スチャラカもくれんタマスダれ
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 ぶぉぉぉぉん。ぶぉぉぉぉん。
 法螺貝の腹の底から響いてくるような音に、朝の安眠は遮られた。
「ふわぁ。よ、おはよ」
「ああ。今日もいい朝だな」
「全くだ」
 俺と北川は、いつものように朝の挨拶を交わす。
 そこには「いつからウチは時代劇になったんだ」とか「敵襲か?」といった言葉は
存在していない。
 毎朝の学校までのジョギングに業を煮やした香里は、何が何でも名雪を起こしてやる
と毎日手を変え品を変えて名雪を起こそうとチャレンジしていた。
 銅鑼に始まり、太鼓にサックスにバイオリンにエレキギターにエトセトラ。
 こんな朝の始まりが一週間以上も続き、結果俺たちは、香里の巻き起こす騒音に
慣れきってしまったのだった。
 俺たちでも慣れてしまったのだから、年単位で目覚ましの猛威を退けてきた名雪に
とって、少々毛並みが違う音が鳴らされたところで関係ないのだろう。
 事実、香里の試みは悉く失敗していた。
 全戦全敗。その事実は更に香里を苛立たせているらしい。
 この分では、ねずみ花火や爆竹を持ち出してくるのも時間の問題かもしれない。
「誰もそこまでやらないわよ」
 考えがつい口から零れていたらしい。俺は香里にたしなめられる。
「だけど、いい加減諦めちゃどうだ?」
「そうだぜ香里。水瀬さんはそんなことじゃ絶対に起きない」
 俺たちはこのことに関して確信をもっていた。そして香里も名雪を起こすなんて
生半可な方法じゃすまないと認めているのだろう。
 ただ、気持ちと感情とは別の場所にあるのものだからな。
「仕方ないわね。今日も相沢君に起こしてもらいましょうか」
「へー、へー。仰せのままに」
 普段に同じく、俺は二、三度ノックした後、「なゆきの部屋」と書かれたルーム
プレートを横目にドアを開いた。
 途端、頭に来る衝撃。
 目を開けると、名雪が頭を抱えた似た格好でうずくまっていた。
「…いたい」
「朝は、おはようございます、じゃなかったのか?」
 俺の方が石頭だったみたいで、俺の復活の方が早い。
「あら、名雪起きてたの? だったら返事してくれたらよかったのに」
「ごめんね、香里」
 手の平をすり合わせて謝る名雪。
 ともあれこうして名雪が起きている以上、今日は遅刻しないですみそうだった。


 しかし俺の考えは甘かった。
 起きているように見えたからといって、安心してはいけなかったのだ。
「くー」
 名雪は、リビングの机に移動するまでは起きていた。
 ただし、机の上に体重を預けるとやはり眠くなるのだろう。俺も学校の机に体重を
預けるとものの数分で眠ってしまうからな。
 既に名雪の瞼は堅く閉じられている。しかし、名雪が早起きした今日くらい、余裕を
もって学校に行きたかった。

 ガタガタッ。これは俺が机を揺らす音だ。
「相沢君、行儀悪いからやめなさい」
 ジャブは香里に止められる。ここで相手を揺さぶることが重要なのだが、仕方なく
本番に入る。
 イチゴジャムを取り出してスプーンで一口すくい、名雪の鼻もとへ近づける。いつも
ならばこれで反応を示すのだが、今日の名雪はイチゴジャムの匂いに反応しなかった。
 俺は新しい手を模索してみる。
 安易に良い考えは浮かばないものだとは知っていたが、なにせ死活問題である。
 そうこうしている間にも、始業時刻は着々と近づいているのだ。
 8時10分。待ちきれなくなった香里と北川は、名雪を俺に託して玄関へ向かった。
「二人とも、俺を残して行くつもりか?」
 この薄情者め。俺はありったけの恨みを眼差しに込めて香里を睨んだ。
「ごめんね、相沢君。この埋め合わせは後でキチンとするから」
 靴を履きながら、上の空で答えを返す香里。話す暇も惜しんでいるのか、北川に
至っては既に屋外に飛び出していた。
「おい、香里、早くしろって! 今週は俺たち日直だぞ」
「分かったわよ。それじゃ、名雪を宜しく」
 毎度のことながら、慌てた様子で出かける二人。
 そして、水瀬家には俺と名雪の二人だけが取り残された。

 リビングに戻ってきた時も、やっぱり名雪は幸せそうに寝入っていた。くそ、こう
なったら最終手段だ。
 俺は中庭へ出かけて、バケツを漁って一番強力そうな洗濯ばさみを探す。
 このギザギザの鋏はいいかもな。いや待て、こいつはいくら何でも危険じゃないか?
 適当なものを見繕って、すやすやと眠り続ける名雪の鼻を挟んでやる。
「くー」
 しかし、名雪はぐっすりと寝ていた。なかなか手強い。寝ている間は音感だけでなく
痛覚までシャットダウンしているようだった。
 どうやら口から入る酸素だけで呼吸しているらしい。ならばと、俺はガムテープを
取り出した。
 知らない人がこの光景を見たら、俺を犯罪者扱いして警察に通報するのだろうな、
などと馬鹿なことを考えながら名雪の口にテープを貼る。
「うむむー。うー」
 程なくして息苦しさに名雪が目を覚ました。ガムテープの効果は絶大だ。すぐに俺は
ガムテープを外してやる。洗濯ばさみは念のためにと、そのままにしておいた。
「鼻が痛い」
 涙目で告げる名雪に、ちょっと悪いことをしたかな、とも思ったが、そもそも名雪が
ちゃんと起きてくれるなら、こんな苦労はしなくても済むのだ。
「強力な洗濯ばさみだからな」
「息をするのも苦しいし」
「ガムテープで口を塞いでいたからな」
 俺がいちいちテキパキ答えてやると、名雪は不満そうな顔を見せた。
 そりゃ、俺がこんなことされたら、そいつを何発かぶん殴らないと気が済まない
だろうから、その不満ももっともなことだが。
「どうしてそんなことしたの?」
「名雪がなかなか起きないからだ」
 確信をずばっと突いてやると、案の定、名雪は言葉を詰まらせた。
「起きたんだったら学校行くぞ」
「朝食は?」
「朝食を食べたかったらもっと早く起きろ」
「今日は早く起きたよ〜」
 情けない顔で名雪が呟いていた。
 いくら早く起きて二度寝したら意味がないだろ、とは言葉に出さなかった。注意した
ところで無駄なのは解りきっていることだしな。その代わりに名雪を急かす。
「ほら、いくぞ名雪」
「う〜、じゃあ。祐一だけ先に行ってて」
 ぐらっ、と気持ちが揺らいだ。
 そうしようか、と決めかけた時に、怒ったときの香里の鬼面が脳裏に浮かぶ。
 名雪を任された以上、学校まで送り届けなかったらどんな目にあうことか。
「駄目だ。香里と約束したからな」
 それでも、名雪は朝食にこだわった。
「仕方ないな。俺も付き合うから、さっさと食えよ」
「うん。ありがとう、祐一」
 その笑顔がどこか曇っていることに、俺は迂闊にも気づかなかった。


 それからたっぷり時間にして10分程かけて、名雪は朝食を味わって食べていた。
 二人で後かたづけをして、気になった俺は時間を訊ねる。
 名雪は腕時計から目線を上げて答えてきた。
「え〜と、8時35分」
 絶対に間に合わない時刻だった。HRどころか、一時間目も遅刻間違いなしだ。
 急いで玄関に向かって靴を履き替える。
 水瀬家の玄関のドアを開いて、俺は硬直した。
「にゃあ〜」
 猫だ。野良猫が間違って迷い込んで来たのだろうか?
 理由なんてどうでもいい。名雪が見つける前に視界から閉ざす必要があった。
 俺は慌ててドアを閉めるとあたふたと靴を履いている名雪に向き直って、今日は裏口
から出ていこうと提案しようとした。そのはずだったのだが。
「猫さん…」
 どうもドアが閉まらないと思っていたが、名雪の首がつっかえ棒になっていた。
「なあ〜」
 よせばいいのに、猫が一声鳴く。やめてくれ、俺は学校へ行きたいんだ!
 ふらふらと夢遊病患者のように(俺は実際に見たことがあるわけではないが)、
おぼつかない足取りで猫に近づいてゆく名雪を、俺は為すすべもなく見つめていた。
 あまりにも不運な巡り合わせに、体が動いてはくれなかったからだ。
「猫さんだよ〜」
 普段の50%増しの素早さで名雪が動く。出来れば50%増しの速さで俺を
学校に連れて行ってはくれないか?
 抵抗するだろうと俺が決めてかかっていた猫は意外にもすぅと名雪の腕に収まった。
「いい子だね〜、よちよち」
 それは赤ん坊に言う言葉だと、心の中で突っ込みを入れる。もっとも、まだ体が
小さいから、こいつは子猫かもしれない。そうすれば、別に変な言い方ではないな。
 と、そんなことはどうでもいいんだ!
「名雪ぃ〜、学校に行くぞ」
「ヤ」
 俺の提案は一文字で却下される。学校より猫の方が大事なのか?
 俺は勿論、そんな愚問は発しなかった。
「祐一、先行ってて」
 なお〜。猫が名雪に同意するかのように、鳴き声を上げた。
「いいから、学校に」
 俺の言葉の途中で、今まで名雪の腕に大人しく抱きかかえられていた子猫がするっと
抜け出して、家の門を曲がって姿を消した。
 陸上部の本領発揮、と名雪もすぐさま追いかけて俺の視界から消える。
「あっ、おい?」
 一人と一匹が曲がった方向は、ちょうど学校への道とは反対の方向だった。
「仕方ないな」
 俺は一言呟いて、学校へ向かった。道中、香里への言い訳を考えながら。


 一時間目の途中で出席した俺は担当教師に小言を言われ、椅子の上に座らされた。
 名雪はどうしたのよ? と目で訴える香里に、後で話す、とジェスチャーを返す。
 結局、その時間の終わりまで俺は椅子の上に座っていた。
 俺が椅子に正しく座り直すと、香里が笑顔を張り付けて俺の席にやってきた。
笑顔の仮面の下から身もよだつ烈火の激怒が見え隠れしている。
「相沢君、名雪はどうしたの?」
「猫を追っかけてどこかに行ってしまった」
 結局、俺はこんな言い訳しか用意出来なかった。
 香里は「はぁ、分かったわよ」と言いたげな表情をして、そのまま自分の席へ戻って
行った。
「助かったな、お前」
 香里の表情を見てとり、早々と廊下へ非難していた北川が自分の席に戻りざま、
そう呼びかけてきた。
「お前こそ、逃げたりして後が怖いんじゃないか?」
「と、ところでだ。水瀬さん、いくらなんでも遅いんじゃないか?」
 無理矢理にでも話題を変えようとしているのはバレバレだった。
 だが、俺は心優しいので北川の提供した話題に乗ってやる。
「さあな。名雪のことだから、いつまで追いかけているか分からないぞ。
 それに、人に飼われていたのかな? 結構人に懐いていたようだったし」
「ところでさ、何か雲行きが怪しくなってきてないか?」
 確かに、朝に比べて雲の割合が増えたように思う。
「けれど、天気予報では晴れだっただろ」
 楽観的に俺はそう答えた。しかし、二時間目が始まる頃、空は俄にかき曇り、
いつしか大降りの雨が大地に降り注いでいた。
 名雪は大丈夫かな。俺は傘を持っていることを祈るばかりだった。


 キーンコーンカーンコーン。2時間目終了のチャイムが鳴り響いた。
「相沢君っ!」
「どうしたんだよ、香里」
 それから冗談を続けようとした俺の言葉は意味を失った。
 香里の表情は切羽詰まったそれで、俺も初めてみるような険しい顔だった。
「名雪、遅いわね」
 確かに遅い。でも、きっと雨が降ってきたんで雨宿りをしているからだろ。
だが、香里は俺のそんな呑気な返事に、更に表情を険しく変えた。
 俺は何かまずいことを言ったのだろうか?
「今日って、何の日か知ってる?」
 苦渋を絞るかのような口調で香里は言い募る。
 しかし、俺は今日学校が休みではないことから、そんな大切な日であるとは思え
なかった。正直にそう話す。
 俺の言葉に、香里は更に深い苦悶の表情を自らに刻みつけて、告げた。
「今日は、母の日よ」
 俺の血の気が一気に失せる。青ざめた顔は後悔へと変わり、俺は教室を飛び出した。
 悔しかった。気づいてやれなかった自分が不甲斐なくてたまらなかった。





 昨日は結局、一睡も出来なかった。
 私はまだ寝入っていると思っているのだろうね、香里が法螺貝を吹いている。
 いつもなら意識にも入ってこないその音は今日に限っては嫌になるほど気に障った。
 一人でいたかった。一人にして欲しかった。

 お母さんのいない、母の日なんて。

 トン、トン。
 ノックの音は、祐一が来る合図。祐一にも、会いたくないよ。気分が悪いふりをして
みようかな。
 でも、みんなに心配をかけたくはなかったから、私は返事をしようとドアへ歩く。
 いつもと同じ祐一の顔がそこにあった。何か黒いものが私の心を蝕む。どうして、
いつもと同じ顔をしていられるの?
 思いに囚われた私は、途端自分がいる場所が分からなくなった。衝撃。
「…いたい」
「朝は、おはようございます、じゃなかったのか?」
 おはよう。ただそれだけのことも、今の私には苦痛だった。普段通りでいることが
辛かった。
「あら、名雪起きてたの? だったら返事してくれたらよかったのに」
「ごめんね、香里」
 でも、本当は起こして欲しくなかったんだよ。放っておいて欲しかったんだよ。


 階段を下りる最中も、私はどうすれば一人でいられるか考えた。
 頭が良くない私は、いい考えが思いつかなかった。
 自分でも、安直な考えだと思ったけど、それを実行する。こうやってテーブルの上で
寝たふりをずっとしていれば、きっとみんな学校に行って、一人になれる。
 暫くして、香里も北川君も学校に行くため、この家からいなくなった。でも、祐一は
残ってる。
 薄目を開けて壁掛け時計で時間を確認する。
 この時計も、昔はここになかったもの。お母さんのいた頃にはなかった。
 香里が、時計がないと不便だから、と言って取り付けた時計。でも、私は時計なんて
欲しくなかった。この家を変えて欲しくもなかったし、それにお母さんが死んでからの
そういった時の流れも、否応なく私に突きつけてくるから、私はこの時計が嫌い。

 突然、鼻が何かで挟まれた。苦しいけど、私は寝たふりを続けよう。
 次は、ガムテープで口が留められる。我慢、我慢。
「うむむー。うー」
 息が苦しくて、私は寝たふりをやめるしかなかった。祐一はすぐにガムテープは
取ってくれたけれど、鼻の洗濯ばさみは取ってくれなかった。

 起きた振りをした私を、祐一が学校に誘う。
『ごめんね、今日は学校に行く気分じゃないんだよ』
 そう言えたら、どんなに楽だろう。でもそしたら、きっと祐一はこう言うんだ。
「そうか。実は俺も何となく学校に行く気分じゃないんだ」
 今日だけは、その言葉を聞きたくなかった。祐一の言葉を聞いてしまったら、私は
その言葉に甘えてしまう。その優しさに苦しさを覚えてしまう。
「朝食は?」
 もう8時25分。全力で学校までずっと走り続けても、もう間に合わないかも
しれない時間だった。
 朝食を食べるふりをして、祐一に学校に行ってもらおうかな。
「朝食を食べたかったらもっと早く起きろ」
 そう言って、祐一は私を連れ出そうとする。私は一人になりたいのに。
「う〜、じゃあ。祐一だけ先に行ってて」
 祐一は、頑として首を縦に振ることはなくて、
「仕方ないな。俺も付き合うから、さっさと食えよ」
「うん。ありがとう、祐一」
 どうして祐一はこんなに優しいんだろう。
 ゴメンね、祐一。私、嘘ついているんだよ。私はこっそり祐一から目を逸らした。

 8時30分になっても、35分になっても、祐一はずっと側にいてくれる。
 心が締め付けられてゆく。罪悪感に押し潰されそうになってゆく。
 お母さんの残してくれたイチゴジャムの味も分からない時間。こんなにご飯が
美味しくないトキなんて、二度と迎えたくなかったのに。
 ただ機械的に口を動かしているといつの間にか、皿の上のパンはなくなっていた。
「ほら、さっさと食器を洗わないと香里が怖いからな」
 祐一の冗談が、ひどく空しく聞こえた。

 悪あがきももうお終いなのかな。靴を履きながら、祐一の背中を見上げる。
 祐一の背中を見ていると、安心する。一時は、ううん、ずっと、この背中は私を一人
置いていくものだと思っていた。私を傷つけることだと。
 けれど、7年ぶりに再会して、それは私の思いこみだって分かった。
 ふと、祐一に隠れた場所に何かが動く影を見つけた。猫さんだった。私は近づいて
抱きしめようとする。今日はすっぽりと胸の中に収まってくれた。
 ねえ、私に協力してくれないかな。心の中だけで、私はその子猫に相談した。
 すると、猫さんは私の腕の中から飛び出てしまった。どうして? 私の言うことは
聞いてくれないのかな? 
 猫さんは玄関から外にでて、私の視界から消えた。その方角は学校とは逆のほう。
 もしかして、私の言うことが分かったの?
 私も子猫を追って、家から、祐一から逃げ出した。きっと、いつものことだと
祐一も思ってくれるはずだよ。そして、やっと私は一人になれる。


 猫さんは、家から二つ角を曲がった所で私を待っていてくれた。
 私は鞄の中からイチゴチョコレートをとりだして、猫さんにありがとうの気持ちを
込めてプレゼントした。
 なぁ〜おと一声鳴いて、チョコを口で掴んだ猫さんは私の見える範囲からあっという
間に消え去っていった。
 私は、望み通り一人になれた。けれども何かぽっかりと空虚な気持ちがあった。
そんな気持ちに呼応したかのように、空は雨の様相を見せ始めていた。
 私が電車に乗るころには、雨は大降りになってしまっていた。


 行くところは決まっていた。お母さんのお墓。
『水瀬家之墓』
 顔を見たことすらないお父さんの名前の横に、お母さんの名前が刻まれていた。
「あなた、久しぶりですね」
 ここに来るたびにいつもそう話しかけていたお母さんは、今はお父さんと一緒なの
だろうか。そして、幸せなのだろうか。
 再びお墓の前に立ってみて否応なく気づかされる。ここに、お母さんが眠っている
のだと。もう、お母さんとは会えない。話せない。怒ってくれない。私に向かって
微笑んではもらえない。そして…。

 私は、前にここに来た時のことを思い出した。
 親族が集まって、私はイヤでもここにこなければならなかった。確かあの時も、雨が
降っていた。
 お母さんの死を信じられなかったし、信じたくなかった私は動くことすらやめた。
 私は祐一に動かされるままに線香をあげて、手を合わせて目を閉じて。
 でも私は何も考えない。何も言うことはない。ただ、悲しみに支配された心がそこに
あるだけ。
 つぶれるような気持ちで家に戻ってきた私はその日食べたものを戻し、
更に雨に打たれて体調を崩して、それから三日間、私は学校を休んでいた。

 昨日お花屋さんでこっそりと買ったカーネーションを墓前に供える。今日はちょっと
だけお母さんと話せる気がした。そして、話したいことは沢山あった。ずっと会わない
でいてゴメンね。今、祐一と、香里と、北川君と一緒に暮らしているんだよ。
 …幸せって、何なのかな? 死んだ人は幸せなの?  ねえ、お母さん。お母さんは
どうなのかな。
 答えはいつまでたっても返ってこない。


 ザッ、ザッ、ザッ。
 突然の足音に振り向くと、そこに祐一がいた。
「やっぱり、ここにいたんだな」
「祐一、どうしてここに?」
「香里に今日が…母の日だって聞いてな。そしたらここしか来るところないだろ」
「そうか、簡単にバレちゃったね」
「名雪、墓前にカーネーションは似合わないぞ」
「やっぱり、そう思う?」
 祐一と言葉を交わす。違うんだよ、話したいのはこんなことじゃなくて。
「でも、母の日だからな」
 そう言うと、祐一は鞄からカーネーションの花束を取り出して、墓前に捧げた。
手を合わせて仏を拝みながら、私に話しかけて来る。
「俺じゃやっぱり、力不足か?」
「それは…」
「分かってるよ。俺なんかじゃ、かないっこないってな。
 けれど、好きな相手を傘も差さずに濡らしてしまうなんて、最低だよな」
「雨、降ってたんだ」
 そして、一度気づくと、肌にまとわりつく服はひどく不愉快で、
全身がひどく冷たくてたまらなくなる。
「祐一も、傘持ってないね」
「香里に金借りてくればよかったんだがな。電車代と花束ですっからかんだ」

「全く、待ってと言っているのに聞いてないんだから」
「そうそう、それじゃ風邪引いちゃうぜ、二人とも」
 いつの間にだろう。香里と北川の二人も、傘を差して祐一の後ろに立っていた。
「お前らも来たのか。石橋はカンカンだろうな」
「なに、いいってことさ」
 祐一と北川君はハハッと笑っていた。
「さあ名雪、帰るわよ」
 香里が差し出した手を、私は弾き飛ばした。
 祐一の顔が、可哀想な程に悲しみで歪む。そう…なんだ。7年前の、祐一の気持ちが
ようやく私にも分かったよ。小さい体で、こんな大きな悲しみを精一杯堪えていた
んだね。今にも溢れそうな、はち切れそうな想いは、差し伸べられる優しさを受け入れ
られないんだね。


 パァァァァァンッ。
「え?」
 頬が痛い。焦点の合った目に映ったのは、手を振りかぶった香里の姿。
「…ゃないわよっ!」
 何? 雨音で何を言っているのか分からないよ。
「甘えてるんじゃないわよっ!」
 香里…?
 パァァァァァンッ。さっきとは逆の頬が紅く腫れる。
「一人だけ悲劇のヒロインぶって、何様のつもりよっ!」
「おい、香里そこまでは言い過ぎだろ。くっ?」
 香里を止めようとした祐一は、北川君に後ろから押さえられていた。
 昨日まで、平穏な一日だったのに。これは、私のせい? 私のせいで、みんな
バラバラになってしまったの?
「何とか言いなさいよ、名雪!」
「香里ぃ、いい加減に」
「悪いけどな、動かないでもらうぞ」
「北川、この手を離せぇ!」
 千切れたみんなの心に、私の心も千切れて外に飛び出す。今までずっと押さえ込んで
きた言葉も止まらない。
「香里に、みんなに私の気持ちなんて分からないよ!」
 ブンッ。今までで一番大きな平手に、私は倒れ込んだ。香里は地面に崩れた私を
掴んで、同じ高さになった私の顔をまっすぐに見つめてくる。
「あんただけ悲しい思いをしてるとでも思ったの?
 私だって、私だって…」
 香里が、泣き崩れていた。気丈でどんなときでも笑顔で私を励ましてくれた香里。
そんな香里が、涙を見せていた。
「香里、いいのか? 俺から話そうか」
 香里の肩に優しく手をかけた北川君に、香里は首を横に振って応えた。
 私と祐一はそんな二人をじっと見つめていた。
「私には、妹がいたわ…」


 笑顔がとても素敵な妹。姉とはタイプの違う妹。二人は仲良しだった。
 そして、二人一緒に暮らして行けるのだと、そう思っていた。
 突然の妹の入院。そして告げられる悪夢。彼女は、不治の病に冒されていた。
それがどうしたというのだ? 姉はそれからも変わらずに妹と接していた。
 妹には真実を言わなかった。いつかきっと、治るからとそう信じて。
 しかし、破局は一年前。姉は自ら妹に告白する。
「あなたの命は、あと一年なのよ」
 妹は笑って応えた。知っていたよ、自分の体のことだから。
「ねえお姉ちゃん、わたしの夢を聞いてくれるかな?
 わたしね、お姉ちゃんと同じ学校に行って、一緒に学食で食事して、
お姉ちゃんに学校で分からなかったところを家で教えてもらって。それからね…」
 姉はその日から、妹と接することをやめた。逃げているだけだとは自分でも分かって
いた。もう長く持たないのなら、妹の望みを叶えてやるべきだと知りながらも。
 怖かったのだ。当たり前にあることが、二度と戻れない遠くに行ってしまうことが。
 妹はそんな他愛ない夢を叶えることもなく、それでも最期まで笑って旅立った。

「ごめんね、お姉ちゃん。一緒に学校に行くって約束したのに」

 しかしその時、姉は病院で妹を見守るでもなく、自宅で恐怖に打ち震えていた。
 病院から戻ってきた母から最期の言葉を伝えられた姉は、自分の愚かさを今更ながら
後悔した。ああするべきだった。こうするべきだった。
 しかし、妹はもうこの世にはいない。

「いっそ責めてくれればどんなに、どんなにか良かったのに!」
「落ち着いてくれ、香里」
 北川君が香里を抱きかかえる。香里は、その腕を愛おしげに掴んで言葉を続ける。
「もう死のうかと思ったわ。だってそうでしょ? こんな薄情な姉に生きている資格
なんてないもの。でも、潤はそんな私でも受け入れてくれた」
 知らなかった。香里も私と同じだったなんて。曇った顔はそういう意味だったんだ。
「私は秋子さんが死んだときのことをまだ聞いてないわ。
 でも、秋子さんはどんな顔をしていたの?」
 そう、お母さんは…。
「笑っていたはずよ。秋子さんだもの。
 余計な心配をさせようと思って、それが残されたものにとって時には残酷であると
知っていても、それでも微笑んだはずよ。
 それに、あなたにだって相沢君がいるでしょう?
 それなのに、あなたはまだ何が欲しいと言うの!」
 私の、私の欲しいものは、何?





「あらあら、名雪は何だかんだ言っても甘えん坊ね」
 ぼぅと浮かぶように、霧が夜空を縫うように。
「秋子さん」
 彼女が、そこにいた。しかし、その体は透き通って向こうの景色が素通りしている。
「まさか、幽霊」
「大丈夫ですよ」
 このタイミングでのこの言葉。たとえ幽霊だとしても、秋子さんに間違いない。
「お母…さん?」
「久しぶりね、名雪」
 名雪が秋子に飛びつき、取りすがって泣いていた。泣きじゃくる名雪の髪を、
そっと秋子さんが撫でつけていた。
「本当、名雪は私にそっくり。あの人をなくした時の私にまで、似なくていいのに」
 秋子さんは苦笑しながら言った。
「お父さん?」
「ええ、そうよ。あの時は、部屋に閉じこもって両親も拒絶して。
 でも、あなたがいたから、私は救われたのよね」
「わたしがいたから?」
「そうよ、私とあの人の子供。あの人からの贈り物だと思ったわ。
 暗い絶望の淵から私を導いてくれた未来への光」
「でも、私のお腹にお母さんの子供はいないよ」
「私が言いたいのは…そうね、こういうこと。自分を必要としてくれる、そして自分に
とっても必要な人がいる。そんな人がいて、人生を投げ出したりしちゃダメなのよ」
 自分を必要としてくれる、俺にとっても必要な人間。それは、
「名雪、俺はお前が欲しい。お前と一緒じゃない人生なんて考えられない。
 けれど、お前は俺なんて必要じゃないのか?」
 これで拒絶されたら終わり、そんな考えを必死に振り払う。
 名雪は俺から顔を背けてたっぷりと考え込んでから、
「…そんなことないよ。祐一は、ずっと祐一で。ずっと私の大切な人だよ。
 私も、祐一が欲しい。祐一と一緒じゃない人生なんて、もうイヤだよ」
「それに、私の贈り物はまだあるわ。私たちの家、そしてあなたたちの中にある私の
想い出。みんな、あなたへの贈り物」
 名雪は、秋子さんの言葉に酷く傷ついたように顔を歪ませる。
「大事にしたかったんだよ。でも、変わっちゃった。もう昔のままじゃないんだよ。
 たった数ヶ月しかたっていないのに」
 秋子さんはふうっと息を吐いて言葉を続けた。
「いいのよ。生きてゆく、ということはそういうものなのだから。
 ずっと同じなんて楽しくないわ」
「お母さんとの想い出だって、どんどん薄れていくんだよ?
 ああこうだったな、そうだったな。でも、お母さんが何て言ったのか覚えてないの。
 覚えていたはずなのに、楽しかった時間のはずなのに!」
「哀しいことね。でも、本当に大切なことは残ってるでしょ? 
 7年前のあなたと祐一さんとのこともそう。逃げ出したいくらいにつらい想い出
でも、残ってるわよね。
 人は、大切なことだけを記憶に残して生きてゆくのよ。つらいことや、悲しいことで
埋め尽くされている時期もあるかもしれない。
 けれど、お母さんはそれに負けないで欲しいわ。そうすれば、最後には幸せだった、
と思えるから。きっとね」
「私…そうだよ。きっとこれが私の欲しかったものなんだよ。
 過去から遠ざかってゆくことが怖かったんだよ。未来に向かってゆくことをお母さん
に許して欲しかったんだよ」
「過去と未来は相対なものではないわ。
 それに言ったでしょ。大切なことはずっとこの胸の一番奥にずっとあるんだから、
大丈夫よ。
 大切なのは、今の自分を見失わないこと」
「今の、自分を?」
「もう、いいかしら」
「うんっ」
 名雪の笑顔が、そこにあった。長らく忘れていた、無理のない素直な笑顔。
 俺たちを安心させようとするものでも、自分を励まそうとするものでもない、自分の
心からの笑顔。俺が、誰よりも好きなこいつの、何よりも大好きな笑顔だった。
「みなさん、名雪をお願いしますね。特に、祐一さん」
「はい」
 俺は、秋子さんに応えるため、俺の気持ちを今一度示して秋子さんへの餞別と
するため、ただ頷いた。
 心が伝わること、それが一番大切なのだから。力強く頷いたところで、不似合いだと
その時の俺は思った。
 俺たちの心を受け取って、名雪の微笑みを受け取って。やはり微笑みながら、
ゆっくりと霧が朝の光に消えてなくなるように。秋子さんは、あるべきところへ戻って
いった。
 そして、見届けた俺は名雪の手を取って、
「さあ、帰るぞ。俺たちの家に」
 名雪が、大きく頷く。
 北川が俺に傘を渡してくれた。名雪のすぐ隣りに進んで、傘を開く。
「ほら見て。かたつむりさんだよ」
 雨に濡れた緑の葉の裏側に、かたつむりが寝そべっていた。
「ほ〜、本当だな」
「じゃあ、そろそろ梅雨入りかしら?」
 北川たちも首を突っ込んで、4人で厭きるまでかたつむりを観察する。
 梅雨のじめっぽさとは雨の天気とは無縁に、心は晴れ渡っていた。
 俺も今なら断言できる。この4人がいるなら、俺たちはずっと幸せに暮らして
ゆける。
 いや、例え誰かが欠けてしまったとしても、俺たちは前を向いて進むことができる。
この今が、あるのだから。


 商店街の路地裏で、一人の少女が座り込んでいた。手には天使の人形を持って。
 僅かに金色に光る羽を背中に広げた少女の前に、年頃の女性が現れる。
「あゆちゃん、これでいいの?」
「うん。これでいいんだよ」
「本当に? 今のままなら祐一さんを奪えたかもしれないのに?」
「ううん。祐一君は勿論好きだけど、ボク名雪さんも好きだから。
 それに、今の祐一君はボクのこと見てくれてないから」
「いつか、また見てくれるようになるかもしれませんよ?」
 少女は、強く首を横に振る。
「ボクには見えるんだ。二人の間にある目に見えない細い糸がね。
 その糸は誰にでも繋がっているんだ。僅かに太かったり薄かったりするけどね。
 昔は、祐一君と一番繋がっているのはボクとの糸だったんだけど」
「また結い直せばどうです?」
 女性は少し意地悪に微笑む。
「イヤだよ。だって、きっとほつれるもん」
「あら。どうしてそう思うの?」
「だって、秋子さんの贈り物はさっき言った以外にも、もう一つあるからね」
「他にまだ何かあったかしら?」
 心から楽しそうに微笑む女性に、少女もとびっきりの笑顔で答えて言った。
「それはね、祐一君だよっ!」





「朝〜、朝だよ〜」
 今日も、間延びした名雪の声が目覚ましから流れる。
「朝ご飯食べて学校行くよ〜」
 眠い。どうしてだろうか、妙に体がだるくて動きたくない。
「朝〜、朝だよ〜」
「もう五分だけ寝かせてくれ」
「ダメだよ。もう8時30分だよ?」
 うん? 今日の目覚ましはイヤに丁寧だな。現在の時刻まで教えてくれるとは。
 布団をはね除けて眠っていた俺に、肩まですっぽりと薄手の布団がかけられた。
 暑い。冬はあれだけ寒かったのに、夏もこんなに暑いとは。つい一週間前まで考え
もしなかった。涼しい夏が来るものだと決めつけていたのだが。
 暑苦しさに目を開けると、タオル一枚羽織ったまま、つまり昨日の晩の姿のままの
名雪が困ったようにこちらを見ていた。
「やっと起きたよ〜」
「くそ、名雪に三日連続で起こされるとは。不覚だな」
 しかも、目覚まし時計なしでだ。

「ほら、さっさと起きなさいよ!」
「う〜ん、あと五分」
「何があと5分よ、そんな時間ないわ、というか、もう完全に遅刻よ!」
「じゃあ、もっと寝よう」
「ぬぅ〜、たまには私より早く起きなさいよ!」
「あれ? どうして香里、裸なんだ?」
「…くぅっ、デリカシーから勉強してきなさい!」

 隣の部屋から、潤の寝ぼけ声と香里の怒鳴り声が聞こえてくる。
「おーこわ」
 バキ、ドカ、嵐とバイオレンス吹き荒れる隣の部屋から逃げるようにして俺は一階へ
降りていった。


 テーブルに座って暫く待っていると、名雪がきつね色にこんがり焼けたトーストを
運んできた。ちょうど潤たちも降りてきたようだ。
「おい潤、すごい有様だな」
「放っておいてくれ、祐一」
 潤の顔に青痣がある。こいつはきっと後々まで残るぞ。
「イチゴジャムだよ〜」
 秋子さんが残していたメモを参考にして名雪が新しく調理したジャムを
たっぷりと乗せて、ほくほく顔で頬張っていた。
 ちなみに、あのジャムのレシピも見つかったのだが、復元しようとする勇者はこの中
にはいなかった。
 そもそも復元する必要すらないのだが、だからといって下手に捨てたりすると何か
祟られそうで、処分することもできないでいる。
 俺たちが呑気に食事している合間にも「さっさと手伝いなさい!」だの
「もう〜、とろいわね〜」といった怒号が朝のしじまに響き渡る。
 近所にとっては、せっかく目覚ましの爆撃音が終わったと思っていたのに、新しい
騒音が発生してしまい、気の休まる暇もないだろう。
 案外、名雪の目覚ましに耐えてきた近所のことだから、もうこれくらいなら気に
ならないのかもしれない。実際、苦情なんて一度も来てないんだし。
「ごちそうさまでした」
 名雪が食べ終わった頃に漸く潤たちは食事に取りかかろうとするところだった。


「いやあ、待たせたな」
「遅れた原因はあんたにあるでしょうが!」
 香里のエルボーが潤の鳩尾にヒットする。
 少し先に家を出た俺たちに漸く追いついた二人は、早速夫婦漫才を披露していた。
「ね、次は夏休みだよね」
「ああ、そうだな」
 だが実のところ、担当が勉強しろとうるさくて例年ほど楽しみじゃなかった。
高校三年生ほど、夏休みが憂鬱な一年もないだろうと思う。
「みんなで海の近くに旅行しようよ?」
「おお、それはいいな。でも勉強はどうする」
「それは取り敢えず忘れるよ」
 あさっての方角を向いて。さも自身なさそうに呟く名雪。
「大丈夫だって二人とも、私がついているんだから。潤は知らないけどさ」
 ばん、と俺たちの背中を香里が後押しするように力強く叩く。
「か、香里〜っ。それはないだろう?」
「ふふ。冗談よ、それじゃみんな揃って出かけられないものね」
 ミーンミンミンミン。
 どこからか、蝉の鳴き声が聞こえてきたような気がした。
「蝉だね…」
 名雪がそう呟いた。俺の気のせいでなく、本当に鳴いていたらしい。
 俺たち4人は立ち止まって静かに、心に染み入る声を聞いていた。

 夏の入り口はもう、すぐそこまでやって来ていた。



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