スチャラカもくれんタマスダれ
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ふらふら

「朝〜、朝だよ〜」
「朝ご飯食べて学校行くよ〜」

 今日も眠気を増幅させる目覚ましが俺の部屋にこだまして、一日が始まる。
俺はもうすっかり慣れたここの制服に着替えて、名雪の部屋の前で
一声呼びかけるといつものように階段を降りていった。

 居間では秋子さんがこれまたいつものように俺を待っていた。
「おはようございます、祐一さん」
「おはようございます」
「名雪は?」
「声はかけて来ましたから、もうすぐしたら降りてきますよ」
 ううむ。俺もこの家に馴染んできたな、思う一時だ。
少ない言葉で意思を伝達する。目指すはアイコンタクトだ!
「うにゅ〜」
 俺の言葉通り、俺がパンを一切れ頂いた頃に名雪が降りてきた。
「くしゅんっ!」
「お、珍しいな、名雪。まあ、これだけ寒くて風邪を引かないほうがおかしいよな」
「う〜、祐一に言われたくないよ〜。ほら、馬鹿は風邪……」
「なにをおっ!」
 俺は名雪の言葉を途中で遮って席を立つ。
「祐一さん、食事中に席を立たないで下さいね」
 秋子さんのやんわりとした言葉に正気に返ってまた座る。
 だいたい、どうしてこのゲームでは誰も風邪を引かないんだ?
WAではちゃんと風邪を引くキャラがいるじゃないか。
まあWAで風邪を引くのは、東鳩を引きずっているからかもしれないけどさ。
「くしゅん!」
 俺のとりとめのない思いを名雪のくしゃみがうち消した。
「おい、大丈夫か? 熱あるか計ってみたらどうか?」
「うー」
 見ると、名雪の口に体温計があった。
それにしても、このタイプは女性用と相場が決まっているのはどうしてだろうか。
 俺が更に一枚のパンを平らげると、ピピッと体温計が音を出した。
「36.6。正常ね」
 名雪は体温計を拭いてからしまい、今は楽しそうにイチゴジャムをたっぷり塗った
トーストにかぶりついている。
「36.6って、少し高くないですか?」
 ちなみに、俺の平熱は36度より低いくらいだ。
「いえ? 名雪の平熱はこのくらいですけど」
 秋子さんはどうしてそんな質問をするのか、と不思議そうな声色だった。
子供でも、今頃はそんな高い平熱の人間はいないと思うがなあ。



 学校で名雪が急に調子が悪くなって保健室に担ぎ込まれる、
ということもなく、学校は終わった。これから名雪には部活があるけど。
「うーん、どうしてだろうね?」
 自分でも今朝の不調の原因が分かっていないらしい。いかにも名雪らしかった。
何か名雪の調子が悪くて、と香里と北川に話したのも無駄になったが、
その方がいいよな、と思う。

「ただいま〜」
「お〜っ、名雪、大丈夫だったみたいだな」
「祐一さんったら、そんなに心配しなくても」
 秋子さんは楽しそうに、というか意味深に笑っている。
なんか、心をのぞき見られているみたいで嫌な気分だよな。
「お母さん、わたし晩ご飯の支度手伝うよ」
 じゃあ、俺も皿を並べるか。これまた、いつもの食事(前)風景が流れてゆく。



 どうも、年を取ると一日が短くなっていく気がする。もう11時だもんな。
そろそろ寝てもいい時間だ。その前に、トイレ、と。
 ジャーーーーー
 水を流して手を洗って拭いて、ドアを開けると廊下に名雪の姿があった。
その目は閉じていて、またいつもの如くいつものように、
眠りながらトイレに向かっているらしい。
 そのとき、悪魔が俺に囁いた。
(おい祐一、このままここにいれば、名雪の裸が見れるかもよ?)
 悪魔が出てくれば、当然次には天使が出てくる。
(いけません、そんなことをしては、人倫にもとります)
(まあ下半身だけだけどな。女体の神秘を追求したくはないか?)
(な、なんと不埒な考えでしょう! 祐一さん、こいつの言うことに
耳を傾けたらいけませんよ)
 いや、でもどうせ名雪だろ?
(へっへっへ。昔一緒に風呂に入ったりした相手がどこまで成長したか
確かめたくないか? ほら、もう一息だぜ)
(いけません! 居候の身でそんな、恩を仇で返すような真似は!)
(祐一さん、その時は責任を取ってもらいますよ?)
 はっ! 俺の頭の中で繰り広げられていた聖と魔の戦いは
突然の闖入者に驚いて消え失せた。しかし、今、頭の中に響いてきた声は
間違いなく秋子さんのものだったはず。
 トン、トン、トン
 これで後ろを振り向いて秋子さんがいたらどうしよう。
しかし、その音は玄関から聞こえている。
 恐怖やその他もろもろを振り切って玄関へ向かう俺がそこで見たものは、
パジャマ姿のまま外靴を履いている名雪の姿だった。
「おい、名雪!」
 大声を出す。肩を揺さぶってみる。ちょっと小突いてみる。
しかし、今度の名雪はとても頑固で起きる様子を全く見せない。
 それどころか、俺のことを全く気づいていない。名雪は後ろを振り返らず、
ドアを開け放ち、外へ姿を消した。
 俺は慄然として、急いで俺の部屋へ駆け上がるとパジャマの上から
コートを羽織って名雪の後を追って外へと出た。
 何やってるんだ、あいつは。もう4月といっても、まだまだまだまだ寒いのに。

 コートを取りに行っている間に見えなくなったらどうしよう、
との心配は無用だったようで、外に出た俺はすぐに名雪の姿を見つけた。
 もう一度、名雪を起こすべく全力を尽くしてみる。
「くー」
 しかし、どうしても名雪は起きてはくれなかった。
しょうがない、このままついていくか。
 暫く名雪を離れて見守って、いつもの通学路を歩く。
このまま学校に行ったりしないだろうな、と俺が不安にかられていると、
名雪は突然走り出した。もしかして、俺の尾行に気づいたのか?
いや、馬鹿なことを考えたな。寝ているのに、尾行に気づくわけがない。
 俺と名雪の距離はどんどん離れてゆく。俺はコートを着ているけど、
名雪は身軽なパジャマ姿。そういったこともあるだろうが、
やはり陸上部だな、と変なところで感心した。
 それでもなんとか見失わないでいられた。
通学路を外れて何度目か角を曲がったところで、名雪は走るのをやめて
そろそろと歩いていた。そして、何もないところでしゃがむ。
 俺もラストスパートをかける。だんだんと近づいてゆく。
「ねこー、ねこねこー、ねこー」
 俺は派手に頭を道路に打ちつけた。あれほど鬱陶しかった雪がありがたく思える。
「うー、猫さんだよー」
 『猫さんだよー』、じゃあないだろ!
じゃあ何か? 今日の朝くしゃみしていたのも、体調が悪いからじゃなくて、
こうやって猫アレルギーのくせに猫と戯れていたからか?
 でも、だんだんと暖かくなってきているとはいっても、
まだまだこの街の夜は人の進入を拒むかのように冷え込んでいる。
昨日は運良く風邪を引かなくても、このままではいつ風邪を引くか
分かったものじゃない。
「名雪、起きろ、起きないと死ぬぞ!」
 俺はきつめに名雪の頬を叩いてみる。
「痛いよー。あれ、ここはどこ? あっ、猫?」
「ねこー、ねこねこー、ねこー」
「それはもういいから、帰るぞ」
 寝ぼけていても、正気でも反応が同じとは、さすが名雪だ。
「帰るぞ、名雪」
「いやっ!」
 どうして俺もここにいるのか、とそういうことは気にならないのか?
そう考えるとちょっぴり悲しかった。
「今何時だと思ってる!」
「そんなこと関係ないよ!」
 うあ、ホント猫が絡むとキャラクター変わるよな、こいつ。
反応の素早いこと素早いこと。
「12時だぞ、今」
 俺は心底嫌そうに12時、と言った。こんな時間に用もなく外にいる俺って。
「じゃあお昼食べないと」
「馬鹿! 真夜中の12時だよ!」
「えっ?」
 今度こそ正気に返ってくれることを期待する俺の前で、
名雪は前後左右、上下を何回も見回した。
「わっ、ホントだ。まっくらだよ」
「分かったら、帰るぞ、ほら」
「うー」
「秋子さんが気づいたら、心配するだろ」
「うー、分かったよ。分かったから、祐一、先行ってて」
 口では分かったよ、と言うがとっても未練が残っているようだった。
前科持ちのこいつに対する手だてとして、俺は迷わず
名雪を引きずってでも帰ることを選択した。
 名雪も抵抗するが所詮男の力に適うはずもなく、
ずるずると俺にひきずられてゆく。
「うー、祐一の馬鹿」
 極悪人だの言われなかっただけましだと思っておいた。



 やっとの思いで水瀬家に辿り着く。
「ほら、一人で立ってくれよ」
「うー」
 ここまで遠ざかってもまだ未練があるのかこいつは?
俺は呆れを通り越して感心してしまった。
 名雪が逃げないよう、片手をつかんで玄関のドアを開く。
「ごくろうさまでした、祐一さん」
 そこには当然のように、頬に手をあてるお得意のポーズで秋子さんが待っていた。

 寒さに震える俺たちのために、秋子さんが熱い紅茶を用意してくれた。
「はい、どうぞ祐一さん」
 俺はありがたく頂戴する。冷えた体が、心があったまってゆく。
「それにしても、知っていたんですか、秋子さん?」
「昨日外に出かけたことなら。でも、まさか猫に会いにいっているなんて」
「猫さんだからだよ」
 名雪はそう反論するが、全然理屈になってない。
「驚いてませんね」
 普通なら、年頃の娘が夜中に外出したら大騒ぎすると思うのだが。
「ええ、もう春ですから」
『春だから?』
 俺と名雪は揃えて声を裏返した。春だとどうなるというのだ?
「春になると、それまで冬眠していた爬虫類は、
それまでのねぐらを離れて徘徊しますから」
 全くの真顔で、秋子さんは言った。
「名雪は人間で、爬虫類じゃないと思いますが」
「うー、爬虫類は嫌いなのに」
 こうして、団らんの夜が過ぎてゆく。

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