スチャラカもくれんタマスダれ
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再会の時

「ふぁ……、ねみぃ……。げ、まだ8時なのか?」
 くっそぅ、どうしてこんな朝早くに目が覚めたんだ?
まあ、それでも起きてしまったからには、大人しく朝食を頂くとするか。
いつも通りのトーストと冷凍食品。もし、これがより豪華で美味であれば
早起きなんて容易いのに。などと嘆いてもみる。
 ともかくこの邪魔ッ気な眠気を覚まそうと、
わざと大きな音を立てるようにしてカーテンを開く。
すると、白光が部屋の中に射し込んできた。けれど、これは太陽の光じゃない?
「何もかもが白いぞ……? これは、雪か……?」
 街が白で染め抜かれていた。家々の屋根、草の生えた荒れ地になった空き地、
由起子さんが通勤に使う自動車、俺の家が面している道路。
 道行く人々はこの久しぶりの雪にはしゃいでいた。
登校中の近所の子供たちが楽しそうに雪を踏みしめる。
自転車通学の高校生は学校に遅れそうなのか全力で走行。そして凍結した路面に
スリップ、バランスを崩して倒れこむ。
大人たちは嫌そうな顔を見せてはいるが、その頬は少し和らいでいる。
三つ子の魂百まで。俺はそんな諺を思い出していた。

 俺は雪に引かれて昔の事を思い出す。みさおの死。そして、長森と出会って。
『おぼえとけよっ、明日からいじめてやるからなっ』
 そう言えば、大雪の日にあいつの服と言わずランドセルと言わず、
真っ白な雪を詰め込んでやった事もあったな。
寒いし、教科書は雪でふやけて大変だったし・・・。
 女子連中で作っていた雪だるまを●面ライダーキックで破壊したり、
雪合戦では雪玉に石を詰めて長森だけを狙ったり。
 うーん、俺ってこうやって思い出を掘り返してみると、
つくづく長森に酷い事をしていたんだなあ。
 その長森は、と言えば音楽学校に無事受かって
現在はこの街を遠く離れて一人暮らしをしている。
だというのに余程俺が心配なのか、もしくはどうしても信用出来ないのか、
必ず週に一回は電話をかけてくる。

 そう、えいえんの世界からこの世界に戻ってきて、はや一年が経とうとしていた。
その一年、俺は学校に出席していたとは見なされていないわけで、
留年扱いとなってしまった。うぅ、大学ならまだしも高校で留年っていうのは恥だぞ。
まあ、由起子さんはそんなこと気にしないけどな。
 今年も担任は髭だった。いつものシフトなら今年髭は一年を担当するはずだ。
ただ・・・このいつものシフトというやつが曲者で、
三年に一度は例外があるという、恐るべき”いつも”なのである。
 で、今俺はどういったご身分かと言うと、受験生である。
この世の人々は受験生に対してどうも偏見を持っているらしく、
顔を合わせるたびに「勉強ははかどってますか?」と聞いてくる。
特に、長森の親なんかはしょっちゅう言ってくるので、
やっぱり長森とは血が繋がってるんだなあ、と思ったりしている。
 まずは身の回りを整えてから廊下に出て、冷蔵庫を漁りに階段を下る。
階段の途中で、一階から味噌汁の独特の香りが漂ってきた。
どうやら今日は珍しいことに由起子さんの仕事は休みのようだ。
これは、久しぶりにまともな朝食が摂れそうだな。

 朝食を自分で用意しないで済むのなら、朝食を頂くその前にと、
俺は本棚から一冊のコミックを取り出した。
『そんな奴ァいるか!!』という題名の、ちょっぴりダークなコミックである。
毒の知識に長けたやつ、口八丁で人を騙すのが趣味のやつ、
純真な愛すべきお馬鹿さん、オカルトにはまった女たち。
壊れたようで壊れていない、でもやっぱり壊れている。
そんな人物設定がとても気に入っている。
ちょっとのつもりが、つい夢中になって読み始めてしまう。



 長距離バスから、通勤客に交じって一人の少女が降りてきた。
大きな三つ編みが、飴色に輝いて辺りの注目を嫌でも浴びる。
しかし、少女は周囲からの憧れの眼差しから下卑た眼差しまで、
そのすべてを無視して進む。しっかりとした足取りで、確かな目的地を目指して。
日陰に入った少女は、暫し足を休めて空を仰いだ。

 ……久しぶりです。この街に帰ってきたのは。
毎日浩平とは電話していますが、実際にあの人を目の前にして話すのとは
全然違っています。何より、あの人のちょっとしたイタズラを
見れないのが寂しいです。ちょっと怖そうで、でも子供っぽくて、
それでいて寂しさに耐えられない人で…………浩平、今行きますからね。
 少女はくすりと小さく笑って、また歩み出す……。



「浩平……あなた、もう少し真面目に勉強しなさいよ」
 ぐぅ〜ぐぅうるさい腹を抱えながら朝食を、と思って
一階の台所に顔を見せると途端に由起子さんの言い出した言葉がこれだ。
「ど、どうしたんだ由起子さん!? 熱があるんじゃないのか?」
 今まで俺の自主性に任せていたのに、急にどうして?
俺が心配して尋ねると、由起子さんは大仰に額に手を当ててから口を開いた。
「あんた、その調子で本当にXX大学に受かると思ってるの?」
「……この前の模試の結果ではB判定だったけど?」
 俺にしては画期的な数字である。住井たち浪人組も俺の成績を信じられず、
『おい、どうやってカンニングしたんだ?』とか
『どこからテスト問題を盗んできたんだ?』などと不審の眼差しを向けてきたのだ。
由起子さんは鍋の火を消して、暖め直した味噌汁をお碗に注ぐと
くるりとこちらに振り向いて言葉を続ける。
「浩平。もしあなたがXX大学に合格しなかったら、茜ちゃんは悲しむわよね」
 ぐうっ。痛いところを突かれてしまった。
そもそも俺がXX大学を志望しているのは、そこに茜が進学したからなのだが……。
「判ってますよ。判りましたよ。頑張ればいいんでしょ!」
 俺は自分でもきついかな、という口調で言い返していた。
今日、勉強をしていなかったのは偶々だったんだぞ。
「へー…………」
 由起子さんは俺の言葉に怒りを覚えるだろうな、との俺の予想は
見事に外されてしまった。由起子さんはこちらを嘲るような視線を向けると、
「私が茜ちゃんにあること無いこと告げ口したらどうなると思ってるの?
あなたに今日会えることを楽しみにしている本人に、直接ね」
 本人って……茜の事だよな、そりゃ。そうか、茜が来てくれるのか。
嬉しいな…………待てよ!?
 俺は突然渡された情報に掻き乱された頭をどうにか纏め上げると
それこそ必死の形相で由起子さんの袖に縋り付いて言った。
「由起子さん、本当に、いつもはちゃんと勉強しているんだよ!」
「そうかしら? ま、そこまで言うのなら告げ口なんてしないわよ」
 こんな言葉を使ったら女性人権保護団体に訴えられそうだが、
女だてらに会社の重役を務めているんだ。そりゃ信頼出来るし能力もあるし
有言実行の人だろうし、口も堅いんだろう。
「けど、あんたが勉強してなかった事はきちんと報告させて貰うからね」
 安心しかけた俺に、その言葉は先の鋭い鏃の様に突き刺さった。
「え? それじゃ約束が違う……」
「だから、『判ってますよ。判りましたよ。頑張ればいいんでしょ!』の部分は
茜ちゃんに言わないでおいてあげるわよ。でも、それとこれとは別」
「そんなっ、契約違反だっ! 警察に訴え出るぞ。
そうしたら由起子さんの社会的地位はどうなる!?」
 俺はヤジを飛ばす。それはもう、めい一杯に。やっぱり怒ってるじゃないか。
「あー、うるさい。ご飯食べたらさっさと二階上がって勉強すること。いいわね?」
 茜が来てくれるという嬉しさと、由起子さんの報告で茜が見せるであろう失望の顔。
そんな二つの感情の板挟みになって、良く味も判らないまま俺はラーメンを啜った。
食べ終えると自分で食器を洗って二階の俺の部屋へと上がる。
自分の運の無さを嘆きながら。ああ、俺って不幸な奴……。



 目の前にある『折原』の文字。間違いなく、浩平の家です。
前もって由起子さんから地図を受け取っていて正解でした。
私は、ここに自分一人で来たことは無いのですから。
もうすぐで、やっと、浩平に会えるんですね……。
表札の前でほんの少し手に力を入れて、インターホンに指を伸ばして…………。

 ピンッポーーンッ!



 長い時間閉じこめられていた横長の缶詰の箱から荷物を持って飛び出て、
少女は背伸びをした。
そして、はぁ〜っ、と多分に車内より新鮮な空気を肺に取り込んで、
すっきりした少女は生き生きとした顔を見せる。
「やっと着いたよ」
 やっぱり長旅は疲れるよ。一息ついて、わたしはゆっくりと辺りを見る。
うん、変わってない。もっとも、前に来たのは一月なんだし、
たった一ヶ月で変わってるはずもないよね。
 この前と違っていた点は、地面に雪がうっすらと積もっていたこと。
でも既にかなり溶けてしまっていて、日向ではあと二時間もすれば
姿は跡形もなくなっちゃうんだろうね。
 家に帰って一休みしたら、浩平の顔を見てみよう。
ちゃんと勉強しているかな? 里村さんをを悲しませる様だったら、
私がちゃんと叱ってあげるからね〜、浩平っ。



「浩平……お久しぶりです」
 おずおずといった動作で開かれたドアから入ってきたのは、間違いなく茜だった。
「そうだな……といっても、顔を合わせるのは一ヶ月ちょっとぶりだけど、
毎日話はしているだろ。……そういえば、電話代は大丈夫なのか?」
 日によってまちまちなんだが、それでも平均すれば一日に30分位は
喋っているはずだ。一人暮らしの茜にとっては馬鹿に出来ない金額だろう。
「……大丈夫です」
「そうか……テレ放題にでも加入したらどうだ?」
 テレ放題とは、毎月1800円払っておけば、夜間の料金が実質タダに
なるという大手電話会社のサービスだ。ネーミングセンスはなってないと思う。
「……嫌です。そんなに夜遅くまで起きていたら、朝は起きられなくなります」
 うーむ、確かに茜にはきついかもしれないな。俺は慣れてるけど。
慣れていることと、ちゃんと朝起きることは別物だよな、きっと。
 近づいてきた里村の、更に長くなっている三つ編みを何の気に無しにいじりながら、
「里村の『……嫌です』を聞くと、どういうわけか心が安らぐんだよなあ」
「……浩平」
 じとうっ、と茜が睨んでくる。これはこれで可愛いが、
あまり機嫌を損ねたくなかったので慌てて話題を変える。
由起子さんがあの事を教えたのだとしたら、俺は前科持ちになっているんだからな。
「そういや茜、どうして料理学校じゃなくて大学なんだ?
俺は絶対に料理学校の方が似合うと思うんだが」
「ふぅ……入学して一年にもなる人間に尋ねる事柄じゃありません」
「そうかもな。でも、どうしてだ?」
「……言わないとダメですか?」
 ほんのりと茜は頬を染めて……どうしてだ? 恥ずかしいことではないだろう?
俺がまっすぐに茜の瞳を見つめていると、
やがて茜は諦めた様に溜息を一つ洩らして白状する。
「料理学校では、浩平と一緒にいられませんから…………」
 今度は俺が赤面する番だった。



 居心地の悪いような、極上の気分に浸っているような時間が過ぎてゆく。
どちらともが何らかの話を切り出そうとしているのだが、
口を開いてもどうしても言葉が出てこない。
「こ……浩平、ちゃんと勉強してますか?」
 よりによってその話題か! 
おや、もしかして由起子さんは茜にあのことを言ってなかったのか?
「あ……ああ、それなりに勉強していたぞ」
「……嘘ですね」
 間髪入れずに茜から答えが返ってくる。由起子さんの馬鹿野郎っ!
「机の上にコミックが置きっぱなしになっています。
いつもそのままで浩平は勉強するんですか?」
 しまった。片付けるのを忘れていたのか……。
「……………………」
「ちゃんと判っています」
「絶対にXX大学には合格するから。待っていてくれよな」
「…………はい」
 またそれっきり二人の間には沈黙が押し寄せてしまった。
俺は話題を探さなくてはならなかった。そうだ、打ってつけのモノがあるじゃないか。

「そ……そういえば、今日は雪だったな。茜は驚かなかったのか?」
「少し……驚きました。でもどちらかと言うと、儚い、と感じました」
 そうか、儚い、か……確かに二、三日と立たない内にかき消えてしまうんだよな。
と、そこでまたしても静寂が辺りを支配する。
「…………浩平。今日は何の日か知っていますか?」
 突然の茜の質問に面食らう俺。慌ててカレンダーを開いて確かめる。
ぐあっ、まだ一月のままだった…………更に一枚めくって。えーと、今日は。
「二月の……14日。バレンタインデーか」
「…………はい。チョコも持ってきました」
 そう言うと、茜は持っていた鞄から綺麗にラッピングされた包みを取り出した。
赤を基調とした包装紙上に、金の帯が巻かれていた。
「茜のお手製か?」
「……はい」
「今開けてもいいのか?」
「そうしてくれると嬉しいです」
 じゃあ…………、と包みを丁寧に解くと、
シンプルな形に描かれたたった一つの英単語がくっきりと映えていた。
『Dearest』
最愛の人、という意味の言葉だ。
「今すぐ食べてしまうのは惜しいんだが、これは今、ここで、食べて欲しいのか?
そうだな……出来れば写真に撮っておきたいんだが」
「……写真は恥ずかしいです。出来れば、ここで食べて下さい」
 茜の愛情がこの俺に注がれていることをひしひしと感じ、
そお事をこの上なく幸せに思いながら、そのチョコを口に持っていくのだが、
途中で手が止まってしまう。そう、茜の嗜好からするとこれは……。
「茜、もしかしてx10甘か?」
「いえ、x5甘です。甘さは控えめにしておきました」
 最後のちょっとした不安も払拭されて、俺はチョコにかぶりついた。
甘い。けれど、茜の言ったとおりに我慢できない程の甘さではない。
山洋堂の練乳蜂蜜ワッフルの方がずっと甘い。
茜は俺が全部食べきれるように、甘さを調節してくれたんだな…………。



 私の目の前で、浩平が美味しそうに私の作ったチョコを食べていてくれます。
甘さを抑えたのは残念ですけど、こうやって浩平が食べていてくます。
私は……幸せです。あなたと出会えて、そして。
これからも、ずっと、ずっとあなたと一緒に過ごしていけたら…………。

「なあ、茜」
 チョコを食べ終えたあの人が、私を呼びます。
「……キス、していいか?」
 どうしてこの人はいつもいつも、私が戸惑うときに…………幸せな時に。
私は、答えません。浩平なら、それで判ってくれるはずです。
 浩平はきりっとした顔つきで近づいてきて、
だんだんと私と浩平の顔が、唇が…………。
 バタンッ!
全く予期していなかったこと。部屋のドアが勢いよく開かれたのです。



 浩平にばれないように、足音を立てないようにして近づいたわたし。
浩平の事だから、足音を聞いたらすぐに勉強していた振りをするに決まってるもん。
……でもすぐにわたしには判っちゃうもんっ。
さーて、多分勉強はしてないと思うんだけど…………。
 いつも私を驚かそうとしていた浩平を、今度はわたしがビックリさせちゃおう。
よーし、見てなさいよ浩平っ!
 バタンッ!
「浩平っ、ちゃんとお勉強してるっ?」
 予想通り、浩平は勉強してなかった。けど……?
あれは、里村さん、だよね。それで、里村さんの顔のすぐ傍に
浩平の顔があって……。それはまるでキスしていようとしているみたいで…………。
「ご、ゴメンなさいっ!」
 慌てふためいて、わたしは部屋を出ていった。浩平の怒った声が浴びせかけられる。
「ゴメンですむかぁっ!」



 突然の物音に振り向けば、何故か長森がドアの横に立っていた。
長森は慌てて(当然だろうな)、暫くジタバタして、
『ご、ゴメンなさいっ!』と一言告げて部屋から逃げ出した。
俺はその後ろ姿に怒声を浴びせかける。
「ゴメンですむかぁっ!」

 はぁ、あいつは……。俺は、すっかり気も萎えて、
いつまでもそうしていたい気持ちを振り切って茜から顔を引き離した。
「……長森さん、でしたね」
「ああ、だよもん星人以外の誰でもなかったぞ」
「……呼んできましょうか」
「そうだな、まだ下であぅあぅ言っているだろうし。呼んできてくれ」
「……はい」



 私が下に降りてくると、浩平の言った通り、長森さんはまだ参っているようでした。
「……長森さん?」
「はうっ! さ、里村さん!? ご、ゴメンなさい! そんなつもりじゃなかったの」
「……判ってます。一緒にお茶でもいかがですか?」
「い……いえいえ、私なんかにお構いなく。邪魔者はさっさと退散しますから」
 困りました。このままだと長森さんは本当に帰ってしまいそうです。
由起子さんも長森さんを引き留めてくれず、ただ面白そうに私たちを
眺めているだけです。…………血は繋がってますね。
 私が由起子さんに視線を向けている間に、長森さんは靴を履いてしまいました。
引き留めることは諦めかけてしまったその時、浩平の声が飛んできました。
どうやら、なかなか私たちが戻ってこなかったので自分から降りてきたみたいです。
「長森っ!」
 その一言で長森さんの体が面白いようにピタッと止まります。
まさしく、鶴の一声です。
「……せっかく久しぶりに会ったんだ。紅茶ぐらい飲んでいけよ」



「はあ……ビックリしたよ」
「お前なあ、落ち着いたと思ったらまずそれか」
「だって、本当に驚いたんだもんっ!」
 みんなでテーブルを囲んでのお茶会です。
由起子さんは相変わらず忙しそうで、ティーパックしかありませんでしたが。
長森さんは浩平とつき合いが長いだけあってなかなか大胆不敵です。
「……お久しぶりです、長森さん」
「うんっ。12月の演奏会以来だね」
「へ? どういう事だ?」
 あ。そう言えば、浩平には教えていませんでした。
「長森さんの入学した音楽学校は、うちの大学から近いんです。
だから毎回、定期演奏会を聴きに行っているんです」
「へー、知らなかったな」
「そうだっ、浩平っ、浩平もXX大学に行くつもりなんだよねっ」
 何を思いついたのでしょうか、長森さんはいつもの生き生きとした声に戻りました。
「だったら、またわたしが起こしてあげるよ。あ、それとも里村さんに頼む?」
 浩平を起こしてあげる……チョコレートのように甘美な響きです。
私も浩平と同じで、朝は弱いのですが。
でも、是非にやりたい。やり甲斐のある仕事です。



 こいつは〜っ。俺だってあと一年で二十歳になるんだ。
いつまでもこいつに世話を焼かれていては世間体ってものもある。
 俺は苛立ちを隠さぬままに長森に強めの口調で言った。
「冗談だろ。俺だって大学生になるんだぞ。一人で起きられるさ」
「へー、そうなんだぁ。わたし今まで、浩平が一人で起きれるなんて知らなかったよ」
 ぐぬぬ・・・長森のやつぅ! 好き勝手言いやがって。
「……浩平が一人で起きるなんて想像出来ません」
 な、茜までそんな事を言うのか?
「大丈夫だって。茜からもらった目覚ましもあるし」
「目覚ましで起きるんだったら、毎朝ジョギングしなくても済んだんだよ」
「……浩平は、きっと目覚ましを止めてそのまま眠っています」
 二人揃って、確信を持った目で俺を見つめやがって! 見ていろよおっ!
俺のそんな堅い決意などどこ吹く風、二人は計画の立案に取りかかっていた。
「で、どうしようか。浩平の下宿がどこにあるか、によっても決まるけど」
「浩平は朝早くに起こしたら怒りますか?」
「うん……日直で早くなる、くらいなら許してくれるけど、
一時限違うとなるとどうかな……」
 長森、いつ俺はお前を許した。憎むべき犯罪として、俺の心のメモ帳に
ちゃんと書き込まれてあるんだぞ。

 机の下で誰にも知られず拳を振るわせる俺。
そんな俺に、誰も気付かない。そう、誰も…………。
「あ、そうだ」
 長森は忘れていた事を思い出したのだろう、自分の鞄を探り始めた。
やがて簡素にラッピングされた包みが取り出される。
 銀紙で包まれているだけで、取り敢えず空気に触れなければ良いや、
といった雰囲気が満ちあふれていた。
「今年も義理チョコ作ったんだけど、食べる?」
「う〜ん、そうだな貰おっか」
「はい浩平、あ〜んっ」
「包装紙くらいとれよな。食べられないだろ」
「冗談だよ。じゃあ、はい」
 長年の慣行となっている長森の義理チョコだ。
俺もついついこれまでと同じようにほいほいと受け取って口に入れる。
しっかし、こうやって長森以外から本命チョコを貰ってみると……
中身は気合いが入っているよな。まあ、たとえ義理でも手を抜かないところが
長森らしいと言えばそうなんだが。
 ところで先ほどから、義理チョコを見つめる俺の横顔にチクチクとした
視線が突き刺さっていて、とっても痛い。勿論、茜の冷たい視線なんだが。
「う〜〜ん、やっぱいらないな。返す」
「え〜っ、食べかけを返されても困るよっ。
それに、折角作ったんだから全部食べてよ?」
「折角、なんですか?」
 うん? 茜はもしかしてこれが本命チョコだと勘違いしているんじゃないだろうな?
やけに突っ込みの手が速かったぞ。
「うん。浩平の分でしょ、住井君の分でしょ、あ、それだけだよ」
 住井の奴は長森の義理チョコを、今年も満面の笑みを浮かべて受け取って、
誰もいない軽音楽室で勝利のステップを踏むのだろうか。
長森のチョコにそこまでの価値は無いと思うが……。ま、人それぞれだろう。

 一日にチョコを二つも食べるのは苦しいので、
茜が淹れてくれた紅茶で喉を潤しながらに長森のチョコは消費された。
俺がチョコを食べ終えて、みんなでテーブルを囲んでゆったりとした時間を過ごす。
「……浩平。学校に行ってみませんか」
「どうした? 急に学校に、って」
「演劇部を見に行きましょう。澪も頑張っています。応援しましょう」
「でも、今は後援会の準備で忙しいだろ。
そんな大事な時に見に行ったら怒られるんじゃないか?」
「きっと喜んでくれます」
「そうだな……じゃあ行こうか!」
 そして、勢いよく椅子から飛び降りる。
「浩平、お行儀が悪いよ」
 長森の文句をうち消して、
ぐぅ〜〜〜きゅるゅりゅる〜〜〜。
腹の虫の音が部屋全体に響き渡った。
「長森っ、お前はいつも人に行儀だのなんだのと言っておきながら!」
「わたしじゃあないよっ」
「じゃあ誰だ!? 俺か!? 茜か!? 由起子さんか!? そんな訳ないだろう!
と、言うわけでお前が真犯人だ。逮捕させて貰う」
「……令状を持っていません」
 茜が絶妙なタイミングで突っ込みを入れてくる。どうだ、この鉄壁のパスワーク!
「でも、わたしじゃないもんっ、わたし、そんなみっともないことしないもんっ!」
「今ついさっきしていただろ。説得力が皆無だぞ。
大人しく自白すれば牛丼を追加で頼んでやるぞ、だよもん星人」
「誰がだよもん星人だよ」
ぐぅ〜〜〜きゅるゅりゅる〜〜〜。
 長森の声に重なって再び響く情けない音。
「ほぉ〜ら、やっぱり浩平じゃないっ!」
「えーい、違うと言ったら違うんだぁっ!」
 何があっても開き直ってやる、と心に決める俺。
「……今度こそ浩平です」
その決意はわずか1秒と経たない内に砕け散った。
「悪かったな。俺は甘いものと朝昼晩の三食は別腹なんだよ!」
「でも、確かにお腹空いたよね」
「……そうですね」
 運良く二人も同意してくれた。
「じゃあ飯でも作るか」
「ご飯を作るのはいいけど、ちゃんと材料はあるの?」
 俺は由起子さんに目線を送る。その由起子さんは米櫃と袋を取り出すと、
「白米とチャーハンの素ならあるわよ」
「……嫌です。それでは美味しいものは出来ません」
 そうかな? 俺はそれなりに旨いと思うんだが……。
「それなら、久しぶりにわたしの家で食べようよ。里村さんも一緒にどう?」
『……遠慮します』
 茜のことだからそう言うだろうと思いこんでいたのだが、実際の返事は
「……そうですね、お邪魔します」
だった。何だか拍子抜けしたぞ。
「由起子さんはどうする?」
 由起子さんは手をひらひらと振って、『行ってらっしゃい』と言いたいようだった。
「でも、おばさん……」
「いいのよ。わたしは”美味しい”チャーハンを食べるから」
「……美味しくありませんよ?」
 非情な茜の言葉に、由起子さんはちょっぴり涙目になっていた。



「ただいま〜っ」
 長森に続いて、俺も気安く長森家にお邪魔する。
ここいら辺、何の気兼ねもいらない所が楽だよな。
「お帰りなさい。あら、浩平君も一緒なのね? ……そちらの娘は?」
「初めまして。長森さんと同級生の、里村茜です」
「里村さんね。いらっしゃい、ゆっくりしていってね」
 やや遠慮しながらも、茜も靴を脱いで家に上がった。
「あ、お母さん。浩平と里村さんにご飯をご馳走したいんだけど」
「そう……材料あったかしら。みなさん同じものでなくとも構いませんか?」
「俺は食べれて美味しいものならなんでも」
「……私も構いません」
 まあ……急にお邪魔したことだし、無理は言えないよな。
台所へ戻ろうとしていた長森母に茜が声をかける。
「あの……お手伝い、私にさせてくれませんか?」
 茜の申し出を笑顔でにっこり退ける長森母。
どうもこの親子は揃って人の世話を焼くことが大好きで、
人に手伝って貰うことが殊の外残念なことらしい。
 すまなそうにしている茜の横を長森が「ごめんねっ」と駆けていった。

 居間で手持ちぶさたに待つこと5分。皿を準備して用意万端、
何もすることがなくなった俺たちはただぼーっとしていた。
「……浩平」
「どうした? 茜。待ちきれなくなったのか?」
「長森さんの家にはよく来るんですか?」
「ん? ああ。こっちに引っ越して来たばかりの頃は、
俺を心配して由起子さんもちゃんと三食分食事を用意してくれていたんだけどな、
やっぱりその内忙しくなって、俺が自分で食料を調達しないといけなくなったんだ」
「……それで?」
「自分で調達するのは……まあ、その前から自分でどうにかしていたし、
一人で食事を摂ることも慣れっこだったんだけどな。引っ越してきて間もない
見知らぬ場所で独り、というのは流石に耐えきれなくて」
「みさおさん、ですか?」
「その時はまだまだ引きずっていたからな。
それで、『それならわたしの家で食べるといいよ』って長森がな。
 何しろガキだったからな。家からここまでかなりの距離があるように感じたぞ。
歩いている内に本当に腹が空いて、腹立ち紛れに長森をぶん殴って」
「……でも、独りで食べるなんて寂しいです」
「そうだな。でも、独り暮らしだったらそういった事も多くなるんじゃないか?」
「そうかもしれません。でも、子供の時くらいは」
「まるで、そのせいで俺の性格がねじ曲がったと言いたいかの様な口振りだな……」
「なに言ってるんだよ。十分ねじくれてるじゃない」
 話している内に出来上がった料理を長森が運んできていた。
「何を! 俺の根性は悪魔の角だと言いたいのか?」
「ついでに先端が鹿さんみたいに幾重にも折れ曲がっているんだよ」
 溜息を吐きながら一言。ぐぬぬ……長森のくせにうまいことを言うじゃないかっ!
「……それより、ご飯を頂きましょう」
 俺の頭から出ている湯気を見て取った茜が『冷静に』と訴えかけてきていた。

 長森親子はチャーハン。茜にはうどん。そして、俺には炊き込みご飯と魚の干物。
これ加えてそれぞれロールキャベツが一個付いている。
……どうして俺だけちょっと豪華なんだ?
「ところで里村さん……」
「……はい?」
 食事の手を一旦止めて、不思議そうに長森母を見つける茜。
「浩平君とはつき合っているの?」
「な、な、何言ってるのお母さんっ! 失礼じゃないのっ?」
「……はい」
 顔を真っ赤にして慌てる長森に、普段と変わらない顔で淡々と肯定する茜。
性格が出ているよなあ。
「そうなの……でも、大変でしょ? いつも下らないことに一生懸命で」
「楽しいですから」
「そう……」
 長森母は面白い返事を聞いたといった感じで笑っていた。





「おーっ、澪。久しぶりだな」
「……」
うんっ、うんっ。元気に頷く澪を見て、俺はある衝動に駆られた。
 そうだ。今日こそあのリボンを解いてやる。
うりゃっ、と澪を抱え込んで、リボンに手をかける。
慌てて澪はスケッチブックに走り書きして、
『嫌なの』
 嫌と言われたら余計にやってみたくなるのが人のサガだ!
俺は俄然やる気になって澪のリボンを引っ張る。
澪は必死に抵抗するが、所詮男の力に敵うはずもなく、俺のなすがままとなる。
 そして、俺もようやくリボンを外し終えた。そう思ったのだが、
一本の細い糸がリボンと繋がっていた。気になった俺は細い糸をたぐり寄せる。
どれだけたぐり寄せても、その糸は切れている気配を見せない。
こうなったらと、意地になってたぐり寄せ、
「どうなってるんだ、これ?」
 10分ほど格闘したと言うのに、一向に作業は終わりそうになかった。
「なあ、澪……げっ!」
 そこで俺は絶句した。澪の髪の毛の半ばがなくなっていたのだ。
まるで、布の縦糸を乱暴に解いたときのように、シマウマの模様のようになっていた。
一気に老け込んで、髪が抜け落ちてしまったのか?
「こ、これはどういうことだ!?」
『あのね』
 澪はもう完全に泣きべそになっていた。涙にかすむ目を何度も擦って
スケッチブックに大きく文字を書いてゆく。
『髪を引っ張られたから、抜けたの』
 なんだと! リボンに繋がっていた細い糸はその実、澪の髪の毛だったのか!
意外とやるな、澪。七瀬でもこんな事は不可能だったぞ。
『酷いの』
「あ〜〜、済まない、澪」
『ごめんなさいじゃ、許してあげないの』
「困ったな、それじゃあどうすればいい?」
『あのね』
 澪の引き締められた表情につられて、俺も神妙な面もちで次の言葉を待つ。
『見られたからには生かしておけないの』
 はい?
 次の瞬間、澪の体は金色に輝いていた。これが『気』というものだろうか?
金色の光をその身から放つ澪が拳を地面に激突させると、廊下を激震が襲う。
足下が揺れて困難だったが俺は堪らず逃げ出そうとした。
だが走り出すとすぐ、自分の背後に気配を感じた。
振り返った俺が見たものは、
『逃がさないの』
そう記されたスケッチブックを手にした澪が突進してくる姿だった。


……………………


「ねえ、起きてよ浩平、起きてってばあっ!」
 どれだけ肩を揺すっても、耳元で大声を立てても、浩平は起きない。
よーしっ、浩平がそう来るなら、わたしだって考えがあるからねっ。
 うーんっ、あれもいいなっ、これもいいなっ。
色々ある中から、どれにしようかわたしが迷っていると、
「うわわあああーーーーーーーーっっっ!」
 浩平は何かに驚いて飛び起きていた。
「浩平、悪い夢でも見たの?」
「……あ……あ?」
 うーんっ、まだ夢の中にいるみたい。
「な、長森か?」
「わたしじゃなかったら誰なんだよ。それじゃあ、浩平も起きたことだし、
澪ちゃんの様子を見に行こうよ」
 わたしの言葉を聞くと、浩平は何故か『びくっ!』と頬を硬直させて、
「……悪い。茜と二人だけで行ってきてくれ」
「どうしたんだよ、急に。駄目だよ、きっと澪ちゃんだって楽しみにしてるよ」
「楽しみも何も、澪は俺たちが行こうとしていることは知らないだろっ!」
「訳わかんないこと言ってないで。ほらあっ、早く行こうよう」
 わたしはごねる浩平を引きずって家を後にした。



 家を出ると、ようやく浩平も素直になってくれて、
わたしたち三人は懐かしい通学路を走っていた。
「ねえ、浩平っ」
「……どうした? 長森」
「どうして、わたしたち走ってるのかな?」
「どうしてって、走らないと間に合わないだろ」
「……何に間に合わないの?」
 浩平を挟んで向こう側にいる里村さんも走っていることが不思議そうに尋ねている。
「そりゃ、始業時間……ぐわっ、急がなくてよかったのか」
「はあ…………なに言ってるんだか」
 もう……浩平ったら、本当に誰かが居ないと駄目なんだから。
「……走るのはやめにしますか?」
「いや、ここで止めると神経に重大な負荷がかかりそうな気がするから、走ろう」
 結局、今日も学校まで1500メートルフルマラソンをすることになってしまった。
でも、どうしてかな。何だか心休まる感じにわたしの心が包まれたのは。



 久しぶりに見る我が校舎。久しぶりに来てみるのもいいものだな。
「……浩平は、まだ卒業してません」
ぐあっ、茜に心を読まれてる……。
「じゃあ、演劇部の部室に行くか」
「でも、大丈夫かなあ。忙しい時期なのに部外者を入れてくれるかな」
「任せろ。ここに一人関係者がいる」
「えっ! 里村さん演劇部だったの? 知らなかった……」
「……私は帰宅部です」
 長森、お前の目はどこについている。親指を俺に向けたジェスチャーは
どんな意味に解釈したんだ!
「俺が、演劇部なんだよ」
 『俺』にアクセントをこれでもかと、込めて告げると、
長森は心底驚いた顔のままで尋ねてくる。
「ええっ、浩平っ、軽音楽部だったよね?」
「確かにそうだったが、三年になって部活を変えたんだ」
「でも、どうして?」
「澪に目に涙をためて懇願されたんだよ。どうしても断れなくてな」
「……澪さんとは同じクラスだったそうです」
 へーっ、としきりに長森は感心していた。
「というわけで、門前払いは無いから安心しろ」



「懐かしいですね……」
 私がこの学校での生活を楽しむことが出来たのはほんの数ヶ月でしたが。
そう。浩平と一緒にいた僅かな、でも、かけがえのないひととき。
「そうか? まだ一年しか経ってないだろう?」
「……浩平、明日中庭で昼食を一緒にしませんか?」
「まだまだ寒いぞ。二月だからな」
「……構いません」
 長森さんは私たちが不思議なものであるかの様な視線でこちらを見ています。
そうですね。寒い中、昼食なんて信じられないのも判ります。
「おっと、もうすぐ部室だな」
 見れば誰にだって判ります。だって、『演劇部部室 部外者立入禁止!』の
看板をかけているんですから。

「ちわ〜っす。俺だけど……」
 浩平が部室の扉を開くと、そこから一人の長い黒髪の女性が駆け込むように
逃げてきました。手に大工道具を握っています。この人も演劇部員なんでしょうか。
「誰だか知らないけど助かったよ〜〜。
私は関係ないのに、無理矢理働かされていたんだよ〜〜」
「お……よおっ、先輩」
 どうやら、この可哀想な先輩は浩平の知り合いみたいですね。
「あ、浩平君だったんだ。久しぶりだね」
「こら〜〜っ、みさきっ! 人聞きの悪いこと言わないでよっ!」
 部室の中から、みさきさんを呼ぶ声が聞こえてきました。
「実は、それだけじゃなくて賭の抵当に入れられる所だったんだよ」
「なにいっ! それは酷い。裁判所に訴えでなければっ!」
 長森さんは混乱した面もちで「えっ? えーっ?」と言っています。
やがて、みさきさんを呼んでいた人も姿を現しました。
「折原君、頼むからみさきに荷担しないで貰える?」
「俺はいつだってみさき先輩の味方だからな。
ま、それはともかく。久しぶり、雪ちゃん」
 雪ちゃんと呼びかけられた女性は途端に形相を険しくして
浩平に詰め寄って、頬をつねりました。
「折原君、みさきならともかく、あなたに『雪ちゃん』となれなれしく呼ばれる
いわれは無いわよ!」
「そんな……あんなにも深く愛し合い、睦み合ったというのに!
僕たちの愛はどこへ行ったんだい!」
「嘘だってバレバレだよ……」
 あ、長森さんも復活しています。私は取りあえずみさきさんに駆け寄って、
「一体誰が本当の事を言っているんですか?」
「それは私の口からは言えないよ」
「……」
 くいくい。みさきさんを尋問している私のお下げを、誰かが掴んでいる感触です。
「……」
にこにこ。思った通り、澪さんでした。
「澪さん、誰が本当の事を言っているんですか?」
『あのね』
『深山さんだけが本当のこと言ってるの」
「深山さん?」
『深山 雪見』
「雪ちゃんと浩平に呼ばれた人ですね?」
「……」
 うんっ、うんっ。澪は大きく頷いています。
それにしても……いつの間にか、収拾がつけられなくなっていますね。



「全く、只でさえ忙しいのに、余計なことで手間をとらせないでよ」
「いや、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど」
 ギロッ、深山さんがきつく浩平を睨みます。
かなりの迫力です。浩平が黙ってしまうくらいなのですから。
「みさきも」
「ごめんなさい〜〜」
 みさきさんも肩をがっくりと落として、反省しているようです。
「全く、お詫びとしてあなたたちにも手伝って貰うわよ!」
 ……どうして私たち、と複数形なのでしょうか。



 俺たちは大道具・小道具の制作、点検を深山先輩に言い渡された。
俺はともかくとして、長森や茜は演劇の事に関しては全くの素人だから、
正しい判断だと思う。流石は元部長、見事な采配だった。
「それにしても、何でお前がここにいるんだ、広瀬?」
 そう。俺のクラスの不良生徒その一、広瀬も何故か演劇部室で働かされていた。
広瀬は『むしゃくしゃして』学校のガラスを割ってしまった為に、
一年留学している。退学させられなくてまだよかったよな、と俺は思うのだが。
「アタシだって、好きでこんなことしているわけじゃないわよっ!
まんまと深山に騙されたわ……」
「ほお、どんなふうにだ?」
「大食い競争でアタシが買ったら一万円払う、もしアタシが負けたら
演劇部の手伝いをしてもらうわね、って……」
 もういい。言わなくても判る。見た目、そんなに食べるようには思えないもんなあ。
あれは絶対に胃袋が異次元に繋がってるぜ。
「畜生……」
 不必要に苛烈な眼差しで広瀬はみさき先輩を睨む。
素知らぬ振りで通す先輩、というか、実際は全く気付いていないのだろう。
 けれども、広瀬も何だかんだ言っても真面目に手伝っているよな。
こういった性格だから、ガラス割っても停学で済んだんだろうし。
ったく、こいつも不器用な奴だな。
「……」
 くいっ。くいっ。
「お……澪、どうした?」
 三年に進学した時に副部長となった澪だ。本来ならば部長でもおかしくないのだが、
深山先輩の様にビシバシ指導しなくてはならない地位なので、
澪には残念ながら、副部長に退いてもらった。
けれども、実質的な部長はと尋ねれば、部員のだれしもが澪の名を出すだろう。
『バレンタインデーなの』
「おっ、もしかしてチョコをくれるのか?」
「……」
 うんっ、うんっ。鞄の中からチョコレートを取りだして、俺に渡してくれる。
ん〜、これはきっと店の人が包んでくれたんだろうな。
 「ありがとう」と言おうと思って『あ』と口を開く。
「あ〜〜〜〜っ、雪ちゃん、今日はバレンタインデーだよ」
のだが、みさき先輩の突然の大声でかき消されてしまった。
澪のチョコを見て思い出したらしい。
「……あちゃ〜っ、遂に気付いちゃったか」
「ううっ、チョコレートケーキが食べたいよぅ……」
 みさき先輩、それはちょっと違うんじゃないのか? まあ先輩らしいけど。
 大げさに嘆くみさき先輩の悲痛な叫び声を耳にした部員のうち数名が
そそくさと部室から出ていった。そして、戻ってきた時には特大のケーキを携えて。
どうやら、みさき先輩用のものらしい。ケーキを目にした途端に、みさき先輩の
目の色が変わり、瞳が光り輝いた。
 もの凄いとしか表現のしようがない勢いで、チョコレートケーキがみさき先輩に
よって消費されてゆく。部員の中にはそのあまりの健啖ぶりに胸焼けを起こしてしまい
保健室行きとなった生徒も多数発生した。ケーキという甘いものだから、なおさらな。
『すごいの』
 スケッチブックに大きな字でそう告げてきた澪の頭を、そっと撫でる。
三分の二ほど消費して――それでも普通のケーキとは比べものにならない――
みさき先輩は初めて気付いたかのように、
「あれ? みんな食べないの?」
「よ、よし。食べるぞ、茜」
「……はい」
 自他共に認める甘党の茜でも、この食べっぷりには恐怖を抱いたようだ。
いつもなら甘いモノには二つ返事で飛びつくものの、今に限っては返事の出が遅い。
「……わ、わたしも食べてみるよ」
 そう長森もやる気を見せているのだが、顔色が良くない。
俺は明らかに調子の悪そうなる長森に近づいて、
みさき先輩には聞こえないように小声で大人しく保健室に行くように告げた。しかし、
「……が、頑張ってみるよ、わたし」
 やめといた方がいいって。その言葉は小声で言う自信が無いので言わなかった。

 部員の中にこのまま健康に悪い情景をただ黙ってみているよりは、
全てを忘れてケーキに没頭してしまえ、といった雰囲気が
皆に伝わるまで時間はそれほどかからなかった。
 みんなでやけっぱちになってケーキを貪る。
あまり、演劇という美術系の部活には相応しくない光景だった。
『くるしいの』
 澪が苦しそうにぶるぶると震えながらマジックでそう書いていた。
「わかった。わかったから、横になって休んでしまえ」
 余裕を持った振りでそう答えた俺だが、実は今回ばかりは厳しい。
振り返ってみれば、茜は『ごちそうさまでした。気分が悪いです』と、
長森は『ううっ、もう当分ケーキは食べたくないよぅ』と言って二人揃って
保健室の世話になっている。保健の先生や当番も、さぞかし突然降ってわいて出た
食べ過ぎの患者にてんてこ舞いとなっているだろう。
 だが、部外者はともかく、俺たち部員はそうはいかない。
どういうわけかけろっとしている深山先輩に
(きっといつものことで慣れているんだろう、とは皆の一致した意見である)
急き立てられ、痛む腹を抱えながら肉体労働に勤しまねばならないのだ。
 張本人のみさき先輩はというと、机を3つほど重ねて即席のベッドを作り、
それはもう幸せそうに寝入っていた。怒りを禁じ得ない部員たちが
近くを通るたびに頬をつねっても、全く起きる気配を見せないのだ。この幸せ者っ!



 「死ぬ……」と思いながら、時は過ぎていった。
時間が経つにつれて、ちらほらとリタイア組も部室に戻って来る。
彼女たちはまず安堵の溜息を吐いてから仕事に取りかかっていった。
取りあえずの予定であった5時になっても、予定の6割がやっと。
 しかし、今日はこれ以上作業を続けても成果は得られないだろう、
ということで、本日は早めに切り上げとなった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」
「……」
つん、つん。幾分控えめに注意を引いてくる澪。
『疲れたの』
「そうだな……いつもの一ヶ月分くらいは働いたな」
「……」
はうーっ。肩を落とすじゃすまない程に疲れているらしくて、
そのまま澪は床にだら〜っと寝そべってしまった。
「大丈夫か〜っ、茜、長森、ついでに広瀬っ!」
 それぞれから、息も絶え絶えといった感のある返事が返ってきた。
どうやら、この状況においても死者は出てなかったようだ。不幸中の幸いだよな。
 疲労困憊の極に達していた俺も机にもたれ掛かった。
頭上から聞こえるみさき先輩の幸せそうな寝言が聞こえてくる。
 俺は、みさき先輩が寝ている机の内、その一つを取り去った。
頭は万が一のことがあってはいけないので、足をかけていた机だ。
だら〜んと先輩の足が垂れ下がるが、それだけ。
 さて、どうする。もう一つ、腰を支えている机も取り除いてやろうか?
「ん、うぅ〜ん……」
 ほっ、どうやら起きてくれたみたいだ。俺もまだ殺人者にはなりたくないしな。
多分、これでよかったんだろう。
「みさき〜、起きたんなら、購買でジュースを……15本買ってきて!」
 寝起きのみさき先輩は、ただ深山先輩の命令に従って、
機械的とも言える動きで部室から出ていった。
俺はみさき先輩を見送ると、
無念の気持ちで胸を詰まらせながら深山先輩に詰め寄った。
「逃がしましたね……」
「当たり前でしょ。これであの子が『あれ、みんなそんなに疲れてどうしたの?』
とか言ってみなさい。リンチに遭うのは確定よ」
「それにどうして、深山先輩が指揮を執っているんです?
今はちゃんとした部長も、副部長もいるじゃないですか」
 深山先輩じゃなかったら、こんなになるまで働かせたりはしないだろうな。
「久しぶりにやってみたくなったのよ。それに、部活って年功序列型社会だし」
「だからって、死にそうな俺たちを扱き使わなくとも……」
「でも、これで進まなかったらみさきの責任はますます重くなるからね……」
 あっ…………。俺は全く気が付かなかった。
深山さんが部員一同を今日一日無理に働かせたのは、そういうわけがあったのか。
 確かに、今日みんなを甘やかせてしまえば、部員たちのみさき先輩に対する恨みは
これほど酷いものとはならなかっただろう。
でも、その場合は作業が進まなかった分、後でみさき先輩が恨まれることになる。
 長く尾を引くであろう非難より、一時の反発を深山先輩は選んだんだな。
幼なじみ、か。俺は、ここまで長森の事を考えてやっているんだろうか…………?



「雪ちゃん、ジュース買ってきたよ〜〜」
 ジュースという言葉に部室が沸き返り、一本また一本と
みさき先輩の手から缶が失われてゆく。その度に悲しそうな顔をするみさき先輩を
後目に、ジュースは全員の手に行き渡った。只一人、みさき先輩を除いて。
 俺に遅れて気付いた先輩は、慌てて一人ずつ部員を見つめる。
既に飲みおえた者、飲んでいる最中の者、一休みしてまた飲もうとしている者、
まだ少しも手を付けていない者、様々だった。
「う〜〜っ、私のジュースだけがないよ〜〜〜っ」
 悲しそうにうつむく先輩。だが、今日だけは同情する部員はいなかった。
「あ、そうだっ、誰か分けてくれないかなっ?」
 名案を思いついたみさき先輩の言葉にも、反応は無し。
「……」
くいっ、くいっ。澪が俺の服の左袖を引っ張っていた。
『かわいそうなの』
「これが罪人に与えられる罪というわけだな」
「うぅ〜〜〜っ」
 やりすぎだと思ったのか、深山先輩が慌ててみさき先輩に声をかける。
「自分で買ってくればいいでしょ?」
「お金を持ってきてないんだよ〜〜」
 すまなそうにみさき先輩は肩を落とした。
「はい、はい、はい。貸してあげるから」
 120円を受け取ったみさき先輩は一転して満面の笑みを浮かべると
足早に購買へ走っていった。部室にいる全員の口から溜息が零れる。
「……なんだか疲れました」
 茜の言葉に、部室にいる誰もが力強く頷いていた。



 片づけを終えた頃には、もうすっかり日は暮れてしまっていた。
「夕焼け、見れなくて残念だよ……。でも、送ってくれてありがとね」
 校門を出てすぐ、みさき先輩の家の前で先輩と別れ、
俺たち三人はゆっくりと校舎を後にした。
別に後者に別れを告げることを名残を惜しんだわけじゃない。
体が動かないんだよ…………。

「今日は、楽しかったです」
 出し抜けに、茜がそんなことを言ってきた。
「そうか? 俺は疲れた方が重要だと思うんだが」
「……それもそうですね」
 苦笑するしかない俺たち。
「ねえ浩平っ、晩ご飯はどうするのっ?」
「朝の時点では、由起子さんは晩ご飯の用意も出来るはずだって言ってたぞ」
 ただ、そんな時でも会社に呼び出されることがしょっちゅうなのだが。
本当に、忙しいんだよな由起子さんは。俺の知っている大人の中では、
二位に大きく差をつけて忙しい人No.1だ。
「じゃあ、もし由起子さんがいなかったらどうするの?」
「そん時はチャーハンを作る」
 このままだと、一人暮らしになったら毎日炒飯なのか?
俺は真剣に料理のレパートリーを増やす事を検討する。
「それじゃあ、晩ご飯もわたしの家で食べていったら?」
「流石にそれは断っておく。
それも考えて、俺の昼飯はチャーハンじゃなかったんだろ?」
「……私が作りましょうか」
 茜の提案にぐらっ、と俺の心は揺れ動いた。慌てて俺はその気持ちを振り払う。
「駄目だ。茜だって疲れてるだろ。今日はさっさと家に帰って休め」
 やがて、茜と俺たちのコースが分かれる地点にやってきた。
「それでは、ここでお別れですね」
「あ、うんっ、またね、里村さん」
「長森、俺は茜についてゆくから」
 長森はにんまりと笑うと、
「うんっ、それが良いと思うよ、わたしは」
 俺たちは適当に挨拶をして別れを告げた。また明日にでも会えるだろうしな。

 暗い夜道を二人寄り添って歩く。ドラマではおなじみのシチュエーションだが、
実際やってみると結構気恥ずかしいものがある。
 茜の方もそれは同じ事のようで、ぎくしゃくした雰囲気が漂っていた。
そしてそのまま、茜の家についてしまった。
「お見送り、ありがとうございます」
「いいっていいって。じゃあ、またな」
 ギクシャクと別れを告げて俺は振り返った。その背に茜が声をかけてくる。
「……浩平」
 何かを頼むような茜の口調。皆まで言わせるまでもない。俺はすぐさま口を開いた。
その口からは堰を切ったように言葉が流れ出ていく。
「明日の12時40分、学校の中庭で弁当を持って集合な。
それから、デートしよう。いつものコース――商店街で。
たい焼きと山洋堂、どっちに行きたいんだ?」
「たい焼きはまだ行っていませんから、たい焼きがいいです」
「実は、未だに道を覚えていないんだが」
「大丈夫です。地図を持っていきますから。
そのお店は『うまいものマップ』に載っていますか?」
「いや、見たことないから判らないな」
「そうですか。では一応持っていきます」
 先ほどまでの嫌な雰囲気もどこかに消えて、
そこにいるのはいつも通りの俺たちだった。

「じゃあ」
 ありふれた別れの言葉。そこには昨日までの電話を切るときの様な未練はない。
何故なら、この世で最も愛する人とは明日にも、明後日にも。
俺たちが望む限り会えるからだ。
 俺は一人で夜道を帰途につく。でも、決して独りじゃない。
背中には、同じ気持ちの恋人がいつも寄り添っているのだから。

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