足りない世界 < Childhood Friend >
1:夢 - running dark world - 彼女は歩いていた。肩を落とし、今にも傾き落ちそうな体で、それでも歩き続けていた。 彼女の視界は8方すべて闇の帳に覆われていた。どこまでも続く何も見えない世界。 足下は堅い。踏みしめられる地面がある、そのことだけが彼女に気力を与えていた。 どことも知れぬ場所を、どことも知れぬ方角へ向かって歩く彼女。彼女には捜し物があ った。それを求めて走っていた。 そう、失ったと気づいたときには彼女は走る元気があった。けれども彼女の望むものは どこにもなくて、走り続けるそのうちに見えない重みに押しつぶされた彼女の足は歩かざ るをえなくなった。 いったい何年歩いたのだろう。いつしか彼女は何を探しているのか忘れてしまった。 それでも「何か大切なもの」を求めて彼女は歩みを止めない。 瑞佳の朝は早い。カーテンを透かして部屋に射し込む陽の光が彼女の目覚まし時計だ。 起きると手早く学生服に着替えをすませた彼女は、カーテンを開いて太陽の恵みを体いっ ぱいに受けて伸びをする。 開いた窓から届く新鮮な朝の空気が肺を満たす。 「はーっ」 瑞佳は白い吐息を期待していたが、春になったばかりの朝の空気はもう十分に暖かい。 「ちょっと残念」 瑞佳の気持ちを柔らかな風が優しくほぐしてくれた。息吹を吹き返した草の匂いを感じ ながら、瑞佳の朝は始まった。 「おはようございまーす」 台所で朝ご飯の支度に追われている母親と挨拶を交わす。 ガラス戸の横にいつも用意しているお皿はいつもどおり8つ。 引き出しにしまっていたキャットフードを取り出して、まんべんに取り分けてから瑞佳 はガラス戸をガラリと開けた。 「ムサシ、うずら、りゅうのすけ、マーニャ、ネネ、ルンナ、ごろう、くるわ。 ご飯だよー」 瑞佳の声を聞くまでもなく、食事の気配を察していた猫たちはとっくにガラス戸のすぐ 外に集まっていた。 「瑞佳ー、ご飯作るの手伝ってくれない?」 「あ、うんっ。すぐ行くよ」 名残惜しげにうずらの茶色の毛を触ってから、瑞佳はそこを後にした。 母親と二人で瑞佳が料理器具を駆使していると、あくびを上げながら瑞佳の父親が姿を 見せた。片手に新聞を持って、もう一方の手にはタバコを持っていた。 じっと瑞佳は父親を見つめた。その横では母親が同じような視線で睨みつけている。 「いや、あのだな……」 あたふたと弁解しようとする。しかし、女性陣は強かった。とぼとぼした足取りで長森 父はベランダに出ていった。そして、颯爽と――自分だけがそう思っているのだが、タバ コを吸うためにポケットに手を入れて、紙パックを取りだした。その瞬間だ。 「ギニャー! ナー!」 「う、うわっ」 その刹那、飼い猫に足をひっかかれ、飛びついてきた猫に爪を立てられ、長森父はあわ ててタバコを取り落とした。てんてん、と転がるタバコパック。すいっと猫の一匹が腫れ 物を扱うかのようにそっと爪に引っかけて持ち上げる。 芝生に転がったタバコケースを口に加えた猫――ごろうは長森家の敷地外まで出ていっ て、自動車がやってくるタイミングを計って路上に放り投げた。自動車が通り過ぎた跡に は原形をとどめていないタバコケース。 長森家の女性陣に似て、飼い犬たちも嫌煙家が揃っている。それでも長森父は懲りずに 何度もタバコを吸おうとするが、結果は決まっていた。 父親が出張などでいない場合や母親がバーゲンセールでいない場合を除いて、長森家は 決まって家族三人揃ってから食事を始める。 長森父は新聞を読みながら、テレビも見て、そして食事もする。 瑞佳は前から、何度も新聞が汚れてしまうし行儀も悪いからやめて、と頼んでいたがい っこうに父親の行状は改善されなかった。だからもう半分諦めている。半分しか諦めてい ないことは瑞佳の性格をよく表していた。 長森家から学校まで急いで走って20分そこそこ。今日、瑞佳が家を出た時間ならば、 たっぷり一時間の余裕がある。 今日は吹奏楽部の朝練はなかったのだが、それでも瑞佳はその時刻に出発したし、母親 も別段それが特別なことだとは思っていなかった。 それは、瑞佳も同じだった。ごく自然に体が動いていた。 家を一歩でたところで時間を確かめる。そのときになると、瑞佳はふと思う。 「あれ、どうしてわたしはこんな時間に出てきたんだろう」 瑞佳はこのようなことをここ数ヶ月ずっと繰り返していた。 朝早く家を出てもすることはないので、教室についてから黒板やチョークを整理して時 間をつぶす。 おかげで先生からの評判はすこぶる上々ではあったが、瑞佳の心の深い場所では「こん なことをしている場合じゃないのに」といった思いが渦を巻いていた。 自然に家から出ているのなら、きっと理由があるはずだ。何かの慣習があったはずに違 いない。 自分の知らない習慣。その言葉自体はとても恐ろしいものだった。夢遊病者みたいに夜 中に自分以外の誰かが体を動かしていたのでは、とまで思ったこともあった。 しかし瑞佳は、その自分の知らない、理解できない習慣がとても大事なことだったよう に思えてならなかった。 どこまでも、どこまでも駆けてゆく。忘れてしまった、逃してしまった残光を目指して。 きっとこの先になにかあると信じたい自分と、もうどうにでもならないのではないかと 諦めようとする自分がせめぎ合う。 夢だから、足を止めてしまってもいいのだ。そう後者が囁く。 彼女もこれが夢だということははっきりと感じ取っていた。どうしてかと問われたとき 明確に答えられるわけではないが、感覚で感じる何か。 そして、今日も走り疲れて、棒のようになった足を引きずりながら、当てもない旅を続 ける。 やがて、力つきて地面へと倒れ伏す一瞬、自分の探し求めるものを見たような気がした。 誰かの、肩幅の広い後ろ姿―― 「……さん、長森さん。起きてください」 誰かが自分を呼びながら肩を控えめに揺すっていた。 瑞佳は俯せにしていた顔を上げる。 自分の慣れ親しんだ教室の風景が目に飛び込んでくる。去年と同じ教室だったから尚更 だった。 「あれ、わたし寝てたのかな?」 「……はい。あまりぐっすりと眠っているので起こそうか迷いました」 少し呆れたような、心配するような、整った少女の顔が瑞佳の心を捉えた。 「ごめんね、里村さん」 去年からの瑞佳のクラスメート――ただし、あまり親しい仲ではない――里村は「い いえ」とかすかに首を横に振る。「大したことではありません」と言いたいのだろうと、 瑞佳は見当をつけた。 そこではた、と気づく。この教室にいるのは、瑞佳と里村だけだった。 急いで頭の中の時間割表をめくる。今日は木曜日の一限だから…… 慌てて、うまく思い出せない瑞佳を見かねてなのか、それとも時刻が迫っているのか。 「美術ですよ。だから早く美術室に向かいましょう」 「そ、そうだねっ」 うん、うんと首を二度縦に振って瑞佳は学生鞄に美術の教科書を探る。 実はもう既に一時間目は始まっているのだが、そうとは知らない瑞佳は遅刻しないよう にと一生懸命に走る。そのままの勢いで美術室へ駆け込んだ瑞佳を待っていたのは、 「長森瑞佳、遅刻、と」 揶揄しながら出席簿にXをつける美術教師だった。 「あぅー」 三年間皆勤賞の夢を絶たれて瑞佳はがっくりと肩を落とした。とぼとぼとした足取りで 後ろの方に残っていた机に向かう。 そこでようやく瑞佳は親友の稲城佐織の姿が見えないことに気づいた。美術室にある机 の数は瑞佳のクラスの人数より2つ分少ないために、本来ならば遅刻した人間は椅子だけ の侘びしい暮らしを余儀なくされるのである。 よくよく考えると、学校に着いてから40分ほどすやすや寝ていたということになるの だから、佐織ら瑞佳の親友が登校していたなら誰も注意しないということはないだろう。 授業の初め10分間は教師の講義が続いた。最後にカツ、と一際大きい音を響かせてか ら教師はそれまで手にしていたチョークを黒板の下に置いた。 「と、こういうことだが、大体分かったか?」 「はーい」 美術教師は実際に体を動かしたくて仕方ない、そういった気分の生徒に苦笑いを見せな がら、 「よし、そういうことで今日はデッサンだ。住井、おまえモデルな」 「ぐえー!」 クラス一の問題児として名高い住井は奇妙な悲鳴を上げた。嫌がる住井を友人たちが無 理矢理に中央に連れてゆく。 机と椅子を移動しながら瑞佳は里村に声をかけた。 「そういえばちゃんとお礼を言ってなかったよね。ありがとう里村さん」 「いいんですよ、それくらい」 「そういえば、朝のHRの出席どうなっちゃったのかな。 わたし寝ていたんだから、今日は遅刻扱いになっちゃうのかな」 一時間目は遅刻でしたけどね、と里村は考えたがそれはおくびにも出さなかった。 「大丈夫です。私が長森さんのふりをして返事しましたから」 「あ、そっか。なら大丈夫だね」 「はい。髭ですから」 瑞佳はそのクラスメートにばれないようにこっそりと笑った。 清楚そのものの顔で「髭ですから」はインパクトがある。 「でも、里村さんもそういうことするんだ。ちょっと意外。 あ、もしかして誰かの真似をした、とか?」 さっ、とわずかの間だけ、里村の顔に陰が映った。ほんの僅かな曇り。 「そうですね、こんな馬鹿なことは私にはできません」 スローモーションのかかったような視界の中で、その悲哀に気づいてしまった瑞佳はず っと同じ場所で立ちつくしていた。 ”どうしてだろう、その馬鹿なひとを私は知っているような気がする” 二時間目になっても、三時間目になっても……放課後になっても、その疑念はいつまで も心の中にある。 かすかに光が見えていた。闇の中に溶けてしまえば、周りと区別することのできないぐ らいの弱々しい光。 それでも光明を手にした瑞佳の期待は嫌が上にも高まった。目的のある旅とはこんなに も素晴らしいものだったのかと。 自分に手を差しのべている光は、どこへ連れて行ってくれるのだろう。 いや、その場所はもう分かっていた。自分が忘れてしまった何かに続いているのだろう。 このまま進んでゆけば、いつか辿りつける。以前と違い、そう確信できた。だから、彼 女は歩き続ける。もう走る必要もない。それは、走る必要はないから…… 『折原家』 その家のかかっている表札にはそう刻み込まれていた。 ガラララッ。心ここにあらずといった風情で佇む瑞佳に仕切りをしまう音が聞こえた。 「あら、瑞佳ちゃんじゃない」 「由起子さん、おはようございます」 ちょうど、瑞佳の目の前にある家の家主、折原由起子(独身)が仕事に出かけようとし ているところだと瑞佳は見当をつけた。 「今日は遅いんですね」 由起子は手をひらひら振って否定した。 「違う違う。今日は仕事ないから食料を買いだめに行こうと思ってね。 それにしても久しぶりね。ちょっとそこまで一緒に歩いていかない?」 返事の代わりに、瑞佳はすっと自分より背の高い女性の横に並んだ。 「ところで、今日はどうして家の前にいたの?」 なんとなく、が一番正しいのだろうと瑞佳は思った。 夢は起きたときに忘れてしまうものだからちゃんと覚えているわけではない。けれど、 今日の夢は明るい希望が見えたことは覚えていた。 そうしたら自然、瑞佳の足はここに向かっていた。これも理由は分からない。 「家を早くに起ってしまったから、寄り道しようと思って」 精一杯の笑顔を作って、瑞佳の口から出たのはそんな言葉だった。 由起子はどういったわけかニヤリと笑う。異様な顔にちょっと瑞佳は引いた。 「そうだったの? 私はてっきり……てっきり、何かしら?」 途中から急に顔を惚けさせて、由起子は腕組みして考え込んだ。 「うーん、私もついに呆け始めちゃったのかしらねー」 由起子の抜け落ちた記憶。それは、瑞佳自身の捜し物と何か関連があるのだろうか。だ が、抜け落ちた記憶、だからこそ事態の究明は不可能だった。 それからはとりとめのない雑談に花を咲かせた。ゆっくりと学校を目指して歩いている と、こんなゆっくり歩いていて大丈夫なのだろうか、という疑問が瑞佳に生まれた。 この風景の流れ方は遅すぎるのではないか。もっと急がないと間に合わないのでは。一 時間も早くに家から出てきたからには大丈夫に決まっているのに、それでも。 どうにも解決できない思いを抱えつつ、ただ、表面上は何気ないふりをして瑞佳は歩い ていた。そこに横手から声がかかる。 「……長森さん、由起子さん、おはようございます」 ぺこりとお辞儀をすると先端が地面に着いてしまうんじゃないか、と冗談にできる長い 黄金の三つ編み。二人に声をかけてきた人間は瑞佳のクラスメートの里村だった。 「おはようー、里村さん」 「おはよう。――あら、里村さんは瑞佳ちゃんとも知り合いなの?」 「クラスメートですから」 里村のこれ以上はないほどの簡潔な回答に、なぜか由起子は深く頷いた。 「里村さんは昔、びしょ濡れになって家に運び込まれたことがあるのよ」 そんなこともあったんだ、と瑞佳は新鮮な心持ちで二人の話に耳を傾ける。 「その節は大変お世話になりました」 ぺこっと深々とお辞儀する里村。仰々しいわよ、と由起子は笑う。 一つ不明な点を見つけた瑞佳は由起子に尋ねてみた。 「どうして里村さんが折原家に運び込まれたんですか?」 「ええと、あの、それは……。どうしてだったかしらね」 そのとき里村が見せた表情はかつて美術室で垣間見せた顔に似ていたと瑞佳は思った。 寂しさと悲しさと切なさと、誰かに裏切られたときの、何かに失望させられたときの、 それらがないまぜになった心象の表現。 それを一言で表すとすると悲痛、となるだろうか。けれどもそれだけでは、里村の表 情の万分の一でさえ表すことはできないだろう。 由起子と別れたあと、そのまま惰性で里村と登校しながら、瑞佳が考えていたのはそ んなことだった。 その日、佐織は学校を休んでいた。一時限の担当教科の授業に姿を見せた担任の髭は、 佐織は風邪で休むそうだと一言告げてから自分の授業を始めた。 一方瑞佳は昨日に続いて姿を見せなかった親友の身を案じた。そして、今日お見舞いに 行こう、と決めた。 黒板いっぱいを文字で埋めつくして、髭はああ、そうだと前置きしてから、 「実は進路の調査用紙を忘れていた。これから取りに行ってくるから、自習しておくよう に」 ばたん、と髭が教室のドアを閉める音。すると教室はにわかにざわめき始めた。 大概の者はおおまかには自分のこれからが見えている時期だ。どこに就職するとか、ど この大学を受けるか。そのくらいのことなら決まっていなければおかしい。 果たして、髭の持ってきた用紙はただの進路調査ではなかった。用紙の下側には「第一 希望、第二希望、第三希望」との項目があり、その上には「進学を希望するものは第三希 望まで記入しておくように」との但し書きも。 ざわめきが喧噪に変わった教室内。髭は慣れたもので、それを収拾しようとはしない。 生徒の自主性に任せると言えば聞こえはいいが、教師としての役割を忘れている、とも言 える。 「あー、今日の日直は……里村か。すまんが、調査用紙を稲城の家まで届けてほしい」 「……はい」 かしましい環境にもかかわらず、里村の澄んだ言葉はかきけされることはなかった。 キーンコーンカーンコーン。 7時間目の終了を知らせるチャイムに、教室内の緊張がすっとほどけた。 なおも黒板に必須事項を書き込んでいた歴史教師は、半分ほどの生徒に無視されていた。 キリのいいところまで書き終えて歴史教師がドアの外へ姿を消すのと入れ替わりに髭が 教室に入ってきた。HRの開始時間が早いのは髭の一大美徳であると生徒たちの間で評判 だった。 「今日配った調査用紙は明後日までに提出すること。以上だ」 そして、HRの終了までの時間が短いことも生徒たちの髭の支持理由の一つであった。 「ねーねー、今日これからカラオケいかない?」 「おい、ゲーセン寄っていこうぜ」 今日のこれから、もしくは明日からの予定に沸く生徒たちの間を通り抜けながら、瑞佳 はある人の席に向かっていた。 もう支度をすませて帰ろうとしているその人の後ろ姿に声をかける。 「里村さん」 くるり、と笑い出したくなるような小さなステップで振り返って、「はい」と返事を返 してくる里村。 「私もこれから佐織の家に見舞いに行こうと思うんだ。よかったら一緒にどうかな?」 「構いません」 じゃあ、と佐織の席にあるはずの調査用紙を取りに出かけた瑞佳に後ろから声がかかる。 「用紙なら私がもってます」 「早いねー、里村さんは」 「そんなことありません。普通です」 そんな会話を交わしながら、二人は学校を後にした。 「いやさー、私はもう大丈夫だって言ってるのに親がどうしても同意してくれないのよ。 あっ、心配かけちゃったかな瑞佳。ごめんねー。里村さんもありがとう。先生に頼まれ たからって、瑞佳に預けちゃえばそれでよかったのに」 「わたしは便利な郵便屋さんじゃないよ」 「そういう意味じゃなくって……まあいいか。ともかく、私は明日は絶対に学校へ行くか らね。お母さん、分かってる?」 佐織は瑞佳の目からみても健康そのもので、ちょっとだけあった不安も露と消える。 お見舞いついでに紅茶をごちそうになった二人は夕焼けから紺碧の世界へと移りゆく空 を見上げていた。 「長森さん、何か私に尋ねたいことがあるんじゃありませんか?」 突然、里村はそう切り出した。 「どうして、分かったのかな」 「ずっと、私の顔を見ていました」 「そっか。ばればれだったんだ」 里村さんは私の忘れてしまったことを知っている、それは一体何なのか教えてもらおう と瑞佳は里村と一緒にいたのだ。 「それに、いつもの長森さんなら『大変だね。わたしが持っていってあげるよ』と言って くれます」 「ううーん、そうかもしれないね」 会話が止まる。 カラスのもの悲しい鳴き声が二人の頭上を通り過ぎていった。 瑞佳はこぶしにうんっ、と力を入れて勇気を振り絞って尋ねた。 「わたしの忘れてしまったことを、里村さんは知っているんじゃないかって」 「それは……」 里村のいつか見た悲しげな顔とは少し違っていた。 逡巡と不安、そして諦めの絵の具をその顔に載せている。 「たぶん、私のこれから言うことを長森さんは理解できないでしょう。それでも、聞きた いですか?」 迷わず頷く瑞佳を見て、里村の表情はさっと曇った。俯き加減に声を発する。 「ついてきて下さい」 里村は、歩きながらぽつぽつと語り始めた。 ――私には、好きな人がいます。分かりますよ、そんな雰囲気なんてないよ、と言いた いのでしょう? それは、今その人はここに、この世界にいないからです。どこかへ行ってしまって、こ の世界から消えてしまいました。 消える、というのはどういう意味か分かりますか? その人がこの世界からいなくなる、それだけだったなら…… 世界は、その人がいなくなったことの辻褄を合わすかのように、世界からその人の存在 を消去します。そう、人々の記憶からも。 すっぽりと、その人の記憶だけ無くなってしまう。忘れてしまうんです。その人と一緒 に、私の友達と三人で過ごしたはずの時間も、友達にとってはその人を除いた二人で過ご した時間としてしか認識されていない。 ただそれでも違和感は残ります。何か忘れている気がする、と。今の長森さんみたいに。 その人との思い出が深いぶん、その人とのつき合いが長かったぶん違和感は大きくなる。 だから、長森さんはそれほどに心に重たいものを抱えているのでしょう。 長森さん。あなたは、あの人をとてもよく知っています。それでも、あなたは覚えてい ない。あの人のことを覚えているのは、この世界で私一人だけ。 この苦しみが分かりますか? この悲しみ、せつなさ! 『わたしの忘れてしまったことを、里村さんは知ってるんじゃないかって』 さっき、そう言っていましたね。 そんなこと言わないで下さい。お願いですから、そんな悲しいことを言わないで―― 空き地の一角のススキに囲まれた、地面のさらけ出された場所。自らが連れてきた場所 で、彼女――里村茜はその体にかかっている重圧に耐えかねたように、地面に手をついた。 瑞佳は彼女に告げる言葉が見つからなかった。自分の何気ないつもりの言葉が、目の前 にうずくまる少女を生み出したと知って。 「ここは最後にその人と会った場所。そして、別れた場所です」 ぽつ。……最初は、誰にも気づかれずに地面に吸い込まれる。 そして、止めようもなく降り出したにわか雨は、涙を見せない里村の代わりに泣いてい るようだった。 ここにいては彼女を悲しませるだけだ。その声に従って、瑞佳はその場所を後にした。 幾度振り返っても、里村が空き地を出る気配はなかった。 闇を照らす光は、彼女が進むにつれて強くなっていった。 けれど……彼女は不思議なことに、最初はあれほど頼もしく思えた光を信じられなくな ってきていた。 その光は闇をうち消す。しかし闇をうち消した光の中にも、何も見えるものはない。こ れでは闇と同じ現象ではないか。その思いが膨らんでゆくなかで。 見えた、と彼女は思った。人の後ろ姿を確かに見た。肩幅の広さから、男性であると推 測する。そして、彼の傍らには、彼と手を繋いで歩いているのは、どこか見覚えのある、 フリルの付いた真っ白いワンピースに身を包んだ少女の姿。 そうだ、前に回り込んでその人の顔を見ることで思い出せるかもしれない、と彼女は足 に力を込めた。その瞬間、閃光が彼女の視界を覆う―― 空き地での一件以来、瑞佳は里村の顔をまともに見ることすらできなかった。 向こうは何もなかったように……そう、これまで何もなかったかのように過ごしてきた 彼女は、やはりそれが普通なのかもしれない。 そこで瑞佳は里村の言葉から得た幾つかのヒントから自分なりに記憶を求めようとして いた。 思い出が深く、長いつき合い。それならば、自分のこれまでの成長を記してきたアルバ ムに何かあるかもしれない。 幸い、瑞佳の両親は娘の成長の奇跡を大事に保管していた。ムービーまで取りだしてき て大鑑賞会を開かれたときはちょっと閉口したものだが。 アルバムをめくっていると、すぐに気づいた。自分の知らない男の子が、幾つもの写真 に写っている。写真の中にいる自分は嬉しそうに、その男の子と手を繋いでいた。 写真の下に挟まれたラベルには、こう記してあった。『わたしと浩平。小学校5年の始 業式』。 そして、おそらくはもっと確信に迫るだろう写真。 これも男の子と手を繋いだ自分と、自分たちを抱えている一人の女性の姿が映っている。 場所は小学校の校庭。瑞佳は運動会の時の写真だと思った。はっきりとは覚えてない時分。 ラベルはこうだ。『わたしと浩平。運動会にて』。その少年の体操着には、もちろん自 分の体操着だってそうなのだが、クラスと名字が記されていた。 長森瑞佳。これは自分の名前。もう一人は、折原浩平。それが彼の名前だった。 「浩平くんって知ってる?」 「思い出してないのなら、やめてください」 絞り出された声は、悲痛……というよりも非難の意を含んでいた。 それから里村は意図的に長森を避けるようになった。その仕草を隠そうともしない。 「ねえ瑞佳ぁ、あんな態度取られたままでいいわけ?」 「ううん、きっとわたしが悪いんだと思うから」 「まぁた瑞佳のそれだ。もっと自分を主張してくれないと困るのよね、親友のあたしとし ては」 「ごめんね、佐織」 「別に謝らなくてもいいってば」 もう、瑞佳から話題を振って話しかけても里村は答えてくれそうになかった。 光はますます強くなっていった。それだけではない。あれほどに蓄積されていた彼女の 疲労もいつのまにか和らいでいた。けれども、彼女の足が交差する、振り子のような運動 に変わりはなかった。 何か得体の知れない気持ちが彼女の足を押しとどめていた。ずっ と、どこか見覚えのある背中とどこか懐かしい小さい背中を見ているだけだった。 二人は後ろを歩いている彼女には気づいていないようだった。思い切って声をかけてみ る。 「ねえ、ちょっと待ってよ!」 先を歩く二人は何かの話に夢中になっているようで、彼女の声は届かなかった。それで も挫けずに彼女は二人について歩いていく。 季節は巡って、喪失感に気づいてからはや一年になろうとしていた。一年でもっとも雪 の降り積もる季節に、瑞佳はいた。 昨夜から降り続いた雪は、今もなおしんしんと地面に新たな一ページを付け加えている。 柔らかな雪は手に取ってみるとふんわりとしていて物語に出てくる空の雲のようだ。けれ どその分、人の体重には耐えきれなくて、普通の靴を履いて外に出たらすぐに靴の中まで びしょびしょになってしまう。 そういった理由で長靴を履いて長森は今日も学校へ向か っていた。残念ながら豪雪警報・注意報が出ないことには休みにならないのが高等学校と いうものである。 優しく降り積もる雪。出来れば私のこの喪失感も埋めて欲しい。傘の下から手を差しの べてみる。手のひらに降り立つ雪は、一瞬何かを埋めてくれるような気がするけれど、い ったん傘で次の雪を遮ると、ほんの小さな、小さな水たまりを残してどこへ行ってしまう。 視線を妨げていた傘を斜めに持って前を確認する。そこには、幾度か見たことのあるピ ンク色の傘。里村茜の傘だった。 「おはよう里村さん。今日は寒いね」 「……そうですね」 避けるような身振りで里村は言う。 「里村さんっていつもその傘だよね。お気に入りなの?」 「……はい」 少しだけ表情が柔らかくなった里村に気をよくして、長森は話を続けた。クラスメイト なのに、今のようなギクシャクした関係のまま学期末を迎えるのは心残りだった。 「ふーん、大切な思い出がつまっているんだね」 「思い出……ですか?」 「うーん、なんとなくそうかな、と思って。違う?」 「そうですね。楽しい思い出とは趣が違いますが、それでも大事な思い出です」 「でもそんな大事な傘を使っちゃっていいの? 雪でつぶされちゃったら大変でしょ?」 「そのときは、大事に仕舞っておきます。思い出が――本当にたくさんの思い出を刻んで きた、私と一緒に歩いてきたものですから」 里村の今の表情はとても穏やかだった。それでも、かすかな翳り、それは瑞佳の心に一 番届いてきたものだった。 「長森さん?」 里村が自分から瑞佳に話しかけてくるのは本当に久しぶりのことだった。一体どんなこ とを話してくれるのだろうか、と瑞佳の胸は自然と高鳴る。 「もうすぐ、卒業ですね……」 「うん、そうだね」 「長森さんは、この学校に入って楽しいこと、素晴らしいこと、心に残ることはありまし たか?」 「もちろん色々あるよ。文化祭とか……」 「そうではなくて、この学校でなくては巡り会えなかったこと、です」 「うーん、うーん、難しい質問だね。うー、うー」 「なかなか見つかりませんね」 「そうだね。中学校の時と何が違うかと言われるとちょっと困っちゃうね」 「私は、ありました」 「え?」 「この学校でなくては、巡り会えなかったこと、です」 瑞佳が里村の顔に初めてみる、翳りを含まない、純粋な微笑みだった。 今日も彼女は二人について歩いていた。こうまで気づかれないかな、と不思議に思う気 持ちはどんどん膨れあがってゆく。けれどもまだ、彼らの前に出る勇気はなかった。 もう、幾日後ろについて歩いたのか分からない。ただ、前を見て歩くだけの毎日が続く。 最初、彼女はそれは霞が動いたのだと思った。次は、幻覚だと思った。しかし、そうで はなかった。彼女を含めた三人以外の誰かが、まっすぐにこちらへ向かって走ってくる。 迷うことないその姿は今の彼女には眩しかった。 やってきた人影に目を留めた少年――彼女のすぐ前を歩いていた二人組の一人がその姿 を見つけると傍らの子供に手を振る。別れの仕草に子供も応えたことを確認して、少年は 瑞佳とは反対の方向へ駆けだした。 そして、二人はお互いに目の前まで迫った場所で止まった。二人息のあった仕草だった。 向こうからやってきた人影は、今では少女だと分かる。その少女の口が開かれ、言葉が紡 がれた。 「おかえりなさい、浩平」 そして二人はどこかへ消えてしまった。すっと、今までそこにいたことを否定するかの ように。 別れを見送っていた子供が、ゆっくりと彼女に体を向ける。純白の布に包まれた幼い姿 態。見覚えはない。しかし、世界中の他にも負けないくらいにその子を知っているという 確信が彼女にはあった。なぜなら、その姿は彼女の幼い頃の姿そのままだったから。 「みずかは、どうしてここにいるの?」 「もう、こうへいはここから旅だって行ったんだよ」 「わたしとこうへいの盟約は終わったんだよ」 「だから、わたしはわたしの進みたい道に足を向けてくれたらいいんだよ」 「ここは、みずかの世界。瑞佳のいる世界じゃないから。頑張ってね」 ふわっと体が浮き上がる感触。それは現実の感覚そのものだった。空を飛んで、瑞佳は この世界に別れを告げようとしていた。見る間にみずかの姿が小さくなっていく。それは やがて点になり、そしてその点もやがて世界の白に紛れ込んでしまう。 ぐんぐんと上昇してゆくと、空の色がどんどん変化していった。最初は、朝靄。次に、 朝焼け。太陽が昇っていくように、瑞佳が昇るにつれて空は変化していった。夕闇を経て 、銀色の月が世界を照らす。月が雲に隠れて、顔をのぞかせて、また隠れてを繰り返す。 そして、迎えるものは朝―― 2:盟約の幼なじみ - childhood friend - 目を開けると、カーテン越しに囁くような朝日の欠片が舞い込んでいた。つい数週間前 までは布団にくるまっていたいと思っていた、でも今は布団をかぶっていると少し暑いか な、と思う季節。暖かい日の次の日は冷えこむこともあって、布団の厚さを少しずつ薄く して調節して難しい季節。 いつもと変わらない自分の部屋に、やはり変わったことはない。だというのに、瑞佳は 昨日までとどこか違っていると感じた。それは、今朝の夢と関係あるのだろうか。 「おはようございます」 着替えてから居間へ入って自分の椅子に座る。あーそういえばね、と前置きしてから長 森母が話す。 「折原君の病気がようやく治ったそうなんだって」 「折原?」 聞いたことがあったような、あいまいな名前だった。 「いやねえ、折原浩平君よ。あんただって何度かお見舞いに行っていたでしょ?」 すらりと言い放たれる言葉。折原浩平という名前。 『違うよ、ただ遊びたかっただけなんだよ』 『嘘つけ! 明日からいじめてやるからな!』 『わーん、嘘じゃないのにい』 『浩平、今日から中学生だね』 『だからって言われてもな。今までと同じだろ、多分』 『そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないもん』 『結局、高校でもまたお前と同じ学校か』 『それが毎朝起こしに来てあげている幼なじみに言う言葉?』 『俺は刺激を求めているんだ! こう、血沸き肉踊るナイスな戦国風呂をだな』 『なに言ってるんだよ浩平』 『長森の顔みると、反射的に眠たくなるんだよな』 『何よそれ。随分なこと言ってくれるじゃない』 『なんかこう、斬新な起こし方とかないか?』 『はあ……馬鹿言ってないで早く起きてよ』 確かに、折原浩平という少年は瑞佳の一生に関わってきた。そして浩平と知り合ってか らずっと瑞佳はずぼらな浩平のことをいつも気にかけていたのだ。 だが、ここ一年ばかり、彼は何をしていたのだろう。瑞佳には浩平と会っていた記憶が 見あたらなかった。無かったのだ。 どこからか瑞佳の記憶に割り込んでくる何か。行ったことないはずの病院の風景、痩せ こけた浩平の顔、彼の手首につけられた点滴の管。存在しなかった事実が瑞佳の脳に進入 してくる。そして彼のいなかった過去を都合良く改変した過去に飲み込まれそうになる。 「いやあああっ!」 脳をはいずり回るようなそれは、むしろ甘美でさえあった。それでも、瑞佳はそれを拒 否した。彼女のなかにある浩平という存在を刻みつけるかのように。 「瑞佳、瑞佳。ねえどうしたの? あ、あなたちょっと!」 慌てふためく母親の声が遠くに聞こえてゆき、瑞佳は意識を失った。 「ええ、すみません。突然娘が調子を崩してしまって」 何度も謝ってから、ようやく長森母は電話を切った。 「お母さん、わたしは大丈夫だから学校に行くよ」 「駄目。あんなに取り乱したあなたを見て放っておけるわけないじゃない」 結局、瑞佳はむりやりベッドに押し込められた。お願いだから今日だけは休んで頂戴。 そうしてくれたらお母さんも安心できるから、と言われて断り切れなかった。 それに、自分にも考えるべきことがあった。折原浩平、彼女の幼なじみ。今日の発作の 原因。違和感のあとには、伺い知れない虚無感がまとわりついていることを感じながら、 枕に右頬を押し当てるようにもの思いにふける。 どこにもいなかった彼のことを、家の人は病院にいたと証言し、それは瑞佳に押しつけ られようとした、瑞佳の記憶と矛盾したここ一年の出来事に合致していた。 はぁ。いくら考えても答えは出ない。結局、本人に聞くのが一番だと結論づけるしかな かった。 「ういーっす、長森が倒れたと聞いたんですけど」 「あら、お久しぶりね。体はもう良くなったの?」 「…………ええ、まあ」 半開きになったドアから、聞き覚えのあるなじみ深い声が瑞佳の耳朶に響いた。 だん、だん、だん。廊下から階段まで音を立てて近づいてくるその人。 とん、とん。とドアをノックする音が聞こえる。 「開いてるよ、浩平」 ドアに身を滑らすようにして入ってきたその人影は、足音と似合わない繊細さでドアを 後ろ手に閉めて、瑞佳が横たわっているベッドに目を向けた。 「よう、元気そうじゃないか」 何もなかったかのように気楽に声をかけてくる少年の声変わりを果たした声。 「お母さんが神経質なだけだから」 「学校に行ったら長森が倒れたって聞いたからな。びっくりしたぞ」 「わたしは大丈夫だよ。それより浩平、病院の生活はどうだった?」 表情を堅く引き締めて浩平は答える。 「ああもう、最低だったぞ。動けないわ恐ろしく強引な看護婦さんはいるわ藪医者が揃っ てるわ」 「大変だったね〜。わたしがもっとお見舞いに行けたらよかったんだけど」 「お前だって音楽学校の受験にむけて色々あっただろ。 おっとそうだ、まずそのことを祝っておかなくちゃな。おめでとう、長森。晴れて大学 生だな」 瑞佳はくすっと……寂しげに笑った。 「そうだね。今度は二人別々の道を歩くことになるんだね」 「お前が今まで俺に構い過ぎていただけじゃないか?」 自分でもちょっと冷たい言い方か、と思いながら浩平はその言葉を発した。 『酷いよ、わたしは浩平のことを考えて』 浩平の予想した答えは返ってこなかった。二人の間に流れる沈黙の時間を断ち切ったの は瑞佳の方だった。 「そうかも……しれないね」 「……長森?」 「浩平、ごめんね」 突然の謝罪が何に対してのものなのか、浩平には理解できなかった。 「病院に来なかった件なら、許してやるぞ」 浩平の言葉に、瑞佳の顔はさらに哀しさを増す。 「浩平、病名は何だっけ」 うっと詰まる浩平は、なんとか声を絞り出して言った。 「流行性感冒だ」 「普通はインフルエンザで一年間も休んだりはしないもん」 「俺は色々と規格外の人間だからな。通常という言葉の範囲内で答えられても困る」 「病名は?」 「……それは、あのだな……」 視線を虚ろに彷徨わせる浩平に顔を向けながら、瑞佳はベッドの端に腰を下ろした。 哀しげな顔のまま、悔やむような声で、 「嘘ついても無駄だよ。全部、覚えているんだから。 浩平が病気なんかじゃなかったことも、私が見舞いに行かなかったことも、一年間ずっ と浩平と会っていなかったことも、一年間も浩平がいなかったことも」 一歩。一歩だけ下がって浩平はうめいた。 「何を言っているんだよ長森」 「わたしが、浩平のことを忘れてしまっていたことも」 それが、決定的な言葉だった。 「どうして覚えているんだ」 自分に向けられた真摯な視線を感じながら、瑞佳は続いて口を開く。 「覚えてなんかいないよ。わたしはずっと忘れていたんだから。ただ気づいただけだよ」 瑞佳は答えない浩平を静かに見つめていた。 「覚えていたのは、里村さんだけだと思う。わたしも、由起子おばさんも忘れてしまって いたから」 喉にひっかかっているような、掠れた声で浩平は問いかける。 「茜がお前に話したのか?」 「うん――話してくれたけど、わたしは何のことか分からなかった。違和感はずっとあっ たんだけどね。何かが自分の生活の中で欠けている。そんな感覚に、この一年間は支配さ れていた」 多少力強い声に戻って、浩平は長森に話しかけた。 「長森、俺はな……」 「話してくれなくてもいいよ。だって、わたしには聞く資格がないから」 「正直、軽い嫉妬みたいなものも感じちゃうよ。今まで、浩平のことを一番知っているの はわたしだって、浩平のことを理解しているのもわたしだって。そんな風に考えていたん だから。でも違った。わかったふりをしているだけだったんだよ」 浩平は何も言えなかった。彼だって、自分のことを一番理解してくれているのは瑞佳だ 、とずっと思ってきていたから。長いよしみで、何もかも理解し合っていると。 でもそれは、何もかも理解し合っているはずだ、ということにすぎなかった。 浩平の心が里村に向いた時、それまでの過去は否定されたわけではなかった。結びつき は変わらなかった。 それでも、浩平に一番近い場所で心を通い合わせていたのは里村だった。 うって変わって明るい声で瑞佳は言う。 「お見舞いありがとね、浩平」 精一杯の笑顔は、ちゃんと笑顔に見えてくれただろうか。そんな思いで、瑞佳は部屋か ら出ていく浩平の姿をいつまでも見つめていた。 そしてまた、瑞佳はあの場所にいた。どこまでも続く、どこにもたどり着くことのでき ない世界。彼女の周りには、誰もいない。瑞佳が探し求めていた人はもうこの世界にはい ないのだから。 視界一面に広がる虚無というにはあまりにも優しい世界に、ぽつねんと一人取り残され て、瑞佳はずっと立ちつくしていた。 「やあ、新しいお客さんだね」 降ってわいてきた声に導かれて振り向いた先には、優しげな相貌の少年が笑顔で佇んで いた。 少年は人なつっこく瑞佳に笑いかける。瑞佳はあまりにも当たり前ともいえる質問を発 した。 「あなたは誰?」 「僕は氷上シュン。シュンと呼んでくれると嬉しいな。ところで君は、どうしてここに来 たんだい?」 瑞佳はどうしてだろうか、と思った。そう、浩平はここにはいないのに。いくら考えて も答えは出ない。 「ちょっと意地の悪い質問だったかな」 少年は一転してそんな台詞を口にした。瑞佳の感情を確かめるようにして言葉を紡ぐ。 「君は、折原浩平に会いたくてここに来たんじゃないのかい?」 そうなのだろうか? その疑問を顔に出した瑞佳を気にせずに言葉は続けられる。 「折原浩平といっしょにいたかったからここにいるんだよね?」 なんとか瑞佳は反論を試みた。 「浩平は、もうこの世界にはいないもん。だから、他の理由があると思う」 「いいや」 語気鋭く瑞佳の言葉を否定した氷上からそれまでの気安い雰囲気が消し飛んだ。 「向こうの世界にいても、折原浩平の傍にはほかの女の子がいるから、君はここにいるの さ」 氷上の言葉尻に、これまでなかったものが宿っていた。嫌な感じのものとしか瑞佳には 表現しえない何かが。 「君は向こうの世界にいても浩平の一番傍にいることはできない。だから、君が彼の一番 近くにいた頃の世界を求めてここに来たのさ」 「違う」 瑞佳の言葉を一言で切って捨てる氷上の声には冷酷さすら宿っていた。 「違わないさ。君が今ここにいることが何よりの証拠じゃないか」 一拍おいて、瑞佳の表情を見て取った氷上は最後の言葉を放つ。 「君が、折原浩平のことが好きだったとは言わない。けれど、君は里村茜という少女に嫉 妬しているんだよ」 ずっと共にいた幼なじみである自分が忘れてしまった浩平のことを、僅かのつき合いで しかない里村が覚えていた、氷上はそう告げていた。 心当たりは、十分すぎるほどにあった。浩平という言葉の意味を思い出した、親に思い 出させてもらったとき、瑞佳によぎった虚しい想いはそれではなかったのか。浩平に語っ た「ちょっとした嫉妬」は本当にたいしたことないものなのだろうか。 氷上は寄る辺ない瑞佳に手を差しのべる。 「ここは、えいえんの世界。ここでなら君は、いつまでも浩平の最も近い存在でいられる」 氷上の言葉が、瑞佳の心の隙間に滑り込んでいった。瑞佳の顔から表情が失われてゆく。 虚ろな表情の瑞佳が、氷上の手に自らの手を重ねようと手を伸ばす。10cm、5cm 、2cm…… 目を細めて氷上が満足そうに微笑んだ。 ついに二人の手が重なる……。 二人の手の狭間に光が生まれた。光は二人の手をはねのけるようにして成長する。自然 、今にも一つになろうとしていた二つの手は離ればなれに引き裂かれる。 光は膨張を続け、やがて7,8歳の子供大にまで成長したところで突如収束する。未だ 燐光瞬く場所に姿を見せた人影。白いワンピースに身を包んだ幼い少女の姿。 女の子は精一杯の威勢を張って氷上を睨みつける。等の氷上は苦笑して少女の顔を見つ めていた。 「どうして僕の邪魔をするのかな、みずか?」 いつか見た、自分の幼い頃の姿とそっくりの後ろ姿。服装、髪型、体型、何もかも瑞佳 の記憶の中にあるその形に、瑞佳は失いかけていた意識を取り戻した。 少女は手にしたおもちゃを握りしめた。これだけは、瑞佳には覚えのない形だった。何 かの爬虫類をかたどった木の模型を汗でにじませる女の子の手が動くと、瑞佳の目の前に 突然、黒光りする扉が現れた。瑞佳の身長よりは10cmくらい高い扉が、手も触れずに 扉が開いてゆくのをただ瑞佳は見つめていた。 「早く、その中に逃げ込んで! そうすれば瑞佳の世界に戻れるから!」 氷上の顔がこれまでにない変化を見せた。何者をも恐れさせずにはいられない、背筋が 凍るほどの憎しみの顔がその細面に浮かぶ。 ぞっとする気持ちに押されて、瑞佳は女の子の用意した(としか思えなかった)扉に飛 び込んだ。 瑞佳の体が扉の内側に収められると扉は靄がかすむように消えていった。それと同時に 、二つのことが同時に起こる。 女の子が安堵のため息を洩らすこと。 氷上がこれまでなんとか保ってきたその攻撃性を剥き出しにしたこと。 「まったく、みずかには困ったものだね。お姉ちゃんがこの世界に留まってくれれば、み ずかと遊んでくれるだろうに。残念なことをしたね」 「残念なのはそっち。それと、わたしのことをみずかって馴れ馴れしく呼ばないでね」 「ふう。子供は元気が一番だ、とは誰が言ったことやら……せっかく新しい仲間が生まれ るところだったのに」 仲間という言葉に、みずかの表情にも怒気が現れる。 「仲間じゃないもん。あなたは私たちみたいな存在を作り出して、仲間だと言いながら陰 で笑っているから。馬鹿な奴だ、こんなに簡単に転んでくれるとはね、こんな風に笑って いる。 そんな人とは仲間じゃない。あなたは、みずかの敵だよ」 みずかの挑発を見て取った氷上はみずかの肩に手をかけた。笑顔を取り戻した氷上は諭 すように、 「無理をするものじゃないよ。君はただでさえ折原浩平がいなくなって、存在が危うくな っているんだからね。僕は君のためにも、彼女をこの世界に呼んであげようとしたのにそ んな風に言われるのは心外だね」 「ふーん、永遠の世界なのにわたしがいなくなるんだ」 みずかは、やはり純粋すぎた。決して相手を刺激してはならない点をついてしまう、そ の点において。潮が引くように氷上の顔から笑顔が、苦々しさを表す口元の歪みが消えて ゆく。感情を消した顔は本人の美貌も相まって精緻な能面を思わせた。 氷上は肩に掛けていた腕をじわじわとみずかの体の中心へ寄せてゆく。そして両腕がみ ずかの首を抱え込むと、腕はそのままに氷上はみずかを持ち上げた。首を絞める力をだん だんと強めつつ、氷上は囁くように、喜悦の交じった声を上げた。 「苦しいかい? 苦しいだろう? だが大丈夫、君は死んだりしない。君の存在が消えた りはしない。ここはえいえんの世界なのだから。 いつまでたっても、どれほど苦しんでも、いつまでもえいえんいこの痛みは続く。これ がえいえんの証拠さ。 さあどうだい? ここがえいえんだってことが分かってくれたかい? 僕は君のために 、君が理解してくれるまで君に痛みを与え続けよう。子供にはしつけが必要さ。これも愛 の鞭というやつだから、君も許してくれるよね」 ……みずかの喉から、声にならない声が漏れる。 「ああ、なんだい? なんて言っているのか良く聞こえないよ。もっと大きな声で言って くれないと分からないじゃないか」 凶器の表情に支配された氷上は、ほんの少し力を弱めた。みずかのあえぎ声が、どうに か言葉として形をなして氷上の耳に伝わる。 「これが……あなたの本性」 嫌な夢という名の記憶。それは、いつまでも頭の中にこびりついていた。悪夢に突き動 かされ、瑞佳は手早く着替え、食事を終わらせて両親の制止する声を振り切って家から飛 び出した。 一人だけで学校へ直行するにはまだ早いが、遠回りするとなると――思考を途中でうち 切った瑞佳は勢いよく走り出した。四つ角で早朝ランニングの一段と衝突しそうになった り、近所の野良猫を危うく踏みそうになりながら、目的地を目指して走る。 行き着く場所は折原家、言わずとしれた浩平の住む家だ。玄関を目の前にして、瑞佳は 折原家の鍵を取りだした。忙しい自分の代わりに起こしてくれるのだから、とずっと以前 に由起子から渡されていた、一年もの間引き出しの中で誰にも見つかることなく眠ってい た鍵を手にとって、鍵穴に差し込んだ。 かちゃり。鍵が右に半回転したことを確かめてからドアを開く。 いくら力を入れてもちょっと隙間を作るのがせいぜいだった。どうやら鍵がかかってい なかったところを、瑞佳が鍵を閉めてしまったらしい。由起子さんは珍しく朝寝坊なのか 、それとも風邪か何かの病気でお休みなのかもしれなかった。 さっきと反対方向に鍵を回してから力をこめれば、ドアはなんなく開いていった。 靴を急いで脱いで、しかしつま先を玄関へ向けることは忘れない。白のソックスをすべ らせるように、自分の家の階段の次に、もしくは学校の階段と同じくらいに足に馴染んだ 階段をなるべく音を立てずに登り切る。これから二階の部屋にいる人間を起こそうとして いるのに、静かに階段を登っていた瑞佳であった。 いつもより多少勢いよく扉を開く。 「浩平っ、朝だよっ!」 目に飛び込んできた光景に、ドアを開いた姿勢で瑞佳の動きは止まった。 自分以外の誰か――もちろん由起子さん以外の人間だ、がその部屋にいた。彼女はいつ ものようにそっけない挨拶を送ってきた。 「あ、長森さんですか。おはようございます。ほら浩平、早く起きてください」 「そんなに言わなくても分かってるって……あれ、長森。風邪は治ったのか?」 ふぁーあと無邪気にあくびを見せながら、浩平はまだまだ眠り足りないという顔をして いた。 だが、起きていた。自分はもう、浩平には必要ない。 哀しいばかりの結論を導き出した瑞佳は、くるりと体を翻して部屋を飛び出していった。 後ろから浩平の焦った声が届いてくる。 「くそっ!」 苛立ちの声を上げ、浩平はベッドから飛び跳ねると階段を下りながら学生服に着替えて いった。寝ている時に来ていたシャツやズボンを適当に投げ捨てながら、台所へ向かう。 程良く焼き上げられた食パン――当然、里村があらかじめ焼いておいたのだろうあつあ つの物体を口に詰め込む。 「浩平、突然どうしたんですか?」 台所の入り口に姿を見せた里村に、浩平は指で水道管を指さした。浩平の意志は伝わっ たようで、里村は慌てて水道水を注いだコップを用意してくれた。 水で無理矢理パンを胃に押し流す浩平を、里村が非難の目で見つめる。その目に応える ように、浩平は叫んだ。 「甘いっ!」 市販のマーマレードの甘さを50倍にしたかのような特異なマーマレードだった。 むっ、とする里村の表情を横目で捉え、後で謝っておこうと思いながらも、浩平の足は 玄関へと向かっていた。 「浩平、急いでどうしたんですか。それにあの女の人は誰です? もしかして浮気相手で すか?」 何を冗談を、と言おうとした浩平の言葉が口元で凍り付く。 『あの女の人は誰です?』 脳内を言葉がかけめぐる。不吉な予感に囚われた浩平に、記憶がごっそりと抜け落ちて いくような喪失感が…… 「ふざけるなあっ!」 自らの意志と記憶を強い感情で繋ぎとめる。それに成功したと悟ったときには、いつの まにか浩平の膝は床にくっついていた。 「長森だよ! お前とクラスメイトで俺の幼なじみの長森だ!」 惚けていた里村の表情に生気が戻り、そしてすぐ暗澹な面もちに取って代わられる。 「まさか、長森さんは……」 「分かってくれたのなら、急いであいつを追いかけるぞ!」 笑う膝を抱えて再び走り出す。だだだっだだっ。 響く足音は一対だった。浩平が後ろを振り向くと、里村は玄関で立ち止まっていた。詰 問しようとした浩平を遮って、里村は話す。 「私が行けば、逆効果でしょう。どうやら長森さんは私に劣等感を抱いているみたいです から」 そんなことは、といいかけた浩平はふと、風邪で寝込んでいた長森の言葉を思い出した。 『話してくれなくてもいいよ。だって、わたしには聞く資格がないから』 「分かった。長森も連れて戻ってくるから、ここにいてくれ」 里村の返事を確認するのももどかしく、浩平は止めていた足を再びフル回転させた。 足を相互に動かすその最中、浩平の心に浮かんだ考え。振り払おうとしたその考えは、 ”みずか”、お前なのか……? 商店街を走っているはずだったのに、気づいてみればそこは夢の中に出てきたあの何も ない世界だった。 「夢の中じゃないんだけどね、ここは。 夢を見ている君たちは君たちの言う現実世界から離れているから、この世界に触れられ るというだけ。そして今の君は、夢の中でなくてもここへ来れるくらいに、この世界と馴 染んできているんだ」 最も最近の夢で出てきた男、氷上シュン。常に微笑を絶やさない 男。だが、先の夢の最後で見た表情を思い出せば、微笑は彼の仮面だということに気づく。 微笑は狡猾さを隠し、親しみやすさは馴れ馴れしさへと瞬時に変わる。つまりこの男の 全ては嘘。嘘でないものは唯一、人をいざなう話し手たる才能だけだ。 「それで、こっちの世界に来る決心はついたのかな?」 「誰が、あなたの言う通りに……」 「何度も言っているようで申し訳ないけど、君がここにいること自体が」 瑞佳はただ静かな眼差しで氷上を見つめていた。それを同意と解釈し、氷上は手を差し のべる。動かない瑞佳の手。 「……ふう。君だって分かっているんだろう? 今更あの世界に戻ったところで、君の居 場所はないってはっきり分かったじゃないか。何をそんなに迷っているんだい?」 「私がいなくなったら、お父さんお母さんや、佐織たちはどうなるの? それを考えたら、わたしがいなくなることなんて出来ないよ」 「それだって分かっているだろう? 君の存在は誰からも消えて無くなるんだ。誰も悲し むことはないさ。まあちょっと変だな、ぐらいは思うだろうけどね」 「浩平からも、消えてなくなるんでしょ」 「それもいいだろう? 自分のことをすっかり忘れてしまった幼なじみのことをずっと覚 えていられるよりは。折原浩平君にも忘れてもらえばいい」 それは実際、魅力的な提案に聞こえた。全てをなかったことにすること。全てを無に帰 すこと。 そうすれば、自分がこんなに気に病むこともない。ここで、文字通り遠くから浩平を見守 っていればいい。 「さあ……」 差しのべられた手。動かない瑞佳の手。動かない瑞佳の体。拒絶することもなく、避け ることもなく。 「うっらあっ!」 それまでなかった威勢のいい声が、虚ろな空間に木霊した。聞き覚えのある声の人は突 然現れたかと思うと、氷上を蹴り飛ばして瑞佳に背中を見せていた。 「浩平……」 「くっ、みずかか、こんなことをしてくれるのは?」 蹴りの入った肩を反対側の腕でかばいながら氷上は立ち上がる。浩平は不敵な表情を浮 かべて怒気たっぷりの声で言い返す。 「ああ、道ばたに全身ぼろぼろの少女が現れたときには騒ぎになったけどな。 よくも”みずか”をあそこまで痛めつけてくれたな。それに瑞佳にも変なちょっかい出 しやがって!」 ぼうっと幽霊のように、浩平の背中に小さな少女が見えていた。 浩平が”みずか”と呼んだ幼い日の自分は、全身あざだらけで純白のワンピースは黒く 薄汚れていた。 「変なちょっかいとは心外だな。僕は彼女のことを考えて……」 「瑞佳!」 自分を呼んでいると、なぜだか分かった。”みずか”ではなく瑞佳と大事な話をしてい るのだと、瑞佳の長年の勘が訴えていた。 「言ってたよな。『話してくれなくてもいいよ。だって、わたしには聞く資格がないから』 って。お前が俺のことで気に病むのも分かる。だけどな、幼なじみってどういう関係だ?」 興奮して早口になる浩平の言葉を一字一句たりとも聞き逃さないように、瑞佳は心の耳 を澄ました。 「お互いに相手のことを理解し合っているのも幼なじみかもしれないけどな、それだけじ ゃないだろ。お互いに理解しているからこそ、今まで幼なじみとして一緒にいられたんじ ゃないか。それをお前は一方的に終わらせようってのか?」 「でも私は、浩平のことを理解できなくて、忘れてしまっていたんだよ!」 「それがどうしたんだ! 幼なじみだからって、何でも知っていられてたまるものか。 俺は今までお前とやってきた過去を大事にしたいし、それはこれからもだ。 「わたしは、浩平と一緒にいてもいいの?」 「……正直、ずっと一緒にはいられなくなると思う。永遠に変わらないものなんてないし 、俺たちの進んでゆく道は違うわけだしな。 けれどあのとき、あんなこともあったよな、って馬鹿話できる相手は、お前しかいない んだよ。 そんな幼なじみがいなくなってたまるものか! 俺には長森が必要なんだ。それは長森 でなきゃ駄目なんだよ!」 そうだ、浩平がいなくなっていた一年の間感じていた何かが足りない感じは、ちょうど 浩平の言うものだったのではないだろうか。そしてそれは、二人が一緒にいないと満たさ れないものなんだ。 そう気づいた瑞佳が差しのべた手を、浩平はしっかと掴んだ。 目を開ければ、そこはいつもの商店街で、閉じられたシャッターに陽の光が写っていた。 朝早い商店街に開いている店もなく、日中と違った閑散とした雰囲気に包まれている。 「戻って来たんだね」 「そうだな……さて、行くか長森」 「ちょっと待って。あ! パタポ屋の新メニューが載ってるよ!」 「どれどれ?」 ちょうど瑞佳の顔に横顔をさらすような形になった浩平の頬に、瑞佳は接吻した。 「な、な!?」 「あれ? 分からないの? あ、もしかして里村さんにはまだしてもらったことないのか なー」 「ば、馬鹿言え。あれだろ。あれ。キス……っておい!?」 ようやく自分が何をされたのかを悟った浩平の顔が朱に彩られた。 「あははっ。幼なじみからの親愛のキスだよ」 「もしかして、俺に気があったのか。で、ふられついでに思い出代わりに」 「わたし、浩平みたいなずぼらな人を好きになるほど馬鹿じゃないもん」 「なんだとーぉ!」 瑞佳の首を抱え込んでヘッドロックを決めようとする浩平。そこへ、 「浩平!」 二人の耳に飛び込んで来たのは里村の怒りに満ちた声だった。ぎぎぎっと二人同じよう なぎこちない仕草で振り向いた方角には、顔面に珍しく感情を表している里村の姿。 もしかしたらとんでもなくやばいことになってるかもしれないと思いつつ、浩平はおそ るおそる訊ねてみた。 「いや違う、さっきのは純然たる事故だ!」 瑞佳も慌てて浩平の言葉に賛同する。誤解されると、普段物静かなだけにどうなるか分 からなかった。 「そうそう、事故なんだよね〜。怖いよね」 「何を言っているのか分かりませんが……お二人とも、今何時か分かりますか?」 浩平は手元に目を移して、今日は腕時計をしてくる時間がなかったことに気が付いた。 長森に目を向けると腕時計を浩平の目の前にネコをデザインしたファンシーな腕時計が差 し出される。 「8時48分だな」 瑞佳も自分でもう一度確認してみた。やはり時刻は変わらない。 「それで、どうしてそんなに怒っているの里村さん?」 「浩平が私を置いてけぼりにして、学校の開始時刻を過ぎても迎えに来てくれないから、 慌てて走って来てみれば、二人楽しそうに遊んでいるんですよ」 「あ……」 浩平の学校の開始時刻は8時40分である。それより前に5分間のクラスルームがある ため、より5分は早く教室に辿りつかねばならない。 ということを頭の中ですらすらと考えた浩平は一目散に駆けだした。すぐ後ろに長森が 続く。その姿を見て、浩平の足が止まった。 浩平の背中に頭をぶつけて恨めしそうな顔をする瑞佳の鞄を指さして、 「長森、その鞄に付いているおもちゃどうしたんだ?」 「え? おもちゃって……これだね。うーん、わたし、知らないよ」 爬虫類もどきの木の模型が、瑞佳の知らぬ間に鞄のアクセサリーとして付け加えられて いた。 「知らないって、お前の鞄にあるのにそれはないだろ?」 「そうだけど、知らないったら知らないもん!」 「仕方ないやつだな。俺が遊び方を教えてやろう。平たい地面はないので手のひらでやっ てみるが、こうやって転がすと……」 「わあ、舌が出たよ」 意外だね、と笑っている瑞佳の顔を見ながら、浩平は胸を張って説明する。 「それもそうだ。こいつはカメレオンのおもちゃだからな」 「って、どうして浩平が知っているんだよ」 「本当に覚えないのか? 例えば夢の中とかで……」 「あっ、そういえば……あの小さな頃のわたしが持っていたよ」 浩平にとっては思い出の品だ。辛い思い出に彩られた、盟約の印となる物証。 みさおからみずかに渡り、そして今、瑞佳へと……。 「みずかも、やっと帰るところを見い出したんだよ。いや、ようやく帰ってくることが出 来た、と言うべきかな」 二人が足を止めている間に前を進んでいた里村が、早くして下さいと二人を呼んでいた。 遠くからのぞき見た里村の表情に浩平は呻く。 「うげっ、あれは混じりっけなしの怒りの表情だな。 行くぞ、長森!」 「うんっ!」 何も見えない闇の中で、一人の少年が佇んでいた。 「やれやれ、今度はみずかまでいなくなっちゃうとは、寂しくなったね」 そう愚痴る彼の言葉とは裏腹に、後ろめたい喜びに彼の顔は打ち震えていた。 「まあいいさ。えいえんを望む人々はいくらでもいるのだから……」