治らないと龍華は言った。
「いろいろ手を尽くしてみたが、どうしても熱が下がらない。書庫には神農様が人間界で作られた人間に効く薬草、調合が載った書物があると聞く。それが欲しい」
 和穂が熱を出して三日目。その間ずっと、和穂は布団の中だ。
 龍華もただ手をこまねいていたわけではない。自分の知りうる限り最高の調合で作った薬湯を和穂に飲ませている。
 それでも効果がないと見て取った龍華は洞府にある蔵書に目を通した。しかし、ほとんどは仙術に使う草木について書かれたもので、人間の病気に効果のある仙草・薬草についての記述があったとしても龍華の見知った範囲のことでしかなかった。
 そもそも、仙人界に来るような人間は極めて病気にかかりにくいため、薬草についての知識を必要とすることがないのである。薬草に関する知識が軽視されるのも当然だ。
「全く情けない限りだな、護玄よ。仙人様よと誇ってはいても、子供の病気一つ治すことができない」
 護玄にもようやく龍華の苛立ちの原因が分かった。
 龍華が格別悪いわけではない。敢えていえば仙人という集団にこそ咎があると理性は訴えかける。だからといって、収まる気持ちでもないのだろう。
「記入済みの申請書はあるんだろうな?」
 龍華は首を左右に振った。
 それほどまでに余裕がないのだと護玄は愚かな質問をした己を悔やんだ。
「書類は俺が作ってやる。すぐ書庫へ向かうぞ」
 すまないと。答える龍華を見ていられず、護玄は首をあさっての方向へ向けた。
 二人の仙人は音を超える速度で駆けだした。
 
 仙界でも最大の動物である龍。その龍をして放し飼いにできる広さをその書庫は持っていた。ゆうに龍華の身長の百倍はあるであろう書棚は棚というより塔と呼ぶほうが相応しい。
「こちらだ。ついてこい龍華」
 さすがに管理人を任されているだけのことはあり、護玄はたちどころに目当ての書物を探し出した。
 閲覧のみ許される書物が収められている部屋の一角で、目当ての書物は棚一つをまるまる占拠していた。
 大部であることもさることながら、竹簡に書かれているということが大きい。紙と比べれば、竹の束は格段に場所をとる。
 区画を占拠している竹簡の数に護玄は圧倒された。
「恐るべきは神農様といったところか。これだけの大著とはな」
 一方の龍華には遠慮というものがない。
「神農様一人で調べたというわけでもなかろう。以前より伝えられていた知識も含まれているはずだ」
「そうだとしても、これだけのものをまとめられただけでも大変な労力だぞ」
「まとまっているならばな。護玄、目次のようなものはないのか」
 それぞれの竹簡には数字を書いた札が付けられていた。護玄は「零」の札がついた書簡を開く。
 神農の書は効能ごとに整理されていた。護玄が指示する解熱の効果を持つ薬草を記した巻をより分けて、龍華は机に運んでいった。
 竹簡には薬草の名前、効能、生息地と外見図が記されていた。
 龍華は名前と外見図から自分が知らないものをより分ける。護玄は龍華が選んだ薬草の入手法を一般区画の百科事典で調べるという役割分担だ。
 前にも説明したように、仙人たちは人間の病を治す薬草に興味がない。いくら仙界屈指の書庫とはいえ、絶対量に限界があった。
 また、神農の竹簡は時代が古いため現在使われている名前と別の名前で記載されていることもあるようだ。
 そして最終的に護玄を悩ませるたのは、ほとんどの書物には人間界における生息地しか記されていないことだった。
 それでも二、三の薬草について仙界での生息地を知ることができた。手分けして採取した薬草を煎じた薬を和穂に飲ませると、龍華は静かに回復を待った。
 
「おかぜになってから、いまはなんにちめかな」
 と和穂は考えた。
 三日目のような気もするし、一週間を越えている気もしていた。
 光が射し込まない部屋でずっと布団にくるまっていたために和穂の感覚は狂いかけていた。
 部屋は真っ暗だった。だれもいないのと和穂は呼びかけた。返事はない。
 もう少し待っていようと和穂は考えた。龍華を待っていた和穂の瞳はとろんとなり、やがて閉じてしまう。
「和穂。和穂。少し起きてくれないか」
 龍華の声を目覚まし代わりに和穂は目を開けた。
「はい?」
「おかゆを作ってきたんだ。少しは食べないと体は良くならないからな」
 龍華は布団と和穂の背中に割り込んでぐぐっと和穂の上半身を曲げる。ちょうど龍華は和穂の腰掛けのようだ。
「はい、あーん」
 鍋からさじ半杯分をすくい取って和穂の口に運ぶ。
 和穂は少しだけ口を開けた。あまり食欲はなかったからだ。
 ずずず、と和穂が一口分を飲み込んでから、龍華は手に持った布で和穂の口の周りをぬぐう。そして、またさじを和穂の口に近づける。
 ずずず、ふきふき、ずずず、ふきふきふき。
 
 
 
 翌日。龍華の希望も虚しく和穂の熱はなおも上がり続けた。
 龍華は昨日からずっと和穂の手を握りしめていた。
「龍華……」
 なぐさめの言葉をかけようとした護玄は見た。龍華の瞳は未だ力を失っていない。
「はっはっは。簡単なことじゃないか護玄」
「何がだ」
 ここでは和穂に迷惑をかけてしまうと、龍華は工房に移動した。
 護玄は改めて質問した。
「簡単なこととは何のことだ?」
「護玄先生ともあろうお方がこんなことに気づかないとはな」
「はぐらかすな、龍華」
「なあに。仙界に薬がないのであれば、人間界で探せばすむことじゃないか」
「馬鹿を言うな、仙人は人間界に不干渉だということを忘れたのか」
「仙人は人間界に干渉できない。だが、仙術を封じた仙人ならば?」
「そんな屁理屈が通じると思っているのか! だいいち、人間界に降りたところでどうやって探すつもりだ。我々は人間界の地名すら知らないのだぞ」
 質問には答えず、龍華は懐より一枚の紙を取り出した。
 護玄にも見覚えがある、昨日調べた薬草のうちの一つだ。楓の木の傍に生えるという。
 生息地は九遙山。人間界側の、九遙山だ。
「わかった。その理屈は認めよう。だが、どうやって人間界に行くつもりだ」
 二つの世界を繋ぐ道は結界により遮られている。しかし、
「知っての通り、九遙山ではときおり仙界と人間界が混じり合うことがある」
 今晩はちょうどその日にあたると龍華は言った。
 たった今、とっさに思いついた考えではないのだろうが無謀すぎると護玄は思った。しかし、強く光り輝く瞳を見ると何も言えなくなってしまう。こうと決めた龍華を説得できた試しはなかった。
 不承不承、護玄は同意した。
 同意の印に龍華の仙術を封印する。ただし、仙術を使えなくしただけで仙術に関する記憶は残している。そこまですると歩くことすら出来なくなるからだ。
 用意があるというので護玄は和穂を寝かせてある部屋に戻った。
 暫く経って姿を見せた龍華は質素な服に着替えていた。肩に革袋を提げ、腰には朴刀を差している。人は修行中の女武者だと思うだろう。
 布袋の中身はと聞くと何も入ってないらしい。準備の不備をなじると、それよりも時間が惜しいと龍華は答えた。
 護玄は納得できない。時間が惜しいからこそしっかりとした準備が必要なのだ。と言い張って時間を費やすほど愚かではなかったが。
 龍華は立て膝をついた。汗で湿った和穂の髪を何度も丁寧に梳いて整えてゆく。
 和穂に向けた優しい瞳に護玄の胸は張り裂けそうな痛みを感じた。
「もしものときは、和穂のことを頼むぞ」
「ああ」
「確か、護玄先生が仙人にしてくれるのだったよな」
 冗談めかして龍華は言った。
「仙人になるかどうかは和穂が決めることだ」
 だが、と護玄は一呼吸を置いて言った。
「俺が弟子とするからには、仙界に和穂ありと言わせてみせよう」
「誓えるか?」
「神農の舌に誓って」
 
 数日前の快晴はなお続いていた。
 気持ちを斟酌しないであっけらかんと振る舞う空模様に護玄は呪うような視線を向けた。そんな気持ちの一方で、このような気持ちになってほしいと祈っていた。
 二人は仙界と人間界が混ざり合い、空間が不安定となっている場所を探して歩く。
 九遙山の入り口からそう遠くはない場所で護玄は不安定な空間を発見した。
「あの杉の木を目指して歩け」
「杉の木だと? どこにあるんだ」
 仙術を使えない龍華は自分ほど夜目が利かないことに気づいた護玄は龍華の手をつかんでその場所まで案内した。
 杉の木に辿りついた龍華は護玄に向き直って言った。
「二刻だ」
 それまでに帰らなかったら、自分は死んだこととして扱えと言外に告げた龍華の姿が護玄の視界から突然消え失せた。
「人間界へ行ったのか?」
 龍華からの答えはない。
 その場に腰を下ろし、護玄は龍華の帰りを待つ。
 遠くから雷雲の唸り声が聞こえてきた。嵐になるぞと護玄は思った。
 
 
 
 草のにおいと濡れた大地を踏みしめる感触。遠くより聞こえる鳥の声と、林を吹き抜ける風の音。それらは仙界側の九遙山と変わらない。
 龍華にとっては数百年ぶりの人間界だ。当時の記憶と照らし合わせるのも一つの興というものかもしれないが、暗闇の中では諦めるしかなさそうだ。
 月と星々の光が遮られた山中、見通しがきかない闇の中を龍華は手探りで歩く。
 楓の木の近くに生えているという情報も、数歩の距離に近づかなければ木の種類を確認できない状況では有望な手がかりにはなりそうもない。
 行灯を持ってくればよかったと手際の悪さに悪態をつく龍華の目の前をゆらめく灯火が通過した。
「誰かは知らぬがそこの人、灯りを貸してはくれないかね」
 声をかけた相手から狼狽の空気が伝わる。次いで仲間内で言い争う声が萎んだと思うと殺気に変わる。
 左前方から迫り来る白刃に対して龍華は懐から取り出した符を突きつける。
 疾。その一言は符を刃と変化させる言霊だ。
 龍華の意志を受けた符は、しかし、それでも符であり続けた。
 間一髪。直前まで龍華が立っていた空間を白刃が通り過ぎる。
 考えるよりも先に身体が動く。朴刀を抜く暇はなかった。相手のがら空きの胴に肘を打ち付ける。堅い革の感触は鎧を着ているからだ。ごぶ、と相手の喉から空気が漏れる音がする。
 手応えの程度を確認する暇もなく右側から殺気が迫る。龍華は自ら踏み込んで相手の柄を握る手を強く打ちすえた。
 剣を手放した相手の面貌を確認する。あまり端正な面ではない。伸びっぱなしの髪に戦場から拾ってきたかのようなぼろぼろの鎧。落ち武者か盗賊の類だろう。
 防備の薄い喉仏に突きを入れる。くぐもった声で悶絶する相手に足払いをかけて、龍華は灯りのともる前方へ飛び出した。
 獣道を切り開いた先の山道に灯籠を持つ人影があった。
「ひっ」
 若い男だ。若者は反射的に腰の刀に手を伸ばす。その腕を背後へ捻りあげた龍華は朴刀を若者の首筋に突きつける。その姿勢で盗賊に向けて言い放った。
「その辺にしておいたらどうだ。お前たちでは私に勝てないことが分かっただろう」
 暫く経ってから、恐る恐るといった様子で林から男たちが姿を見せた。抜き身のままの刀をだらりと力なく握っている。
 指導者と思しき年長の男が口を開いた。
「何者だ。俺たちをどうするつもりだ」
「私の名は龍華。別に取って食おうなどというつもりはないよ」
 男たちは龍華の言葉を信じていないようで、刀を鞘に収める様子はない。
 敵意のない印に龍華は朴刀を地面に落とした。右腕は若者の首に巻き付いている。そのまま窒息死させられる自信が龍華にはあった。
「ちょっと森の中で探し物をしていてね。暗闇で難儀していたので、その灯りを分けてもらえると助かる」
 
 和穂が目を開けると真っ暗な部屋に一人取り残されていた。
 だれもいないのと和穂は呼びかける。返事はない。
 和穂は考えた。
「りゅーかしゃおじえは、ごはんをつくっているんだ。いい子にしてまっていれば、すぐにきてくれる」
 けれどもいくら待っても、龍華だけでなく、昨日から九遙山に泊まっている護玄までもが姿を見せない。
 ひとりぼっちだと和穂は思った。
 そう思うといろいろなものが急に怖くなった。
 暗い部屋が怖い。誰もいない部屋が怖い。熱がずっと続いているのが怖い。怖いという気持ちがどんどんとふくれあがる。
「りゅーかしゃおじえ!」
 精一杯の声で龍華を呼ぶ和穂の声は虚しく響くばかりだ。
 和穂はついに布団を出る決心を固めた。
 力ない足を踏ん張って立つ、それだけで頭はくらくらした。
 誰かが呼び止める声が聞こえた。和穂は思わず部屋をもう一回り見回したけれども、やはり誰もいない。
 気のせいだ。そう結論づけた。
 廊下に出た和穂は右を見て、左を見る。そこにも誰もいなかった。
「りゅーかしゃおじえはおでかけしているんだ」
 朦朧とした頭で、だったら私もと和穂は思った。
 休み休み玄関まで歩く和穂。その最中も龍華の気配を探していた。
 玄関の扉を開けた和穂は上履きのままで外へ出て行った。
 地面を叩く雨にも木々を打ちすえる風にも和穂は気づいていなかった。。
 
「この九遙山で探し物だと?」
 年長の男が指示すると部下は三歩後ろに退いた。応えて龍華も締め付けを弱める。
「もしかして、この山に住むという仙人の財宝を狙っているんじゃないですかね」
「そんな眉唾物の話をまだ信じてたのか、お前は」
 年長の男は発言した部下を殴った。
 落ち着きを見せた若者も同意見のようだ。
「信憑性がないとは認めますけど、金銀や珊瑚がざっくざくと言うじゃないですか」
「だからお前らは馬鹿なんだ。霞を食って生きている仙人が金銀財宝を必要とするか? しないに決まっている。少しはものを考えろ」
 若者の話は間違っていない。龍華の宝物庫には確かに金銀財宝が山と積まれている。にもかかわらず責められる若者が可哀想になり、龍華はつい口を出した。
「いや、宝貝を造るために金銀を使うことがある。あとは交易だな。洞府の近くで手に入らない材料は他人から購入するからだ」
 年長の男は大げさに驚いた。
「こいつは驚いた。宝貝と来たもんだ! 近頃はおとぎ話でも出てこないというのによ!」
 龍華はかちんと来て思わず拳を振りかぶり――はたと動きを止めた。
 話題が横道に逸れている。
「待て。私は宝物に興味はない。興味があるのはこの九遙山に生息しているという千寿草だけだ。心当たりがあるなら教えて欲しい」
「俺たちはちんけな草なんか気にしてないからな。力にはなれないと思うぜ」
「まあそう言いなさんな。千寿草は全長十五寸ほどの高さで、葉っぱは銀杏の形に似ている。この季節だと白い小さな花を咲かせているかもしれない」
 龍華は書庫で発見した竹簡に描かれていた図を地面にざっと描いた。
 男たちは腕を組んで考え込む。
 千寿草を見たかどうかではなく、龍華が言っていることを信じるかどうかを考えているように思えた。
 このまま逃げだそうかと思ったそのとき、若者が見覚えがあると声を上げた。
 同じような花をさっき見た気がすると告げた若者に聞き込みを行うと、ここから山道を西に二千歩ほど歩いた場所から見える斜面にあったということが分かった。
 話が一段落すると年長の男が手を叩いた。
 その場にいる全員の注目を浴びて男は言った。
「知りたいことも分かったってことで、そいつを放してくれねえかな」
 こいつは私の話を信じてない。
 龍華は足で器用に朴刀を蹴り上げる。掴んだ刀を再び若者の首筋に突きつけた龍華は、
「こいつが本当のことを言っているかどうか確かめさせてもらうよ」
 と若者を連れたまま歩き出した。
 若者が言ったとおり、二千を数えた地点で龍華は千寿草を発見した。赤茶色の土が露呈した山肌の、ところどころに生えている下草に紛れて咲いていた。
「すまなかったね」
 龍華は若者を開放すると勾配の強いの斜面を慎重に下る。
 五歩、十歩、二十歩。
 後方でばきっという、人が人を殴る音が聞こえた。
 二十五歩。弓弦の鳴る音が龍華の耳に届く。龍華から五歩離れた地面に矢が落ちる。
「何やってんだ、このうすのろ。俺に貸せ!」
 龍華はやむなく斜面を走り出した。
 しかし遅い。龍華の右肩に矢が突き刺さった。衝撃で体がぐらりと揺れる。
 平衡を崩した龍華の身体は宙を泳ぎ、奮闘虚しく転倒する。
 地面の凹凸に沿って龍華の身体は跳ね飛び、転がり落ちてゆく。もはや上下の感覚もつかめない。
 視界が揺れる中でも必死に千寿草を探す龍華。白い花を見たと思ったのも一瞬、鳥ならぬ体は止められず、下へ下へと導かれる。
 やがて龍華の体は大木にぶつかって動きを止めた。
 肺の中の空気がゴフという音を立てて大気に溶ける。続けて龍華は咳き込んだ。
 全身が悲鳴を上げていた。バクバクと存在を主張する心の臓が鬱陶しい。右肩に受けた矢は転がる途中で折れる代わりに傷口を上下左右に抉っている。後は些細な痛みだ。何カ所かの皮膚が破けているようだ。傷口からだらだらと流れる血を感じる。
 幸いなことに骨は折れていない。龍華は木に寄り添うようにして立ち上がった。
 転倒する前は下方に見えていた地面を見上げる。転げ落ちてきた跡が平地となって龍華の行く手を阻んでいた。僅か二十歩が遠く見える。
 遠い景色に弓を構える男の姿が映った。龍華が手近な木の陰に隠れると、矢が幹に当たって跳ね返った。
 次から次へと矢が放たれては地面に落ちる。斜面に降りて転げ落ちるのは勘弁したい、というところだろう。
 龍華は安心して木を背もたれに腰を下ろした。
「なんだ。これが灯台もと暗しというやつかね」
 龍華の両足の間から千寿草が生えていた。
 
 
 
 護玄はじっと佇んでいた。
 強い嵐が吹き荒れる山中で微動だにしない彼の姿は遠目からは一箇の彫像にも見えただろう。
 どんな僅かな兆候も見逃すまいと集中を続けていた五感に新たな音が加わった。草をかきわける靴のものだ。
「よう。お待たせ」
 肩に背負った革袋をぽんと叩く仕草から、龍華の背にある袋のなかに千寿草があると護玄は当たりを付けた。
 出発時と比べ、龍華の衣装は土に塗れ、破けた服のところどころからは血を滲ませる肌が覗いていた。疲労困憊といった雰囲気を漂わせる全身と対照的なのは龍華の顔だ。そこだけは生気に溢れている。
「見つけたか」
 当然だと龍華は答えた。
「肩でも貸すか?」
「よせやい。こんな傷、つばでも付けとけば治る」
 はっはっはと龍華は笑う。
 龍華に近づいた護玄は肩を叩こうとして、ようやく傷に気づいた。
「おい、ひどい傷じゃないか!」
「大げさだな。そんなに騒ぐほどのことではあるまい」
「いつものお前なら問題ないだろうが、今は仙術を封じているのだぞ。今すぐ仙丹を出してやるから、いや、仙術の封印を解くほうが先だ。そこに座れ!」
 龍華は素直に従って護玄が示した岩の上に座った。
 岩を中心に護玄は陣を描く。
 もうすぐ陣が完成するというところで龍華は急に立ち上がった。
「座っていろといっただろう、龍華」
 龍華に遅れて来訪者の存在に気づいた護玄の耳に、「和穂」と龍華の悲痛な叫びが届いた。
 病的に青白い頬。水を吸った布は垂れ下がる死体を連想させ、瞳の上に乗った太い眉はうなだれるように力がない。
 龍華の言葉がなければ幽鬼か何かだと勘違いしていただろう。
「和穂!」
 ただ名前を叫んで龍華は和穂のもとへ駆け寄った。
 りゅーかしゃおじえ、と呟いた声はとても小さく、すぐ傍にいた龍華が聞き取るのさえやっとのことだ。安心したかのような笑みを僅かに見せると、龍華にもたれかかるようにして和穂は気を失った。
 優しく包み込むようにして龍華は和穂を抱きかかえた。
「護玄」
 龍華は背負っていた革袋を護玄に渡した。
 革袋を受け取った護玄は無言のままに姿を消す。
 龍華は和穂を背負い、歩き出す。
「さあ帰ろう。私たちの家に」
 
 
 
 それから二年後。
「私は――龍華小姐を師匠として仙人となることを目指します」
 五歳になった和穂は人生の選択を突きつけられた。
 龍華を師匠として仙人を目指すか、人間界に戻るかだ。
 仙人界で暮らす道を和穂は選んだ。身寄りもなく知り合いもいない人間界よりは、仙人界の方がいい。
「そうか! これからもよろしくな!」
「はい、龍華小姐」
「違ーーう。師匠だ。これからは龍華師匠と呼ぶように」
「はい、師匠」
「はっはっはっはっは」
 龍華の喜びようは日頃の龍華を知るものには見ていられないほどだ。
 護玄がこれみよがしに皮肉った。
「見ろよ断縁獄。龍華のあの締まりのない顔を。どうせこうなるなら、もっと早く決断しておけばヤキモキしなくて済んだのに」
「うるさいよ護玄」
「あのー」
 和穂は小さく手を挙げた。質問していいよと龍華はあごで示す。
「断縁獄さんってどこにいらっしゃるんですか? ときどき龍華小姐……違った、師匠も名前を呼んでいるので気になっていたんです。あ、もしかして仙術が使えないと見えなかったりするんですか」
 龍華はしまったという顔をした。
「和穂の前では話しかけないようにしてたんだがな。ついつい話しかけてたってわけか。私もまだまだ注意が甘いってことか」
 ほいよと龍華は台の上にあった瓢箪を和穂に投げてよこした。
 和穂は首をかしげた。はて。
「一応、初めましてと言わせて頂きます和穂様。前々よりお姿は拝見しておりましたが、言葉を交わすのはこれが初めてですね」
 と和穂の手の中の瓢箪が話しかけてきた。
 わっと驚いた和穂は瓢箪を取り落としてしまう。
「痛い!」
 断縁獄は悲鳴を上げた。和穂は慌てて謝った。
 いえいえと断縁獄は断りを入れる。
「ちょっとした冗談です。私には痛覚がありませんから。それにしても私のような道具にさえ言葉をかけてくださる和穂様の優しさにこの断縁獄、感服致しました」
 護玄が指を動かすと断縁獄の紐が護玄の指に絡まった。ほい、とかけ声をかけるとまるで釣られた魚のように護玄の胸の中に収まる。
「お前とも長いつきあいだが、こんな洒落っ気を見たのは初めてだよ」
「龍華様が嬉しいと私も嬉しいのです。それで思わず羽目を外してしまったようで」
「羽目を外したなんて自分で言うなよ、自分で」
「はっはっは。よーし、今日は和穂の前途を祈念して御馳走を作るぞ」
 と宣言した龍華は陰でちょいちょいと龍華は護玄を招き寄せる。
 厨房に足を踏み入れた護玄の顔は不審げにしかめられている。
「何だ? 料理なら俺の出番はないだろうに」
「そんなことはない。護玄仙人にたっての頼みがあるのだ」
 たっての頼みとあれば一も二もなく頷きたいところだ。
 護玄とて喜んでいる友人に水を差したくはない。
 が、今の龍華は平静とは言い難い。
 念のためと護玄は頼み事の中身を聞いてみた。
「うむ。実は羮の隠し味として護玄の出し汁をだな」
「これからも和穂と一緒だからって浮かれるのもいい加減にしろよ!」
 護玄は悲鳴を上げた。
 この日、龍華は終始ご機嫌であった。
 

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