スチャラカもくれんタマスダれ
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獣耳あります

「朝〜、朝だよ〜」
「朝ご飯食べて学校行くよ〜」

 う〜ん? 今日も、朝早くから目覚ましが鳴り響く。
 いつもはこの余計に眠りを誘うような名雪の目覚ましでも苦もなく眠れるのだが、
昨日夜遅くまで面白そうな深夜番組にかぶりつきになっていたからか、今日に限っては
そのとろい声に引きずられそうになる。
 しかし、そういう理由にもいかない。今週は中間テスト。当然、今日も一時限から
テストがある。否が応でも起きないと。
 声の聞こえてくる方向に手を伸ばして、手を下ろす。調子が悪いからか、時計一つ
止めることさえ難儀だった。
 スカ、スカ、スカ。何度も空振りする手に俺は業を煮やしてくる。
 目覚ましはテンポを上げることもなく、単調に言葉を紡ぐだけ。
 こうなったら、俺にも手がある。目覚ましの分際で俺に逆らった愚かさを教えてやる。
俺はベッドから飛び上がって、思い切りよく目覚ましにダンクをかました。
 ゴンッ。
「……う」
 名雪の体が、崩れ落ちる。俺が目覚ましとばかり思っていた声の正体は、
名雪本人だった。
「おいっ? 起きろ、名雪〜!」


「くそ、名雪が変なことするから、また走ってるじゃないか」
「私のせいじゃないよ〜。それに、すごく痛かったんだから」
 名雪が泣きそうな表情で反論してくる。
 当たり所が悪かったのか、あの後名雪は10分ほど沈黙。急げ、と俺がせかす中
ゆっくりとイチゴジャムを食べ(パンを食べるというよりもこっちの方が正しいだろ)
ていたものだから、また今日も走っているわけだ。
 テストの日にこれは冗談ではすまないぞ、おい。
「たまに起きたと思ったらこれか! もうお前は早く起きるな!」
「う〜、いつもは早く起きろって言ってるのに。祐一、嫌い」
 そんなところに、さらにお邪魔虫が現れる。
「あっ、祐一くんっ!」
 目の前の角を曲がったところから出現したあゆが俺の姿を認めるやいなや、
飛びかかってくきた。
 速度を上げることに終始していた俺には、それを避ける余裕はなかった。
 ボンッ。
 雪がクッションなってくれて、あゆに押し潰された俺に苦痛はなかった。
「うぐぅ、そんなにボク重くないよう」
「あゆちゃん、おはよう」
 そして、名雪はいつも通りのほほんとしていた。
「いいから、どいてくれ」
 ずりずりと体を動かしながら、上に乗っているあゆに頼む。
「あゆちゃんも、学校?」
 うん、そうだよ。と立ち上がりながらあゆが説明する。
 そうだ、こんなことしている場合じゃなかった。名雪を促そうと開きかけた口が、
あゆの頭を見て締まりがなくなる。
 性格には、あゆの頭の上にちょこんと、よくこれでも落ちないな、と乗っかっている
黄色い耳付き帽子を見て、俺の思考は急停止した。
「なんてことだ。こんなに似合ってないものをかぶるなんて、もう犯罪気味だ」
「ひどいよ、祐一君。これ、今ボクのお気に入り一番なのに」
 そう言われても、今も背中で揺れている羽に、変な形の帽子。現実どころか、
ゲームの中でさえ浮いてしまうような格好だからな。
 いや、それよりも今は学校だ。そういえば、名雪はどうしたんだ?
「……可愛い」
 頬が上気していた。瞳を潤ませてじっとあゆの帽子を見つめている。
 まるで猫を目の前にした時のような反応だ。もっとも、やはり俺には名雪の判断基準
は判らない。

 こうなった名雪は、梃子で動かすしかないよな。
「ほら、名雪、学校の期末テストはどうするんだ?」
「帽子の方が大切だよっ!」
 ぬぅわぁあ。こ、ここまで断言するか?
 しかし、ここで名雪を見捨てて自分だけちゃっかりテストを受けるのも決まりが悪い。
「判った、今日のテストが終わったら一緒に見に行こうな」
 名雪は、視線を帽子に注いだままにこくんと頷いた。
「あゆ、というわけで、14時にゲーセンで待ち合わせだ」
「えぇ?」
 あゆの返事を確認する暇もない。
 俺は後ろ髪を引かれる名雪の腕を掴み引っ張りながら通学路を走る。
 キーンコーンカーンコーン。
 校舎の姿もまだなのに、予鈴のベルが耳に飛び込んで来た。ま、間に合うか?
「走るぞ、きっとまだ間に合う」
「走るよ〜」
 すっかりいつもの調子に戻った名雪は、焦燥感など微塵も感じさせない様子で
楽しそうに走っていた。


 テスト開始後5分後にクラスに飛び込んだ俺たちは、教師の小言の聞かされながら
テスト問題とテスト用紙を配られた。
 さあ、5分も短いし頑張らないとな。

 一時限が終わると、いつものメンバーが名雪の机に集まった。
「しかしな、テストの日まで遅刻しなくてもいいだろ」
「俺だって遅刻したくて遅刻したんじゃないぞ」
「まあまあ」
 北川の一言にカチンときた俺を香里がなだめる。
「どうせ、また名雪が寝坊したんでしょ」
「違うよ」
 名雪は口を尖らせて反論する。ただ、今日遅れた理由は確かにそうではない。
「おい祐一、あの先輩見てみな」
 突然の北川が熱のこもった言葉に、俺はドアの隙間から廊下を見る。
「ぐぁ」
「これはまた、マニアックね」
 最近慣れてきた、胸元のリボンがワンポイントのここの制服。
 北川が先輩と言ったのは、蒼のリボンだったからだ。
 そこまではいいだろう。だが、頭の上のウサギ耳は一体?
 今時、それもんの店でも付けていないようなまさに香里の言うとおりマニアック
すぎる衣装、と言っていいものかは分からないが。
 それに頭の上につい気を取られていたが、ウサ耳を付けている先輩の顔には覚えが
あった。良く知っている人物だ。
「舞、どうしたんだよその格好は」
「……店で売ってた」
「可愛いよね」
 横で呑気に感想を述べる名雪。
「なあ、もしかしてあゆの帽子もここで売ってたのかな?」
「さあ、私に言われても困るよ」
 そりゃそうだろうな。名雪の言い分ももっともだった。
 う〜ん、舞にまでこの帽子が広まっているとは。その時、俺はある女性の顔を思い
浮かべた。いつも舞と一緒にいるはずの、笑顔とともにある、その人。
 舞がウサ耳なら、あの人はどんな状態なのだろう。
「祐一さーん」
 予想通り、佐祐理さんの声が聞こえてきた。
 俺は胸にそこそこの期待を抱きながら、声をかけてきた方向へ振り返る。
 そこには、やはり予想通り頭にそれを乗っけた佐祐理さんの姿。
「あはは〜っ、佐祐理はパンダさんですよ〜」
「佐祐理も似合ってる」
「舞も、ちゃんと似合ってますよ〜。ほら、全校生徒の視線があつまっているもの」
 確かにそうだ。しかし、理由は佐祐理さんが思っているものとかけ離れていると思う。
「うおおおおっ、俺は幸せだぜ」
 後ろで北川が理性を失って叫んでいた。全く恥ずかしい奴だ。全く、やりすぎだよ。
俺はこいつと一緒にされるのは困るので、自分の席から逃げようとした。
「うおおおおおっっ!」
 北川に触発されて、クラス中の男子が歓声の雄叫びを上げた。
 それで、逃げようと思っていた俺は逃げ場をなくしてしまう。
 バアアアンッ。
 近くで、凄まじい音が発生した。すぐに、発生源に目を移す。
「あんたたち、もうすぐ授業よ。少しは大人しくしなさい!」
 怒り心頭に発した香里が、物凄い剣幕で怒鳴っていた。その勢いに、あれほど
わき返っていたクラス中が静まりかえる。
「あんまり佐祐理たちが美しいから、嫉妬してますね」
 物怖じしないのは、さすが佐祐理さんだ、と言うべきか?
 この状況で香里に逆らうのを、正気と言えるかどうか怪しいが。
 案の定、香里は茶々を入れた(本人にその気はないのだろうが)佐祐理さんに
詰め寄って佐祐理さんと、ついでに舞の帽子をむしり取った。
 キンッ。
 辺りに、静寂の中の緊張感が張りつめた。香里と佐祐理さんが無言で対決する。
 その緊迫感に耐えられなくなった俺は、香里が投げ捨てた獣耳の行方を辿ってみる。
「可愛いよ〜。どこで買ったのかな」
 ねこまっしぐら状態の名雪が、獣耳を拾って自分の頭に付けていた。
 慌てて名雪に駆け寄り、愛想笑いを対峙する二人に向けながら一歩ずつ慎重に
後ずさってゆく。

「あ〜、みんな、席に着くように」
 地獄への招待曲が、今日限りは天国からの福音に聞こえた。
 教師のやる気の見えない言葉に、皆は救われたように自分の席へと戻っていく。
 そんな中、視線を交えていた二人は、
「あなた、佐祐理さんとか言ったわね。覚えておくわ」
「あなたこそ、佐祐理は忘れませんよ」
 お互いに一言ずつ洩らして自分たちの教室へと戻っていった。
 一触即発の中、それでも実際に戦いの勃発しなかったことに安堵のため息が
あちこちから漏れるのを聞きながら、俺はテスト用紙に向き直った。
「北川君、あとで話がしたいんだけど?」
 微かに香里の声が聞こえてきた。平均より高い香里の声だが、今は怒りのためか低く
抑えられていた。怯えた北川の返事を頭から追い出し、俺はなんとかテストに
集中しよう、とそう心に決めた。


 それからは何の障害もなく、平穏無事に時間は過ぎていった。
 名雪にノートのコピーを見せてもらったからか、まずまずの出来だと思う。
 ぐん、と腕を伸ばして深呼吸する。右肩に何かが触れる感触。
 トン、トンと一定の間隔で襲ってくるそのリズムを俺はよく知っていた。
「どうした北川?」
「人がいるんだ」
 相手にする余裕がたっぷりとあったので、シャーペンが指している窓の外を
見下ろす。あれ、この場所は覚えがあるぞ。
 そうだ、栞だ。近頃見ていなかったけど、体調が思わしくなかったのかな。
そうだとしても、今その姿が見えるということは元気になった証拠だろう。
 HRが終わったら久々に会いに行ってみるか。あゆには14時に来るよう命令した
から、まだまだ時間はたっぷりあった。

「名雪、悪い。先に帰っててくれ」
「でも、一緒に商店街に行く約束は?」
「判ってるって。ちゃんとそれまでには戻ってるからさ」
 HR終了と同時に名雪にちょっと遅れて家に戻ることを伝えてから、俺は中庭の
特等席へ向かった。
 
 雪よりも白い肌の少女。でも雪の解けた今となっては、何に例えればいいのだろう。
 俺が声をかける前に、栞は俺に気が付いて、にこっと笑ってくれる。
「お久しぶりです、祐一さん。ところで、どうしてそんなに汗だくなんですか?」
「いや、学校を休んでいるのに学校に来ているサボり魔を逮捕しようと急いだからな」
「私、サボりじゃありませんよ」
 口を尖らせるその表情が可愛いから、ついつい意地悪なことを言ってみたくなる。
 取り敢えず、元気そうだった。
「それに、祐一さんでは逮捕できません。警察の人じゃないと」
「いや、現行犯なら民間人でも逮捕できるからな」
「そんなこと言う人、嫌いです」
「まあ、病気も治ったみたいだし、良かったよ」
 栞はたおやかに笑う。数ヶ月前にあった僅かな翳りもそこには一片もなかった。
「今日はどうしたんだ? またアイスを食べに来たのか?」
「はい、その通りです」
 俺の言葉に同意すると、栞は背中から「えいっ」と背負っていたリュックサックを
地面に下ろした。
 何気なく中を覗き込む。
 大きめのリュックはドライアイスとアイスが詰められてぱんぱんになっていた。
「これはまた豪快だな」
「今日5月9日は『アイスの日』ですから。ちょっと奮発してみました」
「それは知らなかったな。なあ、これ一体誰が食べるんだ?」
「もちろん私と祐一さんに決まってます」
 俺は絶句した。
 確かに5月に入って、ようやくここに来る前俺の馴染んでいた空気に近くなってきて
いる。だから冬のときよりは余計に食べられるだろう。
 しかし、だ。今日は小さなカップに入った200mlアイスではなく、大きなカップに
たっぷり押し込められている500mlアイスだった。もちろん、バニラであることは
言うまでもない。
「二人でこれだけ食べるのは無理じゃないか?」
「大丈夫ですよ。こんなに暖かいんですから」
 そういや、今日の天気予報は最高気温20度だって言っていたっけな。
 だからと言って、これ全部食べられることとは全く別の話だと思う。
「私の快気祝いをしてくれないんですか?」
 上目づかいに責めるような視線で咎められては、俺の道は決まったも同然だった。

「そういやさ、その帽子新調したのか?」
 久しぶりに会った栞は、美術家がよくかぶっている帽子を頭の上にちょこんと乗せて
いた。
 うん、似合ってる。今日は変な獣耳ばっか見たから、素直に認めることができた。
 ちょん、その帽子を軽く弾いてみる。
 ぴょこっ。
 帽子の端っこから、犬の形をした耳が現れた。
「あっ」
 栞は慌てて帽子に耳を詰め込もうとするが、すでにバレバレである。
 俺は、もう何を言う気力もなかった。
「なんか、獣耳が流行っているみたいだな」
「はい。商店街で売っていて可愛かったから、つい買ってしまったんです」
 俺が何も言わないからか、栞は耳をしまうのをやめていた。
 犬チックだな。
 俺の頭に、そんな想いが去来する。
「なあ、栞」
 そいつ、似合ってるぜ。その言葉は突如闖入した人物によってかき消された。
「栞ぃ、あんたまでそんなものを!」
「え、あ、お姉ちゃん?」
 香里だ。北川も一緒にいる、というか、あれは。
「栞ちゃん、似合ってるぞ」
「うるさいわね、犬はあんただけで十分よ」
 香里は北川の首に付けた鎖を強く引っ張った。
「あうううん、あうんっ」
 北川が”鳴いた”。ついにここまで堕ちたか。
「そうだ。お姉ちゃんにプレゼントがあったんだ」
 そう言うと栞はぱたぱたと香里へ駆け寄ると、ひょいと背を伸ばして香里の頭に
自分と同じタイプの犬の耳を取り付けた。
「やっぱり香里も可愛いよな。惚れ直したぞ」
「あーもう、うるさいっ!」
 顔を真っ赤にした香里は北川をひっぱたいた。
「お姉ちゃん、そんなに照れなくてもいいのに」
「だ、だれが照れているもんですか」
「実際顔が火照っているもんな」
 俺もこの時を逃すな、と栞に加勢する。
 香里は珍しく冷静さを崩すと「あんたたち覚えてなさいよ」と言って校舎へ戻った。
 そうか。いつになく香里の表情が豊かだと思っていたが、栞の病状が良くなったから
だったんだな。
 すると、これからはああいった香里も見れるわけだ。実に楽しみなことである。


「うぅ、もうお腹いっぱい」
「もうリタイアですか?」
 俺はそれでも頑張って5カップ平らげたんだ。今日の昼食は絶対に食べ過ぎだぞ。
 一方、栞はまだ4カップ目だがまだまだ余裕の表情を見せている。きっと、アイスを
入れるための別腹があるんだろう。
 そうとでも理屈付けしないと説明できそうにない。
「まだこんなに残っているのに」
 リュックの中は1/3しか減ってなかった。
 俺は乾いた笑みを浮かべながら、
「頼むから、それは明日にしてくれ」
「判りました。じゃあ、明日も来ますね」
「もしかして、それ全部食べるまで続けるつもりか?」
 栞は当然だと思っているらしく、きょとんとした顔を見せた。
 あと二日は地獄だな。
「じゃあな。また明日な」
「はい。祐一さん、さようなら」
 俺は栞に背を向けてげっぷしそうなみっともない姿を見せないようにその場を立ち
去った。


 腹を押さえながら校舎内を歩く。生徒の視線が痛いぞ。
 それを気にする力があったらどれほどいいことか。
「大丈夫ですか?」
 こんな俺に声をかけてくれる優しい人がいたのか。
「大丈夫ですか北浜さん」
「天野か。これまた久しぶり」
「これまた、とは?」
「気にするなって」
 今となっては真琴の大親友、天野美汐だった。
 涙でふやけていたから、最初は誰か判らなかったんだがな。
「それにしてもどうしたのです?」
「ちょっとアイス詰めになってな」
 天野は眉を顰めて難しい顔を作った。この一言で分かる方がおかしいか。
 彼女は俺の気分が悪いことを見て取って背中をさすった。俺は慌てて制止する。
「食い過ぎたんだよ」
 もう動けない。俺は壁にもたれかかって休憩することにした。
 見栄を張る余裕すらも今の俺にはなかった。
 俺が落ち着くまでの間、天野はずっと目の前で待ってくれた。

 落ち着いた俺は礼を言った。
「助かったよ、天野」
「いいえ、私は何もしていませんから」
「それでも、な」
「立てますか?」
 差し伸べてくる手を断って、俺は一人で立ち上がる。
「ふう、と。げっ」
 天野もまた、クマ耳を付けていた。
 何も指摘しなくとも、天野は耳のことだと分かったらしい。
 小さくため息を吐くと、天野は苦しそうに言ってきた。
「相沢さんも、今は大丈夫ですけど」
 それは、あまりにも意味深な言葉だった。
 どういうことだ? まさか俺も獣耳を付けるはめになるとでも言うのか?
「一体どういうことだ」
「すみません。それは、まだ言えません」
 俺は天野を揺さぶって何としてでも答えを求める。
 しかし、天野は口をぎゅっと結ぶばかり。それに、苦しそうだった。
 手を離して、詫びる。天野は「いいんですよ」と優しく俺を許してくれた。
「いつか話すべき時が来ます。でもその時、もう」
「おっ、おい?」
「ごめんなさい」
 きびすを返して去ってゆく天野の後ろ姿を、俺はただ見送ることしかできなかった。


 やっとの思いで教室に帰って鞄を手に取り、教室の時計を見上げる。
「げっ」
 時刻は、1時半を指していた。名雪との約束が2時。どうやら、一度水瀬家に戻って
着替えをする時間は残されていないみたいだった。

「あ、やっと来た」
「あっ。遅いよ、祐一君っ!」
 待ち合わせ場所に辿り着くと、あゆと名雪の二人は到着していた。
「悪い、遅れた」
「う〜、早く帽子買いたいのに〜」
「名雪、あれは獣耳であって帽子ではないと思うぞ」
「可愛いからいいのっ」
 俺は、約束通り現れた案内役のあゆを見つめる。
 今日の騒動の全てがこの変な帽子から始まったんだ。
 俺は内心の憤懣をあゆの帽子にぶつけることにした。
 そろりとあゆに後ろから近づいて黄色い帽子を引っ張る。
「ぐーっ」
 背中から信じられない程の衝撃が突き抜けた。
「祐一っ」
 いつの間にか、あゆと名雪が遠いところへ進んでいた。
 いや違うな。俺が、吹っ飛ばされたんだ。何に? 帽子にか。馬鹿らしい。
「あゆ、よくもやりやがったな!」
「うぐぅ、違うよぅ。ボクがやったんじゃないよう。この帽子が勝手に」
「寝言は寝てから言え。帽子が勝手に動くものか!」
「だって、だって〜」
 あゆの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「祐一、言い過ぎ」
 俺も、今度ばかりは言い過ぎたかもしれない。
 痛む肋骨を騙し騙し歩いてあゆに近づいてゆく。そして、謝る。
「分かったよ。たい焼き5個で許すよ」
「いいけど、まだあそこの屋台営業してるのか?」
「うんっ」
 ほっ。どうやら機嫌が直ったようだ。
「あれ? あゆ、帽子のここに宝石なんてあったか?」
「うぐぅ? あ、それは今日買ったんだよ。可愛いよね」
 その時、俺の脳裏に恐るべき予想が浮かんだ。
「あゆ、もしかしてその宝石ってルベルクラクって言わないか?」
「祐一、よく宝石の名前なんて知ってるね」
 名雪が、見当違いのところで感心していた。
 そうか。どうせなら朝に帽子にちょっかいを出しておけば、カーくんからカーくん
パンチをもらうこともなかったんだな。
 俺はただ、時期を間違えた自分の身を深く呪った。


 商店街をゲーセンから歩くこと5分。あゆが立ち止まった。
 後ろから二人に付いて歩いていた俺は、二人のせいで前が見えなかった。
(まだ肋骨が痛んでいたため、身をかがめて歩いていたからだ)
「さあ、ここがボクが帽子を買った店だよ」
 露天商だろうか、威勢の良いかけ声が少し離れた俺の所まで届いてくる。
「はい、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。かーくん帽子にウサ耳、犬耳、クマ耳、
パンダ耳、いろいろあるわよ〜」
「買って下さい〜」
「真琴、声が小さいわよ」
「あう〜っ。みなさん、可愛い獣耳ですよ〜」
「お母さん?」
「秋子さん?」
 俺と名雪の声が重なった。
「あら、名雪と祐一さん。どうです、一つ?」
 商売人の顔でピングーの耳を勧めてくるのは、間違いなく秋子さんだった。
「知らなかった。秋子さんがこういった商売をしていたとは」
「私も」
「これは副業よ」
 秋子さんはにっこりと笑う。長年の謎は未だに謎のままだった。
「それに、真琴まで」
「無理矢理連れてこられたのよっ!」
 真琴は頭から湯気が出ていそうな勢いで俺に食ってかかってきた。
「あう〜っ。ちょっと情けない台詞も言わないといけないし。ホント、いやな商売よ」
「それでも手伝っているということは。お前、小遣いもう使い果たしただろ」
「ち、違うわよっ!」
 激しく首を横に振って否定したつもりになっている真琴。本当に分かりやすい奴だ。
「ねこー、ねこねこー、ねこー」
 名雪は秋子さんの職業などどうでもいいのか、商品の猫耳を付けて鼻歌交じりに陶酔
していた。
「名雪、なかなか見る目があるわね。はい、それは千円です」
 躊躇なく財布を取り出した名雪は、いつもからは予想も付かないような速度で動いて
いた。やはり、猫がからんでくるとキャラクターの変わるやつである。
 名雪は秋子さんから在庫の猫耳を受け取ると、すぐさま頭に付けて猫になりきる。
「なお〜、なおなお〜、うにゃ〜」
 俺の日常が浸食されてゆく。ここにいては駄目だ。自分までおかしくなってしまう。
 何も言わずそこからダッシュで逃げようとした俺に、すかさず秋子さんの声が
かかる。
「あら、祐一さんは何も買わないんですか?」
「ええ、俺は男ですから」
「そういえば、もうすぐ母の日ですよね」
 母の日=家事を取り仕切っている母に感謝する日。
 俺が一番世話になっているのは、もちろん秋子さんだ。つまり、母の日のプレゼント
代わりにここで買い物をしていきなさい、ということだろう。
 しかし、こんなものを買うのはどうあっても御免である。
「いえ、秋子さんは俺の母親じゃありませんし。そりゃ感謝してますけど」
 俺が言い訳を口にすると秋子さんはワッと泣き崩れた。
 確かに冷たい言葉だったかもしれないが、あの秋子さんが?
「そうですね。あなたにはまだ教えてなかったんですよね」
「何がですか?」
「全ては私の弱い心から端を発したこと。
 言うのはとてもつらいけど、いつかは話さなければいけなかった」
「あの〜?」
 秋子さんが自分の世界に入っているのを見るのは始めてで、俺は呆然とする。
「あなたは、実はあなたのお父さんと私との間に生まれた子供なのよ!」

「えっ?」
 その場にいた名雪にあゆ、真琴から買い物客に至るまで、もちろん俺も巻き込んで、
無風の風がその場を吹き抜けた。
「本当なの? 秋子さん」
「ええ、今まで話しづらくて言い出せなかったけど」
「そんな。私と祐一が兄妹だったなんて」
「な、名雪。俺は」
 俺は、何だ? 何て名雪に声をかければいいのか、中身の切れたテープのように、
俺の思考はどこにも辿り着かない。
「これからもよろしく、祐一お兄ちゃん」
「は?」
 深刻な表情から一転しての満面の笑顔だった。
 俺は、そんな名雪に呆気に取られて何も言うことができない。
「どうしたの? 祐一お兄ちゃん」
「あ、ああ。名雪」
「違うよっ。こういう時は妹って呼ぶんだよ」
「名雪妹」
「違うよ〜」
 そう言えば、お兄ちゃんお姉ちゃんはあるのに、それに対して弟よ妹よは可愛さが
足りないとは思わないか。
 いや、分かってる。ただ俺は現実逃避しているだけなのだ、と。
「秋子さん、嘘ですよね」
「嘘だと思うなら、お父様に聞いてみたら?」
 いつものように頬に手をあてて、こちらが安心するような口調で秋子さんは言った。
「祐一がお兄さんだよ〜」
「名雪さん、羨ましいよ。ボクは一人っ子だからね」
「だったら、あゆちゃんは私の妹だね」
「うんっ。これで祐一君もボクのお兄ちゃんだよ」
 勝手に二人で話を進めた挙げ句、手を取り合って飛び上がって喜んでいた。
「まあ、冗談ですけど。多分
「え? 今何か言いましたか?」
「冗談ですけど、と」
「なんだ」
「残念だね」
 お前ら、本当に喜んでいたのか? 俺の立場はどうなるっ!
 いや、そういった事を考える二人じゃないか。
「はい、祐一」
 頃合いを見計らって真琴が俺に手渡したものは、狐耳だった。
「500円。この中じゃ安いほうよ」
「安いなら、まあいいか」
 俺にはもう、秋子さんに抵抗する気力はなかった。大人しくお金を支払って、
嫌々ながらに狐耳を自分の頭に取り付ける。
「やはり、遅かったですか」
 天野だ。俺を心配して見に来てくれたのだろう。
「気にしないでくれ。きっとこういう天命だったんだ」
「あはは〜っ。祐一さんも可愛いですよ〜」
「……嫌いじゃない」
「祐一さん、明日の約束忘れないで下さいね」
「相沢くんまで? はあ、今日は厄日ね」
「ふははっ、似合ってるぞ祐一」
 次々と顔見知りが集まって来ていた。
「秋子さん、集めましたね」
「ふふ」
 秋子さんは、ただ静かに微笑むばかりで。俺の問いに答えを返してはくれなかった。


「朝〜、朝だよ〜」
「朝ご飯食べて学校行くよ〜」

 今日も名雪の目覚ましに起こされて、一日が始まる。
「朝〜、朝だよ〜」
 体が重い。昨日アイスを食べ過ぎたりカーくんに蹴飛ばされたりしたからか。
 なにはともあれ、今日もテストだ。休むわけにはいかない。
「くー」
 重さの正体は名雪だった。俺の布団の上に丸まって寝ている。
 こういった荒技も名雪だからこそ可能なのだ、と思うと名雪を誉めてやりたくなる。
ただ、俺の上に乗っかるのはやめて欲しい。
 巧く体を転がして名雪の下から抜け出して、目覚ましを止める。
 勢いよくカーテンを開くと、うららかな春の日差しが部屋に入ってくる。
「今日もいい天気だな」
「おい、起きろ名雪。起きろーっ」
「うにゅ」
 俺の上に寝る、なんてことをしてはさすがの名雪も熟睡出来なかったのか、いつも
これくらいさっさとしてくれれば、と思うくらいに名雪はあっさり目を覚ました。
「おはよう、祐一」
 動揺してない。ということは、確信犯である。
「どうして、俺の上に寝たんだよ」
「猫さんだからだよ」
 言葉通り、名雪の頭には昨日買った猫耳があった。
「そこまで徹底しなくてもいいだろう」
「うん。でも、猫さんだから」
 これぽっちも理由になっていなかった。

 階段を下っているとすまし汁の匂いが漂ってきた。この家ではあゆが来たときなどの
例外時を除いて朝は洋食だった。しかしまあ、偶には和食もいいだろう。
「おはようございます、祐一さん」
 いつものように、秋子さんが俺を出迎えてくれた。
「おはようございます。名雪ももうすぐ降りて来ますよ」
「はい」
「今日は和食なんですね」
「ええ、名雪のたっての要望ですから」
 そうこうしている内に、二回から制服に着替えた名雪が降りてきた。
 ちなみに、猫耳は付けたままだ。
「名雪、まさかそのまま学校に行くつもりか?」
「駄目なの?」
 心底意外そうに問い返してきた。もう何も言っても無駄なんだな。
「いただきます」
 名雪と俺は手を合わせて秋子さんに感謝した後、箸を手に取った。
「あれ、今日の卵は生卵なんですね」
 名雪が、ご飯の上のかつおぶしのかぶせる。
「猫さん、猫さん♪」
「ゆで卵の方が良かったですか? すぐに出来上がりますよ?」
 名雪は左手に醤油の小瓶を取って、
「おいでよ、な〜ぉ♪」
「じゃあお願いします」
 ご飯にぶっかけた。
「出来上がったよ〜ねこまんま♪」
「はい、それならこっちをどうぞ」
「ありがとうございます」
「ねえ、祐一はやらないの?」
「あんまり好きじゃない」
 俺はこう見えても粗食派なのだ。
「見た目もよくないしな」
「そうだね。でも、猫さんだから」
 『猫さんだから』。それだけでここまで徹底する名雪のバイタリティに感心した。
「あ、そうだ、祐一」
「どうした。今日は日直だから早めに行きたいんだよもん、とかか?」
「全然違うよ。今度の休みの日に、花の日にカーネーションを一緒に買いに行こうよ」
 母の日だって? 俺はそのために昨日恥ずかしい思いをしたんだぞ。
 でもあれは秋子さんにプレゼントしたわけじゃないよな。しまった、騙された。
「分かった。一緒に行こうな」
 母の日のプレゼントの話を、当人の目の前でしてもいいものだろうか?
「楽しみね」
 母は、了承するばかりか立ち聞きまでしていた。
 この人には一生勝てないかもしれないな、と俺はため息混じりに思ったのだった。

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