スチャラカもくれんタマスダれ
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雪山の決闘!

 凍れる雪山。吹きすさぶ雪の中を、一組の人間がつらそうに歩いている。
二人とも、性別はわからない。それも雪がその姿を覆い隠しているからだ。
そして、二人は防寒装備をきっちりと着込んでいるから。

「寒い、寒い、寒い・・・。くそっ! こんなことなら、
麓の村でもっとましな防寒服を買っておくべきだった!
 ああ、この夜主ともあろうものが、金を惜しんだせいで
こんな辺鄙な雪山で凍え死ぬなんて
 天は何をしている!早く雪を止ませやがれ!
神は我を見捨てたのか!この夜主を助けないで誰を助けるというのだ!」

 この人物は名前を夜主という女性である。
ただ、声が女性一般より低い上にこの男っぽい話し方では、
女性であるとはその容姿を確認出来ない事もあって理解しにくいだろう。
 初めに話し始めた女に触発されて、もう一人も言葉がその口からついて出た。

「うう、どうしてこんなことになってるんだろう。
予定では、もうとっくに和穂に追いついているはずなのに。
そもそも、季節が巡っているのがおかしいのよね。もう真冬じゃない」
 大体、夜主さんが人の金で飲み食いしなければ、
もっといい防寒具が買えたのに。
ああ、万が一のことがあっても、もう馬は買えないなあ」

 こちらはその口調からして女性のようである。
とはいえ、夜主という女性よりはまだ声が幼い感じを受ける。
それもそのはず、この人物は、まだ15歳なのだから。
 この娘は、このくらいの愚痴だけではまだ喋り足りないようだった。
ちなみに、この娘の名前は、梨乱という。

「ねえ、夜主さんは盗賊なんだから、それなりにお金を持っているんじゃないの?
だったら、自分の飯代くらいは自分で出してよね」

 ぎくうっ!
と怒りと焦燥をない交ぜにした表情を浮かべるかに思えた夜主だが、
彼女はため息を一つつくだけだった。

「ここんところ、宝貝しか狙ってないからな。
それに、これを盗む!と決めたらそれに向かってひたむきに驀進するってのが
私の盗みのやり方なんだ」
 それはともかく、お前にとっ捕まるまでにも色々と使っちまったからなあ。
それにな、私は盗賊の気性を抑えて、お前から金を取らないでやっていたんだぞ。
 まあ、そりゃ間接的には頂いたが。感謝して欲しいくらいだよ」

 盗賊の気性を抑えて、という部分は嘘である。
何度も盗もうと試みたのだが、ばれそうだったので盗まなかっただけである。
 ちなみに、”色々と使った”というのは、
ちょうど宝貝も手に入らず、いらいらしていた時だったので、
酒と賭事に使っていたのだ。

「……ともかく、次の町に入ったら、夜主さんにも働いてもらうよ。
路銀が少し心許なくなってきたんだ。あ、盗みは駄目だよ」
「ふん、誰がお前のために盗みをするものか。
それに、これ以上手錠を掛けられるのは御免だよ。
 路銀が無いというなら仕方ないか。梨乱も働くんだろ?」
「うん。ま、柳家の技術があれば、どこの工房でも雇ってくれるよ。
もしかしたら、私を上回る技術者がいるかもしれないけど、
それはそれで・・・」



 夜主が”これ以上手錠を掛けられてたまるか”と言ったのは、
既に彼女の腕には、既に手錠が掛けられているからである。
もし、夜主が防寒服を着ていなければ、『別に手錠なんて見えないじゃないか』
と言う人もいたかもしれない。
それもそうだ。なにしろ、この手錠には鎖が無いのである。
その手錠とは、仙人が造り出した神秘の道具・宝貝の一つ、『動禁錠』である。
 動禁錠は、使用者(手錠を掛けた方。手錠を掛けられた者ではない)
の意志に応じて、その重さを自由に変えることができる。
重くすれば、腕を持ち上げられなくて、逃げられないという寸法だ。

 その動禁錠を夜主に掛けた梨乱も、凡百の人間ではない。
ちょっとした技術者集団に生まれた(本人談)彼女は、
そこいらの職人では太刀打ちできないほどの腕を持っている。
 もともと彼女の一族は、もっと南の方に住んでいたのだが、
ある事件のせいで、北方へ移住してきたのである。
 そうそういないのだが、自分を上回る技術者がいれば、
梨乱はその技術者に教えを請うつもりであった。
技術者にとって自分の技能を上げることは他の何よりも嬉しい事かもしれない。

                 *

 とめどなく喋っていれば少しは暖かくなると思ったのだが、
夜主の予測とは違って、あまり暖かくはならなかった。
 仕方なく、夜主は懐から一本の筆を取り出す。

「ちょっと待ったぁぁぁぁ!!!!!」

 こんな寒い中で口を一杯に開けて喋ったものだから、
梨乱は苦しさにのたうち回ってしまった。

「何をやってるんだ? 梨乱ちゃんよ」
「な、何をやって・・・ごほっ・・・って、
それはこっちの・・・けほっ・・・台詞よ。
 天呼筆なんか取り出して、何をするつもり!」
「何をって、・・・そりゃ、こいつを使って天気を・・・」
「あのねえ、夜主さん。寒さで脳がやられてるでしょ。
もっと深く考えて頂戴。そしたら、私が止めた理由がわかるから」

 そう言われて、たしかに自分でも脳が働いているとは思えなかったので、
夜主は自分が天呼筆を使ったときの結果を想像してみた。
 ちなみに、天呼筆も宝貝である。
天気を自由に変えられる力を持ち、雷やカマイタチで敵を攻撃する事もできる。
夜主は殴る感触がないとつまらないので、間接攻撃は行わない性分であるが。

 天呼筆の力で晴れにしたときの事を想像してみる。

晴れ→暖かい→雪が解ける→雪崩

「…………」

横で、じと目で梨乱が見つめていたが、敢えてそれを無視する。
「さあ、さっさと先に進むぞ!」

 そんな夜主の言葉に突っかからなかった梨乱は、
”やっぱそれしかないのね。とほほ・・・”と言わんばかしの顔をしていた。

                 *

 更に歩き続けて30分。一つだけおかしな事があった。
もうそろそろ山を抜けてもいいはずなのに、
一向に山を下っているという気配がないのだ。
”ひょっとして迷ったのでは・・・”と二人が本気で思い始めたとき、
一本の道とともに、一台の馬車が視界に入ってきた。
贅沢な馬車だった。何しろ幌で客席が覆われているのだから。
 その贅沢さに見合ってといっては失礼かもしれないが、
太っている中年の男が馬車から身を乗り出していた。

「すみませーんっ。旅の者なんですけどーっ」

 そう叫んだ梨乱の声が聞こえたのであろう、中年男はぴたりと止まった。
だが、その硬直から覚めると、あろうことか中年男は急いで馬車に乗り込み、
馬車は猛スピードで梨乱達から遠ざかってゆく。
雪で体力を消耗した梨乱には、それを追いかける気力は残っていなかった。

 だが、夜主は諦めなかった。履いていた防寒用の長靴を脱ぎ捨てて、
革靴を履いた。この寒い中でだ。よく手が動くものである。
革靴を履いた夜主は、風をも越える速度で駆けた。

 夜主が履き替えた靴もまた、宝貝である。
この宝貝『俊地踏』で速度を出したときに来る余波に
耐えることができるのならば、風よりも速く疾駆することができる。
 この厳寒の中、一段と余波を強く感じられたが、一度見つけた獲物を
執拗に狙う獣の如く、夜主は疾駆した。
俊地踏にかかれば、馬の速度など問題ではない。
場所との距離が十分に狭まったところで、夜主は大声を張り上げた。

「そこの馬車、待ちやがれーーーっ」

 前を走る馬車の振り向いた御者の顔には、ありありとした恐怖が浮かんでいた。
何か人外のものに対する恐怖、というものが最も近いだろう、と夜主は考えた。
 なんにしろ、相手は馬車を止めるつもりはないらしい。
ならば、こちらで止めてやるまでだ。

 さらに速度を上げ、御者に追いつくと、夜主は思い切りそいつをぶん殴った。
たまらず気絶する御者。勿論、馬車は迷走を始めてしまうのだった。
暴れる二頭の馬。それらをなだめすかし、大人しくなる頃には、
ようやく梨乱も追いついてきた。

 気絶した御者を乱暴に客席に放り込み、夜主は自らも
客席へと踏み込んだ。
「ちょいとお邪魔するよ」
 これではまるっきり悪役の風情である。
客は四人。さっき外に出てきていた中年男に、化粧の塗り方を間違えている中年女、
へらへらした笑みを見せている若者。そして、夜主が気絶させた御者。
何となく若者には中年男、もしくは中年女と共通した雰囲気があった。
おそらく、この三人は家族なのだろう。



 夜主は我が儘な子供が嫌いである。それにも増して嫌いなものは、
この若者のように、しっかりと筋が通っていない人間である。
老若男女かまわず、このような人間を夜主は嫌っている。
 その感情と寒さに身を任せて、夜主は若者をぶん殴った。
文句を言おうとした梨乱には、手を横に差し出して制止した。

「ちょっと、夜主さん。見ず知らずの人を殴るなんて乱暴でしょ」

どうやら制止しきれなかったらしい。仕方なく梨乱を説得するため口を開いた。

「いいか、梨乱。こいつの面をよく見てみろ。
甘やかされて育って、自分の為すべき事が見えていない人間が見せる面だ。
こんな面を見せられて、殴らずにいられようか!?」
「うーん、それは認めるけど……」

 思わず納得してしまった梨乱に反論したのは、その殴られた当人だった。
「な、いきなり一体何をするんだ!?ぼ、僕が何をしたって言うんだよう」

言葉の後半が情けない口調になったのは、夜主に睨まれたからである。

「『僕が何をしたって言うんだよう』だと?ふざけるな!
くそ寒い道をようやく抜けて希望の一筋を見たと思ったら、
その希望が逃げていったんだぞ!
 …………
 なんなら、今からあんたらにそれを体験させてやってもいいんだよ」

 最後の言葉を異様な猫撫で声で話す夜主。
その言葉を本気で言っていることに気付いた梨乱は、慌てて口を挟む。
「それで、どうして私達から逃げたんですか?」

 梨乱も急に逃げられたことで怒りを感じていた。
それが言葉の端はしに滲み出てしまった為に場を和ませることは出来なかった。

「それは私から説明致しましょう」

 そう言ったのは、この一行の中では最もまともに見える中年男だった。

                 *

「見ておわかりでしょうが、私は商人でして。
各地の特産物を取り引きすることを生業としております。
 例年通り、商品を運ぼうとしていると、
この道に怪物が現れて、人を襲っているという噂が立っていたのです」
「勿論、そんな噂で商売をふいにする訳にはいきません。
ですが、人夫が噂を恐れて、この道を通ろうとしてはくれませんでした。
 ですから仕方なく、この、といって夜主が気絶させた男を見て、
店の手代を御者にして、嵩張らず、それでいて高価な品物だけを
運んでいたのです。」
 で、道の途中で、ちと用を足したくなりましてな、
用を足してふと後ろを見たら、
それまで誰もいなかった所に何かが立っているではありませんか。
 信じていたわけではありませんが、つい驚いてしまって。はっはっはっはっは」

「はっはっはっは。もしかして、少し急いでいたら、
私、あなたが用を足しているのを見てしまったのかな」
「はっはっはっは。そんな話で許すと思ったら大間違いだな。
その品物をちびっとでも分けてくれれば、許してやらんでもないが」

 高価な品物と聞いて目の色を変える夜主と、
何か主旨を取り違えてしまっている梨乱。
「あの、私の話、聞いていましたか?」
 と主人が尋ねるのももっともであった。

                 *

「ところで、その化け物って何だと思う?」
「さあな、どうせ関係ないしな」

 梨乱と夜主の二人は、馬車に相乗りさせてもらっていた。
夜主が腕力をちらつかせたのは言うまでもないだろう。

「さあ、それはどうでしょうか? 噂だと、怪物が現れるのはもうすぐですよ」

と言ったのは、さっきのへらへらした若者。名前を早苗というらしい。
 女みたいな名前だが、早苗が生まれる時、
どうしても女の子が欲しかった主人は女の子が産まれると決めてかかっていて、
且つ名前は”早苗”としか考えておらず、男の子が産まれたというのに、
名前を早苗としてしまったのである。

「はっはっはっ。そう物事が運ぶのだったら、誰も苦労はしやしないよ」
「そうそう、そんな噂なんてピンからキリまで眉唾物なんだから」

 脳天気に笑っている二人。
それもそのはず、二人は懐炉を握りしめていた。
懐炉の暖かさが、二人の凍っていた心も溶かしていたのだ。

”がるるるるぅ”

だが、やはり運命は二人に安寧を許さなかったようだ。

                 *

「ひいぃぃぃっ!」
 叫びながら御者が客室へと入り込んできたのは、うなり声が聞こえてから
すぐのことだった。
「おい」 
いつにも増して鋭い夜主の声に、御者は震え上がる。
「はい?」
「さっさと、そこを閉めろ。寒いじゃないか」
「…………」
「って、そうじゃないでしょう?あの化け物を退治して下さいよ」
「やだ。かったるい」
「へ?」
「そんな、あれだけ色々と注文しておいて、働いてくれないんですか?」
「なんで、私が戦わないといけないんだ?
 私はあんたたちを助ける義務もないし、あんたたちに雇われてもいないんだぞ」

 夜主は必死に助けを求める御者を軽くあしらって、
依頼料を出させようとしていたのだ。
そのことに気付いた主人が懐から銀貨を出して化け物を倒すように促すと、
夜主は梨乱を引き連れて、景気良く馬車から飛び降りた。

「何で私まで連れだしたの、夜主さん」
「決まってる。自分が寒い中で怪物と取っ組み合っている時に、
馬車の中でぬくぬくしている、なんてとても許せないからな」
「あ、そう」
 どうせ、そんなことだと思ったわよ。といった目をして、
梨乱は大人しく夜主についていった。
今の梨乱には、寒い中で喧嘩する気などさらさらなかった。
それに、噂の怪物とやらも一目見てみたかったのだ。

                 *

 梨乱達の目の前に現れたのは、別に怪物でもなんでもなく、一頭の熊だった。
だが、怪物と同じほどには危険だろう。
 その一撃を喰らっては、人間などひとたまりもない。

「ま、当たらなきゃいいんだよな」

 夜主は炎応三手という拳法を会得している。
かくゆう梨乱もまた、垂歩拳という拳法を会得しているのだが、
俊地踏を自在に操れる点、戦闘力は夜主の方が高い。
 夜主は、炎応三手の構えから、足を踏み込んで熊へ一撃を向かわせる。
熊はその一撃を防御せずに、夜主の一撃を上回る勢いで腕を振り下ろそうとしている。
熊のその行動は、『肉を切らせて骨を断つ』と言ったところか。しかし、

『遅い!』

 夜主には自分の一撃が先に相手を倒す自信があった。
そして、相手を倒した後、その必死の一撃から逃れることが出来るという自信も。

                 *

 離れて戦況を見守っていた梨乱には何がなんだかわからなかった。
そして、当の夜主にも、何がどうなっているのか全くわからなかった。
夜主の一撃は、熊の体を『貫いた』のだ。何の衝撃も無しに。
あたかも、幻を相手にしているごとくに。

 夜主は、勢い余ってよろめいてしまう。だが、今回だけはそのおかげで命拾いした。
間一髪で熊の会心の一撃を避けられたのだ。
だが、やはり完全には避けられなかった。夜主の背中に一筋の傷がある。
小さな、しかし大きな意味のある傷だ。
 こちらの攻撃が当たらない体のくせに、こちらに傷を負わせることができるのだ。
この熊は。たしかに、これなら怪物と呼んでも差し支えないだろう。

『これも宝貝の仕業か?』
 二人は全く同じ事を考えた。そして、はなはだ頼りないが、
彼女たちには宝貝の仕業かどうか確かめる方法がある。
『捜魂環。近くに宝貝はあるのか?』
『さあ。少なくとも私の知る限りでは、ありませんよ』

 夜主の心の声に答えたのは、宝貝『捜魂環』。
夜主の右手にはめられている指輪である。
 捜魂環には、捜魂環があったことのある宝貝や人を捜す機能がある。
本来なら、あったことが無くとも探し出せるはずだったのだが。
そこが、この捜魂環の欠陥である。
 そういったわけで、捜魂環は人間界に飛び散った727個の宝貝全てを
網羅しているわけではない。むしろ、知らない宝貝の方が多いのだろう。
その数少ない宝貝に関して、この現象と関わりがあるやつがいるのか、
夜主は駄目で元々、といった気持ちで尋ねてみたのだが。

『ちっ。相変わらず、使えない奴だ』
『はあ』

 恐縮するしかない捜魂環。
手がかりが無く焦っている夜主に、熊は更に一撃を加えてきた。
今度は、一撃を難なく躱す。
このまま逃げ切るのは容易いのだろうが、
生憎と、依頼人の望みは怪物を倒すことなのだ。
 そう、こいつを倒さなければ依頼料が貰えない。
依頼料を分捕ることに失敗してしまえば、
次の街で汗水垂らして働くことになってしまうではないか!

『しかし、幻か・・・』
「梨乱、当たりにある鏡を全て割るんだ!」

 夜主の声は十分にヤケであった。しかし、梨乱にも
それ以外の手が思いつかなかったのも事実である。
 それに、宝貝が動作する範囲というものは、
天呼筆の様な一部の宝貝を除いては意外と狭い。
夜主の提案にはのるだけの価値があるように思えた。

「夜主さん、ちょっとそいつは頼んだわ!」
「ああ、出来るだけちょっとした時間にして欲しいけどな!」

 なにしろ、こちらの攻撃は効かないのである。そんな敵を、
どうやって足止めしろと言うのか。
 なおさら悪いことに、梨乱が動き始めてから、
熊が馬車に近づく速度が上がったのだ。

『どうしたんだこいつは? あせっているのか?』

 それでもなんとか熊を足止めしようとする夜主の耳に、
梨乱の怒鳴り声が聞こえてきた。

「早苗、さっさとその鏡を渡しなさい!」
「そんなぁ。これは、僕の母さんの形見なんだよぅ」
「何言ってんの!あんたの母さんはここにいるじゃない!」
「すみませんが、これは後妻です。
ですが、あの鏡は私も知りません。壊してもいいですよ」
「そんな、父さん!」

 問答の末、ついに梨乱は早苗が必死に守っていた鏡を割った。
そしてすばやく、夜主が熊と激戦を繰り広げていたであろう方向を向く。
だが、夜主は未だに激戦を繰り広げていた。

「梨乱、まだか!」
 次第に激しくなってきている熊の攻撃に
戦慄を覚えながら、夜主は梨乱に対してどなる。
「大丈夫、あと一枚!」

 拳法の型も何も無しに、ただ鏡を割ろうとした梨乱の前に
早苗が立ち塞がった。拳を引っ込めるのは間に合わず、
拳は早苗を吹き飛ばした。
「あー、もう、邪魔するな!」

 気を取り直してもう一度。
「ちょっと待って下さい!」
 今回は主人が鏡を守ろうとしている。
「お願いですから退いて下さい! それを壊せばあの怪物が消えるんです」
「確信があるわけではないでしょう?
この鏡だけは、息子のためにも割らせるわけにはいきません」
「確かに、確実ではないですけど、それでもこのまま座して死を待つよりは!」
「いいえ、我が家代々のしきたりなのです。
始めて商売で成功したときの品物は一生大事にしておかなくてはなりません。
 これは息子が始めて商売に成功したという証拠。壊すわけにはいきません!」

 まさか主人を殴るわけにもゆかず、苦悩する梨乱。
一方、熊と夜主の死闘は勝敗が決しようとしていた。

                 *

 際限なく上がっていく攻撃の速度に対応できず、
夜主の傷は多く、そして深くなっていった。
だが、逃げることはできない。恐怖のあまり、御者が気絶してしまったからだ。
ついでに言えば、奥さんも気絶している。
 絶望的な死闘。あり得るはずのない勝利。

『もう駄目だ!』

 自らの限界を悟った夜主は、俊地踏の力を借りて、
梨乱と二人だけでも逃げることを決意した。
『だが、そんなことを梨乱が認めるかな』

 なんとなくおかしくなった。
自分の考えの何がおかしかったのか自分でも分からなかった。
 これまでの戦いでの唯一の隙。だが、この状況では、致命的な隙だった。
野生の本能か、そこを見逃さずに攻めてくる怪物。避けられない。
だが、俊地踏を使えば?

 風の速さをも越えての後退。本気で逃げに回った夜主を
捕まえることの出来る存在などなかったはずだった。
 だが、怪物の一撃はそれをも越えていた。

「ぐわっっ!!!」

 夜主の悲鳴。その声に押されて、梨乱は主人を押しのけて、
鏡を割ることを決意する。
 一撃目で主人の脇腹に一撃を加えて気絶させ、二撃目で鏡に攻撃を当てた。
”きぃぃぃぃんっ”

 鏡は、梨乱の一撃を跳ね返した。
普通の鏡が拳法を修得する梨乱の拳に耐えられるだろうか? 答えは、否である。
もはやこの鏡が宝貝であることに間違いない。

                 *

 『いや、今のは力を入れていなかったから』
 今度こそ確実に鏡を割るために、梨乱は垂歩拳の構えを取って、
十分に気合いを込めた拳を突きだした。しかし、結果は同じであった。

 そうする間にも、障害の無くなった怪物はこちらへと
速やかに向かってくる。
 梨乱は思考を素早く切り替え、鏡をそこらへんにあった布で覆った。
と共に消える化け物。

 安堵のため息をつくと、鏡を布で何十にもくるんでから、
梨乱は夜主の倒れている場所へと向かった。

「大丈夫、夜主さん」
「あ、ああ。なんとかな。何にしろ、あっけない終わり方だな」

 夜主の気分が幾分回復してから、
二人は商人の一家を起こしにかかった。



「さて、説明してもらいましょうか、早苗さん」
 何しろ、商売が巧いとは思えない早苗が、始めて成功した商売なのだ。
偶然手に入れた宝貝を、交渉で手に入れた、と嘘をついたのではないか、
と二人は考えたのだった。

「何を言ってるんですか、皆さん。僕は何も知りませんよ」
「いや、お前が商売に成功するなんて、おかしいと思っていたのだよ。
詳しく喋ってもらおうか?」
「そんな、父さんまで・・・」
 三人の無言の脅迫にあっさりと屈して早苗はぼそぼそと語りだした。
偶々宝貝を手に入れて、これで家の義務を達成したことに出来ると考えたのだ。

 だが、それだけではこんな化け物騒ぎを起こした理由は不明のままであった。
「で? どうして化け物騒ぎなんていう馬鹿なことをしでかしたの?」
「いや、それは……」
「ん? 早く言った方が身のためだと思うけどねえ」

 夜主が腕を振りかざして威圧する。
梨乱も精一杯肩をいからせて、早苗を威圧している。
ご主人夫妻は、厳しい目つきで早苗を見つめている。
 それぞれの威嚇に耐えかねて、早苗はついに喋ってしまった。

「遊ぶ金が欲しかったから・・・」
 辺りの空気が途端に重くなった。

                 *

 その後、早苗がどういった一生を暮らしたのかは、言うまでもないだろう。
分からない、という人のために、一言だけ付け加えておこう。

『針のむしろ』と。





『透現鏡』  この世にあり得ざる物体を造り出す宝貝。鏡とは思えぬ強度を誇る。
       欠陥は、少しでも鏡が曇っていると、この世界から干渉できる部分が
      出来てしまうこと。よってほぼ毎日鏡面を磨く必要がある。

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