スチャラカもくれんタマスダれ
※ボタンの上にマウスを置くと説明が出ます

the fox and the veil

 清潔に掃き清められた廊下。そして、目の前にある無表情なドア。
「ぬう……」
 俺は落ち着かず、足踏みしながら美汐の登場を待ちわびていた。
「祐一、靴踏みならさない」
 横に立つ名雪は、穏やかな表情を少し不機嫌に変えて言った。
「どうしてお前がここにいるんだ?」
「どうしても何も、さっきまでお母さんと一緒に祐一について来たんだよ」
 俺一人ここに来ることは避けたかったので、二人がついて来てくれたのは嬉しいのだが。
「その秋子さんは? どこか行ってるみたいだけど」
「さあ。おトイレじゃないかな?」
 ぱたっと会話が途絶える。と、俺は居ても立ってもいられずソワソワと辺りを見回して
しまう。右手の部屋一杯に展示されている色・形を多数揃えたウェディングドレスの数々。
左を向けば、営業用の笑顔を浮かべる女子店員。そして俺は、着慣れないタキシード姿。
この廊下を先へ進めば会場に辿り着く。目の前のドアに掲げられたプレートには一言。
「花嫁着替え室」

 つまり、俺は具体的な日程も決まってきた美汐との結婚式に向けての準備の最中であり
、今日は衣装のチェックをしているというわけだ。親父たちは仕事が忙しいらしく、準備
は秋子さんに全て任せてしまっている。それどころか、結婚式当日に出席できるかどうか
も微妙なところらしい。
「もっとしゃんとなさってはどうですか?」
 廊下を曲がって秋子さんが姿を現した。ここに来る前は普段着だったのに、いつの間に
か気合いの入った服装に変わっていた。淡いレッドを基調とした中に、首にかけられた真
珠のネックレス。考えてみれば、秋子さんがこういった装飾品を身につけているのは珍し
い。それだけ期待されているということだろうか?
「あらあら祐一さん、見とれるのは私ではなくて美汐さんに、でしょ?」
 いや決してそういった理由で緊張してるんじゃありません、との反論を俺の言葉を開い
たドアが遮った。
「済みません。お待たせしてしまいましたか?」
 出てきたのは、言うまでもなくウエディング姿に身を包んだ美汐の姿だった。
「よく似合ってますよ、美汐さん」
「ありがとうございます」
 ……。
「……祐一さん?」
 はっ。
「何かご感想はありませんでしょうか?」
 えーと。何と言うべきか……。
「ご感想をどうぞ」
 『どうぞ』と返事を迫ってくる美汐に、俺の頭はますます混迷を増す。
「……ふふ。あまりに美汐さんが輝いて見えるので、言葉もないみたいですね」
 若いっていいですね、と秋子さんにしてはこれまた珍しい発言。
「その、なんだ……。似合ってるぞ、美汐」
 あー、俺の馬鹿! どうしてこんな陳腐な言葉しか出てこないんだ!
「……ありがとうございます」
 それでも、美汐は頬を染めて嬉しそうに俯いた。
「ねえ、祐一」
 名雪が俺のタキシードの裾を引っ張ってきた。
「せっかくのタキシードが皺になるだろ。で?」
「どうしてヴェールがないの?」
「そういう構造のドレスだからだ」
 俺の言葉を聞いて、心底呆れた顔で名雪がぼやく。
「そんなウエディングドレスはないよ〜」
「知らなかったのか? これが最新の流行なんだぞ」
「うー。お母さん、本当?」
「さあ……私に訊かれても」
「理由があるんですよ。私にとっても、祐一さんにとっても、大切な……」
「うーん……」
 首を捻る名雪。
「とまあ、これで衣装のチェックは終わったというわけだな」
 殊更明るい口調で俺は言った。
「衣装の方は宜しいでしょうか?」
 店員の言葉に、俺と美汐が首を動かす。
「次は会場のチェック。それから式の手順を説明して、リハーサルと続きます。では、こ
ちらへ」
 宣言するとキビキビとした動作で足取りで会場へ向かう店員。
「うげぇ。まだそんなにあるのか……」
「祐一さん」
 非難するような目で美汐が俺を睨む。
「ふふ。本番でしくじらない為と思って頑張ってくださいね」
 と、いつもの口調で秋子さん。
「うーん……」
 名雪はといえば、ずっと理由を見つけようと唸っている最中だった。



 そして数十回のやり直しを経て解放された時には、もう日はとっぷりと暮れてしまって
いた。
「……疲れましたね」
「全くだ。人を人形みたいに扱いやがって、あの店員」
「そういった仕事なのではないでしょうか」
「それでも許せん」
「本番では間違わないでくださいね」
「おう」
「間違えたら、一生恨みますよ」
「げ……」
「冗談ですよ」
 にこり、と笑う美汐の顔。俺はこの顔が見たいと思って、そして俺たちはここまで来た
んだな。そんなことを実感したりもする。
 街灯に照らされる街中を二人で歩く。四方からの光に照らされて、影は窮屈そうに身を
よじっていた。この時間になると、店に用事のある人間は減ってくるので、人影はまばら
だった。値引きされた総菜目当ての下宿生と、会社帰りのサラリーマンに交じって、懐か
しい制服姿の女子の姿も見える。
「疲れているところ申し訳ないのですが……」
 俺は目で美汐の話しを促す。
「これから、ものみの丘に行きませんか?」
「……そういえば、あいつにはまだ俺たちのことを報告してなかったな」
「はい。思い立ったら吉日とも謂いますし」
「言動がおばさんっぽいぞ」
「私の場合は大人びているだけです」
 俺は大きく息を吸い込んで、身体に活を入れる。
「じゃあ、いっちょ行くとしますか!」
 そして俺たちは、道を変えて街を離れる。

 いつまで経ってもそこは、開発が手つかずの状態だった。住宅はおろか、山頂へ向かう
道には街灯が一つもない。
「草の匂いをかいでいると、気持ちが和らいできますね」
「んー、俺は花粉症だからな」
 けれど、美汐の感じているものがどういったことかは分かった。人の作った街にはない
、荒々しい中にもどこか穏やかなものを秘めている自然に包まれているような気持ち。自
分がちっぽけなものだと分かって却って落ち着く、そんな気持ちを人はずっと忘れずに持
ち続けている。
「今もあの子たちは、私たちを興味津々に見ているのでしょうか」
「いや。きっともう寝ている時刻だな」
「……そうかもしれませんね」
 それからは暫く無言で坂道を歩く。頂上に近づくにつれ、下界の表情が明らかになって
くる。煌びやかに家々の灯りに照らされた人の町。これから時間が経つにつれて一つ、ま
た一つと消えていって、やがてはこの坂道と同じように暗闇と静寂に包まれるのだろう。
「それとも、下が眩しくて寝てられないかな」
「……そうかもしれませんね」
 美汐は同じ答えを返す。
 美汐の背中を追いながら、俺は心に沈めていた疑問を表出させる。
「本当に、ヴェールなしでもいいのか?」
「ちょっと未練はありますね」
「だったら……」
 俺の言葉を遮って美汐は言った。
「だから、ヴェールを探そうと思ったんですよ」
 それは、俺の予想とは違って、楽しげな声だった。
「今日ここに来れば、ヴェールが見つかるような気がしまして」
 ヴェールは『結婚』した真琴のためだけに。そんな俺の頼みを、美汐は二つ返事で受け
入れてくれた。けれど、それは俺の気持ちが固まっていないことの表れなんじゃないか、
と思うこともある。

「さぞボロくなっているだろうな」
「大丈夫ですよ。私は裁縫は得意ですから」
 俺は自分の気持ちを誤魔化しているのではないか? そんな思いに囚われたまま、俺は
坂道を進んだ。
 やがて、頂上の目印となる大木が見えてきた。そして、木にもたれ掛かっている人影。
こんな時間に何をやっているやら。俺が早く家に帰れよ、と言おうとした矢先に、人影は
叫んだ。
「おっそーい!」
 子供じみた動作で足をじたばたさせる。いたく憤慨している様子だった。
「何してたのよぉ! 随分と待ったじゃない!」
 聞き覚えのある声だった。もう随分と長い間聞いていなかった声。でも決して忘れられ
ない声。不意に、雲の隙間から月光が射し込み、人影を照らす。焦げ色の金髪に、不満そ
うに突き出された唇。ラフなジーンズジャンパーとミニスカートにその身を纏った少女。
「真琴……」
「そうよ。見てわからないの?」
 何年ぶりに出会った少女は、全く昔と変わらぬ姿をしていた。
「お久しぶりです、真琴」
「美汐さん……だっけ?」
「はい。良く覚えていましたね……いい子いい子」
「ちょっと、子供扱いしないでよって、やめなさいよーっ!」
 俺は平静そのものの美汐の耳元で囁いた。
「もしかして、これを知っていたのか?」
「奇跡が起きるといいですね、とは考えていましたが。こういうことってあるんですね…
…」
 美汐の腕から逃れた真琴は俺に指を突き付ける。
「久しぶりね、祐一」
「お……おう」
 掠れる声を、絞り出すようにして喉から出す。
「元気がないわねー。しゃきっとしなさい!」
 しゃきっ! と真琴は背筋を伸ばす。これが見本だと言いたいらしい。
「……それで、今日はどんなご用事ですか?」
「んっとねー」
 真琴はゴソゴソとポケットやらジーンズジャンパーの中を漁って、見覚えのあるネコ―
―ピロだった――を美汐に差し出す。
「贈り物ですか?」
「ああ、違う違う」
 もう一度身体の各地を探って丸められた白い布きれを差し出す真琴。白い……。
「美汐、それを広げてくれないか」
「はい……」
 思った通り、丸めたせいであちこちが折れ曲がって見れたものではなくなってしまって
いるが……間違いなく、俺があの日真琴に渡したヴェールだった。
「ホントにもう、大変だったわよ。ピロに匂いを手がかりに探してもらおうと思ったけど
役に立たないし」
 にゃお。どことなく不満そうなピロの鳴き声。
「それであちこち飛び回ってようやく見つけてきたのよ。感謝しなさい!」
「感謝しなさい。じゃあないだろ!」
「な、何怒ってんのよー」
「それは俺が、お前に、これからもずっと一緒だぞと渡したものじゃないか! それを何
だお前は……」
 一歩前に出て、真琴を抱きしめる。どうしてこいつは、こんなに健気なんだ。
「祐一は優しいね」
 お前に比べたらどうということないさ。
「大丈夫。真琴はいつも一緒。祐一と美汐さん、二人の思い出は、いつも私から始まるか
ら。二人が一緒なら、私も祐一と一緒にいられるから。ね、祐一」
 真琴が俺の腕から抜け出る。いや……違う。
「あはは……、ちょっと無理しすぎたみたい」
 寂しげに笑うその身体は半ば透き通っていた。もはや、俺には触れることもできない。
「実は、お願いがあるのよね」
 それは、寂しげな顔のまま。
「何だ……」
「指輪の交換、私に見せてくれないかな」
 それは、満面の笑顔で。
「分かった」
 俺は懐に持っていた箱から、結婚指輪を取り出した。美汐は、真琴から受け取ったヴェ
ールを身につけ、俺が手をとるのを待っている。今日散々練習した成果、ここで見せなく
ては何のための練習だ。
 いつしか時は流れていて、ものみの丘を照らす町の明かりは仄かに光り、夜空は雲一つ
なく輝いていた。風の音。さやさやとそよぐ草の演奏会。その中心で、俺たちは誓いを交
わそうとしていた。
「神父役は私がやるね。えーと。汝、相沢祐一はこの者、天野美汐を妻とし、終生変わら
ぬ愛を誓いますか?」
「はい」
「では汝、天野美汐はこの者、相沢祐一を夫とし、終生変わらぬ愛を誓いますか?」
「はい」
 儀式が進行する間にも、真琴の身体はだんだんと透き通ってゆく。手が、足が、俺たち
から奪われてゆく。
「では、指輪の交換を」
 美汐の手を取り、その指に指輪を……この日のために買ってあった指輪を、ゆっくりと
差し入れてゆく。第二関節まで差し込んだことを確認して、俺は一歩退いた。
「これで両名を夫婦と認めます」
 真琴の姿は霞のように、あやふやな形をなんとか保っている有様だった。もはやその表
情さえも定かではない……。
「真琴!」
「二人とも、お幸せにね……」
 真琴の顔に、もう一度笑顔が浮かぶ。全てをやりとげた者特有の、これからを生きる者
に対するエール。そして、その声、その笑みを最後に、その姿そのものが霞だったかのよ
うに、真琴の姿は霞んで……やがてどこにも見えなくなって……。
「真琴……この」
 馬鹿野郎、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。この場にはもっと相応しい言葉がある。
それが、あいつのためにもなると思える言葉。素直に口から滑り出た言葉は……。
「真琴……ありがとな」

[index]