彼女は自らの右手を見つめた。どうということのない、どこにでもいる若い娘の手だ。いや、どこにでもいるというと語弊がある。傷のない手、つまりは厳しい労働に晒されたことのない手はどこにでもあるというわけではない。また、姿見に映った彼女の顔は美しく、なにより若い。
私が望んだもの、望むものを表すように――貴族の容貌を持つ彼女は呟き、苦悩するかのように目を閉じた。
暫く経って、前触れなく突如彼女の瞳が開かれた。
「これは――」
その場所は領主の館と呼ばれていた。確かに呼び名が想起させる構造、規模をこの建物は持っていた。しかし欠点もあった。この建物には人の気配が全くない。それどころか元は輝かんばかりに磨かれていたはずの大理石は蜘蛛の巣に覆われ、あるいは埃にまみれていた。かつての豪奢だった頃の面影は見る影もなかった。
そんな建物を一人の女が歩いていた。まだ若い女だ。にもかかわらず、くたびれたこの建物にとけ込んでいるような年経た雰囲気を漂わせていた。
女はまるで道順を知っているかのような迷いのない足取りで、明かりなき暗闇を進んでいた。視界無き暗闇を女は苦にしないらしい。
まっすぐ前を見て歩いていた女の歩みが突然止まった。止めたのは一筋の朱の光。赤黒い剣が女の首にかかっていた。
「何者だ」
剣を突きつけられた女は、朗らかとさえ言える声で質問に答える。
「久しぶりですね、ニムラム」
「石切か。何用だ」
ニムラムと呼ばれた人影は剣を収めた。問いかける声は依然鋭い。対する石切は顔見知りに対する口調で言った。
「主の友人に向かって『何用だ』はないでしょう」
石切の言葉にニムラムは苦虫を噛みつぶす。表情から察するに、ニムラムが困っているのは石切の態度ではなく主が石切へ見せるもてなしだ。
「なぜ主はお主と親しく付き合おうとなされるのか。困ったことだ」
「私がナンディニと親しくなると困ると?」
「ああ。お主と会った後の主は、いつも苦悩しているからな」
「苦悩することが悪いことだとでも?」
「そうは思わぬよ。だが、主の苦悩を取り除くのも守護者の努めだろう」
「ならば、私を排除しますか」
石切の不敵な言葉にニムラムは深く溜息をついた。
「それが出来るものならば、とっくにやっているよ」
「お久しぶりですね、石切」
「お互い壮健でなによりですね」
「壮健、ね」
ナンディニは苦笑した。一体、己の壮健とは何を指しているのか、と疑問に思ったのだ。石切はナンディニの苦笑を見て眉をひそめた。
「茶が入りました」
「ありがとう」
石切は手渡されたティーカップを近くに寄せて香りを楽しんだ。
「相変わらずの腕ですね、ニムラム。でも……」
ナンディニを見据えて石切は言った。
「腕が落ちたのではありませんか?」
「仕方あるまい、まだこの体に慣れていないのだ」
不機嫌そうに答えるニムラムの返事は石切を素通りする。じっと見つめる石切の視線から、二人きりで話したいのだと気づいたナンディニは、
「ニムラム。石切と二人で話したいの」
「は……」
不承不承といった感じでニムラムが部屋から出て行くと、石切は鋭く切り込んだ。
「石を私に渡したくなったということかしら」
「いえ、そうではないのです。ただ……」
「ただ?」
「この体を見ていると、自分がしていることが正しいことなのか、分からなくなってくるのです。元は『癒しの者』だった体を見ていると、ね。全ての人が幸せに暮らせることが私の望みなのに、あのうら若い『癒しの者』とその守護者が老衰で死んでいったのだと思うと、自分の選択に後悔を覚えるのです」
紅茶に口を一口つけてから石切は答えた。
「ルタならそれこそ、義務に伴う犠牲だと答えるでしょう」
「ええ。私もそれは理解しています。少なくとも、前のときは分かっていました。けれども――やはり老いなのでしょうね」
「あなたくらいで老いと言われては私はどうなるのかしら」
「申し訳ありません、石切。あなたのことを考えずに、自分勝手に発言したことを許してください」
「いいのよ、冗談なのだから」
石切の言葉を最後に沈黙が部屋を支配した。静かに紅茶を飲む二人。二人のカップが空になると、ナンディニは哀しげな表情で話しだした。
「ええ。私は、あなたと会えて良かったと思っています。ニムラムはあなたを気に入ってないようですけれど」
「今日も文句を言われました。あなたを悩ますなと」
「私は……いつも悩んでばかりです。確かに、あなたと会うと悩みは深まりますけどね」
「その台詞、ニムラムの前では言わないで欲しいものです」
「安心してください、石切」
間をおいてナンディニは祈るような口調で言った。
「幾ら悩んでも答えは出ませんでした」
「答えはあるものとは限りません。それゆえに、私は傍観者なのです」
「もう帰られるのですか?」
「あまり私が長居すると、ニムラムが嫉妬しますからね」
廊下に繋がるドアのノブを掴んだ石切はふと、振り返った。
「あなたとは、なかなか長いつきあいになりましたね」
「ええ。先ほども言いましたが、あなたと知り合えて良かったと思っています」
「それは私もです。でも、もう長くはないのでしょうか」
「かもしれません。私はそろそろ疲れてきました」
「これが最後の別れになるかもしれないのでしょうか?」
「ふふ。私もまだそこまでは弱気ではありませんよ」
言葉に反してナンディニは弱々しい笑みを客人に向けた。
「そうですか。では、また今度」
「ええ。また今度」
「ナンディニ様、しっかりなさってください!」
「げほ、ごほ」
床に朱い血が広がってゆく。次から次へと、ナンディニの口から赤黒い血液が逆流する。手にしたハンカチは既に朱に染め抜かれていた。
「なんということだ、まさか『癒しの者』が病に冒されていたとは」
「これも定めです。人の命を借りて生を繋いでいた私への罰なのです」
「なぜナンディニ様が罰を受けねばならないのです。私を救っていただいたナンディニ様に罰などありません。そうだ、ルタ様に新たな『癒しの者』を派遣してもらえば」
「いけません。それだけは私が許しませんよ」
「そんなことを仰らないでください! くそ、ルタ様は気づいておられなかったのか」
「あの子も全能というわけではありませんよ」
「しかし、今までこんなことはなかったのでしょう? それが何故このようなことに!」
「ルタを――」
責めないでと言い終える前にナンディニの意識は闇に沈んだ。