スチャラカもくれんタマスダれ
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 綺亜は憂鬱な気分に浸っていた。時折洩らす溜息にも疲れがはっきりと見て取れた。そ
れまで閉じていた目を開くと、自分が生まれてから一生を共にしてきた村の姿が綺亜の目
に飛び込んできた。寒村とまではいかなくとも豊かな村ではなかった。それでも綺亜は幸
せに生きてきたと胸を張って言えた。つい5年前までは、と制限が付いてしまうのが実に
口惜しい。
 冷たい夜風が服の裾をばたばたとひらめかせていた。夏の夜には気持ちよいくらいの冷
たさの風と景色に励まされて綺亜の心は少しだけ軽くなった。高所からの景色は人に高揚
感を巻き起こす。
「まったく、あの婆ァと来たら、あたしを召使いか何かと勘違いしてるんじゃないの」
 愚痴が出るのも心が軽くなった証だった。暫く、えんえんと一人で愚痴をこぼし続ける
綺亜。近所の子供たちに鬼婆扱いされている義母は、自分の悪口なら村のどこでも聞きつ
けて逆に悪口を言った者を罵倒しつくす女だったが、ここならば心配いらない。
「はあ。愚痴ったら少しは楽になったわ」
 いつまでもこうしているわけにもいかなかった。明日になったらまた婆ァに扱き使われ
るのだ。一昨日と、昨日と、そしておそらくは明後日と同じように。今もくたくたの肉体
は睡眠を欲しがって瞼を下ろそうとしていた。眠気に逆らうのもそろそろ限界だ。年をと
って良いことなんて一つもないわねと、愚痴を一つ追加する。
「帰るわよ。あ、婆ァに見つかるとまずいから村の外で降ろしなさい」
 戻ってきた鬱と眠気に負けそうになりながら綺亜は命令した。幾ら憂鬱の源が鎮座して
いても、綺亜は他に帰るところを知らなかったのだ。実家に帰るという手は没だ。同じ村
にある実家に帰っても無駄であると、過去の経験から綺亜は学んでいた。実の親は綺亜を
迎えにきた、角が生えていないことが不思議なくらいの婆ァの形相に押され、綺亜を家か
ら追い出すだろう。我慢するんだ、お前の義母だろう、綺緑さんとよく相談しなさい、と
か言って。
 村を見下ろしていた綺亜は行きと同じように目を閉じた。あとは眠っていても自分の部
屋まで連れて行ってくれる。ゆりかごのように揺られながら、綺亜はゆっくりと眠りに落
ちていった。



 青年は黙って薪を火を焚き火にくべていた。青年の傍らには娘が一人。毛布を掛けられ
てぐっすりと眠っていた。一週間前までは蚊だ痒い泥だ騙したわね、と騒々しかった夜も
夏も終わりに近づいて蚊はどこかへ消えてしまい静かなものだった。
 青年は誰に言うとでもなく口を開いた。
「退屈だ」
 言葉に出すと、自分が暇でしかたないのだな、と明瞭に気付くことになった。青年は人
間ではなかったが、人間のような感情を持ち合わせていた。喜びも、怒りも、哀しみも、
楽しみも感じられた。
 焚き火の火加減を見切って、次の薪をつぎ込むことはなかなか頭を使った。とはいえ、
単調な作業であることに変わりはない。
 青年が羽織る外套は火の色をそのままに写していた。裾の狭い、武人が好んで着そうな
服だ。中肉中背の青年は、男にしては長い黒髪を無造作に後ろで括っていた。
 青年は何か暇を紛らわせるものを探した。丁度いいことに慰みものはすぐ見つかった。
娘の耳につけられた白い珠を取り外して、自らの耳に装着する。白い珠は真珠ではない。
もっと安っぽい光沢、たとえば海岸に打ち上げられた白い石を丁寧に磨いたかのような素
朴な光を放っていた。もっともこの珠は見た目とは裏腹に、真珠を遙かに越える価値を持
っている。
 目を閉じて、祈るかのように意識を一点に集める。すると、瞼の裏に星の燐光がいくつ
も現れた。目を閉じているのだから、星々の光が映っているのではない。これは宝貝の光
だった。

 宝貝。仙人が自らの技術を注ぎ込んで作り上げた神秘の道具をそう呼んだ。宝貝を手に
入れたものは、まさしく人外の力を手に入れる。本来宝貝は仙人界にだけ存在し、人間界
には存在しないものだった。ところがどっこい、現在、この世界には七二七個の宝貝が存
在していた。とある事故で一人の仙人が人間界に宝貝をばらまいてしまったからだ。しか
も七二七個の宝貝にはそれぞれ固有の欠陥を抱えていた。機能不全ならまだしも、多くの
宝貝は制作者の予想を超えた危険な力を持つという欠陥を持ち、それが為に封印を施され
ていたのだ。宝貝を解放してしまった仙人は、自らのしでかしたことに心を痛め、仙術を
封じてでも人間界へ赴き宝貝回収を行うことを申し出た。仙人の願いはかなえられた。一
切の仙術を封じられたその仙人こそ、青年の傍らで可愛らしい寝顔を見せている娘、和穂
である。そして、青年は刀の宝貝、殷雷刀。

 殷雷が耳につけた白い珠は索具輪といい、宝貝の在処を探る能力を持っていた。和穂の
腰に括り付けられた瓢箪、断縁獄とならび宝貝回収のためにと与えられた宝貝だ。殷雷の
瞼に映る光は、宝貝の反応を示している。だがこの索具輪、時として不調になることがあ
った。今もそう、ぼやけた光が大体の位置を指し示しているにすぎない。
『まあ大体、この方角か』
 目を開けて、宝貝の反応があると思しき方向に目を向ける。殷雷の鷹を思わせる瞳は、
闇の中爛々と光っていた。まさしく鷹が獲物を狙う眼だ。人を遙かに越えた視覚を持つ殷
雷は、反応に重なる村を見つける。
『うん?』 
 何かが殷雷の視界を横切った。空を飛んでいたからには鳥かとも思われたが、どうも鳥
が羽ばたく姿には思えなかった。影は同じ形のまま村へと降りていったのだ。鳥は姿勢を
変えずに飛ぶことはできない。
 先程の光景を思い出して、今度は不審な影に焦点を合わせる。影は頭と、胴体と、足と
を持っていた。人の影に間違いないと刀の宝貝は結論を出した。
「おい、和」
 和穂を起こそうとして声を張り上げた殷雷は慌てて口を閉じた。和穂が眠り始めてから
ほぼ一刻。わずかそればかりの睡眠で和穂を起こすのは忍びなかったのだ。そうっと和穂
の寝顔を伺う。大丈夫、ぐっすりと眠っている。
 はっきりと人影を確認したわけでもなし、話は朝起きてからでもよかろうと殷雷は思い
直した。和穂はよく眠っている。
「寝る子は育つと言うしな」
 和穂は寝返りを打った。成長期である和穂の身長はまだまだ伸びるだろう。



 朝。目覚めた和穂に殷雷は昨日の夜に見た影について話した。一通りの話を聞いた和穂
は問いかけた。
「それってやっぱり宝貝の仕業なのかな」
「まだ寝ているのか? 宝貝無しに空を飛ぶ人間がいたら見てみたいぞ」
 呆れた殷雷は肩に担いでいた棍で和穂の後頭部を軽く叩いた。
「いたた。でも、空を飛んでいたら宝貝を回収できないんじゃない?」
「空を飛ばれる前に回収すれば済む話だ」
「そうだね」
 会話が途切れる。和穂は重大な事を聞き忘れているような気がした。寝起きだからか正
体がはっきりしない。もう一度、殷雷から聞いた話を最初から思い出してみた。村。横切
る影。飛行する人。
「そうだ! 殷雷、それって結局何の宝貝だったの」
 苦り切った顔で殷雷は答えた。
「わからん」
「わからないって、見ていたんじゃないの?」
 見ていたのに分からないとは矛盾しているのではないか。和穂の疑問をうち消すように
殷雷は手を振って答えた。
「ようやく人の形が見えたってくらいだからな。この棍のように細長い物を持っていた、
そこまでは分かっているが、それ以上はわからん」
 肩にかけていた棍に視線を向ける殷雷。
「細長い、か。槍の宝貝かな」
「空が飛べる奴なんかいたっけな」
 殷雷は首をひねった。欠陥宝貝を閉じこめた封印の中で、殷雷は幾つかの宝貝、特に武
器の宝貝を多く見知っていた。空を飛ぶ武器に心当たりは無かった。だが殷雷の知らない
宝貝の中には、空を飛ぶことのできる槍が存在するかもしれないのだ。
「それより、宝貝の反応は動いてないんだな」
 和穂は索具輪に手を当てて神経を研ぎ澄ます。瞼の裏に映る光がちょうど真ん中に来る
ように体の向きを変えた。開いた目を下に向けて地図を、顔を上げて目の前を交互に見つ
める。
「あの村に間違いない」
 和穂の指が示した先には一つの村があった。周りを水田が囲む鄙びた農村だ。
「しけてそうな村だな」
 容赦なく殷雷は見たままの感想を述べた。引きつった顔で笑う和穂。この村から一番近
い町でも人の足で5日はかかる。和穂たちは7日をかけてここまで来た。こうも便が悪い
と日用品を手に入れるのも一苦労だろう。
 食事は期待できねえかな、と考えながら殷雷は目の前の村へ歩いていった。和穂も殷雷
の横に並ぶ。半刻もあれば村へ辿り着きそうだ。



「いつまで寝てんだい馬鹿嫁! お天道様はとっくに顔を見せてるよ!」
 しゃがれ声で目覚める朝、いつも通りの朝だ。頭痛を堪えるかのように額に手を当てな
がら綺亜は上体を起こす。薄目ながらも老人独特の曲がった背中が目に飛び込んできた。
敵だ、と頭のどこかが警鐘を鳴らす。そう、敵だ。狡猾極まりない敵だ。手を出してくれ
たなら百倍にして仕返してやるものを、この敵は口ばかりだ。薪割りを自分で行うほどに
元気な癖に。「いたいけな」老人が悪口を言ったからといって腕力に訴えるほど綺亜は子
供ではない。
「なんだい、その目は」
 横目にとらえただけだよ、と言い返す気力もなかった。婆ァに起こされるとは。やっぱ
り昨夜寝過ごしたのは間違いだったのかと反省する。
「起きたのなら、さっさと飯を作りな。あたしゃ腹が減ってるんだよ」
 だったらあんたが作りなさいよ、という言葉を喉の寸前で堰き止める。悔しいことに、
料理の腕は向こうの方が上手だった。下手に婆ァに料理させて『あたしの料理はどうだい?
あんたのよりずっと美味いだろ?』と驕った顔を見せつけられるくらいならば、『なんだ
いこの飯はまずくて食えたもんじゃないよ』と言わせる方がまし、という心境だった。
「はい、ただいま」
 返事は丁重に、顔には笑みを腹には憎悪をぎっしりと詰めて、綺亜は寝起きの頼りない
足取りで台所へ向かった。さて、今日の献立は何にしよう。
「まさか献立を考えてなかったなんて言わないだろうね」
 勘の鋭い婆ァだ。表情から悟られぬよう、婆ァに背を向けたまま綺亜は言った。
「御飯と、秋刀魚の干物と、大根と人参のお味噌汁と、白菜の漬け物です」
 綺亜にとっては今日も、どこまでも普段通りの朝だった。



 この村の中に宝貝がある。手がかりは、夜中空を飛ぶ怪しい人影。さて、どうやって宝
貝所持者を特定しようか。例えば、
「ちょいと質問だ。この村に空を飛ぶ人間はいないかね」
と問いかけたとする。
「仙人様を捜しているのかい? こんな村には仙人様はいらっしゃらないよ」
と答えが返ってくるだろうか。いや、
「人間が空を飛ぶわけないだろこのトンキチ!」
 この方が大いにありそうだ。
 では、長い棒状のものを探すことにする。目に付くものだけでも、鍬、鋤、竹箒に杖と
長柄の道具には事欠かない。この中からたった一つの宝貝を探すのか。気の滅入る作業だ。
しかも、家の内部にある物は調べられない。
「どうやって探そうか」
「いつも通り、最近変わった風情の人間がいないか訊ねるしかなかろ」
 和穂も確認のつもりで訊いたのだろう。なんだかんだ言って、この方法が一番確実だっ
た。
 丁度、路に出てきた恰幅の良い女を捕まえて殷雷は訊ねた。
「おい、この村に茶店はあるか」
「ないよ」
 女の答えは簡潔にして明瞭だった。殷雷はがっくりと肩を落とす。
「そうか」
 ちゃんとやりなさいよ、とかなんとか和穂が言っているが気にもならない。女は何が可
笑しいのか笑いながら言った。
「あ、もしかして旅の人? この村に旅人がやってくるなんて久しぶり。よかったら、中
に入らない? こんな村にだってお茶菓子くらいあるよ」
「おお、それは助かった!」
 大げさに喜ぶ殷雷は案内されるまま女の家に足を向けた。仏頂面の和穂も続いて敷居を
跨ぐ。

 お茶とお茶菓子を盆に乗せて運んできた女は、配り終えると和穂の服を珍しそうに眺め
た。
「あの?」
 じろじろと見られて気になった和穂に取りなすように女は笑った。
「ごめんよ。娘の道士なんて珍しかったからさ」
 和穂は袖の広い白を基調とした服、道服を身にまとっていた。言葉の通り、仙人や道士
が好んで着ている服だ。
「はは。どこへ行っても言われます」
 質素な身なりの中、髪を後頭部で括る飾り布と靴についた鈴が年頃の女の子らしい。
「怒ったかな」
「いいえ」
 自然な笑顔で和穂は笑う。素直で優しい子だと女は感じ取った。笑顔につられて質問を
重ねる。
「どこへ行っても、ということは、結構いろんなところへ行ったことあるんだ」
 この質問には殷雷が答えた。
「直線的に進んでいるからな。行った場所はそんなに多いということもない」
 和穂の旅は物見遊山ではなく、宝貝回収の旅だ。自然、宝貝の存在する町に足を向ける
こととなる。「いろんなところ」が観光名所という意味ならば、「行ったことのあるとこ
ろ」は僅かなものだ
「へえ。ところで、何か目的があって旅をしてるの?」
「ええ」
 答えようとした和穂の言葉を遮る形で女は言った。
「あっはっは。道士様だもんね。修行の旅に決まってるか」
 和穂は殷雷に目配せを送った。殷雷は首を縦に振った。少し探りを入れてみよう。
「いえ、違います」
「聞いて驚くな。俺たちは宝貝を探して旅をしているんだよ」
 きょとんとした顔で女は黙りこんだ。そして、
「あははははは!」
 先ほどに数倍する笑い声が周囲にこだました。
「面白い。芸人になれるわよあんたたち」
 仕草に不審な点は感じられない。どうやらこの女は外れのようだった。
「いえ、あの!」
 反論しようとする和穂の口を慌てて塞ぎ、殷雷は問い直した。
「まあ冗談はこれくらいにしておいてだな。ちょいと最近、不審な行いをしている奴がい
たら教えてくれないか」
 笑いの余波に苦しめられながら女は答える。そんなに笑わなくても、と和穂は呟いた。
「うーん、不審者ねえ。いないんじゃないかな。こんな小さな村ならちょっとでも変わっ
たことがあれば村中に知れ渡るから、誰に聞いてもいないと答えると思う」
「そんじゃ、村一番の変わり者でもいいからよ」
 女は即答した。
「それなら、綺芭さん。変わり者というより頑固者かな」
 気を取り直して和穂は口を開いた。
「では、綺芭さんの家まで案内して頂けませんでしょうか」
「それは勘弁して」
 これまでの気さくな態度を一変させた厳しい拒絶だ。内心、どうしてだろうと思いなが
ら和穂は続けて問いかけた。
「では、場所だけでも」
「わたしの家を出たら右手に進んで、最初にある角の内側が綺芭さんの家」
 家にも近寄りたくないとは、厄介な人物らしい。
 お茶を飲み干した和穂は立ち上がった。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。お茶まで頂いちゃって」
 柔らかい態度に戻って女は笑った。
「いいのよ。若い頃はそんなこと気にしないで」
 深々とお辞儀する和穂とは対照的に、殷雷は腕組みをしたまま礼を述べる。
「茶菓子、なかなかのものだった」

 去ってゆく二人を見送りながら女は思った。あの二人、無事にこの村から出られるとい
いけどね。



 陽光の下に出て、言われた通りに和穂は右手に足を向けた。
「綺芭さんか。頑固者って言っていたけど、宝貝を返してくれるかしら」
「おいおい気が早いを和穂。まだそいつが所持者だと決まったわけではないだろう」
「あ、そうか」
 最初にある角は歩いて五十歩ばかりの所にあった。家に阻まれて道がフの字に折れ曲が
っている。角とは言い得て妙だと殷雷は思った。
「入り口は角の向こうかな」
 そうだろうな、と殷雷が返事を返すより早く、和穂の顔に竹箒が命中した。
「わぷ」
「あら、ごめんなさい」
 竹箒の持ち主は全く心の込められていない謝罪の言葉を述べた。どんくさい子ねえもう
、と顔が物語っていた。
「いいんですよ、不注意だったわたしも悪いんです」
 ここまで人が良いと部屋に飾っておきたくなるな、と思いながら殷雷は顔をこすってい
る和穂に目を向けた。何故か和穂の顔に違和感を感じる。
「なにするのよ!」
「殷雷!」
 疑問の氷解した殷雷は神速で手にした棍を女の喉元に突きつけていた。
「私は怒ってないから、棍をどけて」
 和穂はまだ事態を理解していない。殷雷は腕を伸ばして和穂を自らの背中に押しのけた。
「勘違いするな和穂。おっと動くなよ綺芭」
「綺芭だって? 私は」
 棍を女の喉元に密着させ、凄みのある表情で女を問いつめる。殷雷の鷹の眼孔は昼間に
も関わらず光って見えた。
「動くなと言ったろう。大人しく宝貝を渡せばそれでよし、さもなくばちいと痛い目に遭
ってもらうぜ」
「宝貝? 莫迦らしい、そんなのおとぎ話の迷信さ」
「あくまでシラを切るか。まあいい、その箒を渡しな」
「何を言っているのやら。竹箒を欲しがるなんて、どんな育ちをしてきたんだい」
「ああ欲しいな。砂粒のついた箒が和穂の顔に当たったのに、和穂の顔は汚れていない。
そんじょそこらの竹箒でそんな芸当が可能なはずあるまい」
 女は舌を噛んだ。見た目より正直な奴だ。
「もう一度だけ言うぞ」
「人の家の前で何をやっとるか!」
 殷雷の恫喝は老人独特の甲高い声にかき消された。声は和穂たちが来た方向からやって
きた。急いで和穂は後ろに向き直った。殷雷は振り向かない。和穂が振り向いた先には一
人の老婆が立っていた。老婆は確固とした足取りで和穂の横を通り過ぎ、殷雷の横を過ぎ
、棍を手にとった。押し下げようとしてもピクリとも動かず、老婆は再び声を張り上げた。
「ここはあたしの家だよ。乱暴狼藉はやめてもらおうか」
 不承不承に殷雷は棍を引き戻した。殷雷と老婆の視線がぶつかった。老婆の瞳に微かな
驚愕が浮かんだ。ほんの僅かな驚愕。殷雷は老婆の亡夫の若かりし頃にそっくりだったの
だ。
「この馬鹿嫁が何かしでかしたのなら謝ろう。どうなんだね、お嬢ちゃん」
 老婆は気を取り直し、居丈高な態度で言った。
「和穂です。あの、お婆さん、お名前は」
「だれがお婆さんだ! あたしゃそんな呼ばれ方される年じゃないよ」
 皺だらけの手では説得力も失われる。だが老婆の声の張り具合、確かに老婆とは形容し
がたいものがあった。
「ご免なさい」
 素直に謝った和穂に感心して老婆は自身の名前を名乗ってやることにした。
「あたしは綺芭さ。こっちの図体ばかりでかい間抜けは綺亜」
 間抜けと呼ばれた綺亜は苦々しい顔で綺芭を睨む。姓が同じならば一族なのだろう。も
っとも、二人の仲はうまくいってないようであった。
 綺芭の言葉に表れたあからさま罵倒に和穂は戸惑った。
「それでは綺芭さん。私は故あって宝貝を集めています。綺亜さんが持っている箒は宝貝
なんです。どうか宝貝を返してください」
 綺芭は自分を見つめる和穂の瞳を覗き込んだ。澄んだ瞳だ。長年生きてきた綺芭も、こ
うも澄んだ瞳は見た覚えがなかった。とても嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
 そこで綺亜から箒を奪い取ってみた。何の変哲もない竹箒にしか見えないとの感想はす
ぐ破られることとなった。箒を持つ右手に何者かの意思が流れ込んでくる。
「吸埃箒。その名の通り埃を吸い付けて離さない宝貝か」
 綺芭は内心おったまげそうになった。宝貝。仙人の作り出した神秘の道具。長生きも偶
にはいいことがあるものだ。
 内心を押し隠し、面には相変わらずの傲慢さを貼り付けたまま綺芭は和穂をからかう。
「返してください、か。まるで自分の持ち物みたいだね」
 和穂は吸埃箒の機能に引っかかるところがあった。考えに没頭して綺芭の揶揄も聞こえ
ていない。
「そんなことはどうでもいい。宝貝を渡すのか、渡さないのか」
 長話になりそうな話題を殷雷が断ち切った。殷雷の精悍な顔を真っ向から見返して綺芭
は答えた。
「断るに決まってるさな。こんな便利な道具誰が手放すものか。吸埃箒を持てば馬鹿嫁で
もあたしの満足する掃除ができるしね」
 和穂は顔を上げて口を開いた。
「吸埃箒が便利な道具でないのであれば宝貝を返して頂けますか」
 暫く押し黙った綺芭はにんまりと人食い婆と異名を取る所以の笑顔を浮かべた。
「おやおや。馬鹿嫁の馬鹿が感染したのかい。もし、万が一にでも私が満足できなかった
ら返してあげよう」
「おい、和穂」
 殷雷は和穂に聞こえるくらいの小さな声で抗議した。和穂は自信を込めて頷いた。
「大丈夫。私の考えが合っていれば」
 宝貝は道具を超えた道具だ。どうして役に立たないことがあろうか。殷雷は和穂の自信
の理由がわからず額に皺をよせた。



 綺芭は吸埃箒を綺亜に渡した。綺亜は吸埃箒を渡された理由が判らず戸惑っている。
「ぼさっとしてないで窓を拭きな」
 窓を拭けとは、窓枠を磨けということだ。綺亜が念を込めると吸埃箒は柄の短いはたき
に変化した。無造作に窓枠をはたいてゆく。吸埃箒はたったそれだけの動作で汚れを綺麗
に落とすことができる。
「ふん、最近少しは掃除がうまくなったかと思えば、こういうことかい」
 気づきやがったか。これからは吸埃箒もそうそう使えなくなると思うと綺亜は残念に思
った。
 念には念を込めて、小綺麗な布で窓を水拭きしようとしたがこれは止められた。
「終わったのかい?」
 無言で頷くと、綺芭はいつものように人差し指を窓枠に擦りつけるようにして動かした。
窓枠から手を離して綺芭は人差し指を確認する。
「ふん、埃が残っているじゃないか。やり直しだよ!」
「ば、馬鹿な!」
 綺亜は綺芭の腕を力任せに引っ張った。面前に人差し指を持ってきて愕然とする。指は
埃で白くなっていた。
「これは何かの間違いよ。まさか婆ァ、最初から汚れた指でなぞったんじゃあないでしょ
うね」
「ふん、疑り深いねえ」
 綺亜に見せびらかすように中指を動かし、埃が付いてないことを確認させると先程と同
じようにして窓枠の別の部分を探ってゆく。
 やはり白く染まった中指をおもむろに見せつけて綺芭は言った。
「掃除の基本もなってないもんが道具に頼るからこうなるんだよ。判ったなら今すぐ雑巾
を持ってきな」



『吸埃箒』
 埃や汚れを吸着する箒の宝貝。自動走行機能付き。飛行機能はちょっとしたおまけであ
る。
 欠陥は、吸着した汚れを落とせないこと。水洗いをしてもたわしで擦っても汚れを落と
すことはできない。使い続けるうちに性能が悪化してしまうのである。

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