スチャラカもくれんタマスダれ
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 夕日に照らされて、草原に影が映っていた。影は駆ける豹よりも速く、風よりも早く、解き放たれた矢のように草原を突き進む。影の姿はそのどちらでもなく、二本足で力強く駆け抜けてゆく。人ではありえない速度の影を引き連れて、その女は走っていた。
 女の体から飛び散る水滴は汗か。否、紅く染まった汗は汗ではありえない。あまりの女の速さに、じくじくと染み出す血液が飛び散って見えるのだ。だが女の走りは傷を受けていること感じさせない、力強い走りだった。

「夜主様。追跡者は追ってくる気配を見せておりません」
 どこからともなくかけられた言葉を不審がることもなく、当たり前のように女は受け答えた。
「そうか」
 女は走る速度を少しずつ緩めていった。突風にも比すべき勢いは次第に衰え、やがてそよ風ほどまで勢いを弱める。動きを止めた女の額をだらだらと汗が流れてゆく。汗はなかなか収まらず、女はその場に崩れ落ちた。女の体を受け止めた枯葉が悲鳴を上げる。
「夜主様!」
 またも、どこからか声が飛んできた。声色から察するに、成年を迎えて十年は経過した男の声だ。見渡す限り、辺りに見える人の姿は女のもの、一つしかないというのに。
「はあ……参ったね。また失敗か」
 声には答えず、女は吐き捨てるように呟いた。

 女の名は夜主。宝貝を専門に狙う盗賊である。夜主は既に宝貝を二つ持っていた。一つは、一度出会った相手を記憶し、その居場所を探ることのできる宝貝、捜魂環。夜主の指に嵌め填められた捜魂環は人の意志を理解し、人と疎通することもできた。そしてもう一つは、靴の宝貝、俊地踏。夜主に人にあらざる動きをもたらしていた宝貝だ。
 目の前に現れた宝貝という存在にすっかり魅了された夜主は、捜魂環から他に多数の宝貝があることを知らされ、宝貝という宝貝を手に入れることに決めたのだった。しかし、人の手に渡った宝貝を奪うのは夜主の予想以上に困難さが付きまとっていた。

 夜主は腹の傷にさらしを巻きながら毒づいた。
「捜魂環! 何が怪我の治療を行う宝貝だ。あれはとんでもない代物だぞ!」
 夜主が今回狙っていた宝貝は、名を転業珠といった。便利そうな機能ではないかと奪いに行ってみれば、転業珠の所持者は兼曜という名の白面の一書生。油断した足下をすくわれて、夜主は返り討ちに遭ってしまった。
「申し訳ありません、夜主様」
 捜魂環の情報は不確かなものであると夜主は承知している。加えて、夜主に落ち度がなかったということでもない。それでも捜魂環は夜主の怪我は自分の責任だと謝罪した。
 夜主は捜魂環が負い目を背負う必要はないと考えていた。茶化した口調で、「お前の情報を信用した私が馬鹿だったよ」と笑う夜主。しかし、捜魂環の重い気持ちは晴れなかった。
 いつしか夕陽は山の陰に姿を消していた。夜主の姿も次第に闇に包まれてゆく。やがて、闇に溶け込んだ夜主は言った。
「今夜はここで野宿だな」
 闇の中、捜魂環が答えなかったことを夜主は寂しく感じた。



「こんばんわ、兼曜」
 女の声は切れ味鋭い刀のように澄み切っていた。仙術の修得を目指す者たち、道士がよく着用している道服と呼ばれる衣装を女は身につけていた。籠手を填めた片手には長大な剣を持ち、僅かに覗く脚にはをつけている。だが、よく見ると何かがおかしい。袖の中から続く籠手は五本の指をすっぽりと覆っていた。具足は袴から続き、女が履いているはずの靴が覆われて見えなくなっている。甲冑そのものが生きているかのような禍々しい印象だ。
 女に声をかけられた男は予想以上の声の冷たさに震え上がる。震える喉からなんとか声を絞り出そうと藻掻く男を、女は実に愉しそうに見つめていた。
「お前は和穂!」
 男の悲鳴にも近い声をさらっと流すと、和穂はまるで知人に話しかけるような気安さで言った。
「もう覚悟は固まったかしら。生きるか、死ぬかなんて酷なことは言わないから安心していいわよ」
 兼曜は思った。せめて護衛用の短剣があれば。こんなことなら、親戚に言われるまま研ぎに出すんじゃなかった。
 じりじりと壁へと下がる兼曜を視線で射抜き、和穂は言い放つ。
「ああもう。いいから、さっさと転業珠を渡しなさい。あなたみたいな雑魚をいたぶるのって、正直好きじゃないの」
 見せつけるように剣を最上段に掲げて兼曜を威嚇する和穂。部屋の灯りを受けて剣が輝く。兼曜は堅く目を閉じた。
「そう。じゃあ、少しだけ痛い目に遭ってもらってから転業珠を頂くことにするわ」
 その声はもう、兼曜に対する興味が全く失せてしまっていた。剣が、無情にも振り下ろされる。剣が風を切る音を聞いた兼曜の口元に微かな笑いが滲んだ。

「なんてね」
 とん、とん、とん。足下に転がってきた球を器用に足で蹴り上げ、和穂は剣を持ってない方の手で転業珠を掴み取った。
「夢で転業珠の能力を知っているのに、あなたに手を出すはずないじゃない」
 くるくると指の上で転業珠を玩びながら和穂は言った。惚けた表情で佇む兼曜に、くすくすと笑いかける。今までで一番素直な笑みだと兼曜は思った。
 和穂が一声かけると、転業珠と和穂が携えていた剣が和穂の腰に括りつけられた瓢箪に吸い込まれていった。
 回収が済んだ後になっても、和穂は興味深そうに部屋のあちこちを眺めていた。不審に思い、兼曜は声をかける。
「和穂?」
 一部が剥げてしまった畳や、凝固して数日と経たない血液を和穂は見ていた。明らかに、人の争った後だった。どうやら、自分より前に先客が来ていたらしい。
「話してもらいましょうか。私のすぐ前に来たお客様について、ね」



 世界は静止していた。
 渦巻く螺旋模様は白と黒とが混ざり合い、絡み合いながら根本の「一」へと続いている。雲は一刻一刻姿を変えて鳥たちの代わりに飛んでいた。だがやはり、世界は動かない。太陽が眩き空を巡るような、暗闇を照らす月がやがて太陽に代わられるような、何かが足りない。
 宝貝の罠に陥ったのか? 和穂は自問する。
 ここは兼曜に襲いかかった女盗賊の夢の世界だ。劾想夢の機能で潜り込んだ場所。
 しかし、いつもと様子が異なっていた。和穂がこれまで見てきた他人の夢の世界は一様に、大小様々な渦巻きが光を放ち乳白色に彩られていた。
 この世界の渦巻きが放つ光は弱々しい。薄暗闇に覆われた夢の世界は、和穂にとっても初めての記憶だ。
 いや――違う。和穂はある場所を思い出した。そうだ、この世界は封じられた私の記憶に相似している。

 和穂の周りの気流が変化していた。いぶかしむ和穂の体を強風が襲った。
「しまった、気付かれたわね」
 夢から押し出されようとした劾想を叱咤しながら、和穂は辺りの渦巻きに手を伸ばした。渦巻きは、この世界では記憶の象徴だ。押し出される前に敵の手がかりを見つけておかねばならない。
 劾想の奮闘虚しく、和穂はじりじりと押し出される。有用な記憶は見あたらない。強風のために身動きが取れない和穂の手に届く範囲に渦巻きがなくなった。夢から弾き出される一歩手前だ。
 失敗した。和穂が敗北を認めると同時、強風が嘘のように途端に止んだ。進もうとした和穂を掣肘する声が飛ぶ。
「おっと、おかしな動きは見せるな」
 和穂は声に従うことにした。
 やがて、声の主が暗闇から姿を見せる。瞼に映る姿に和穂は困惑をみせた。
「龍華、師匠?」
 その女は龍華に酷似していた。酷似と表現することすら生やさしい。女は和穂の記憶の中にある龍華とまったく同一の造形を持っていた。
「龍華? だれだ、それは」
 声すらも和穂の記憶にある龍華そのままだ。だが、龍華ではないと女は否定している。再び和穂は困惑した。実に久方ぶりの困惑だった。
「わたしは夜主だ」
 すぐ後ろに夢の終わりが近づいていることも忘れ、無意識のうちに「龍華」に押され後方へ下がっていた和穂は、たちまち夜主の夢の世界から落下する。
 「龍華」の姿が遠くなる。和穂は「龍華」に向かって必死に手を伸ばした。

 和穂の目に、どんな黄金よりも強く輝く炎天下の空が映った。
 見渡す限りの砂だ。
 和穂はほとんど無意識に、道服の懐から縮小された殷雷刀を――。

 錯覚だった。



「夜主様。和穂が来ます」
「そうか」
 なんでもないことのように夜主は言った。
「で、和穂が来るのはいつになりそうだ?」
 夜主がそう言うであろうことは捜魂環には予想済みだった。夜主には危険に飛び込む性癖があった。その性格のせいで、今まで何度失敗したことか。
「差し出がましい口かもしれませんが、夜主様はお逃げになるべきです」
 普段なら、夜主の性格を熟知した捜魂環は余計な言葉を加えなかっただろう。
「宝貝の回収者から宝貝を横取りするのも乙なもんだろ?」
 冗談半ばの夜主の返事を無視して、捜魂環は続ける。
「あの和穂は危険です」
 かつて、捜魂環と夜主は「夢の送り手」から和穂と殷雷が大崑崙を破る一部始終を伝えられた。夢に出てきた映像の和穂はまだ幼く、何より、先ほど邂逅した和穂のように抜き身の刀のような気配をしてなかった。
 和穂の変貌の理由は予想できた。和穂の護衛、殷雷の魂がいつからか感じられなくなっていた。唯一の相棒の死が和穂を変えたのだろう。
 しかし、あくまで和穂は和穂であった。現に、先ほど捜魂環が感じた和穂の魂はかつての和穂のものと同一だ。
 もっとも、所謂「人が変わった」からといって、その人間が持つ魂の形が変わるわけではない。捜魂環にしてみれば、魂を覆う膜の厚さが代わっただけに過ぎない。
 和穂の魂の膜もやはり変わらないように見えた。たった一カ所、以前には見あたらなかった鋭い突起が生えていることを除けば、だが。
「逃げましょう、夜主様」
 捜魂環の言葉に夜主は怒りを見せなかった。静かな声で尋ねる。
「和穂が来るのは、いつだ」
「おそらく三日後の夕方になるかと」 
 梟が啼いていた。



「一つ、質問があるのよね」
 夕闇に溶け込みそうな相手を見つめて和穂は言った。
 夜主は黙って先を促した。
「あなたの持つ宝貝なら、私が来る前に逃げられたはずよね。どうして逃げなかったの?」
 和穂が兼曜に聞き出した夜主の足ならば、追いつく術はなかった。
 にも関わらず、こういして和穂は追いついている。
 だから、問うた。
「さてね」
 それが夜主の本心からの答えだった。
 もとより聞いてどうしようという質問でもなかった。和穂は右手に持っていた大剣を中段に構える。
「一つ、質問があるんだがな」
 夜主はふと、目の前の少女に聞いてみる気になった。
 和穂はいいともよいとも悪いとも言わなかったので、尋ねてみることにする。
「私の隣に影は見えるか?」
 奇妙な質問だった。人は誰しも自らの影を隣に持っている。
 細長く延びた夜主の影。和穂の影。そして、もう一つの影。
「見えるわね」
「そいつは、どんな形をしている?」
「短く刈った髪に、袖の短い服を着た男。手にしているのは槍かしら」
「ふむ。やっぱりそうか」
 訳の分からない質問に、何故か和穂は苛立ちを感じなかった。
「こいつを知っているか?」
「知らないと思う。でも、知っているかもしれない。それがどうかしたの?」
 夜主はひそかに落胆した。
 和穂は夜主の落胆に気付いたが、それを指摘する気にはなれなかった。
『これ以上の問答は……』
 二人の声が重なった。二人の顔に驚きが、次に笑みが浮かぶ。数年来の既知に合ったときに見せる笑みだ。

 夜主の姿が霞んだ。夜主は駆ける。
 無意識のうちに堅く閉じられていた手のひらに気づき、和穂は大剣を持つ手を柔らかく持ち直す。
 捜魂環は焦っていた。和穂が持つ剣に気付いたからだ。無駄と知りつつ必死で叫ぶ。
「お逃げ下さい! あれは愚断、血に飢えた凶剣です!」
 捜魂環よりは言葉よりも早く、愚断に関する知識を夜主の意識に流し込む。
 夜主は無言で速度を上げた。愚断の間合いを越えて和穂に接近しなければ夜主に勝機はない。速度を上げて愚断剣の間合いに踏み入った夜主は突然、弾けるように和穂から離れる。
「く、そ……」
 夜主の指は一本足りなかった。嵌め填めていた捜魂環ともども、和穂の足下に落ちている。和穂が隠し持っていた暗器に切り取られたのだ。
 役目を終えた暗器を断縁獄に戻しながら、和穂は指輪に手を掛ける。
 夜主が手を離せと言うまでもなく、何故か和穂は捜魂環を投げ捨てた。そのまま手を頭に当てて呻く。
「つーー。五月蠅いわね。躾がなってないわよ」
 出血し続ける傷口を無視して睨み付ける夜主に改めて目を向けた和穂は呆れた口調で言う。
「正直、あなたが逃げないでくれて助かるんだけどね」
 夜主は和穂の言葉を聞いていない。和穂を見つめる瞳に、いつの間にか涙が溜まっていた。何故かは分からない。
 和穂がまた一歩近づいてきた。もう、目の前に和穂はいた。

「さよなら」

 愚断剣が夜主の胸を刺し貫いた。誰にでも一目で分かる、致命傷だ。
 やがて夜主の体が大きく体が跳ね、夜主の瞳から生気が抜けていった。体は力無く愚断剣にもたれ掛かる。
 和穂は愚断剣を引き抜いた。まるで、愚断が血を自らの体に吸い取ったかのように、愚断を濡らすべき鮮血はどこにも存在していなかった。
 更に夜主の遺体から俊地踏を回収したところで、和穂はようやく指輪の存在を思い出した。なおも夜主の名を呼び続ける指輪を断縁獄に回収しようと軽く放り投げて――指輪は再び和穂の手のひらに戻ってきた。
 小さく溜息をついて、和穂は指輪を右手に嵌めた。大いにやかましいが仕方ない。
 先程から、龍華を殺したぞ、と息巻く剣に和穂は冷たく告げた。
「他人のそら似よ」
「ならば、何故に殺したのだ。その必要はなかっただろうに」
 和穂は剣のからかいに答えず――答える必要はなかった――次なる宝貝に針路を向けた。



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