スチャラカもくれんタマスダれ
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私には作れない思い出

「起立、礼!」
 クラス委員の号令に合わせて、生徒が頭を下げる。教師が教室から出ていくと、途端に
教室が騒がしくなる。
「おい、早くしないと売り切れちまうぞ!」
 購買に我先にと駆け出す男子生徒たち。机を並べて鞄からそそくさと弁当を取り出す弁
当組。
「祐一は今日も学食行かないの?」
「ああ。行くところがあるんだ」
 雑多な喧噪に紛れて聞こえてくる、他愛ない話し声。
「校舎裏の女の子に会いに行くんだよね」
「どうして、それを知っているんだ?」
 そう。他愛ないはずの、その話し声が、とても気になってしかたがない。
 目を動かして、のんびりとした口調で話す髪を長く伸ばした少女と、見た目ぶっきらぼ
うな少年を隠し見る。
 やがて微笑む少女に見送られて、少年はその場を離れた。少女は少年が部屋の外に出て
いくまで見届けると、一転してあたしに笑顔を向けてくる。少女の名前は名雪。親友と言
っても差し支えない間柄だと思う。
「香里は学食に行かないの?」
 香里……あたしの名前。そんなことは、人に言われなくとも分かっていた。
「……行くわよ」
 自分の声が冷たく聞こえなかっただろうか。怒っているように聞こえなかっただろうか。
「俺も行くぞ!」
 北川君は何を言わなくてもついてくると知っているから、何も言わずにあたしは先頭に
立って歩き始めた。
「せめて一言くらい……」
 彼に構っている余裕はなかった。ただ、この物憂げな気分がいつか晴れることを願って
いた。
 けれども、それが意味することは……。

 悪戦苦闘して親子丼(S)を手にして予め取っておいた席に戻る。
「いただきます……」
 目を閉じ手を合わせて、食事の挨拶。目を開くと、向かいに座っていた名雪が何か言い
たげな顔をしていた。
「何か言いたそうね」
「うん。香里、もしかして食欲ない?」
「……ダイエット中なのよ」
 自分でも下手な言い訳だと思った。
「……そう」
 納得できないよ、と名雪の顔は物語っていた。
 気まずい雰囲気が二人の間を流れる。でもあたしには何も言う気力がなかった。
「ほい。Aセット持ってきたよ水瀬さん」
 窮屈な雰囲気を破って北川君がいつも通りの陽気な口調で飛び出してきた。
「あっ、ありがとう」
 ぱっと笑顔に変わる名雪。それにしても……。
「またAランチなのね……」
「でも、好きだから」
「毎日それで良く飽きないな」
「うー。毎日、じゃないよ」
「土日を除いて、でしょ?」
「あとは学校が休みの日だな」
「うー。そんなことないよ……」
 普段通りの会話が戻ってきた。いつもヘラヘラして信頼できない北川君だけど、今日ば
かりは感謝しないといけないみたいね。
「……ん? どうかしたか?」
 何も考えてなさそうな顔がそこにある。
「何でもないわ」
 礼を言うのは、また今度でもいいだろう。そして、あたしは一時の安らぎに身を任せる
ことにした。わずか20分足らずの時間ではあるけれども……。



 家に帰ると、自分の部屋に行く前に、栞の部屋に寄る。寄って何をするわけでもない。
まだあの子がいる、そのことを確かめるだけ。それがあたしの日課。
「栞。開けるわよ」
 あたしは一声告げると、中からの返事は確かめずに栞の部屋に入った。



「わっ!」
 突然後ろからかけられた声に、あたしはビクッとして振り向いた。
「わあっわぁ……栞? ビックリさせないでよ」
「わーいお姉ちゃん驚いたー」
 妹は無邪気に笑っている。
「いい、今度からあたしの部屋に入るときはノックしてからにすること」
「ヤだ」
 一言で却下される。怒らない、怒らない。相手は子供なんだから。
「お願いだから……」
「ヤだ。お姉ちゃんを驚かせられなくなるもん」
「驚かさなくてもいいでしょ?」
「だってー」
 うるうると滲む瞳で上目遣いにあたしを見上げてくる。
「……分かったわよ」
 どうもこの目には弱いあたしだった。
「ただし、あたしも栞の部屋に突然入って驚かすからね」
「えーっ、お姉ちゃんずるいー」
「だぁーめっ」



 ということがあったから、お互いにノックをすることは無い。偶に栞が下着姿で無い胸
を切なそうに見つめている姿に出会うこともあるけど。
 ただ、この日、部屋に栞はいなかった。この時間にいないことは少ないのだけれど……。
 腑に落ちない気持ちを抱えて、取りあえず荷物を自分の部屋に降ろす。母ならば何か知
っているだろうと思って、居間へと向かう。思った通り、母はテレビでワイドショーを見
ていた。
「お母さん、栞、部屋にいないみたいだけど」
「あの子なら『行き先は秘密ですー』と言ってどこかに行ったよ」
 不意に、珍しく荷物を早々と片づけて学校を出ていった相沢君のことが頭に浮かんだ。
なるほど、そういうことかと納得する。
「お、か、あ、さ、ん?」
 殊更詰問口調で母を呼ぶ。ただでさえ最近、更に体調が悪くなっている栞を付き添いな
しに外に出すなんて。
「でもね、あんなに嬉しそうにしていたから止められなくて……」
「そこを止めるのがお母さんの責務でしょ!」
「香里」
 急に真剣な表情を見せた母に、言葉がのどの奥で止まる。
「私たちだけでは、作れない思い出もあるのよ」
 それだけを言うと、母は台所へ足を向けた。
 思い出? 思い出ってどういうこと? 偽善者ぶったことを言わないでよ!
 反論は、いつになく小さく見える母の背中に、どこへともなく散って行った。『私たち
だけでは、作れない思い出』。何故か、その言葉に胸が痛んだ。



「香里ー、栞ー、ご飯よー」
 あたしを呼ぶ母の声が聞こえた。あたしは読んできたキングの推理小説をキリの良いと
ころまで読んでから、しおりを挟んで机をたった。栞に言わせると、キングの小説は『こ
んなの面白くありませんー』ということらしい。一度薦めてその言葉を頂いて以来、二度
とキングは薦めないようにしようと堅く心に誓ったもの。
 居間へ向かうと、栞の姿が見えなかった。あたしは来た道を戻って栞の部屋へと向かっ
た。無造作にドアを開けて、
「栞、ご飯よ。お母さんが呼んでいたの聞こえな……」
 うぅ、ぐす、しゅん……。小さく丸まって、嗚咽を繰り返している栞をそこに見つける。
「栞!?」
 あたしは慌てて栞へ駆け寄った。いつもの癖で、脈拍その他を確かめてしまう。
「熱じゃないよ、お姉ちゃん……」
 栞は弱々しい微笑みを、あたしに向けていた。
「どうしたっていうのよ……」
 現在の栞の姿に、医者に不治の病と宣告された時の姿がかぶった。あの時も、こんな具
合に泣いて、それでもあたしを気遣うように笑みを見せて……。
「お姉ちゃん……聞いてくれる?」
「ええ。……ええ」
「祐一さんがね……私のことを……って……」
 声が小さくて、嗚咽混じりの栞の言葉は聞き取りづらかった。あたしがもう一度と催促する
前に、栞は夢を見るように、それでいて絶望に喘ぐように喋っていた。
「祐一さんが……私のことを……好きだって……言ってくれたんです……」
 『俺はあの子のことが、好きなんだと思う』。その言葉は、本当だった。
「ずっと一緒にいたいって……何日も……何ヶ月も……何年も……私の一番傍にいてくれ
るって……」
「それなのに、私は……嬉しいのに、哀しくて……私は……」
 それから先は、言わないでも分かった。栞は拒絶したに違いなかった。自分の身体を、
もうすぐそこまで迫っている”お迎え”を知っていたから。一緒にいることはできないと
知っているから。

 あたしが教えてしまったから。

「馬鹿ね、あなたは……」
 返した言葉は、自分に向けられるべきものだったのかもしれない。

 その日の深夜、栞は高熱を出して倒れた。



 家族三人で交代して、といっても父は仕事もあるし、あたしには学校がある。結果、母
一人に重責を担わせることになってしまった。一日中の看病も甲斐なく、栞が倒れてから
二日目の朝を迎えた。体温計の示す体温は39度。
 あたしは立ち上がって、学校の支度をするため自分の部屋へ向かった。
「……お姉ちゃん……」
 栞の部屋のドアを開いたとき、栞がそう呟くのが聞こえてきた。

「香里、おは……」
 HRが終わって、改めてということだと思うけど、名雪が朝の挨拶を交わしてきた。け
れども、何故か途中で止まる。
「名雪、新しい朝の挨拶を広めようとしているのか?」
「ち、違うよー。ただ、香里も体調が悪そうだったから」
「本を読んでいたら、いつの間にか深夜だったのよ」
「そう……ならいいけど」

 キーンコーンカーンコーン。身体を騙し騙し授業を受けて、やっと4時間目の授業が終
了した。やっぱり睡眠が浅いとキツイわね、とつくづく思う。
「すまないが、今日も学食はパスだ」
 そう呟いて、彼が教室を出ていった。
「香里はどうする? 食欲ある?」
「無いわね……ごめん、今日は一人で食べて頂戴」
「うん、分かったよ」
 名雪を見送って、窓の下、裏庭に目を移す。今日もそこにある、転校間もない少年の姿。
雪に冷やされた風に身を震わせながら、いつまでも来るはずの無い人を……。

 そして気がつけば、あたしは裏庭に足を運んでいた。寒い……。教室で想像していた寒
さと段違いだった。容赦なく体温を奪ってゆく冬の風と、そこに何もないという寂寥感に
打ちのめされそうになる
 この場所で栞が浮かべていた笑顔を思い出す。その笑顔を作ってくれた人が目の前にい
る。
「栞の体調はどうなんだ?」
「前にも言ったと思うけど、あたしに妹はいないわ」
「妹だなんて、一言も言ってないけどな」
 何気ない約束を信じて、ここに立ち続けていた少女。その約束を、あたしは未だ果たせ
ないでいる。
「ここはね……」



「母さん。栞は?」
 母は首を横に振っていた。まだ風邪は治ってないようだった。栞が風邪を引き、長引く
といつも不安に思う。このまま栞が、手の届かない所へ行ってしまうのではないかと。そ
の度にあたしは弱気な考えを頭から振り払って、そして栞はまた笑顔を見せてくれていた。
 でも今度はどうだろう。何度も思ってきたことだというのに……。良くて次の誕生日ま
では生きられない、との言葉が頭をちらついて離れなかった。
 簡単に調理の下ごしらえを済ませてから、母と看病を交代した。一時暖房を切って、空
気を入れ換える。その間苦しそうに吐く息が、白く濁っていたのが印象的だった。
 あたしはこれまでそうしてきたように、妹の手を握って語りかける。大丈夫だからね、
きっと良くなるからね。ギリギリとあたしの心を締め付ける妹の苦痛にゆがむ顔に負けな
いように、何度もそう繰り返す。
 どれほどの時間そうしていたのだろうか、時計を見れば針は午後九時を指し示していた。
氷が溶けかかった氷枕がたぷ、たぷと音を立てた。氷を取り替えようと、栞の頭を右手で
支えて左手で枕を引き抜いた。
「…………」
 微妙に呼吸とは違う音を聞きつけたような気がした。
「何? どうしたの?」
 あたしは栞の唇すぐに耳を近づける。
「……祐一さん……」
『あたしに妹なんていないわ』。それはかつて、自分を誤魔化した言葉。
「ちょっとそれは……他に何か出来ることはない?」
「……祐一さん……」
『俺はあの女の子のことが、好きなんだと思う』。それはかつて、彼がうち明けた言葉。
「あたしにできることがあったら何でもするから……」
「……祐一さん……」
『それなのに、私は……嬉しいのに、哀しくて……私は……』。そして彼女は彼を拒絶し
た。
「……祐一さん……」
『私たちだけでは、作れない思い出もあるのよ』

 道が見えたと思った。これから先へ続いてゆく道。その道がどこに辿り着くかは分から
ない。けれども、これまでの辿り着く場所が分かりきっている道よりは。
「はい、水瀬です」
「…………」
「香里か?」
 あたしには、ただ伝えることしか出来ない。けれど、願わくばその先に、栞の笑顔が待
っていますように。

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