スチャラカもくれんタマスダれ
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 ゆさゆさ、ゆさゆさと控えめに、ゆったりとしたリズムで体が揺れていた。体の横から押されるような感触。いつもの朝の始まりだった。

「う…ん…」
「朝だよ、お兄ちゃん」
「う……」

 モヤがかった視界の向こうに優しくほほえんでいる妹の顔が見えた。開け放ったカーテンからは朝特有の清々しい光が射し込んでいる。起きてよと雪希は言うけれども、まだまだ眠い。どれくらい眠いかというと、昼過ぎまでは寝られそうなくらいに眠い。季節は春。二度寝はもちろん、三度寝だって心地よい季節だ。
「ほら起きて。今日もいい天気だよ」
「……雪希」
「うん?」
 何かな、と聞き耳を立てる妹と朝の挨拶を交わす。
「おはよう」
「おはよう。もうご飯も出来てるから、早く下に降りてきてね」
 階段を下る足音が聞こえなくなると部屋はしんと静かになった。思わず、二度寝しそうになってしまう。ぼんやりとしたままの頭のまま着替えをすませて階段を下る。居間にたどり着くと、食欲を誘う朝食の匂いが漂ってきた。

 玄関の鍵を締めて戻ってきた雪希に声をかける。
「戸締まりは大丈夫か?」
「ばっちりだよ」
 それじゃ、と雪希を促して俺たちは歩き始めた。今日は二度寝をしなかったので歩いてゆくだけの余裕があった。
 家を出たばかりの目には眩しすぎるほどの、陽の光を感じながら通学路を歩く。燦々とした陽気が肌を上気させた。隣を歩く雪希も俺の真似をして太陽を眺めている。ぽかぽかとした、このまま昼寝でもしようかと思ってしまう天気だ。
「今日はこのまま公園で寝ころびたい気分だな」
「あはは。うん、それもいいかもね」
 とりとめのない話をしながら通学路を歩いていると、
「おはよう、健二」
「おう」
「おはようございます、清香さん」
「雪希ちゃんもおはよう」
 途中の三叉路で声をかけてきた清香と合流する。清香は今日もまた、大きなリボンを背負っていた。
 ここから学校までは俺と雪希、清香の三人で登校する。



 はじまりは2月の後半だったと思う。俺と雪希が登校しているところに、今日のように清香が横から声をかけてきたのだ。
「おはよう、お二人さん」
「こんなところで会うなんて珍しいな」
「コンビニでシャーペンの芯を買ってきたのよ」
「高いコンビニで買わなくても、誰かに借りてしまえばいいんじゃないか」
「それもそうだけど、まだまだあると思っていたら、いつの間にかなくなってるんだよね。だからつい、コンビニで買っちゃうこともあるかな」
「シャーペンで思い出したわ。健二、授業中に日和にシャーペン借りようとするのやめなさいよね。突然『ひやっ』って大声出すから蜂でも入ってきたのかと思ったじゃない」
「背中に文字を書いただけで大騒ぎする日和だって悪いだろ」
 教室が静かだったので『日和、シャー芯貸してくれよ』と口に出せず、日和の背中にシャーペンの芯貸してくれと書いたら、教室中大騒ぎになってしまった事件のことだ。しかも「だ、だって〜、けんちゃんが〜」と日和が泣き出して俺が悪者扱いされたしな。
「日和のせいにするの? 男らしくないわね」
「あははは……。お兄ちゃん、日和ちゃんには優しくしてあげてね」

 その日から三日連続で清香と一緒に投稿した。清香はまるで待ち合わせているかのように、同じ場所に現れた。そんな清香の行動を俺は奇妙に思い始めていた。

「ねえ、お兄ちゃん」
 そのまた次の日。玄関を出たところで雪希は言った。
「一緒に学校に行こうって清香さんを誘ったらどうかな」
「どうしてだ?」
 しょうがないなぁお兄ちゃんは、という顔の雪希を見てなんとなく妹が言おうとしていることがわかった。
「お兄ちゃんも分かってると思うけど、お兄ちゃんと会いたくて清香さんは毎朝私たちを待ってるんだよ」
 自分から言い出すのは自信過剰に思えて嫌だったけど、もしかして、とは思っていた。
「俺だって心の準備が必要なんだよ。もう少しだけ待ってくれ」
 という俺の言葉に珍しく雪希が反論する。
「お兄ちゃん。女の子は待たせるものじゃないよ」



 一週間後の朝、寝坊した俺は遅刻ギリギリのタイミングで家を飛び出した。
「急げ、雪希!」
「はぁはぁ。ま、待ってよお兄ちゃん」
 雪希がついてこれるスピードで十分近く走り続けてきたが、雪希はそろそろ限界のようだ。
「はぁ、はぁっ」
 雪希の息継ぎは心許ない。スピードを緩めた俺は雪希の隣に並んで話しかけた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ、まだまだぁ」
 ふらついた体で言われても説得力がない。雪希の腕をつかんで止めさせると、その場で小休止することに決めた。
「でも、休んでたら学校に間に合わなくなっちゃうよ」
「雪希は素行がいいから一度くらい遅刻したって多めに見てくれるだろう」
「そうじゃなくて、お兄ちゃんは?」
「俺のことは気にするな。寝過ごしたのは俺なんだし、自業自得だ」

 休憩を終えて、競歩よりは速い、程度のスピードで走り出した。やがて、流れてゆく視界の先に清香が待っていた交差点が見えてくる。
 真面目で時間に正確な清香ならば、とっくに愛想を尽かして学校に向かっているだろう。そうであってほしいと思うと同時に、意地っ張りなあいつならまだいるのかもしれないとも思った。
 どちらが本当の気持ちなのか。どちらも本当の気持ちなのか。
 風に揺れるリボンが見えて、自分の気持ちに気づいた次の瞬間、俺の胸に飛び込んできた清香から勢いよくアッパーカットをくらって地面に転がる俺は
「健二の馬鹿!」
 そう叫び、泣きながら走っていく清香の姿を呆然とした気持ちで見送った。
「っ痛う……」
 頬の痛みは後からやってきた。

 その日は一日中、清香は俺と口をきこうとしなかった。
 俺たちの不仲に気づいた日和は授業中に何度も教科書から目を離し、そのたびに教師から注意された。それでも気になって仕方ないのだろう、休み時間に清香が席を外すとすぐに日和が俺の席に駆け寄ってきた。
「清香ちゃんもけんちゃんもどうしたのかな。先週は楽しそうに話してたのに」
「ちょっとな、喧嘩しちまったんだ」
「悪いのはどっち?」
「もちろん、俺」
「けんちゃんが悪いのなら、清香ちゃんに謝らないとダメだよ」
「結構、ひどいことをしてしまったみたいだ。それでも許してくれるかな」
「大丈夫だよ」
 根拠もなにもない、無邪気な日和だからこそ、その言葉を信じられると思った。
「けんちゃんが一生懸命謝れば、清香ちゃんはいい子だから許してくれるよ」
「絶対かな」
「ぜっっったいだよ」
「ありがとうな」
「わっ。けんちゃんが私にありがとうだって。今日は雨が降るんじゃないかな」
「なにを、日和のくせに生意気だぞ」
「わっ、わっ。いたい、いたい、いたいよ〜」

「着席!」
 本日最後の号令と同時に教室はにわかに騒がしくなった。机の前に立った俺を見ようともせず、清香は淡々と鞄に荷物を詰め込んでいた。
「一緒に帰ろうぜ」
 という言葉が聞こえなかったはずもないが、清香は俺を置いて一人で教室を出て行ってしまう。慌てて自分の鞄を持ちだして廊下に飛び出した頃には清香を見失ってしまっていた。俺も清香に続いて廊下を走る。
 校門にいたクラスメートの話では、清香は走って学校から飛び出したそうだ。ならばと全速力で追いかける。角を曲がっては、目印のリボンを探す。ふと気が付けば、清香に追いつかないまま清香の家にたどり着いていた。

 インターフォンを押してしばらくすると、おばさんが扉から顔を見せた。困った顔をしたおばさんを見るのは久しぶりだ。
「何かあったの? 清香ちゃんったら、健二くんが来たら追い返せって言ってるのよ」
「そうですか。すみません、おばさんにも迷惑をおかけしてしまったみたいです」
「喧嘩の原因は何?」
 俺が遅刻したからだ、とは恥ずかしくて言えないので、
「雪希が言うには、清香を待たせすぎてしまったみたいです」
 おばさんの顔色が少し明るくなった。
「じゃあ、ちょっとしたすれ違いってところね」
 おばさんはふと相好を崩すと、
「清香ちゃんはあれでいて、気の短いところがありますからね。機嫌を損ねると、特に」
「機嫌を損ねてしまった俺はどうすればいいんでしょうかね」
「そうね。今日のところは帰った方がいいと思うわよ。下手に意固地にさせないほうがいいと思うわ」
「それでは今日は帰ります」
「また健二さんとお茶でも飲もうかしらと思っていたのだけれども、残念ね」
「清香の機嫌が直ったら、是非ともご一緒させてください」
 ドアが閉まる間際、頑張ってくださいねという声が聞こえた。

「ねえ、お兄ちゃん。今日のご飯の味付けはどうかな」
「そうだな。魚の煮付けはもうちょっと濃いめでもいいんじゃないか?」
「うん。今度は醤油を多めに入れてみるね」
 かちかちゃと、箸と食器がぶつかる音が大きく響いた。それが、やけに気に障る。TVがついていれば気にならないような音が、今日はどうしても気になった。
「雪希、TVつけていいか?」
「食事中にTVつけるなんてお行儀が悪いよ」
「これまでそんなこと言わなかったじゃないか」
「お願いだから、今日は我慢して」
「ああ……」
 落ち着かない感じの沈黙が辺りを覆う。
「あっ、そうだお兄ちゃん」
「な、なんだ?」
 そして今日の雪希はどうにも挙動不審だった。
「明日の放課後、お買い物に行こうと思うんだけど、お兄ちゃんも付いてきてくれないかな」
「卵の特売日だっけ」
「ううん、明日はティッシュペーパーの特売日なの」
「オーケー。いつも通り、授業が終わったら校門で待ってるぞ」
「お願いね」
 そしてまた、気まずい沈黙に食卓が支配される。
「ああもう、聞きたいのは清香とのことだろ?」
「うん……どうしても心配だったから」
 はぁ、ここぞというときに奥手になる雪希の性格、悪くはないんだけど直すように言っておくべきかもしれない。とまあ、それは後回しにしてだ。
「一日中、話してくれなかった。話しても無視されるし、目を見ると視線を逸らされた。謝ろうと清香の家まで行ったけど、清香が入れるなと命令していたみたいでおばさんが入れてくれなかった」
「そうなんだ」
 あはは、と苦笑いする雪希につられて、俺もついやけっぱちな笑い声を上げてしまった。
 笑いが収まったところで雪希が言った。
「お兄ちゃんも分かってると思うけど、ちゃんと清香さんに謝らないとダメだよ」
「分かってる。このままにしておくつもりはないさ。絶対、明日には仲直りしてみせる」
「その意気だよ、頑張ってね」

 翌日はいつもより早く目が覚めた。TVを見て時間を潰して、いつもの時間帯に家を出る。一昨日まで清香と待ち合わせていた場所には、まだ誰もいなかった。
「まだ来てないみたいんだね」
「怒って先に行ってしまったとか、遠回りせずに学校に行っているとかも清香ならありえるぞ」
「弱気はダメだよ、お兄ちゃん」
 まだ10分は余裕があった。
「よし、雪希は先に学校へ行ってくれ」
 雪希はとまどっている様子だったが、やがて気持ちの整理がついたのか、それじゃ頑張ってねと言い残して学校へと走っていった。

 全力疾走で走ればなんとか間に合う時刻になっても清香は来ない。
「はぁ……」
 とはき出した息は、透明なまま空へ上ってゆく。遠くすみわたった、みずいろの空へ。
 通学路へと視線を移すと、ぴょこぴょこと揺れる巨大リボンがはっきりと目の前に映っていた。
「こんなところで会うなんて、奇遇ね」
「そうか?」
「そうよ」
 頑なな清香の声。きっとこれが、彼女の精一杯だ。ならば俺は、差し伸べられた手の平を引っ張ろう。
 俺は清香に声をかけた。
「一つ、提案があるんだが、聞いてくれるか?」
「なに? つまらない話なら聞かないわよ」
「これから一緒に学校に行かないか? もちろん、明日も、明後日も。卒業するまで、ずっと」
「……いいわよ」
「ありがとな」
 感謝の気持ちを込めて清香の頭をなでると、清香の顔が薔薇色に染まった。
「ちょっと、やめなさいよ!」
「嫌だ」
「だからやめなさいって!」
「それと、ごめんな」
 ぎゅっと、清香の小柄な体を抱きしめる。初めは暴れていた清香も、だんだんと大人しくなって、彼女の手が俺の体に回された。
 しばらく経って、お互いに体を離すと、清香がこんなことを言ってきた。
「一つだけ条件があるわ。遅れそうだったら電話を入れなさい。そのときは健二を置いて先に学校に行くからね」
「オーケー。雪希から電話をかけさせるよ」
 すると清香はため息を一息つくと、オーバーなジェスチャーを交えて言うのだった。
「雪希ちゃんも大変ね、一年の半分は私に電話しないといけないじゃない」





 冬。生意気な腐れ縁とばかり思っていた清香とはじめて手を繋いだ。びゅんびゅんと高架線を鳴らす北風は、清香の小柄な体を吹き飛ばしそうな勢いだった。じっとしているとしもやけで赤くなった耳が痛み出す季節、繋いだ手から伝わる温もりに気持ちを繋がれば、冷たい風も気にならなかった。
 春。清香のおばさんに呼ばれて花見に行った。酔っぱらった雪希と清香が喧嘩を始めると、何故かコップや皿が俺に向かって飛んできた。助けを求めてもおばさんはあらあらと呟くばかりで助けてくれない。帰り道、だっこをせがむ清香を背に乗せて、健やかな寝息を感じながら夜道を歩いた。首に回された手は離さないからと、ぎゅっと握られていた。
 そして、今。葉桜が青々と茂る季節に俺たちはいた。





「ごちそうさま。今日も雪希の料理は文句なしだな」
「どういたしまして。それじゃ、私は後かたづけしないといけないから」
 台所に消える雪希を見送ってソファに腰を下ろす。テレビをつけて適当なバラエティ番組をぼーっと見ていると、遠くから雪希の声が聞こえてきた。
「紅茶とコーヒー、どちらがいい?」
「紅茶で頼む」
 暫くすると雪希がお盆を手にやってきた。
「ありがとな」
 お茶菓子をぱくつきながら、その日あったことをだらだらと話すうちに、一ヶ月後に迫った学園祭が話題になる。
「お兄ちゃんのクラスは何をやる予定なの?」
「かなりもめた結果、多数決で喫茶店をやることに決まった」
 南山が女子はもちろんメイド服姿で、などと言い出したために、喫茶店に傾いていた女子の大半が反対に回ってしまい、議論が紛糾してしまったことはわざわざ言わない。
「へえ、喫茶店かあ」
「そういう雪希のクラスは学園祭で何をやるんだ?」
「お化け屋敷に決まったよ」
「それはまた、つまらないものに決まったな」
 学生が用意できるものといったら、せいぜい暗幕とこんにゃくくらいのものだ。そんなことはやる方も分かっているし、客も分かっている。つまりは、見る方もやる方もやる気の見られないという、どうしようもない催し物だ。それでも毎年どこかのクラスが名乗りを上げ、上演内容を審査するはずの生徒会から許可されているのは学園7不思議の一つに数えてもいいんじゃないか、とかねてから俺は思っていた。
「やる気のない人間がそろってるのか、雪希のクラスは」
「最後の最後に一人だけお化けを配置して、他のみんなは遊びに行こうって言ってるくらいだから」
 あはは、と雪希は笑って誤魔化した。



 そんな会話があってから三週間後。ただいま日曜の午前10時。いつもなら家で寝ている時間だが、清香に呼び出された俺は小野崎邸でおばさんとお茶を飲んでいた。
「すみませんね健二さん、清香ちゃんの思いつきで呼び出してしまって」
「気まぐれなくらいが清香らしいですよ。それよりも、清香は何をしてるんです」
「料理をしているって見ればわかりませんか」
 俺は答えず、台所に目を向けた。ふんふふーん、とやけに上機嫌な歌声が聞こえてくる。以前に見た目からして物騒なモノを食べさせられた忌まわしい記憶が再生されそうになって、俺は机に頭を打ち付けて再生を止めた。
 不思議なものを見る目つきで、おばさんが俺を見ていた。
「いやあ、お気になさらず」
 俺はそれ以上おばさんに不審がられる前に椅子から立って台所に移動した。俺に気づいた清香が言う。
「ごめん、あと30分くらいかかるからもうちょっと待ってて」
 俺は台所で忙しく立ち回っている清香を観察する。手に持っているボウルの中には緑色の物体が入っていた。どうやら、悪い予感は的中したらしい。どうしてクッキーが鮮やかな緑色をしているんだ。
 清香がクッキーを作っているのは明日、つまり月曜日にクラスで集まって学園祭用のお菓子の試食会を行うことになっているからだ。試食してくれるわよね、という脅迫に屈した俺は、断頭台にかけられたフランス貴族の気分で出来上がりを待っていた。

「どうぞ召し上がれ」
 無い胸を張って清香が言った。お皿に盛りつけられたクッキーはきつね色に焼けていて、見た目にも香ばしそうだ。しかし問題なのは、クッキーを盛りつけた皿を取り囲む原色派手派手しい異世界の脅威っぽいものだ。おそらく、ソースかシロップなんだろうが、使わない方がいいと俺の五感が訴えかけている。
 食卓に皿を置き終えた清香は期待に輝く目で俺を上目遣いに見つめている。据え膳食うべからず、なんて言葉を生み出した誰かを俺は恨む。観念した俺がクッキーを手に取って、口の中に放り込もうとすると、
「あら、それじゃだめよ。こっちのソースに付けて食べないと」
 清香はクッキーを自称ソースにたっぷりとつけると、「はい、あーん」と言いながら俺の口近くまで持ってきた。
 心の中で泣いてクッキーを口の中に入れる。
「どう? おいしい?」
 ここで屈してはならない。俺は正直に答えることにした。
「まずい」 
 清香の眉が急角度に上がった。
「そんな目で見たって、まずいものはまずいんだよ!」
「ぬぁ、なんですってぇ! そんなはずないわよ、ちゃんと味見して確かめたのに!」
「舌が壊れてたら、いくら味見したって無駄だけどな!」
 とっくみあいの喧嘩になりかけた二人を見かねて、おばさんが仲介に入った。
「健二さん、駄目ですよ。せっかく清香ちゃんが頑張ったのに、そんな冷たい言い方をしては」
「おばさんは清香の料理の恐ろしさを知らないからそんなことを言えるんです」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか。それでは清香ちゃん、頂きますね」
 緑色の液体に浸したクッキーをおばさんは一口に飲み込んだ。直後、顔色が真っ青に染まる。
「んーーー」
 ばんばんばん、と机を叩くおばさんに素早く水を渡す。
「おわかりになりましたか?」
「お……おいしいわよ?」
 麗しき家族愛というには、虚ろにさまよった目が不自然だった。
「本当ですか?」
「ええと、ちょっと、どことなく、人類が初めて会ったような、独特な味ではありますよね」
「ずばり不味いと言ってあげた方が清香のためになりますよ」
 おばさんは部屋の壁のシミに目を向けたままでポツリと言った。
「これも私が清香ちゃんと正面から向き合ってこなかったからかしら」
 俺たちの会話に清香は不満顔だ。
「健二だけならともかく、お母さんまで不味い不味い言わないでよ!」
「ねえ清香ちゃん、試食はしてみたのかしら」
「当然じゃない」
 清香の言葉におばさんは衝撃を受けたようだった。それでもあくまで信じたくないのか、もう一度同じ質問を繰り返す。
「本当なの?」
「だから本当だって」
 おばさんが俺に目線を向けた。清香の言葉に同意を示す俺を見て、おばさんも決意したようだった。
「清香」
 俺はおばさんが初めて清香を呼びつけるのを聞いた。
「これから私がよしと言うまで一人で台所を使うことを禁止します!」



 翌日の月曜日、今日からは学園祭用の特別編成で授業は半日になり、午後からは学園祭の準備に当てられる。我がクラスでは、各自思い思いに作ってきたお菓子を使ったお茶会が開かれていた。
「あれ〜、清香ちゃんは作ってきてないのかな」
「そういう日和はどうなのよ」
「えへへ〜。私はね、これっ」
 ほうほうほう、日和が作ったとは思えないしっかりしたつくりだ。どれどれと俺は日和が持ってきたチョコレートの一切れをつかむと、口に放り込んだ。
「ふむふむ。70点だな」
「わ〜、勝手に食べて、しかも辛口だよ〜」
「ふふふ。雪希の料理で俺の舌は肥えているからな。それに、まだまだ残ってるだろ?」
「そうだね〜」
 落ち込んでもすぐ復活するあたりがぽんこつさんだ。
「それで、清香ちゃんのは?」
 日和は何の気なしに聞いたのだろうが、清香には痛い質問だったらしく、答えようとしない。
「うん? どうしたのかな?」
「失敗したから持ってきてないのよ」
「そうなんだぁ。私も昨日、三回も失敗したんだよ……え?」
 最後が疑問系なのは、椅子から立ち上がった清香がグーで日和をなぐろうとしたからだ。とっさに俺が止めなかったら、さぞかしいい音がしただろう。
 ちなみに、昨日清香は両手を使って数え切れないくらい失敗している。
「ふぅん、三回、三回ね。それで苦労したつもりなのかしら(ぶつぶつ)」
「これから頑張ればいいさ。おばさんに習えば上達も早いだろ」
「はぅん?」
 よく事態が分かってない日和だった。



「お〜い、委員長。看板の下絵書いたんだけどちょっと見てくれねーか」
「どれどれ。悪くはないんだけど、ちょっとインパクトに欠けるわね」
「なになに。『喫茶店ミルフィ開店中。皆様のお越しをお待ちしてます』か。確かに面白くはないよなあ」
「ならお前がアイデア出せよ」
「あ〜〜〜。なんだ、ほら、菓子でも描いておけばいいんじゃないか」
 展示物の材料を買って戻ってくると、出かける前はだらけた雰囲気だった教室内が熱気に包まれていた。
 材料を委員長に手渡して看板制作班に戻ろうとしたところで、平山さんから声をかけられる。
「片瀬くん、いいかしら?」
 平山さんは美術部に所属しているため、帰宅部の俺とは縁薄い存在だ。清香とときどき話をしている間柄でなければ、名字も覚えていなかったに違いない。
「去年のことだけど、砂絵を描いてきてたわよね」
「あのことは出来れば忘れていて欲しい」
 清香と付き合うことになった思い出の品ではあるけれども、教室中で笑われた屈辱はまた別の話だ。
「実は、また描いてきて欲しいんだけど。ダメかな」
「そんなこと言って、またクラスの笑い者にするつもりだな」
 もしかして知らない間に平山さんに恨みをかっているのだろうか。けれども、いくら記憶を探っても思い当たることはなかった。そもそも平山さんと話すことがほとんどないので、恨みをかうような機会がない。
「なんでそうマイナスに取るかなあ。私が美術部だってことくらいは知ってる?」
 それは知っていたので頷いた。
「美術部って高嶺の花みたいに思われていて、毎年展示に人が集まらないのよ。そこで、砂絵を飾って見た目入りやすくしようと思って」
「そういうことか。それなら俺に頼まなくても、清香に頼めばいいじゃないか」
「もちろん清香さんにも頼んだわよ。けれども、清香さん一人じゃとても間に合わないって言うから。お願い、美術部を助けると思って、ね」
「せっかくの頼みだけど、美術部には知り合いもいないし断らせて頂きます」
「へえ? 断るんだ。いいのかしらね。清香から聞いたんだけど、宝物にしている本があるそうじゃない」
 なごやかだった平山さんの雰囲気ががらりと変わってとんでもないことを言い出した。清香の友人だけあって、脅迫のやりかたも清香そっくりだ。俺は無難な答えを返す。
「もしかして、横山光輝三国志全60巻のことかな」
「文庫版じゃなくて単行本か。意外と趣味が渋いわね。でも、それじゃないわ。あなたの可愛い妹さんに関係のある本よ」
 可愛い、に情感をこめる平山さん。あまりにも清香にいびられるネタにされるため、『妹の囁き』は泣く泣く南山に貸したままにしていることは清香も知っているはずだ。まさか、最近入手したあの本のことが早くもばれてしまっているのか。
「雪希さんって言うんだっけ? あの子もかわいそうよね。毎日お弁当まで作って来てるっていうのにみだらな妄想のネタにされるなんてあんまりだわ」
「はてさて、僕には何のことやら」
「とぼけるのかしら」
 平山さんは内緒話をするみたいにその唇を寄せて、小声で言った。
「『お兄ちゃんにシテ欲しいの』だっけ。重ね重ね雪希さんも大変ね。変態は更生できないって言うけど、本当みたいね」
 馬鹿な。清香にもばれていないことを、なんで平山さんが知っているんだ。
「その情報をどこから入手した」
「とあるところから、としか答えられないわね」
 思い当たるのは一人しかいない。南山のヤロウ、また俺を売りやがったのか。
「それで、やってくるのかしら?」
「喜んでやらせていただきます」
「ありがとう。あ、これ下絵ね。それと、清香が家で待ってると言ってたから」
 じゃーね、と言い残して平山さんは教室を出て行った。
 俺はクラス展示で砂絵を描くことになったことを雪希に伝え、清香ん家に向かった。その日、寝たのは0時を過ぎてからだった。



 翌日は午前の授業が終わってすぐに清香の家に向かった。砂絵に気持ちを集中していた俺が気づくと時計の針は16時を示していた。
「ちょっと休憩入れないか」
「さっきおやつ休憩したばかりじゃない」
「そうだけど」
 平山さんからもらった下絵の数と完成した砂絵の数を比べると、学園祭までに終わるようには思えないからやる気が今ひとつなんだ。そう伝えると、
「あんたがそうやってすぐさぼろうとするからじゃない?」
「やる気がないからな」
「ふーん。ところで、平山さんに聞いたんだけど、箪笥の下にエロ本を隠してるんだって?」
「誠心誠意やらせていただきます……」
 清香には伝えないという取引をさっそく破っている平山さんにちょびっと殺意が沸いた。

 夕食後、砂絵に手を加えていると、20時になっていた。いつもの時間、いつも通りに清香が立ち上がる。
「それじゃあ、私はお風呂に行ってくるから」
「ちょっと待った。その前にちょっとだけ話があるから聞いてくれ」
「なに?」
 めんどくさそうな様子の清香にまあ座れと手で伝える。お風呂でさっぱりしたいのに、と不満顔だ。
「このままじゃ間に合わないから、おばさんに手伝ってもらおうぜ」
 不満そうな面持ちが消える。清香は乗り気ではないから、というふうに答える。
「でも……ほら、この年になって手伝ってもらうのも恥ずかしいし。それに、私の絵に触らないでって、何度も言ってきた私が今更頼むのも気まずいと思わない?」
 そんなことない。気まずいと思っているのは清香だけだと思った。
 清香の表情をそっとうかがう。戸惑いとも羞恥とも違う表情。どことなく悔しそうな顔を見て、清香にはまだ踏ん切りがついていないのだなと感じる。
「そか。俺の話はこれだけだ」
「それじゃお風呂入ってくるね」

 風呂から帰ってきた清香はどことなく声をかけづらい雰囲気で、結局それから一言も話さないまま一日が終わってしまった。一階に下りた俺は用意された毛布の中に潜りこむ。相変わらず頑固者の清香。今日の発言が逆効果にならないと良いんだけどなと思いながら目を閉じた。睡魔はすぐにやってきた。





 お姉さんがお母さんになってしまって、もうすぐ一年。今年もおかあさんのたんじょうびがやってきて、私は砂絵におかあさんへの思いを乗せる。でも、砂絵を渡すおかあさんはもういない。だから、たんじょうびの朝、私は砂絵をやぶってしまった。
 また次の年も、その次の年も。砂絵をかいてはやぶった。
 砂絵を描いては破っての繰り返しをもう何回したのだろう。

 その日砂絵に熱中していた私は、晩ご飯を伝えるお母さんの声を聞き逃した。あまつさえ、お母さんが階段を上ってくる音、ドアを開ける音にも気づかなかった。私がお母さんが部屋にいることに気づいたときには、私が描いている砂絵をお母さんがのぞき込んでいた。
「あの、清香ちゃん。私が手伝おうか?」
 お母さんが近づいたことに気づかなかったことへの不甲斐なさもあって、私は砂絵が進まない苛立ちをお母さんにぶつけてしまった。
「あんたなんかが手伝わないでよ! これは誕生日プレゼントなんだから! おかあさんへの誕生日プレゼントなんだから!」
 実際のところ、私はお母さんがこっそりと砂絵に手を加えていることに気づいていた。悔しいことに、お母さんは私よりもずっと砂絵がうまい。だから、お母さんが手伝った部分だけは特別出来が良くて、砂絵にはちょっとしたプライドを持っている私には余計に悔しい。
 お母さんには手伝って欲しくなかった。これは私からおかあさんへのプレゼントなのだから、私が描かないといけないんだと思っていた。
 翌年も、そのまた翌年も。一人で砂絵を作っては破った。
 最近、自分のことがよく分からなくなってきた。おかあさんが帰って来ないなんて、もうとっくの昔に気づいていた。だから、墓に供えるくらいの気持ちなんだと自覚もしている。でも、今年もまた私の砂絵は作りかけだった。
 わかってる。本当は、おかあさんの誕生日プレゼントを祝うことでお母さんが悲しい思いをするんじゃないかと考えているからだ。お母さんの誕生日プレゼントを祝うことでおかあさんを忘れてしまうんじゃないかと怖れているからだ。素直じゃない上に、優柔不断というやつらしい、私は。

 今年もひとりで砂絵を描いた。今年の作品もまた、誕生日を迎える前に破いて捨てた。





 今日も半ドンで授業が終わり、俺たちは二人揃って下校しようとしていた。
「今日の予定はアイスクリームとバームクーヘンだったか?」
「ちゃんと覚えてるようね。少しはやる気が出てきたのかしら」
「まあ、あれだけ脅されたらやる気を出さないといけないというか」
 平山さんから渡された下絵を思い出しながら、どのように作ろうかと考えていると、清香が声をかけてきた。「そういえば黄色系統の砂が足りなくなってたわ。悪いけど、買ってきてくれないかしら」
「了解。着替えを取りに帰るついでに商店街に寄るわ。清香は先に準備しといてくれ」
「オーケー」
 清香と分かれて、俺は久しぶりに実家に戻った。雪希に着替えを渡してもらい(手際のいい妹だ)、商店街の文房具屋で砂を購入した俺は清香ん家に急ぐ。

 ピンポーン。
 インターフォンの余韻が消えても、誰もドアを開けてはくれなかった。
「すみませーん」
 ドアを叩いて呼びかけても応答はない。もしかして俺、歓迎されてない?
 ダメもとでドアノブを回して引っ張ると、鍵がかかっていなかったドアは開いてしまった。
 玄関に入って中の様子をのぞく。どうやら一階には誰もいないようだ。おばさんは何かの急用なのだろうか。例えば、さおだけ屋についていったとか、古新聞古雑誌をトイレットペーパーと交換しに行ったとか。
 一階の隅々まで探しても、おばさんの姿はない。それにしても、インターフォンを鳴らしたんだから清香が出てきたっていいだろうに。
「はっ! まさか、小野崎邸で連続殺人事件が!?」
 沈黙。
 突っ込みがないボケはむなしい限りだった。一階の探索を諦めて、俺は二階へと向かった。

「お邪魔するぜ。おい清香、玄関のドアが開いてたぞ。おばさんに任せてないで、偶には自分で……」
 俺は目に映った光景を信じられず、先を続けることができなかった。
「何よ」
 ふて腐れたような清香の声が耳に響いた。
「あーーー」
 言葉がまとまらない。砂の入った瓶を机に置いて、おばさんが立ち上がった。エプロンを叩きながら、
「ああ、そういえば玄関のドアを閉めてくるのを忘れていました。健二さん、教えて頂いてありがとうございます」
 立ちつくす俺に一礼するとおばさんが階下に降りて言った。
「あーーー」
 俺はまだ頭が混乱している。
「何よ」
 清香はまだふて腐れたような、いや、ちょっと顔が赤くなったかな。
「えーと。なんでおばさんがいるんだ?」
「見ての通り、砂絵を手伝ってもらっていたからに決まってるじゃない。何よ、私、悪いことした?」
「いや……安心したよ」
 清香の背中から覆い被さるようにして抱いた。
「そっか。心配してくれてありがとね」





 みんなが寝静まった真夜中、私はこっそりと廊下を歩いていた。ギシギシと鳴る床の感触、窓から射し込む月明かり。まるで、健二と付き合うきっかけになったあのときみたい。
 応接間のドアをそっと開ける。健二は、寝てる。何もかもがあのときと一緒、ということではないらしい。残念。
 改めて見れば、枕はソファから落ちてしまっている上に毛布は半分ずれていた。まったく、もう。だらしがないやつ。枕を元に戻すのは諦めて、毛布だけかけ直してあげる。
「あらあら」
「うわっ」
「あらあら。そんな大きな声を出しては、健二さんが起きてしまうわ」
 いつの間にか、お母さんが私の真後ろに立っていた。
「それにしても、やっぱり清香ちゃんは優しい子ね」
 優しい子ね、なんて言われると恥ずかしくてたまらない。
「私はただ、寝付きが悪かっただけで。そう、何か飲み物がないかな〜っって」
「台所は、あっち」
 それくらい知ってる。お母さんは意地悪だ。
 健二に目を向けたお母さんはふふっと笑った。
「健二さんが家に泊まり込むなんて久しぶりね。やっぱり、また砂絵を作っているの?」
「うん。クラスの友達から頼まれてね」
「あの…………お茶でも飲む?」
「やっぱいらない」
「あら、そう」
 暗闇でよく見えないけど、お母さんの顔は想像できた。私に拒絶されて、悲しんでいる顔だ。突発的に、お母さんにあることを聞きたくなってしまった。
『お母さん、本当に私を愛しているの? 生意気で、何度もお母さんを傷つけたこの私を愛してくれているの?』
 健二ならどこの悲劇のヒロインだ、とからかうに違いない。お前には似合わないぞ、と。どうせ雪希ちゃんみたいにお淑やかじゃありませんよ、だ。
 そう、私には悲劇のヒロインなんて似合わない。だから一歩前に進んで、もう一度、自分に正直になろう。
「お母さん。実は砂絵があんまり進んでないの」
「え? あ、そう。それは大変ね」
 今回砂絵をやっていることを話したのも、思ってみればこれが初めてだ。自分で思っていたより私って意地っ張りなんだと、改めて自分に呆れてしまった。
「健二も頑張ってくれているけど、このままじゃ間に合わないと思う。悪いけどお母さん、手伝ってくれないかな?」
「手伝ってもいいの?」
「当たり前よ。これで間に合わなかったら友達に悪いもの。ダメ?」
「そんなことないわ。清香ちゃんの頼みですもの、よろこんで」
 ぽすんと、私はお母さんの胸に収まった。
「ありがとうね、清香ちゃん」
「うん……」
 今日だけじゃない、これまでずっとの感謝を込めて。ありがとう、お母さん。

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