スチャラカもくれんタマスダれ
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海に広がる罠が待つ

 海は広く、そして雄大だ。その雄大さ、雄々しさは人々の感情を包み込み、
暖かな抱擁を加えてくれる。
 だが、海は時として非情だ。数多の海難事故、津波、渦潮。
これらの事象が物語る通りに。
 父の厳しさと、母の暖かさを併せ持つ海。
慰められるか、傷つけられるかは人次第だ。

 そして、ここには傷ついた少女が一人。
少女は観光客用の釣り船に乗っていて、他の客と同じように釣りをしている。
だが、不機嫌そうな顔をしているのは、その少女ひとりだけだ。
 その少女の近くでは、道服を着た娘、武人らしき男女一組が
少女とは違った顔つきで魚釣りを楽しんでいる。
楽しそうでもあり、真剣にも見える顔つきは、少女の機嫌を損ねるには十分だ。

 その少女が”むすぅーっ”と見つめているバケツの中には、魚が三匹のみ。
それに対して、少女の近くにいる三人は、いづれも十匹以上は釣り上げている。
どうやら、この少女が不機嫌な理由はここにあるらしい。

「ねえ、何で私だけこれぽっちしか釣れないの?ねえ、聞いてる。殷雷、和穂、恵潤」
「少し黙っててくれ。今はお前の愚痴を聞いてやるような暇はないんだ」
これは武人風の男の返事である。

 少女を除いた三人は、誰が一番多く魚を釣り上げることができるのか、
勝負をしている最中であり、少女に構っている余裕はなかった。
 いや、もともと少女も含めた四人で勝負を始めたのだが、
少女が淘汰されて三人となっている。
 一番穏和そうな娘でさえ、少女への対応はこうなのだ。

「ごめん、ちょっと黙ってくれない、塁摩。殷雷を見返すためにも、
この勝負に負けるわけにはいかないの!」
「なにを! 術の使えぬ元仙人に負けてたまるか!
それも、海釣りは初めて、という奴に!」

 激しい道服の娘と武人風の男の言い争いを横目にして、
武人風の女はまた一匹魚を釣り上げた。これで他の二人との差は二匹。
加えて女がまた一匹魚を釣り上げたのを見て、
娘と男は途端に口を閉ざして釣りに没頭する。
 もはや完全に釣りに興味を失った少女はそんな三人の戦いを観戦しに回った。
手早いことに、釣り上げたお魚さんは既に海に返している。
他の三人がは10匹以上釣っているのだ。自分の分を放棄したからと言って
食いっぱぐれる心配はない。

 少女の名は塁摩。武人風の男の名は殷雷。そして女の名は恵潤。
この三人は見た目そうとはわからないが、仙人が作り出した神秘の道具・宝貝である。
 道服の娘の名は和穂。自らが誤って解き放ってしまった宝貝たちを
回収する旅を続けている。仙人の登用試験には合格したのだが、
人間界に降りるときに仙骨を封じられたために、術は使えない。
現在の彼女の武器は、その、仙人らしい自由な発想のみであった。

                 *

 結局、勝負は恵潤の勝利に終わった。一匹差で殷雷が続き、
更に二匹遅れて和穂が続いた。「あと一匹で!」と悔しがる殷雷。
 釣り船は予定通り帰港へと向かっている。
『甲板で釣り上げた魚を焼き魚にして食べるなど、論外だ』
とは殷雷の台詞であるが、火災を防止するために
ここの甲板での調理法は刺身が主流となっていた。
 魚の干物も用意されてはいたのだが、だれも見向きしていない。
干物なんかを食べるより、自分がたった今釣り上げた魚を
刺身にして食べた方が旨いにきまっているからだ。

「あ、この刺身おいしい」
そう呟いたのは、いつかフグを食べ損ねた和穂だ。
と言うと、今度はフグを食べられたように聞こえるが、
またしても殷雷はフグを用意しながら、和穂に食べさせないでいる。
「いやあ、やはりフグの刺身はいけるな。恵潤、酒でもどうだ」
「いいね、もらおうか」
和気あいあいの三人。塁摩はというと、一人いじけている。
「ねえ、塁摩。本当にこのお刺身おいしいよ。食べてみなよ」
「やめとけやめとけ、すねた子供に何を言ったところで無駄なんだよ。
それに、そんなに魚が釣りたけりゃ、鱗帝竿でも使えばいいだろう」

 殷雷が引き合いに出した鱗帝竿は、釣り竿の宝貝である。
自分が念じた通りの魚が釣れるので、暫くの間は嬉しいかもしれないが、
いずれ飽きてくる。虚しくなってくると言い換えてもよい。
 塁摩はよほど殷雷に殴りかかってやろうかと思ったが、取りやめにした。
 小さな釣り船の甲板で振るうには塁摩の力は強大すぎる。
殷雷に殴りかかった日には、間違いなく釣り船ごと殷雷を沈めてしまうだろう。
ただ、これが大型船だったとしても、塁摩の力に耐えられるかどうかは疑問だが。

「三人して私を一人馬鹿にして。許せないな・・・」
 塁摩はその可愛らしい姿に似合った考えを抱き、殷雷たちの側にいるのも
嫌になって黙って看板から船室へと降りて行った。目指すは操縦室だ。
きっとそこが一番わくわくして楽しい所だろう。
 何度か咎められながらも、その愛くるしい笑みに護られて、
塁摩は目指す操縦室までたどり着く事が出来た。
 勢い良く戸を開けようとした時、釣り船の船員達が
真剣そのものの声音でなにやら話をしているのが聞こえてきた。

「しかし、今日客が釣っていた魚はおかしかったよなあ。例年なら、いや、先週には
もっと東に住んでいたはずの魚まで釣れているのだからなあ」
「ああ、本当なら東の海域の魚を観光客にただ同然でくれてやるのは
ごめんだがな。あそこは、我々だけが知る穴場だったのだが。
これで、他にも知られてしまうだろうか」
「いや、さすがにそんな事はねえだろう。しかしなあ、あそこは高級魚が
よく釣れるんだがなあ。今甲板で、大事なお客さんは俺達の商売もんを
食べ散らかしているってのか。たまらんなあ」
「いや、それだけで済めばいいが・・・」
「・・・どういう事だ?」
「今日みたいな事が続いて、万一『観光案内に載っている魚の種類と
釣れる魚の種類が明らかに違うじゃないか』とか言われては・・・」
「小銭を落としてくれるのが精々のお客さんの為に、俺達の金づるはおシャカとはな」


 この会話を普通の人が聞いたのなら、感想は
「おのれ、俺達には安い魚を食わせて、
いい魚は金持ちに売りつけていやがったのか。許せん!」
なのだろうが、塁摩は別に悪いことではないと判断した。
漁師達も生きるために行っている事なのだから。
 それよりも塁摩の気を引いたのは、何故今日に限って釣れるはずのない魚が
釣れたのか、と言うことだ。
 和穂たちは何も遊びで釣り船に乗ったわけではない。
宝貝の反応が海上に現れていたからなのだ。

                 *

 ようやく機嫌も直った塁摩が甲板に戻って来た時、乗客の多くは
海を興味深そうに見つめていた。和穂たちもだ。

「和穂、どうしたの?」
よかった。どうやら塁摩は機嫌を直してくれたんだ。
「うん、あのね塁摩。魚がみんな一方向に泳いでいるんだよ」
「というより、これは何かから逃げている、といった風情ではあるな。
魚の気持ちなどわからんが」
「私も同感。おそらく、私たちが探している宝貝のせいなのではないかな」
 水平線を遠目で見ていた恵潤は突然目を細めて、
「ん? 塁摩、断縁獄の中に入っていて。万が一の事態になったら呼ばせて貰うけど」

 一体、恵潤さんは何を見たのだろう。
目を凝らして遠くを見つめる和穂の横で、塁摩は断縁獄に入ってしまった。
「殷雷、一体何が起こっているの?」
 どうやら、私だけ事態を理解していないみたい。
そりゃ、殷雷でようやく見えるような遠くのものは見れないけれども、
何か除け者にされたようで、いやだなあ。
「大した事じゃないぜ。ただ単に、異様な大きさの投網らしきものがこちらに向かって
異様な速度で迫ってきているだけだ」

 ”へ?”と和穂が呆けている間に、”それ”はどんどん迫ってきて、
和穂にもはっきりと見えるまで近づいた。
 ”それ”は確かに網のようだ。ただ、一辺の長さが二メートルも
ある網も”網”と言えるのならば。これでは魚を捕らえられないではないか。

 何を狙っているのかは知らんが、網がこちらに向かって進んでいることは確かだ。
・・・ふむ。宝貝だとしても、網では硬さもたかが知れていよう。
軽い爆発音が鳴り、殷雷は刀の姿へと変わる。
殷雷の意図したことを理解して、和穂は殷雷刀へと手を伸ばした。
 だがその時、大波が襲い、船がぐらりと大きく揺れた。
和穂は殷雷を受け損ない、甲板に倒れる。
これまた甲板に落下して、船の動きに合わせて転がる殷雷。

 気を取り直し、和穂は殷雷刀をひっ掴み、素早く鞘から剣を滑らせる。
その時の和穂の動きには殷雷の鋭さが乗り移っていた。
殷雷刀が和穂を操っているのだ。
 船の舳先に仁王立ちして、網を待ち受ける。
殷雷にとっては気の利いた冗談のつもりだったが、和穂には通じなかった。
客や船員の好奇心たっぷりの視線が和穂に注ぐ。和穂はかなり恥ずかしくなった。
「ねえ、目立ちすぎじゃないかな?」
「やかましい。この方が相手がよく見えるだろ」
 網がどんどん近づいてくる。今この瞬間までに、殷雷は幾つかの事に気付いていた。
網は、海中どころか空高くまで広がっていることが一つ。
網は、水の抵抗や空気抵抗を受けていることが一つ。
 網が殷雷の作敵範囲に進入してきた。網の内部を探ろうと殷雷が雷気を放つ。
ところが、網の内部に進入したとたん雷気の反応が消滅した。

 幾つかこれらの現象を説明できる仮説を頭脳に展開してゆく。
だが、今ひとつ確証に欠ける。あと、もう一つが欲しかった。
それを知る前に網と激突するのだろうが。

 仮説は所詮仮説。真実の理論ではない。
だが、真実の理論が無くとも未来を予測することは可能。
今までの観測で得た情報から殷雷が導き出した未来は――

 網は船に激突し、多数の乗客が海へ転落する。

「恵潤、ちょいと手伝ってくれ! くれぐれも無理はするなよ」
 自分一人では手に余りそうなため、殷雷は恵潤に応援を求めた。
 和穂の頬は紅潮していた。殷雷が和穂の声を使って叫んだ為に、
周りの観客の視線に、奇矯な物を遠くから見やる視線が加わったからだ。
 和穂は網が向かってくる側の船縁へと駆ける。
殷雷は船に接触する軌道を取る網を残らず断ち切る心づもりだった。
 恵順は船を下りて救命艇の上で網を待ち受けている。
船体の下部は恵潤の分担だ。腰には深霜刀を携えている。
とある事情で融合宝貝となった恵潤刀。その機能はいまだ完全には掴めていない。
宝貝に対して恵潤刀自身をぶつけるのは危険だった。
そこで深霜刀の出番だ。恵潤が使うのなら切れ味が鈍ることもない。

「ひぃ〜っ! 助けてくれ〜っ!」
「うわ〜ん、お母ちゃ〜ん!」
 最初は和穂達に気を取られる余裕もあった乗客だが、
網が近づくにつれて船内における混乱は増す一方だった。
辺りの喧噪を余所に、二人の刀は、目を閉じ神経を集中させて静かに敵を待っていた。
 閉じていた和穂の目が開いた。目前に迫る網。
『哈っ!!』
 全く同時に二人は攻撃を仕掛けた。
一瞬早く届いた恵潤の恵潤の一閃が、和穂の一撃が網を切り裂く。
「ば、ぶぁかな!」
 驚愕に歪む殷雷の心の声。網は一瞬の内に復元された。

 乗客は足場を失い、あれよあれよという間に海へ落下する。
網は船を押しのけたが、乗客はその中へと導き入れた。
呆然と、去ってゆく網を見つける乗客たち。
そんな乗客たちの目の前で、突然網はその動きを止めた。
 網を投げた、広がった、とその次に来る動作は、勿論、”引き上げる”である。

「殷雷、一体どうなってるの!」
 現在、和穂たちは素晴らしいほどの勢いで引き上げられている途中であった。
「和穂、網の隙間を触ってみな」
 言われたとおりに和穂は網の隙間を触る。腕が完全に伸びきる前に、
その手は何かにぶつかった。
「それは、おそらくは防御結界の一種だ。
生物だけを選択して中に引き入れ、外へは決して出させない。
それと、中にいる生き物たちに酸素を直接供給している」
 中の空間は更に奇妙だった。一見普通と変わらない空間。
だが、足場がないのに歩けるというのはどういうことだ?

 内部に入れば、雷気で中の様子を探ることが出来た。
問題は・・・!? 高速で移動する物体。
数キロ先にいるその物体を、殷雷ははっきりと認識した。
隣では恵潤も和穂と同じく血の気の引いた表情をしている。
「どうしたの?」
 無邪気にそう尋ねてくる和穂。
「おい、みんな端に寄って逃げやがれ! 鮫が来るぞ!」
 殷雷の声が届いた範囲では、乗客が次々と逃げてゆくが、
まだ逃げ始めてさえいない乗客も多い。
「ええい、恵潤、和穂の事は頼んだぞ!」
 そう言い残すと、和穂の手を離れて、殷雷は棍を口にくわえて泳ぎ出した。

                 *

 突き抜けるような青空。所々で網がその視界を遮って邪魔をするのが癪だったが。
 鮫を退治し、殷雷達は大人しく波に揺られていた。
何もすることがなかったのである。揺られること二時間。
 和穂の目に、砂浜が見えてきた。陸地だ!と乗客達は騒ぎ出す。
殷雷の目に、一人の漁師の姿が焼き込まれた。

 全身これ筋肉。頭に巻かれた捻り鉢巻。上半身はまっ裸のふんどし一丁。
小麦色に焼けた肌。そして、口元に浮かぶニヒルな笑み。
左腕の付け根から斜めに走る大きな古傷。キラリと光る禿頭。
まさに海の男のなかの海の男といえよう。
 その男の手には、いささかその風体には似つかわしくない書物が握られていた。
分厚いその本の題名は、『家庭の医学』。

 その男は今、和穂の目の前でニヒルな笑みを浮かべている。
獣が獲物を捕らえた時に見せるものとは違う、だが凄味のある笑みだ。
 日頃決して絶やさぬ和穂の笑顔も、この時ばかりは流石に引きつっていた。

「ええと、あの・・・・・・。宝貝を返してくれませんか?」
「その格好で何を言っても説得力は無いと思わないかね、お嬢ちゃん」
 男に言われなくとも、自分でも解っていた。
全身ずぶ濡れで髪もベッタリと背中に張り付いているのだ。
「そんな事はどうでもいい。さっさと宝貝を返しやがれ!」
「ちょっと殷雷、そんな言い方はないでしょ。それに、前から何度も言ってるけど、
私の声を使って話さないでよ」
 全く同じ声で二人は言い争っていた。
この子は頭がおかしいのだな。そう考えて男は和穂を無視する事に決めた。
「こらてめえ、俺達を無視するな!」
 ・・・ふむ。この子は頭がおかしいにはおかしいが、ちょっと特殊なケースだな。
これはきっと二重人格障害というヤツだろう。男は自分の考えを訂正した。
「あ〜、さっさと出してやるから、少し大人しくしててな。二重人格障害者さんよ」

 へ? と和穂の顔がみっともない状態で凍り付く。
その顔のままで、和穂の体は突然空中に放り出される。
地面に落下すると前に、殷雷は和穂の体を操って体勢を立て直そうとしたが、
それより早く乗客たちが和穂の上に積み重なってきた。
 人の山の底辺でもがく和穂。乱暴に起きあがると乗客を傷つけかねず、
殷雷も手の出しようがなかった。和穂が呻く。
「重いよぅ」

「もう一度言います。宝貝を返してくれませんか?」
「くどいな、お嬢ちゃん。俺は、この宝貝がどうしても必要なのだよ。
どうしてもと言うのなら、一週間ほど待ってくれないか」
 どうやら相手は訳ありと来たか。理由によっては協力してやってもいいがな。
そういや和穂。二重人格障害者と言ってきたのは初めてじゃないか?
 和穂からの返事は無かった。
だが、怒気が鞘を握っている手からはっきりと伝わってきている。
これは不味い。からかい過ぎたようだ。殷雷は和穂の注意を逸らそうとして、
「一週間待てば、宝貝を返すとはどういった訳だ?
訳によっては協力してやっても構わんぞ」

 男が話し始めた事情によれば――

 男=伊安とその相棒、揚沌はどちらがより多くの魚を捕まえることが出来るか、
毎年競い合ってきた。
先程の殷雷たちの娯楽とは違う、漁師の意地を賭けた真剣勝負。
 闘いはいつも熾烈を極め一進一退を繰り返してきたのだが、今年に限って揚沌は
伊安を大きく引き離していたのだ。
 幾ら何でもこりゃ怪しい、と揚沌の釣りをこっそり見てみれば、
揚沌は宝貝を使って魚を養殖していたのだ。勿論、伊安は憤怒した。
男と男の真剣勝負に宝貝なんざ持ち込むたぁ、ふてぇ野郎だ!!
 問いつめる伊安に対して揚沌は、宝貝を使うまじ、なんて規則はないではないか、
などと吹かしたのだった。
 怒り狂う伊安だが、宝貝には勝てぬと日々憂悶していた所に、
ひょっこりとこの網=『索魚網』が現れた、というわけだ。

 伊安の話を一通り聞き終え、刀の宝貝は率直な意見を述べた。
「このスットコドッコイ! 相手が宝貝を使用したのを責めておきながら、
自分も宝貝を使うたぁ何事だ! 真の海の男なら自分の腕で勝負しな」
 卑怯者呼ばわりされ、顔を怒りに真っ赤にそめ、それでも腕力には訴えずに
伊安はあくまで言葉で訴えた。
「お前はあの宝貝を知らぬからそう言えるのだ!!
 いくら俺の腕が良くとも、一日で一年分も魚を成長させられてみろ!
どう足掻いても勝ち目はないのだ・・・」
 伊安の声は、最後に至っては鳴き声に変わっていた。
 そのみっともない鳴き声を聞き流して(どうせ和穂が聞いてるさ)、
殷雷は伊安に聞こえるようにハッキリと話し始めた。

「伊安、良いことを教えてやろう。
まず、俺はお前の相棒……揚沌とか言ったか? の持つ宝貝を知っている。
二つ、お前はわざわざ索魚網を使うまでもなく勝つことが出来る」
 その言葉を聞いて、和穂が質問する。
「殷雷、その宝貝を知っているの? どんな宝貝?」
「うむ。理知的で機転も利く色男の殷雷さまどうか教えて下さい、
と三回言えば教えてやらんでもないぞ」
「ところで伊安さん、私達も手伝いますから、索魚網を返してくれませんか」
「いや、お嬢ちゃん。気持ちは嬉しいが、これはあくまで一対一の勝負。
手出しはせんでもらおう」
 体の向きをクルリと変えて、和穂は伊安に話しかけた。
「や、奴はな、・・・と言って・・・」
 ”おあずけ”をくらった犬の様に打ちひしがれた殷雷を無視して。

                 *

 翌日。恵潤は和穂たちと別行動をとり、揚沌の元を訪れていた。
伊安の相棒である揚沌は伊安と良く似た風貌を持っていた。
違いと言えば、伊安には腹部に大きな傷があることに対して、
揚沌には右目辺りに傷があることか。
 揚沌の声は伊安よりも少し甲高いように恵潤には思えた。
「一体、何の用だい、お姉さん。用が無いなら、邪魔だから退いてくれ」
「ま、てっとり早く言えば、あんたの手伝いがしたいのよ。
伊安には、ちょっと恨みがあってね」
「ほう?」
 片眉を上げて揚沌は疑問を、驚きを、そして興味を示す。
「・・・面白い。話を聞かせてもらおうか」
 恵潤は決して表には出さないようにほくそ笑んだ。

 私は伊安に”釣られて”、その際に事の次第を知った。
伊安は勝負に夢中になっていて、まともに謝りもしなかったのが許せない――
 そういった事を揚沌に話し、恵潤は揚沌に是非協力したいと申し出た。

「あなたの申し出は嬉しいが、素人が立ち会える勝負ではない。
知っているだろうが、私もあいつも宝貝を使って勝負をしているのだ」
 顔にはありありと『お前なんぞ邪魔だ』、と浮かべつつも、
一応、言葉の上では丁寧に応対する揚沌。
 そんな揚沌を鼻で笑い、
「余裕だね、揚沌。伊安は既に十万匹捕まえているのだけどね」
「な、十万匹だと!? ・・・本当なのか?」
「さあ、伊安がそう言っていただけだから保証は出来ないけど。
大体、どうやって十万匹も数えたのかしらね」
 面白いほどに揚沌は動揺していた。
『ううむ、それが本当なら・・・。十万匹だと!?・・・」
 ここぞとばかりに恵順は畳みかけるように話す。
「さっき素人が立ち会える勝負ではない、と言っていたけど、
宝貝を使っている時点で素人かどうかなんて関係ないんじゃないかな」
「確かに。・・・おや。釣り竿持参とは、やる気はあるようだな」
 その時になって、ようやく揚沌は恵潤の腰に括りつけられた釣り竿に気が付いた。
「要するに、宝貝を持っていればいいのでしょ。なら、大丈夫」
 恵潤が携えるは、宝貝『鱗帝竿』。

 鱗帝竿の機能を一通り説明し、時には情に、時には利に訴え、
恵潤はようやく揚沌を口説き落とした。
「なるほど。それなら、恵潤さんも戦力になるだろう。
ただ、現在私が捕まえたのは二万匹ほど。差は大きいな」
 馴れ馴れしくも呼び方が『恵潤さん』に変わっている。
「ところで、揚沌さん。あなたも宝貝を持っているでしょ」
「では、私の持つ宝貝をお見せしようか」
 言って、揚沌は”ばっ”と手を広げるが、途端に情けない顔になる。
「と、言いたいところだが、実は既に使っている。あれだ」
 揚沌の指の先にあるのは、海――ではなく、一片10m四方の、小さな網。
「これが、魚の成長を促進する宝貝、『促養網』だ!!
今の設定だと、一日で一年分成長するな」
「ふぅん。今は何匹育てているのかな」
 揚沌は恵潤の気のない返事に拍子抜けしたが、気を取り直して、
「まあ、二千匹といったところか。だが、伊安は十万匹も捕まえているとなると、
この成長速度では間に合わんな。最速設定とするか」
「どれくらいの速さになるの?」
「わからん。目盛りを更に一つ進めると、一分で一年分成長するそうだが」
「餌はどうするんだい? どうやら時間を操れる宝貝のようだけど、
餌が無かったら魚が成長するはずもないじゃない」
「そういったことは良く解らないが、餌は与えなくてもいいようだ」

 目盛りを最速に合わせた揚沌はひたすら手網で促養網から魚を捕り続け、
恵潤も鱗帝竿を使って延々と魚を釣り続けた。

                 *

 一週間後。二人の漁師が勝敗を決する日である。
伊安と和穂、それに殷雷は先に待ち合わせ場所に到着していた。
 近くの漁師達が祀る龍神の祠があるこの島は
ごつごつした丸みの無い岩が転がっているばかりで、殺風景な事この上ない。
「だが、本当にいいのか? 互いに数を一匹ずつ数えてゆくのだぞ。
こんな詰まらない事他には無いと思うが。それに、時間の浪費ではないか」
「なあに、構わんさ。恵潤が巧く揚沌を誘導してくれてるだろうしな」
 そうこうする内に揚沌が姿を見せた。恵潤の姿もその後ろに見えたが、
目線を極力合わさないようにする。
揚沌に俺たちが知り合いだとばれると不味い事になる。
 思い詰めた顔をした揚沌は、伊安の前に立つなり、
「今年の勝負は伊安、お前の勝ちだ。こんな物を使って悪かったな」
「なあに、俺も人のことは言えんな。こんな物、二度と使うものか」
 そして、二人息を合わせたかの様に、それぞれが持つ宝貝を取り出し、
「あっ!」
 和穂の叫び声が波の音をかき消した。二人は思いきった事に
宝貝を海に投げ込んでしまったのだ。
 突然の事に殷雷も対処できず、宝貝は海中に沈んでいった。
「こらてめえ伊安、宝貝は俺達に渡す約束じゃねえか!」
 激しい剣幕で伊安にくってかかる殷雷。だが海の男は細かいことに拘泥しないのだ。
肩を抱き合い、高らかに歌を歌って船を漕ぎ、海の男二人は島を離れていった。

                 *

「くそっ、これだから筋肉質の奴は……」
 男たちの友情劇を呆れて見ていた殷雷たちも、二人が島を離れた時点で
ようやく正気を取り戻した。
「でも、見つかるかな?」
「見つかるかな、じゃなくて、絶対に見つけるんだよ!
 恵潤、向こうの宝貝はお前に任せた。俺はこちらを捜す」
 二人は同時に海に飛び込んだ。和穂は一人島に取り残される形となった。
それにしても、海上だからか強風が吹き荒れて体の熱を奪ってゆくのですこぶる寒い。
「でも……たき火に使えるような木ぎれなんてなさそうね」
 和穂は断縁獄から木材を取りだし、火打ち石を使って火をおこした。
これくらいの事ならば龍華から習っていたので造作もない。
 たき火に凍えた体を近づけて、これからの事を考えてみる。
まずこの島から出たらどの宝貝を目指そうかな……
断縁獄に指を当て、集中した所で、和穂はようやくその事に気付いた。
この島から……出る? どうやって?
 ここまで来る時に使った船は漁師二人が乗って行ってしまった。
首を巡らせて辺りをぐるっと一巡りしてみる。船の姿はどこにも見えなかった。
 それに、考えたくはなかったが、今は干潮の時刻だ。
今和穂が座っている場所は島のほぼ中央で、波がかぶってくる場所ではない。
しかし、辺りには水たまりが点在している。一口舐めてみると塩の味がした。
これは、雨の水じゃない。この潮の水はどこから来たんだろう?
 少し考えれば簡単に判る。この島は、満潮時には海面下に沈んでしまうのだ。
「嘘でしょう……」
 そう呟いても、聞いてくれる相手は海の中だ。
急に一人でいることが耐えられない程に寂しく思えた。
 ざぱあっ! 派手に水しぶきを上げて殷雷が海面に躍りでた。
「ふひ〜っ、全くこんなに潮の流れが急だとは思わなかったぜ」
 和穂は急いで殷雷に駆け寄って、早く逃げようと提案した。
「船は?」
「……一隻もないの」
「いくら俺でも、あそこまでは泳いで行けないぞ」
 あそこ、とは遠くに霞んで見える岸辺の事である。
殷雷なら岸まで泳いで行けるんじゃないか、という和穂の希望は雲散霧消した。
 バシャッ、と水しぶきも軽やかに恵潤が岸に上がってきた。
「あら、二人ともそんなに深刻そうな顔をしてどうしたの?」
 かくかくしかじか、二人は事のあらましを説明する。途端に引きつる恵潤の顔。
「断縁獄の中にせめて水に浮きそうなものはないの?」
 和穂と殷雷は顔を見合わせて一つずつ検討し始める。

 流麗さんに水に浮く服を作ってもらう……材料が無いよね。
 獣騎綱で魚を操って……駄目だ、あれは破壊されている。
 殻化宿は……壊れてたよね。
 六身鎧で身体機能を上げて……和穂の体力が少しくらい上がってもな。

「何か良い案は見つかった?」
 恵潤も、聞くまでもなく二人の顔色から察してはいたのだが。
「いや……見つからなかった」
「じゃあ、どうするの?」
「俺が力を貸せば、和穂が溺れ死ぬ事はないだろうが……」
「やっぱり殷雷でもあそこまでは泳げないの?」
「俺は泳げるのだが、和穂、お前の体が持たないだろ。
泳ぎ着いた途端にショック死するのが落ちだぞ」
 殷雷の言葉を聞いた瞬間、和穂の目に光が宿った。慌てて殷雷は止めにかかる。
「待て! それだけは止めておけ!」
 しかし、こうなった和穂の意志は誰にも動かすことは出来ない。
「でも、それしかないんでしょ。だったらやるしかない」
「……正気か? たぶん、三日ばかり生死の境を争う事になると思うのだが」
 それでも構わない、と和穂は力強く頷いた。
殷雷は助けを求めて恵潤の方を向くが、彼女の顔にも諦めの色が浮かんでいた。
もはやここに至っては、殷雷に出来ることは天を仰いで嘆息することくらいだった。



 殷雷の力を借りて岸にたどり着いた和穂だが、
肌の色は長時間冷たい水に浸かっていた為に蒼白と変わっていた。
急いで医院に担ぎ込んだが、殷雷の見込み通り、和穂は三日三晩
高熱にうなされることとなった。

 担当医は後に語る。あの病状から快復したとは今でも信じられない。
患者の体力は極度に衰えており、私は最悪の結果を覚悟したものだ。
私は神に祈る様な気持ちで患者の手当を行った。
出来うる限りは患者に栄養のある食物を与え、細心の注意を払って薬を精製した。
 今でも何時にどんな食物を与えたのか、どういった組み合わせで
薬を精製したのかはっきりと覚えている。うん? よく覚えていますねって?
そりゃ、あの病状もさることながら、患者が握りしめていた刀だね。
一時も刀を手放さなかった。肉親の形見か何かなのかね、あれは。



『索魚網』 直線距離にして10キロ、角度45度の範囲内にいる
     全ての生き物を捕らえる宝貝である。
     自動的に使用者の周囲360度の中で最も生き物が多い方角を選んでくれる
      欠陥は、”全て”の生き物を捕らえてしまう点。
     危険な生物とひ弱な生物が同時に捕らえられた時、
     ひ弱な生物を保護する装置ががあれば良いのだが。
      一度仙界の海でこの宝貝を使ってみる事をお奨めする。
     もしかしたら龍の一家を釣り上げてしまうかも。

『促養網』 この中では時間の進み方を調節できる。
     不老不死の仙人ならともかく、見習い弟子がうっかり中に入ってしまうと、
     速度設定によっては老衰死してしまうだろう。
      中の環境を自動補正する装置も付いている。
      また、中にいる生物に、それぞれに適した食物も提供してくれるのだが、
     どうも少し量が多い上に、その食べ残しや糞、死骸などを取り除いてくれる
     わけではないため、余りにも多くを育てたり、急速に時を進めたりすると、
     環境の自動補正機能が間に合わずに中の環境が急激に悪化する恐れがある。

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