スチャラカもくれんタマスダれ
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 ぶるるるるるっ。
 ぶるるるっるっ。

 耳障りな注意を惹きつけずにはいられない、携帯電話のバイブ音で目を覚ました。ベッドから起きあがって机の上に置いた携帯電話を手に取った。アラームを止めた次はリモコンを操作して冷房をつけた。
 これでようやく人心地がついた。それにしても暑い。茹だるような暑さだった。カーテンを開くと、空は晴れ渡っていた。

 一階に降りると、雪希がソファに座ってTVを見ていた。
「今日の赤坂の気温は28度、今日も暑いですね」
「今日の予想最高気温は32度。これで連続十日間、真夏日が続いています」
 TVに映し出された天気予報。やっぱりというか、今日も一日ずっと晴天のようだった。
 雪希が俺に気づいて声をかける。
「おはよう、お兄ちゃん」
 悪戯っぽく笑って雪希は言う。
「今日も早いんだね」
「こんな暑い中で寝られるかっての。なあ、雪希」
「冷房をもっと使わせて欲しいって提案ならダメだよ。冷房は電気をくうんだから」
「ちょっとぐらいならいいだろ。頼む、あと一時間!」
「ダメです」
 こんな問答がもう一週間続いていた。
 ウチの親は海外で仕事をしていて、家にはほとんどいない。おかげで思う存分羽を伸ばさせてもらっているのだが、一つ問題があった。小遣いである。小遣いという決まったお金がないので、俺と雪希は毎月振り込まれる生活費の中から小遣いをひねり出している。なので、冷暖房を使う時期にはその影響で小遣いが目減りしてしまう。
 もっとも、うちにはよくできた妹がいるので小遣いに充てるお金がなくなるなんてことはなかった。けれども、やはりそれはそれ、小遣いは多ければ多いほど嬉しいのであった。

「雪希、ケチャップとってくれ」
「はい」
 朝食の献立はきつね色にこんがり焼けたパンとオムレツ、にんじんサラダだ。
「今日も朝練はあるのか?」
 こくり、とうなづく雪希。
「帽子を忘れずにかぶっておけよ」
「わかってるよ。お兄ちゃんこそ、今日の体育の時間は気をつけてね」
 雪希に言われるまで、今日の体育のことはすっかり忘れていた。俺はもう一度、カーテン越しに空をのぞいた。天気予報通りの空。体育館での授業になってくれないだろうかと、ぼんやりと夢想する。
「それよりもお兄ちゃん、今日は何の日だか知ってる?」
 先に食べ終わった雪希が洗い物のかたわら、そう言った。
 体育の授業がある日だろ、と言う一歩手前でふんばって、考えてみる。今日は7月の5、6、そうか。
「七夕かあ。うし、今日は遊びに出るぞ。放課後は空いてるか?」
 もちろん、質問した相手は雪希だ。
「うん。そう来るだろうと思って、ちゃんと空けてあるよ」
「偉い! あとは日和と、先輩と」
「清香さんも呼ばないとね」
 清香の笑顔がふと浮かんだ。屈託なく俺に笑いかける笑顔だ。
「まあ、あいつも呼んでやるか」
 まったく困った子ねこの子は、といった感じで微笑む雪希。なんだなんだ、その態度は。
 俺の考えを読んだのか、雪希は得意そうに言った。
「お兄ちゃんって正直じゃないなあって思ってるだけだよ。彼女さんを呼ばないで誰を呼ぶつもりなのかな」



 家から一歩出た途端に太陽の熱が肌を焦がす。電子レンジで調理される料理になった気分だ。いったい梅雨はどこに行ってしまったのだろう。
「うわあ、もう夏本番だね」
 十歩歩いただけで、額から汗がしたたり落ちる。なんて暑さだ。最高気温が32度ですむとは思えなかった。
「お兄ちゃん、すごい汗だね」
 雪希は汗をかいてはいなかった。日頃に運動量の差が出た形だ。
 涼しい顔で歩いている雪希は脇に抱えたスポーツバッグからタオルを取り出して俺に差し出す。
「わたしは今日一枚余分に持ってきているから、タオル貸してあげられるよ?」
「サンキュ。でも、今はいい」
「教室で落ち着いてからの方がよさそうだね。じゃあ、はい。ちゃんと使ってよね」
 俺は頭を下げる。
「ちゃんと洗って返すからな」
「気にしないでいいよ、一枚増えたって別に変わらないんだから」
 有り難くタオルをもらうと、後ろからとたとたとした足音が駆けてきた。続いて、間延びした声。
「け〜〜〜ん〜ちゃ〜〜〜ん、お〜〜は〜〜〜よ〜〜〜〜」
 俺たちに並ぶと人影は速度を落とし、改めて声をかけてきた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう」
「おはよう、日和ちゃん」
 おっとりというよりのんびり、のんびりというより眠らされそうな調子の声は、幼なじみの日和だ。近くに住んでいることもあり、一緒に学校へ行くことが多い。
「おい、日和」
「なに〜、けんちゃん」
 ぽよりとした声に悪戯心がいやでも刺激される。
「丸刈りにしろ」
「え、え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「あ〜〜〜〜〜〜っ、うるさい!」
「だ、だって〜」
「その長〜い髪を見るだけで暑くなるんだ。分かったらさっさと床屋へ行ってこい!」
「ぐよぐよぐよ〜〜」
「あああ、よしよし。お兄ちゃん、冗談にもほどがあるよ」

「ごめんな日和。ちょっとした冗談のつもりだったんだ」
「もうお兄ちゃん、ちゃんと日和ちゃんに謝って」
 ぐすぐすと鼻をならしている日和を背に守るように立つ雪希が説教する。
「たとえば……そう、初対面の女の人のどこを見る?」
「そう言われても、特に気にしてないからなあ」
「じゃあ、清香と会ったときどこに注目する?」
 それならば簡単だ。俺は即答する。
「リボンだ」
 答えに満足したようで、雪希は頷いた。
「女の子にとって、髪は男の人に一番見られやすいポイントなんだよ。ほら、よく『髪は女の命』って言うでしょ。私だって、朝のセットには気をつかっているんだから。だから冗談でも、女の子に丸刈りにしろなんて言ってはいけません。分かった?」
「いや待て、清香の場合リボンはどうしても目につくっていうか目につかざるを得ないというか」
「分かった?」
「その点において清香は特異な存在でありそこから一般論に敷衍するというのは無理があるのであって」
 どう反論しても雪希は聞く耳を持たなかった。俺が悪いの一点張りである。結局、俺が折れることになった。

 協議の結果、神社の夜店に出歩くことになった。
「うん、わたしもいいと思う」
「決まりだな。次に集合時間は――」
 雑談しながら歩いていたら、いつの間にか校門をくぐっていた。学年が違う雪希とはそろそろ分かれることになる。案の定、雪希がきまりの悪い顔で何かを言おうとしていた。
「わたし、こっちだから。お昼休みにお兄ちゃんのクラスにお邪魔するね」
「おう、昼休みまでには考えておく。じゃ、また昼休みに」
「うん」
「またね、雪希ちゃん」
 自分の教室に向かう雪希を見送って、俺と日和も教室に向かった。

 廊下を曲がると、教室に入ろうとしている後ろ姿を見つけた。身長の半分をリボンで占められている女生徒だった。俺はこの学校でこんな生徒を一人しか知らない。
「よう、清香」
 声をかけられた清香は俺の顔をまじまじと見つめると、
「健二、どうしたの? 体調が悪いんじゃないでしょうね」
「どういう意味だ」
 いや、訊かなくてもわかるけど。どうせ俺はいつも遅刻すれすれに登校してますよ。
「本当にこいつ大丈夫なの?」
 俺の言葉は無視して清香は日和に話しかけた。
「うーん。暑くて眠れないって言ってたから、大丈夫じゃないのかも」
「熱中症とかじゃないでしょうね。ちょっと、いい?」
 再び清香は俺の顔をのぞき込んだ。さっきより真剣な目をしている。ちょっと照れくさくなって俺は視線をそらす。
「素人目にだけど、特に調子が悪いということじゃなさそうね。でも、気をつけなさいよ。水分はちゃんと補給して、栄養のあるものを食べて」
 こいつは生意気そうでいて、結構世話好きなのだ。つきあってからそれが分かるようになった。
 次々と出てくる注文の数々を聞いていると、自分がどれだけ気にかけられているかがわかって嬉しい。
「ちょっと、なに笑ってるのよ」
「いや、なんでもない」
 清香が追求してくる前に本題を切り出した。
「今日は何の日だか知ってるか?」
「それくらい知ってるわよ。七夕でしょ」
「というわけで、遊びに行くぞ」
「なんだか七夕と遊びがつながらないような気もするけど。まあいいわ。それで、どこに行くかは決まってるの?」
「神社の夜店はどうだ? 待ち合わせは6時か7時で」
「妥当なところね。乗ったわ、それで日和の他に誰が行くの? 雪希ちゃんは来れる?」


「おかえりなさい。結果はどうだった?」
「先輩は大事な用事があるから駄目だ。ところで雪希はまだか?」
「ううん。もうそろそろじゃないかな」
 昼休み始まりのチャイムを聞く前に、俺は教室を飛び出した。向かうは先輩の特等席、学食である。いつもとおなじように力うどんを食べている先輩を見つけ出すと、さっそく俺は話を切り出した。七夕でみんな集まるので先輩もどうですかと。
「ごめんなさい。お誘いは嬉しのですが。今日はちょっと」
「いえ、用事があるならそちらを優先してください。ところで、何の用事ですか? 差し支えなければ教えてくださいよ」
「はい。今日は出版社の方がお見えになるんです」
 先輩が趣味で書いている絵本を、友人が先輩に隠れてこっそりと絵本のコンクールに送ってしまったらしい。そして、先輩の作品は見事当選したのだ。絵本作家になるつもりはなくて最初は恥ずかしがっていた先輩も、しぶしぶ会うだけならということで了承したらしい。
「凄いじゃないですか!」
 本当なら、先輩の絵本が出版されることになるかもしれない。
 先輩は照れながらも嬉しそうだった。わたしの本を、たくさんの子供たちが見てくれるのだとしたら嬉しいな。そういって先輩は笑った。

「というわけで先輩は無理なんだ」
「わ〜。先輩は作家さんになるんだ」
「うまくいったら先輩をお祝いしないとね」
 そんなことを言い合っていると、誰かが教室のドアをノックする音。ガラガラと音を立てて雪希が教室に入ってきた。
「おうい、こっちだ」
「遅れてごめんなさい」

 雪希にも先輩のことを教えてやると、我がことのように喜んでいた。
 雪希も揃ったので、弁当のふたを一斉に開く。
 妹特製の弁当をほおばりながら、俺はふと気になって尋ねた。
「そういや雪希、今日遅れたのはどうしてだ?」
「ごめんなさい」
「もう謝らなくていいから」
 このように、雪希は真面目な生徒さんである。あらかじめ遅れそうだと分かっていれば、朝の時点で何か言ってきたはずだ。
「実はね、四時間目が体育だったの。グラウンドでサッカーをしていたら、熱中症でバタバタ人が倒れ始めて、もう大変だったよ」
「そういや、進藤がいないな」
「うん。進藤さんも倒れちゃって。それも、一番走り回っていたからなのか、早退までしちゃったの」
 うおっしゃあ! 俺はガッツポーズをとった。
「あのねえ、健二……気持ちはわかるけど、人の不幸を喜ぶのはせめてこっそりとやりなさいよ」



 そして、待ち合わせの六時半。俺と雪希、日和は清香の到着を待っていた。
 ひそかに浴衣を期待していたが、二人とも普段着のままだ。

「待たせちゃったか。ごめんね、日和、雪希ちゃん」
「遅いぞ、清香」
 声のした方向に眼を向けると大きな黄色の布が目の前に広がった。
「おお、こんなところに短冊が! いくらでも願いを叶えてくれそうだな」
 俺はマジックペンのキャップを開いた。キュポッと小気味のよい音が鳴る。そして、目の前に広がる黄色の布に――
「やめい!」
 はたかれてマジックは地面に落ちた。
 もったいない。さっき百円ショップで買ってきたばかりなのに。
「まったくもう」
 マジックを拾って、改めて俺は清香の姿を見回した。
 ついさっきまでリボンのせいで気づかなかったのだが、お祭りといえばこれ、浴衣を着込んでいた。手には明るい色の扇子を握っていて、少しだけ大人びた雰囲気だ。
「な、なによ。何か言ったらどうなのよ」
 つい、まじまじと見つめてしまった。
「似合ってると思うぞ」
「何よ! って――え? あ、うん……」
 落ち着かない。けど、離れたくもない雰囲気。
「けんちゃ〜ん、はやく〜〜」
「お、おう。今行く!」
 呪縛から解き放たれた感じだった。俺と清香は日和たちを追いかける。



「それはそうと、その手に持っているのは扇子だよな?」
 清香が右手に持っている扇子を指摘すると清香はいいところに目をつけたわね、と俺を褒めた。
「もうすっかり夏じゃない。だから夏らしい装いをしようかなと思ったのよ」
「その扇子、清香さんにとっても似合ってます」
「そう? ふふーん」
 清香が上機嫌で扇をばっと広げる。一瞬、朝顔が花開いたような錯覚を覚えた。涼しげな雰囲気の絵が肌にまとわりつく熱気を忘れさせてくれた。リボンのセンス以外は確かなんだよな、こいつ。
「だからといって扇子というのはおばさんくさいぞ」
 俺の悪口にひるむどころか、清香はあきれ顔で、
「健二にこの良さがわかるとは思ってないけどね」
と言う。
「絵柄は気に入っているんだけど、なあ。どうも扇子というと中年以後の持ち物に思えるんだよな。年頃の女の子なら、やっぱうちわだろ。な、日和?」
 日和に尋ねる。返事が返ってこないので転びでもしたかと後ろを向くと、日和の姿は消えていた。迷子という最悪の可能性をなるべく考えないようにして日和はどうしたと雪希に聞くと、
「日和ちゃんなら、ほら帰ってきた」
「お〜〜〜い。けーんちゃ〜〜〜ん」
「手に持っているのは・・・・・・あら?」
「はい、けんちゃん。うちわだよぉ」
 地元商店街の怪しげなシンボルキャラクターの入ったうちわを渡される。
「ぱたぱた〜。ぱたぱた〜。すずしいね〜、けんちゃん」
 子供のようにというか、まったくもって小さな子供そのものの表情で、嬉しそうに自分をあおぐ日和。
 隣で清香がにやにやと笑っているのを雰囲気で感じる。
「年頃の女の子なら何だって?」
 俺は答えず、うちわを持ち変えると角で日和の頭を叩いた。



 金魚すくい、型抜き、射撃と定番のメニューをこなした俺たちは一休みして食事を取る。辺りを見回していると、去年まで無かった出し物に気づいた。
 夏の定番とも言える、おばけ屋敷だ。七夕には似合わないが、腹ごなしにはちょうどいい散歩になるだろう。
「え〜〜〜」
 日和先生はご不満そうだ。大丈夫だよ日和ちゃん、私が一緒だからと雪希が慰めている。どっちが年上だかわかったもんじゃない。
 でも〜、と、しぶる日和の説得は雪希に任せて、清香の意見を聞く。
「いいんじゃない」

 先行は雪希&日和ペア、後攻が俺と清香と決まった。
 俺はここに至って怯えている日和の背中に近寄ってささやいた。
「おや、こんなところに。何か人の手みたいなものが見えるな」
「うわ〜〜〜ん」
 慌てた日和はダッシュで屋内に駆け込んでゆく。もちろん、屋内とはお化け屋敷のことだ。
 手洗いから帰ってきた雪希に日和が既におばけ屋敷に入ったことを告げた。
 雪希はじっとりとした目で俺を見た。何も言わなくとも事態を推測したのか、ため息を一つついて、雪希は走り出した。
「あとで日和ちゃんに謝ってもらうからね」
 おばけ屋敷に消える雪希を見送ってから清香に声をかける。
「さてと、それじゃ俺たちも入るか」
「そうね」
 清香が指しだした手をとって、俺たちはおばけ屋敷の門をくぐる。
 神社の離れを改装した屋敷は必要最小限の明かりで照らされていた。なんとか足下は見えても、先は見通せない。これも一つの理想的な形かもしれない。
 しばらく歩く。そろそろかなと思ったとき、何かを踏んだ感触を得た。意識せずに口に出す。
「なんか踏んだかな」
「ちょっと、やめてよ!」
 清香の手が強く俺の手を握ってきた。
「いて」
「あっ、ごめん」
 ぱっと手を放したかと思えば、おそるおそる手をつないでくる。
 この反応からすると、おばけ屋敷を怖がっているらしい。指摘しても逆効果だろうと考え、俺は片手でポケットからライターを取り出した。
 ライターの明かりを目の前に掲げて、清香が落ち着くまで俺は待った。
「緊張しなくても大丈夫だって。みんな偽物なんだから」
「そう分かっていても、怖いものは怖いんだって……あ」
 清香の失言については聞き逃したふりをする。
 ライターを足下に近づけながら俺は説明した。
「たとえばこれだって、ただ人が倒れているだけであって」
 説明しながら、ライターを動かして倒れている人間の頭を探した。体の向きさえ分かれば簡単に頭の位置は推測できる。
「ほらな」
 倒れた男の顔から血が流れていた。
「ひっ」
「落ち着け清香!」
 逆効果だったと舌打ちしながら、俺は清香を抱き寄せた。
「血糊に決まってるだろ」
 片手で清香の腰をかかえながら、もう片方の手を血に浸す。そしてそのまま、俺は指についた血をなめた。錆くさい味が広がる。正真正銘の血の味だった。
 そんな馬鹿な!
 思考が混乱してゆく。どうして、男は倒れたままなのだ? アトラクションなら、ここで起きあがって俺たちを驚かすのではないのか? まさかおばけ屋敷という死角を利用した殺人事件なのか。
「う〜ん」
 際限ない思考の飛躍は足下の人間の声によって遮られる。
 俺は大丈夫かと声をかけた。男は大丈夫そうだった。笑いながらこんなことを言った。
「どこに人間に助けられるおばけがいるんだよ」
「ここにいるじゃないか」
「違いない」
 ひとしきり笑い合った後、俺は事情を聞いてみた。
「いや、それが女の子を驚かそうとしたら顔面にパンチをくらってさ。相手もだいぶパニックしていたみたいだけど、あれはないよなあ」
 血は血でも鼻血だったようだ。
「ところでお二人さん、随分と見せつけてくれるじゃないか」
「え?」
「あ?」
 俺は清香を抱き寄せていたことを思い出した。熱くなった頬を感じ、ここが暗闇でよかったと思った。「いいじゃないか。彼女は怖がっているようだし、そのまま進んだ方が彼女も安心するだろう」
 名案だろうと同意を求めてきた不器用なウインクに親指で答え、俺たちは先に進んだ。

 おばけ屋敷は阿鼻叫喚の地獄絵図さながらだった。
「驚かそうと前に出たら、女の子がこけたところに出くわしてさ」
「泣きながら走る女の子にやられたのかって? 違うさ、その女の子は見逃してあげたよ。
 次に来た女の子を取り囲んだんだ。そしたら、急いでいるんで失礼しますって逃げようとしたんだ。
 こちらも商売だから、逃がさないふりをした。ふりだったんだよ。なのにその子ときたらどこからかテニスのラケットを取り出してきて、あとは言わなくても分かるだろ? 俺の顔についた網の目の跡を見ればさ」
 被害者を見かけるたびに俺たちは平誤りするしかなかった。
 この調子でおばけ役は全員グロッキーなので、清香は調子を取り戻していた。

「うわ〜〜ん」
 おばけ役に配られたレシーバーから、世にも情けない声が響いてきた。
 こんなにはっきりと聞こえたのは初めてだ。レシーバーの先から慌てた男の声が響く。
「目標H2は従業員通路から本部へ向けて進行中!」
「二重三重に隠してある通路がなぜ!」
「きっと、本能的に人がいる場所へ向かったんですよ」
 無責任に俺は論評する。
「目標K・Yはどうした!」
「目標K・Yは出口付近にて目標H2を捜索している様子!」
「よし、出口を封鎖しろ!」
「ラジャー!」
「うわ〜〜〜ん」
「目標H2接近中、遭遇します! ぐわっ!」
 ザーーーーーーーーー。
 おばけ屋敷の従業員の皆さんに多大な損害を与え、泣き疲れた目標H2は眠りに入った。
 町内の歴史で、ただ一度開かれたおばけ屋敷は、都市伝説となったというがそれは後の話。



「さあ、願いを書いて今日は帰るか」
「そうね」
 まだ早い時間だったが、これ以上騒ぐ気力もしくは度胸は俺にはなかった。
 神社の受付で短冊とボールペンを人数分もらって、それぞれに渡す。
 いざとなると、なかなか文句が思いつかなかった。
 頭を抱えていると雪希ができあがったようだ。
「雪希、どんなことを書いたのか見せてくれないか?」
「駄目だよ。人に見せたら願いが叶わなくなっちゃうよ」
「それって別の風習じゃなかったか?」
 俺は誰にも願いが見えるようになっている短冊の束を指さした。
 雪希の短冊には「県大会優勝」と書かれていた。頑張れよ、と声をかけて俺は日和に近づく。
 ささっ。
 俺の接近にめざとく気づいた日和が短冊を隠した。
「おい、日和」
「なあに〜、けんちゃん?」
「見せろ」
 後ずさる日和を追いかける。そのまま進んだ先には、清香が座る椅子がある。
「よし清香、日和の短冊を取り上げろ!」
「はいはいっと……」
「あ。清香ちゃん。か〜え〜し〜て〜」
「なになに。わたしをいじめるけんちゃんに天罰が下りますように? 日和、あんたなかなかやるわね」
「わ〜わ〜わ〜」
「ひ〜よ〜り〜〜〜」

 ひとしきり日和で遊んだ俺は清香の短冊を覗き見た。
『今年も幸せでありますように』
「平凡だな」
「人の願いを見ておいて、それはないでしょ。それとも、何か文句あるの?」
 俺は清香の短冊を奪って丸めて捨てた。
「ちょっと、健二!?」
「悪くない願いだけどさ、ちょっと足りないよな」
 さらさらさらっと。
「これでどうだ?」
「相変わらず、ひどい字ね」
「それはひとまず忘れてくれ。願いの内容についてはどうだ?」
「そうね。悪くはないわね」
 そう言うと、清香は俺の横に座る。顔を俺の肩に乗せた。
「おい、人前だぞ」
「なによ、あんたの願い通りにしてあげただけじゃない」
 反論しようと口を開いて、けれど、すぐに俺は口を閉じた。
「そうだな。もっと近くに来いよ」
「うん」
 俺たちは二人で、願いをこめた短冊を笹に捧げた。

『今年は去年より、もっと幸せでありますように』

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