スチャラカもくれんタマスダれ
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真夏に降りる霜

「えいやあっ!」
 自らを奮い立たせるような大声を放ち、若者は木刀を大上段に振り上げた。刀を向けら
れた男は皮肉げな笑みをそのままに、模擬刀を持つ右手を僅かに動かす。ただそれだけの
動作で木刀はあっさりと向きを変えられる。若者は懲りずに大振りを繰り返し、男は淡々
と打ち返してゆく。若者の動きが疲れで鈍ってきたのを見て取った男は若者に声をかけた。
「そろそろ分かってくれましたかねえ?」
「うるさい!」
 やれやれ。困った御曹司様だと、男こと淵捷は考えた。
 この近辺では少しは名を知られた商人に息子を鍛えてくれるよう頼まれた淵捷であった
が、その息子とやらは少々の手ほどきを受けただけで思い上がっている馬鹿息子で「指南
など不要!」と打ちかかってきたのである。
 折しも季節は夏。炎天下のもと、打ち込む若者の額には汗が光っていた。しかし淵捷は
汗一つかいていない。最小限の動作がそれを可能にしていた。
 若者は尚も打ち込みをやめなかったが、次第に動きがにぶくなっていった。淵捷はそれ
でも若者に付き合ってやっていたが、淵捷が打ち返した弾みに握力も衰えた若者から木刀
が飛んでいった。
「くっ……」
 若者は恨みがましい目を淵捷に向けてきた。淵捷はこれ以上つきやってやるつもりには
とてもなれず、踵を返して母屋へと向かう。
「おや、もう終わりですか?」
 帳簿をつけていた商人は淵捷の影に気付くと顔を上げた。
「案外持たないものですね」
「若いもんはいいねえ。体力があり余っているから、無駄な力を惜しみなく使って」
「ははは。それは若者の特権でしょう。ところで、息子の鼻っぱしを折って頂けたでしょ
うか?」
「そのうちに金で刺客を雇って俺を襲って来るんじゃありませんか?」
「淵捷どの程の手練れなら、息子が雇えるような刺客は返り討ちにしてくれるでしょう」
 商人は筆を置くと、棚から袋を一つ取り出した。
「約束の依頼料です。どうぞ」
 淵捷は黙って金を懐にしまった。
「今度は一週間後にお願いします。その頃には息子も頭を冷やしているでしょう」
「だといいねえ」



 淵捷は稼ぎを持ってそのまま酒場へと向かった。あまり上品とはいえないその場所に、
違和感なく淵捷はとけ込んでいた。こうしていると、昼間若者をあしらっていた達人とは
思えない。
 冷や奴を肴に酒を呑む。冷や奴がつるりと喉を通る感触がたまらない。一人の食事には
慣れていた。だが、時にはたまらなく寂しくなる時もある。今日は違っていたが。
 剣術修行の為に親元を飛び出して以来ずっと一人だったわけではない。馴染みになった
女も−片手で数えられる程とはいえ−いた。女が別れを告げた台詞はいつも同じだった。
「ご免なさい。あなたのその眼、あたしには耐えられないの」
 初めてその言葉を言われてから、淵捷は酒に溺れた。ただ、表面上は隠せても、鋭い女
は騙せかった。

「おい、聞いたか?」
「ああ、聞いた。追い剥ぎの話だろ?」
 酒場の片隅に集まっていた若者たちが、周囲の迷惑を無視した大声で喋っていた。
「女だてらに警邏隊を全滅させたんだろ?」
 淵捷には初耳の話だった。意外と興味を惹かれて、淵捷は若者の話に耳を傾ける。耳を
澄ます必要もない大声で若者たちは更に賑やかに喋る。
「今度は檀星流の師範が出向くってよ」
「それにしても、三の峠から動いてないんだろ? 度胸あるよなあ」
 それから若者たちの話は淵捷の関心を惹かないものになった。檀星流の師範にはあった
ことがある。新興の剣術にしては珍しくしっかりした腕も持っていたはずだ、と思い出し
てから淵捷は笑みを浮かべた。
「面白くなるといいですねえ」
 檀星流の師範には悪いが、負けて欲しいものだと淵捷は思った。

 ぶらぶらと裏路地を歩いて、月見の散策と洒落込むにはまだまだ早かった。それでも昼
間とはうって変わって吹く、冷たい風が心地よい。
 淵捷は月を見上げたままの格好で立ち止まった。
「そこのお兄さんたち、殺気が隠しきれていませんよ」
 二体の影が動いた。冷たい刃が月光に煌めく。爛れた瞼で隠された淵捷の眼光が月に負
けじと輝いた。淵捷は刺客の放った小刀を弾き飛ばして、着地の際に無防備になった刺客
を襲う。神速で抜きはなった模擬刀が刺客に対応する暇を与えずに脇腹に食い込む。もう
一人の刺客に動揺がはしる。あまりにあっけなく同僚が倒されたことに対してか。そして
そのまま、壁の向こうへと姿を消した。
 淵捷の潜ってきた修羅場に比べれば大したことのない相手であった。それゆえに淵捷は
自らの倒した刺客にも興味を持つことができず、刺客を置き去りにしたままこの場所を離
れた。



「よし。あとは素振り千回でお終いにしましょう」
 淵捷は最後まで面倒を見ずに母屋へ向かった。真面目に練習しなければ、それなりの結
果が得られるだけだと割り切っている。
「ご苦労様です」
 そう言って渡してきた依頼料は先週に比べずっしりと重かった。目線で疑問を示すと、
「おかげで刺客たちの組織を一つ潰すことができましたので」
 温厚な顔つきで物騒なことを告げる商人に、答えた淵捷も物騒ではあった。
「あんな中途半端な刺客、潰したところでもとから存在価値がないんじゃありませんか?」
「いえいえ、一般の善良な市民にとっては死神そのものですからね」
「そんなものですかね」
「不満なら依頼料を減らしましょうか?」
「おっと、こいつは失言でしたね」
 淵捷は頭を小突いて笑った。もとより冗談らしく、商人はそれ以上追求しない。淵捷が
袋を閉まったことを確認してから、機会を図ったように商人は言った。
「ところで、三の峠の女武芸者をご存じですかな?」
「追い剥ぎの噂なら、聞いたことがありますぜ」
 商人は大げさに手を左右に振った。
「これだから噂というものは当てになりませんな。くだんの女人は盗賊行為を一切働いて
はおらんのですよ」
「ほう。すると?」
「どうやら、純粋な腕試しのようで」
 ますます好みの話になってきたな、と淵捷は思った。儀礼へと落ちぶれた武芸の多いこ
のご時世、20年前ならざらにあった看板破りも最近は音沙汰無しである。
「ですが淵捷どのが耳になさったような心ない噂話の所為で、品物の搬入に支障が出てき
たのですよ。中には『この町を立ちゆかなくさせようとする隣国の陰謀だ!』と息巻く馬
鹿者も出る始末で」
「馬鹿な息子を持つと大変ですねえ」
「いや、全く」
 全く表情を変えずに言い放った商人に、却って淵捷は毒気を抜かれる。
「そこで、頼みがあるのですが」
「ということは、檀星流は失敗したということですかね?」
「察しが早くて助かります。依頼料は……これほど」
 商人が指で描いた数字は破格とまではいえないが、武芸指南に比べれば遙かに実入りの
多いといえた。
「引き受けましょう」
 淵捷は二もなく引き受けた。檀星流の師範を負かしたとなれば、相当の手練れだ。久し
ぶりに骨のある相手に出会えたことを感謝すべきだろう。
「おお、それはありがたい!」
 満面の笑みを浮かべた商人は、棚から地図を取り出した。
「ここが、その女の出没する場所です」
 その場所から一番近いのはこの町だった。とはいえ、歩きで一日はかかるだろう。
「いつ行けば、女に会えるのだろうな」
 淵捷の質問に、商人はしたり顔になる。
「いつでも会えますよ。なんとこの一ヶ月、昼夜同じ場所にいるそうで」
「はい?」
「食事も取らずにずっと岩に座っていて、武芸者を見かけた時だけ身を起こすとか」
 淵捷はさすがに呆れた。そんな馬鹿な話があるものか。
「妖怪の類でしょうかね」
「あるいは。こちらにとっては関係ないことですが」
 ほんの少し、礼金につられて二つ返事をしてしまった己を悔いた淵捷だった。



 その次の日の朝に出発した淵捷は、二の峠と三の峠の途中で夜を明かした。朝早くに起
き出し、空を見上げる。日を僅かに通す曇天と、身に感じる風に雨のにおいを感じ取る。
 雨が降り出したのは、三の峠に辿り着く一刻前だった。

「あんた、強いね」
 それが、その女の第一声だった。雨の街道を歩く人間は淵捷一人で、誰を指してのあん
たなのかは瞭然としていた。
 女は商人に聞いた通りに岩に座っていた。まず淵捷の目を惹いたものは、雨に濡れたて
いるのにしなれた様子を見せない外套だった。次は、紅を引いた唇。陽光の下でも月光の
影であっても男を魅せる不思議な雰囲気を具えていた。
「そちらも、噂以上のようですねえ」
「噂?」
 きょとんとした顔を見せる。こうして見るとまるで子供で、ますます分からない女だっ
た。
「近くの村で、女の追い剥ぎが出たって噂が広まってましてね」
「誰が追い剥ぎよ!」
 女は憤慨して頬を赤く上気させた。
「それでまあ、やっつけて下さいと依頼されたんですよ」
 淵捷の言葉に女は眼を細めた。岩に置いていた木刀を構えた女に、これまで見てきたど
の女よりも強い好感を覚え、淵捷は自分の感情に戸惑う。
「行くよ!」
 律儀に宣言して女は駆けた。ぬかるんだ地面をものともしない力強い走りだ。迎え撃つ
淵捷は未だ模擬刀を抜いていない。
「その刀は飾りかい?」
 その通りですぜ、と胸中で答える。
 大上段から迫ってくる女の木刀は、淵捷も予想だにしなかった勢いで振り下ろされた。
背筋にはしるひやりとした感触、ひさしぶりの感覚に淵捷は喜びの声を胸中にあげる。と
はいえ、完全に出遅れた淵捷の生きる道は狭まっていた。
 淵捷の模擬刀と女の木刀との激突音。女の見せた驚愕の表情は、自分の剣を受け止めら
れたからか。それとも野太いを通り越して野性的なまでの淵捷の笑みを目の前にしたから
か。
 互いが計ったように体を回転させて距離を取った。女は刀を中段に構え、淵捷は刀を鞘
にしまう。
「姉さん、やるね」
 女は答えず、淵捷は首を捻った。尋常ではない技量を持つ女に、淵捷はしかし怯えを微
塵も覚えなかった。気持ちで押されては負けだ−そう彼は思っている。
 女は先程より慎重な足取りで近づくと見せかけ、首筋への突きに切り替えた。
 だが遅い。淵捷の動きは女のそれをも上回っていた。低い姿勢から女の脇腹を狙うのは
、なるべく女の体に傷を付けないようにとのこと。それだけの余裕を持っていると知った
ら、女はどう思うのだろうか。
 己の思い通りに女の脇腹へと吸い込まれるような軌道を描く刀に、淵捷は勝利を確信す
る。もうすぐ肉を思い切り強く打ちすえる感触が手のひらから伝わってくるはずだ。
 ぎしっ。
 それは、鋼板を打ちすえたような感覚だった。内心の動揺とは無縁に淵捷の腕が膨れあ
がり、女の体を圧迫してゆく。駄目だ、刀がもたねえ−今度こそ驚愕をはっきりと面に出
して淵捷は刀を反らし、体を更に地につけるように動く。刀が女の体を離れると同時に、
女の木刀が淵捷の頭上を通過する。体勢と整えて三度対峙する両者。
「お前さん、その服はちょいと卑怯だとは思いませんかね?」
 女は軽く眉を跳ね上げる。
「どんな材質で出来ているのか、とは訊いてこないの?」
「そういったことは俺が勝ってからでも聞き出せますから」
 女の眉が危険な角度まで折れ曲がる。ギシギシと鳴る音は歯ぎしりだ。
「私に勝つつもりってこと?」
「もう勝っているじゃありませんか。その変な服さえなければ、すでに勝負はついていた
と分かっていらっしゃるでしょう?」
「お黙り!」
 ははあ、こいつは気の強い女だなと、淵捷は納得した。こちらの挑発−そんなつもりは
なかったのだが−に乗って、女は外套を脱ぎ捨てる。その最中に隙は見せなかった。
「さあ来い」
「でも、それじゃ怪我しちまいますよ?」
 ぽりぽりと頬を掻きながら、淵捷は答える。
「やかましい。私にだって刀の誇りってもんがあるんだ!」
 淵捷が女の言葉の意味を図りかねている間に、女は再び急接近してきた。

 交錯。

 どさり、と地面に崩れ落ちる女。勝った淵捷の面には、喜びはなく、ただ虚無があった。
この女も確かに強いが、淵捷と鍔迫り合いで渡り合う−つまりは同程度の腕前−程ではな
かったからだ。
「この峠から出ていってもらえませんかね?」
 淵捷は問いかける。了承しないなら、気絶させて運ぶまでだ。
「あんた、強いね」
 淵捷の問いかけへの答えというより、女の口からふとついて出た言葉のようであった。
「出ていくのか、行かないのか。答えてくださいよ」
 しかし、女は淵捷の問いかけを無視して言葉を続ける。
「どうだい。あたしを使ってみないかい?」
「なっ!?」
 淵捷は絶句した。
「まさか、そういう界隈の女だったとは……」
 女は淵捷を不思議そうに眺めていたが、やがて納得したらしく、
「違うよ! そういった意味じゃなくて……」
 突然の爆音とともに、辺りが霧に包まれる。淵捷は女の体が刀に変化するのを見てしま
った。
「まさか本当に妖怪とはねえ……」
 再び爆音がして、女の姿が現れた。
「私は深霜刀。誇り高き刀の宝貝よ。さっきのは私、本来の姿」
 淵捷は呆気にとられて深霜を見ていた。暫くして得心したように呟く。
「こいつはいけねえや。雨に濡れて風邪をひいちまった」
「これは現実よ!」
 しかし淵捷には宝貝が実在する現実というものは思い描けなかった。ましてや……
「宝貝が俺より弱いことなんて無いでしょうしね」
「ああ、何気なしに私の悪口言っているわね」
 淵捷はそれ以上女の相手をせずに女に背を向けた。そして元の町へ歩を向ける。
「待ちなさいよ。宝貝が手に入ろうってのにみすみす自分から棒に振るわけ?」
 いつまでもついて離れない女に、久方ぶりの心からの笑みを浮かべながら。



「ふふふ〜ん」
 街道を歩いているのは、40がらみの男が一人。そうだというのに、どこからか女の鼻
歌が聞こえて来ていた。
 男も誰かに向かってか話しかける。
「深霜よ。いやに上機嫌じゃありませんか。何かあったんですかい?」
「あら? 私はいつでも上機嫌よ。だって淵捷といられるんですもの」
「はは」
 嬉しいことを言ってくれる女だねえ、と淵捷は思った。
「ふんふふ〜……ん?」
 機嫌良く響き渡っていた鼻歌が、ふと止まる。
 淵捷は何も言わない。これまでの付き合いで、この女の興味がすぐ移ることは分かって
いた。
「この街道をずっと歩いているとさ、私の同類にぶつかるよ」
「なあに、こちらから道を譲れば問題ない」
 相手が何者であろうと、怖じ気づく淵捷ではない。龍神が目の前に突飛に現れたら違う
かもしれないが。
「相手は私と同時期に創られた4振りの刀の一つ。もし、相手がやる気だったらこてんぱ
んにやっつけるよ」
「おやおや。深霜はおっかないねえ……」
 歩き続けているとやがて女の道士と武人風の青年という珍しい組み合わせに巡り会った。
深霜が脳裏に映し出す宝貝を表す点。それはどうやら武人風の青年らしいぞ、と淵捷は目
星をつける。
「俺は、こっちに避けるから、あんたらはそっちに避けてぇくださいな」

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