スチャラカもくれんタマスダれ
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死ってどういうことだと思いますか?
その人に会えなくなること、ですか。
そうですね、私ならこう答えます。
世界中の誰からも、思い出として想われること。


 雪が降っていた。思い出の中を真っ白い雪が埋め尽くしていた。栞と出会った日、中庭
でたわいのない話に興じた日、栞と初めてデートした日、栞に誕生日プレゼントを渡した
日、そして。俺は蒼い空を見上げた。津々と、全てを埋め尽くさんと雪は舞い落ちる。目
の前に視線を移し、俺は溜息をついた。
「スコップ、持ってきたわよ」
 そう言ってスコップを手渡した彼女も目の前の光景に目眩を覚えているようだ。まった
く、管理人は何をしていたんだか。
「熱湯を頭からかけて雪を溶かすわけにはいかないか」
「氷を砕いてかき氷を作りたいならそうしたら。止めないわよ」
 香里は呆れた眼差しを向けてきた。懐かしい、過去と同じ眼差しだった。俺は答える代
わりにスコップを雪のかたまりに差し入れた。
 雪が降っていた。一年前の今日、栞が息を引き取った日も、世界は一面の白で覆われて
いた。


残念なことが一つあるとしたら、思い出は薄れてゆくものであることです。
どんな出来事だったかは覚えていても、細かい仕草は靄のようにかすれてしまって。
私が小さい頃に死んでしまいましたけど、私にはお婆ちゃんがいたんです。
よく一緒に横断歩道を渡りました。お婆ちゃんは赤信号にも構わず渡るんです。
老人だから足取りは重くて、私は轢かれるんじゃないかってビクビクしていました。
そのことははっきり覚えているのに、お婆ちゃんの顔はどう頑張っても思い出せません。


 お参り(と俺の地元では言う)も済んで、俺と香里は二人並んで歩いていた。あとは成
り行きで、喫茶店に行くことになる。商店街の多くの店がシャッターを閉めている中、百
花屋は店を開けていた。目の前にイチゴサンデーがないことを不審がっている自分に苦笑
しながら、紅茶の入ったカップを傾けた。
「ところで、名雪とはうまくヤってるの?」
 抹茶あんみつに匙を差し込んで、何気ない口調で香里は言った。カップをテーブルの上
に置いてから、俺はおそるおそる尋ねた。
「や、ヤってるとは?」
「あまりにも性的な意味に捉えないでよね」
 俺は慎重に香里の表情を観察する。苦笑が入り交じっているものの、自然体で話してい
るようだ。あくまでも、見た目はそうだ。急に渇いた喉に流し込んだ紅茶の味は感じ取れ
なかった。
「今なら、一つだけ質問に答えてあげるわ。何であれね」
 突然、香里はそんなことを言い出した。何であれ、と言われたならば、問うべきことは
一つしかない。だがそれは問うてはならない質問だ。それは香里も分かっている。それで
も、香里は敢えて、俺にその質問を求めていた。
「俺は……俺たちは、香里に恨まれているんじゃないのか?」
「当然よ。相沢くんと名雪が並んで登校してくるのを見たとき、殺してやろうとさえ思っ
たんだから」
 誰を、とは言わない。当然、どちらも、であるべきだった。


お婆ちゃんの写真を見せてもらっても、何一つ感慨が湧いてこないんです。
その写真に写っているのは本当にお婆ちゃんなのかさえ、私には分かりません。
それからです。絵を描き始めたのは。忘れてしまうことは怖いと気づいたんです。
でも、忘れることと忘れないこと。どちらが正しいのでしょうか。
お婆ちゃんの顔を覚えていたら、私はいつまでも悲しんだままです。
忘れたからこそ、それからは普通に日々を過ごすことが出来ました。
それでも。我が儘なお願いだとは思いますが、忘れないでください。
私のことを、忘れないでください。


 パン、なんて乾いた音じゃない。そんなもので済ます気もない。正真正銘、渾身の力を
込めて私は名雪を、今日の朝まで親友だと思っていた女の頬を殴った。
「一体、どういうことなのか説明してもらおうかしら」
「香里が思っている通りだよ」
「言いなさい!」
 私はもう一度名雪を殴った。頭の片隅、こんなことをしても意味がないと「理性」とい
う名の道化が囁いていた言葉はすぐさま感情のうねりにのみこまれた。
 私をまっすぐに、真っ直ぐに見つめて、名雪は言った。
「私と祐一は、恋人になった、ということ」
 信じたくなかった。理解しているからこそ、信じたくなかったのだ。もう、これ以上聞
きたくないのに、聞かなくてはたまらない二律背反。
「栞はどうなるのよ……」
「栞ちゃんには悪いことをしたと思う。でも……でも、私は祐一が欲しかった」
「それが理由になると思ってるの! あと半年でいい、どうして待ってくれなかったのよ」
「7年前は待ってた。そしたら、祐一はどこかへ行っちゃったんだ」


あと、もう一つお願いがあります。
私は多分ここで死んでしまうけれど、私のことで思い詰めないでください。
あはは、難しいお願いですよね。みんなならどちらも叶えてくれると信じています。
ね、お姉ちゃん。


 互いに手を振って俺たちは別れを告げた。あれだけ降っていた雪も、今は小康状態に落
ち着いていた。今のうちに家に帰ってしまおうと、俺は走り出した。
 スピードを緩めて橋を渡る。あとは直線コースを1km、全力で走れば……。と、そこ
で前方で名雪の姿を見つけた。
「おーい」
 こちらの声に気づいて、足を止めた名雪に急いで追いついた。名雪が両手に持っていた
持っていたスーパーの袋のうち、重そうな方を奪い取った。
「この天気でよく開いてたよな」
「うん。商売熱心だね」
「赤字と分かっていて店を開くのも商売熱心というのか?」
「ふぁいとっ、だよ」
 ピントの外れた名雪の返事に苦笑しつつ、そっと手を握る。
「わっ」
 すぐ振りほどかれる。
「駄目だよ。今日は栞ちゃんの命日でしょう?」
「分かってくれ。今俺が手をつなぎたいのは、お前一人だけなんだよ」
「仕方ないなあ」
 えいっ、というかけ声とともに、名雪は体ごと腕にしがみついた。二度と温もりを無く
さぬよう、俺はきつく抱きしめた。





「あと……えーっと……他に何かあったかな?」
 私と世界を結ぶ弱く細い蜘蛛の糸。必死に捕まりながら、私は言葉を探している。頭に
浮かぶ二言を必死に押し殺して。

 生きていたい。思い出になんかなりたくない。

 だというのに、耳も目ももう死んでしまっていた。私はみんなに助けを求める。
 祐一さん、お姉ちゃん、名雪さん、あゆさん、お父さん、お母さん、お婆ちゃん。幾つ
もの顔がぐるぐると回る。幾つもの声がぐるぐると回る。

「ごめんね」

 純白の羽を大きく広げた橙髪の天使。それが、私の最後の思い出キオクだった。





 死者に未来はなく、いつまでも過去の夢を見続ける。

 それは悪夢か。あるいは、救いか。

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