スチャラカもくれんタマスダれ
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 足下には、雲。豊かな起伏をなす大地。潮騒の響く砂浜。波もなく透き通る蒼海。
 目を凝らしてじっと見つめる。ベンチに座ってアイスを食べている子供。信号を待つ間
、ペットボトルのお茶に口をつける少年。日傘をさして歓談を交わす女性たち。日差しを
避けて木陰で眠る猫。縁側で将棋を指す老人。
 ここは、俺の目指していた場所。
 そして――彼女と待ち合わせしていた場所。

「ようっ」
 俺は気さくな好青年を演じて声をかける。
「うん……」
「どうしたんだ? その髪型」
「お母さんが切ってくれたんだ」
 ちょっと困ったようにして言った。
「似合っているかな?」
「似合いすぎて怖い」
「わ、酷いこと言ってる」
「お前こそ晴子に酷いこと言ってるぞ」
 二人は笑った。言葉を交わして、そのやりとりがおかしくて。なんてことない、けれど
かなわなかったものがここにあって。
「久しぶりだな」
「うん。そうだね――往人さん」

――足下には、雲――

「なあ、今、お前は幸せか?」
「うん」
 当たり前のように、肯定の言葉が返ってくる。
「どうして」
「往人さんが側にいるから」
 即答してにはは、と笑う。
「なら、これまでは幸せだったか?」
 今度はちょっとだけ間が空いた。
「うん」
 返ってきた答えは同じ。
「どうして」
「お母さんがいてくれたから」
 お母さん――晴子のことを考えてみた。
「全く騙されたよ。俺は本当に温泉に行ったのだと思っていた」
「わたしは分かってたよ。ちゃらんぽらんに見せようとしていたけど、目だけは真剣に、
わたしを見つめていたから」
「騙されたのは俺だけか」
 はあ、と大げさに溜息をついてやる。
「でも、それも往人さんのおかげ」
「違うだろ」
 観鈴の額にでこピンを押した。涙ぐむ観鈴をよそに俺は話を続ける。
「母は娘を想っていた。娘も母を思っていた。ただそれだけのことじゃないか」
 観鈴はうーんと考え込む。
「だったら、三人で頑張ったから。最後まで頑張れたから」
「そうだな」
 髪をくしゃっとつかんで、気持ちよさそうにしている観鈴の顔を眺める。
「お前は……」
「うん?」
「あそこにいたくはないか?」
 下に見える大地を指さす。観鈴にも勿論、俺と同じ光景、ここに来るために失ってしま
った風景が見えている。だから、訊ねてみた。
「往人さんはどうかな」
「俺は、ずっとお前の側にいる。そう決めたからな」
「そっか」
「そうだ。で、お前はどうだ」
 観鈴はすぐには答えず、眼下の光景に眼差しを注いでいる。その眼差しはとても優しい。
「ね。わたし、頑張ったよね」
 観鈴は突然に脈絡を離れた話に飛んだ。俺は、そんな観鈴の話し方に慣れていた。だか
ら、驚かない。自然に言葉が滑り出る。
「ああ、頑張ったよ」
「うん。観鈴ちん、頑張った。にはは」
 ねぎらいを込めてもう一度くしゃっと頭を丸めてやる。
「空にいるもう一人のわたし。そして、もう一人のわたしを受け継いだ、わたしたちがい
たんだよね」
「ああ」
「わたしは、もう一人のわたしの悲しみ、わたしたちの悲しみを終わらせることができた。
だから、嬉しい。一番やりたかったことを成し遂げたんだから」
「それは本来なら、俺がやらなければならなかったんだ」
「往人さんも頑張った。三人で頑張ったんだから、今のわたしたちがあるんだ」
 風がながれてゆく。「同じ大気の中、翼を広げて風を受け続けている」少女はもういな
い。
「そうだな。みんなで頑張ったからな」
「うん」
 観鈴と一緒に雲を眺めた。時に集まり、気まぐれに散って、一時として同じ姿を見せる
ことはない。確かに、空に縛りつけられた少女はここにはいない。だが――
「名残惜しくないか。やりたいこと沢山あっただろ。浜辺で水をかけあったり、かけっこ
したり」
 それは、口に出してはいけない言葉、哀しい言葉だったのかもしれない。けれど俺は問
わずにはいられなかった。
「大丈夫だよ」
 彼女は笑う。心配することなんてないんだよと、俺を慰めるかのように。
「きっと、往人さんとはまた会える。そんな気がするから」
「そうか……そうだな」
 彼女が言うと、それは真実であるように聞こえた。

 傍らで鳥が羽ばたく音がした。純白の翼を背にした観鈴が笑顔でVサインを出している。
「そろそろか」
 そう呟くと、一際大きな音を立てて俺の背中にも翼が生えた。艶のある闇色の翼。
 俺たちは不安定な状態にあった。今まで生きてきた場所と、これから行く場所の狭間に
ある、少女が縛りつけられていた場所にいた。今、俺たちはここから羽ばたこうとしてい
る。それは、二人の別れを意味していた。
 それでも、寂しいという思いはない。それはきっと傍にいるこいつがうつったからだろ
う。
「じゃあ往人さん、また明日ねっ!」
 元気良く手を振る観鈴に負けないくらいに大きく手を振って、観鈴に負けない大声で俺
は言った。
「ああ。また明日なっ!」

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