スチャラカもくれんタマスダれ
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Vulgare Geschmackwelt

 五月にしては記録的な暑さだと伝えるニュースを支援するように窓から差し込む強い光をカーテンで遮断して、小町つぐみはホログラムの映像をオフにした。ホログラムの代わりに目に飛び込んできた映像に、やはりニュースでも見れいればよかったかとつぐみは陰鬱に思った。
 どこまでも横並びの席が並ぶ船内に人が押し込められるようにして座っていた。飛行機と違って、船の座席には手すりが無く、個人の空間という概念は存在し得ない。看板の上に出ればかなり違うと分かってはいるのだが、あいにくと、つぐみは日光が苦手だった。
 たとえ、船内ではタバコの副流煙を吸うことになるとしても、日光よりはましだとつぐみは思っていた。この時代、ニコチンなど有害物質が取り除かれているとしてもだ。
タバコの煙に刺激されてか、ポケットの中で暴れる相棒に噛んで含めるようにつぐみは言った。
「チャミ、お願いだからじっとしていてね」
 そう、太平洋に浮かぶ海洋テーマパーク『LeMU』へ向かう船に、小町つぐみの体は飲み込まれていた。その理由は一ヶ月前に遡る。

 自分に声をかけてきた女性を、小町つぐみは完璧に無視した。そのときの彼女の虫の居所は悪かった。最悪だと言ってもいい。ただ怒っているだけではなく、ある種の諦念もそこには潜んでいた。
 キュレイ・ウィルス。未だ人類にとって未知の要素であるそれは、人体に劇的な変化を引き起こす。自然治癒能力の異常な増大、反射能力の大幅な向上、そして人類最後の夢、不老不死。彼女はキュレイ・ウィルスの保持者だった。
 今日のつぐみの機嫌の悪さもキュレイ・ウィルスに起因していた。工場に出勤したところ、どこからかは知らないが、彼女が人間ではないという噂が広まっていたのだ。
 嘘だろうと確認を求めた同僚につぐみは答えた。
「私は人間よ」
 日常と変わらぬ作業をこなしながら、つぐみはこの町を去る決心を固めた。同僚の気持ちを裏切ってしまうことは心残りだったが、そもそも彼女はキュレイ・ウィルスの保持者としてとある企業に追われる身だった。
「怪しい者じゃありません」
 そう言って女性はしつこくつぐみを追いかけた。宗教にしてもあまりにしつこいので、仕方なく振り返ると女性は一つの封筒を差し出していた。
 つぐみはしげしげと女性の表情を観察した。年は24から28歳、理知的な面持ちに眼鏡をかけていた。すらりと引き締まった体を白いスーツで包み、見る者の気持ちを和らげる笑みを浮かべていた。初対面の人間に向けるものとしてはなれなれしくはあったが。
「教会へのお誘いならお断り」
 女性はいえいえと手を振って、
「お誘いはお誘いなんですけど」
 去りかけたつぐみを、次の言葉が鋭く射抜いた。
「我が社が誇る海洋テーマパークに小町つぐみさんをご招待しようかと」
 『LeMU』――その単語を思い浮かべた瞬間、つぐみは反射的に女性を羽交い締めにした。つぐみの凶行に通行人が悲鳴を上げる。
 周りの環境を一切遮断し、つぐみはぎりぎりと女性の締め付けを強くしていった。
「あなた、ライブリヒの社員ね。私が誰か知っていて顔をさらしに来てくれたのかしら?」
 これまでつぐみを執拗に追いかけていた黒スーツの男達と、女性の雰囲気はまったく異なっていた。猟犬の匂いを発散している黒スーツに対し、女性は見るからに研究者然としていた。
「それはもちろん。小町めぐみさんでしょう? キュレイ・ウィルスの保持者。私の研究のために、あなたが必要なのです」
「ふーん」
 めぐみはうっすらと陰惨な笑みを浮かべた。
「私をどうするつもりかしら? 首を跳ねとばす? 心臓を止めて何時間で回復する試す? それとも……」
ライブリヒがめぐみに行った「実験」の数々を列挙するめぐみ。女性は首を振ると、
「そのような野蛮な実験ではありません。私があなたに望むのは、あなたが『LeMU』へ来てくださることだけです」
「そんな言葉が信じられると思っているの? それに残念だけど、罠と知りながら罠に飛び込んでいく趣味はないわ」
「そうでしょうね。でも、そこにあなたの子供達がいるとしたら?」
 はったりと切り捨てるには、あまりにも魅力的な言葉につぐみの心は揺れた。見透かしたかのように、女性が歌った。つぐみが子供の頃聞いていた、そして、子供達に聞かせていた子守歌を。
「長弓背負いし月の精……夢の中より待ちをりぬ……」
 女性は子守歌を歌い終わると、いい歌ですねと付け加えて、
「物心もついていなかったでしょうに。あなたが子供達を愛していた気持ちが伝わったのでしょうか」
 そのとき確実に、つぐみの注意力は落ちていた。つぐみが左の太腿に鋭い痛みを感じて視線を下に向けると、女性の手に握られた注射針が太腿に密着していた。ふっと、つぐみの世界が崩れ落ちる。
 気を取り戻したとき、つぐみは警察署に寝かされていた。落とし物を拾ってくれた相手に危害を与えるとは何事だ、酔っぱらっていたんじゃないのかとつぐみは身に覚えのない行為で警官に責め立てられる。
「落とし物?」
「そんなことも忘れちまったのか。そうそう、上着のポケットに入れたと言ってたぞ」
 上着の裏ポケットに入っていた封筒は女性が持っていた封筒だった。封を開けて中を確かめると、『LeMU』行きの旅行券と『LeMU』のチケットが入っていた。旅行券の日付は5月1日。忘れもしない、あの一週間の最初の日。



 船を降りて最初に目にしたものは、『LeMU』のエントランスゲートに繋がる果てしない長蛇の列だった。人、人、人で埋め尽くされたインゼル・ヌルを呆気にとられて見つめているつぐみは後ろをあるく男性に早くしろと怒られた。前方からプラカードを持った女性が歩いてくる。女性の胸には、船の客室係がつけていたのと同じ『LeMU』のロゴがあった。つぐみは再びプラカードに目を移す。
「まことに申し訳ありません。入場までに二時間ほどお待ちいただきます」
 プラカードの文字は印刷された文字で「最後尾 入場まで」、そこから汚い文字で「2」、再び機械的な文字で「時間」と記されていた。
 つぐみは空を見上げた。雲一つない晴れ渡った空の下、三時間ほど待ちぼうけなけれならないらしい。これも自分の過去を調べるためと気合いを入れて、一時間後。
 タヌキのぬいぐるみに手を引かれて、つぐみは救護室に向かって歩いていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
 ライブリヒの手先に助けられるなんて、とつぐみは自分のみを呪った。ここはライブリヒの施設であることを思い出せ。喋るな、言うな、聞くなを実践して口数が少ないめぐみを、体調が悪いのだなとタヌキは考えた。
 やがて二人は救護室にたどり着いた。暗い視界で辺りを見渡したつぐみはその場の光景に圧倒された。たかがテーマパークの救護室とは思えない最新鋭の医療設備が設置され、室内は隅々まで清潔さを保っていた。
 タヌキが得意そうな口調で話す。
「おどろかれましたね? さすが、天下のライブリヒ製薬といったところでしょう。すごいのは設備だけじゃありませんよ。専門の資格を取った医師が常駐していますし、医師の卵の研修所としても使われています。何を隠そう、僕もそのクチなんです」
 手先というわけではなかったらしい。つぐみは口を開いた。
「それにしてはタヌキのぬいぐるみなんてかぶっているけど?」
 タヌキは頭をかいて――顔が見えないからそういったジェスチャーが発達したのだろう、
「バイトです。こっちの方が給料がいいんですよ。世の中間違ってますよね」
 タヌキはつぐみを係に渡すとどこかへ行ってしまった。係は手早くつぐみの脈を取ると言った。
「熱中症みたいですね。ベッドに横になっていればよくなりますよ」
 未だ集中できない頭を抱えてつぐみは考えた。回復した後、日差しの中に長時間いればまた倒れるだけだ。それどころか、何度も倒れていたら不審がられるだろう。どうにかして列に並ばずに『LeMU』に入る手だてはないものだろうか。
「どうしよっか、チャミ」
 チャミの頭を撫でていると、ふいに名案が頭に浮かんだ。
 計画はこうだ。まず、タヌキのぬいぐるみを奪取する。ぬいぐるみを着てしまえば、外からは中に入っている人間が誰であるかわからない。あとはスタッフのふりをして『LeMU』内に入り、『LeMU』内のどこかでぬいぐるみを捨てる。
 あとは行動あるのみだ。さっそくエントランスゲートに向かい、気圧室の中の様子を覗き込んでスタッフの動きを観察した。幸い、エントランスゲート近くには日よけがかかっている。結果、スタッフの仕事は天井の照明のオン/オフだけであることが判明した。
 仕事の交代のためにエントランスゲートから出てきたタヌキの後をつけていると、タヌキは更衣室に入っていった。ただし男性用。声から中に一人しかいないことを確認すると、羞恥を捨てて部屋の中に飛び込み、男性をKOしためぐみは素早くぬいぐるみを着込んで更衣室を立ち去った。
 すべては万事うまく運んでいるように思えたのだが。
「ウーッ……ウーッ……ウーッ……」
 更衣室のある建物から出た途端、何者かにつかまった。従業員かと思い振り返っても誰もいない。よく耳を澄ませると、奇声は下から聞こえていた。視線を向けた先には、白い……たぶん犬と、一人の少女がいた。奇声を発しているのは少女の方だ。
「何してるの?」
 つぐみはできるだけ優しい声で尋ねたが、少女は答えない。
「邪魔。離れなさい」
 今度はきつく言ってみた。犬と少女は依然として離れようとしない。
 めぐみはため息をついた。すると、一人の青年と目があった。つぐみは囁いた。
「ねぇ? この子達、なんとかしてくれない?」
「ウーッ……ウーッ……ウーッ……」
 青年は答えない。それどころか焦点が合ってない。気のせいだ、幻覚だと呟いてもいた。頼りになりそうにない。犬と少女は離れない。めぐみは諦めて、そのままエントランスゲートに入っていった。



 気圧室での20分の待機時間が終わり、めぐみは一般客にまぎれて『LeMU』の地下一階、エルストボーデンに乗り込んだ。めぐみは先ほどの茜ヶ崎空が行った『LeMU』の説明を思い出した。『LeMU』が地上一階、地下三階の構造になっていること、『LeMU』が採用している飽和潜水仕様について、果ては各アトラクションにおける注意事項など。
 よどみない口調で話す間に空は一度もめぐみを見ようとしなかった。空が17年前の事を覚えているのであれば、他の客には分からないようにつぐみに微笑んでいただろう。それをしなかったということは、あの事故のために記憶にリセットをかけられてしまったのだろう。そう頭では理解していても、忘れ去られたという想いは消えなかった。
 つぐみは『LeMU』の案内図を覗き込んだ。空の説明を聞いていて、不思議に思った点がいくつかあったからだ。17年前の事故の原因の一つとなった『飽和潜水仕様』に改善が見られないのは何故か。事故そのものが隠蔽されているとはいえ、改善をしてもよいはずだ。もしかしたら、予算をかけたくなかっただけかもしれないが。 そして、もう一つ。
「やっぱり」
 つぐみの知る『LeMU』と構造が全く同一である、というだけではない。救護室の位置から各アトラクションの配置まで17年前のそのままだ。新しいアトラクションが付け加えられていてもよさそうなものではないか。そして、チケットで指定された日はあの5月1日だ。つぐみはそこに何らかの悪意を嗅ぎとった。
「まったく、悪趣味なことね」
 物思いに沈んでいたつぐみは、足の辺りで何かが引っ張られていることに気づいた。小学生にも満たない子供がぬいぐるみの足にしがみついていた。
「みゅみゅーんたん」
 そういえば、このタヌキの名前はみゅみゅーんだった。
「みゅみゅーんたん、お願いがあるの」
 かがみこんで、少女と同じ高さに視線を合わせてからつぐみは尋ねた。
「どうしたのかな?」
「あのね、お母さんとはぐれちゃったの」
 ぐずった声と泣きそうな顔で少女は訴えた。少女と、自分が助けられなかった子供たちの姿が重なった。つぐみは少女の頭を撫でて言った。
「よしよし、みゅみゅーんに任せなさい」
 案内図によれば、子供預かり室はエルストボーデンに存在していた。
「ちょっと待ってて。すぐにお母さんを呼び出してあげるから」
「うん……」
 子供たちとこんな時を過ごす未来もあったのだろうかと、思わず思ってしまった。長い間、つぐみは子供達のことを頭から閉め出して生きていた。そうしなければ生きていけなかったからだ。しかし――。
 忘れてごめんね。ぬいぐるみで隠されていたのを幸いと、めぐみは涙を流していた。

「ばいばい、お姉ちゃん」
「ばいばい」
 母に連れられて歩く少女につぐみは手を振り返した。
 どうやら今回もばれてないみたいね、とめぐみは呟いた。少女が離れようとしないため、ずっと預かり室で待機していたのだ。その間ずっと、他人の名前で呼びかけられはしないかとひやひやしていた。
 さて、さっさとぬいぐるみを脱いでしまおう。今度こそ、更衣室があるツヴァイトシュトックへとめぐみは歩き出した。



 誰かに呼ばれた気がして、めぐみは振り返った。
「あーーーっ、ママだぁ!」
 がしっ、と飛びついてきた少女はめぐみを抱きしめると頬ずりした。周囲の客からくすくすと笑われていることも気づかないほどめぐみは動転していた。ママって私のこと? 私に子供なんていないわ。それに、この少女にだって見覚えが……あった。ぬいぐるみに噛みついてきた犬に噛みついていた少女だった。
「ああもう、離れなさい!」
「はぁーい」
 残念そうな声を上げて少女はようやくつぐみの体から離れた。にこにこと笑う少女はこんなことを言った。
「ねえねえ、ココの米っちょ、聞きたくない?」
「聞きたくない」
 米っちょ、という言葉に聞き覚えはなかったが、どうせまともなものではないだろうとつぐみは判断した。強く断られたはずの少女はしかし、なかなかしつこかった。
「えーーー? ちょーーー面白いって友達にも褒められたのに?」
「いいから。他の人に話してきて頂戴」
「うーん、どうしてか今日はココの米っちょを聞いてくれる人がいないの。だから、初めにママに聞いてもらおうと思って」
 体の調子が悪くないのに景色がゆらぐというのはつぐみにとっても初体験だった。ぐらぐらと揺れる脳みそが外に飛び出さないように押さえながら、つぐみは指摘した。
「誰があなたのママなのよ」
 びしっとココはつぐみを指さした。本当のママとやらに躾をしなおすよう言ってやりたい気分にかられるつぐみ。いらいらをなんとか押さえてつぐみは反論した。
「私はあなたのママじゃないし、それはあなたも知っているはずよ。どうして私をママなんて呼ぶの」
「あのね。ママがいない人は、ママっぽい人をママと呼んでもいいんだよ。知らなかった?」
「あなた、母親がいないの?」
 そういった子供はどこか暗い影を背負っていたりするのではないか。偏見に近いつぐみから遠く離れたところで、少女はにこにこしている。
「今頃はホテルで論文を仕上げてるんじゃないかな」
「……それは、ママは生きているってことじゃないの?」
「うん、そうだね。ママは元気です」
 本格的に頭痛を感じ、つぐみは手近の壁によりかかった。
「ママ、大丈夫?」
「だから、私はママじゃないと何度言ったら……」
「あのね。ママがいない人は、ママっぽい人をママと呼んでもいいんだよ。ヨハネスブルク宣言でそううたわれているんだから」
「なによ、そのヨハネス……なんとかって」
 少女は突然めじめぶった顔で、
「ヨハネスブルク宣言。2002年9月4日、南アフリカの都市ヨハネスブルクで開かれていた「持続開発可能な開発に関する世界首脳会議」。かっこ、環境・開発サミットかっことじ。で採択された宣言。宣言の要旨は次の通り」
「それとママっぽい人とどういう関係があるの?」
 いつまでも続きそうなココを遮ってのつぐみの言葉にあっさりと答えるココ。
「ないでーす!」
「はあーーっ」
「元気がないね、ママ?」
「誰のせいだと思っているのよ……」
 ココは首をかしげた。自分が原因だとは少しも考えていないその様子に、つぐみはもう一つ、大きなため息をついた。



「ああ、すいません! 乗ります!」
 そう言って、彼はエレベーターに乗り込んできた。ドアが閉じて、ふわりと浮くような感触を残してエレベーターは降り始める。ふとした拍子でつぐみと青年の目があった。どこにでもいそうな普通の青年だ。
「ここ、従業員用のエレベーターよ」
自分は従業員でもないのに、つぐみはそう言い放った。
「ええ? そうだったのか?」
 もしかしてまずいのかな、と呟く青年に興味をなくしたつぐみはエレベータの深度表示に目を向けた。
 35m…40m…45m…50m……。
 ――ガンッ!
 強烈な衝撃とともに、エレベーターが止まった。天井の照明が気弱げに明滅する。
「まさか……」
 けたたましく鳴り響くサイレンの音の合間に、たくさんの悲鳴や足音が鼓膜をうつ。
「まさかって、何か知ってんのか!」
「知らないわ」
 にわかに取り乱した青年に冷たい目を向けてつぐみは答えた。そう、知らないはずだ。しかし、自分は知っている。これから何が起こるかを。
 つぐみの記憶をなぞったかのように、照明は徐々に弱まっていき、やがて消えた。
「おい、開けてくれ。俺たちはここにいるんだ!」
 つぐみの記憶をそっくりなぞって、彼ではない青年が彼ではない声で必死に叫んでいた。ありえない。ありえない。つぐみの脳裏をその単語が何度も巡る。つぐみの記憶そのままに、事は進行していた。そう、例えば――。
「気圧が……低下してる……」
 つぐみの言葉で気づいた青年は、耳抜きをする。逃げ道を作ろうとドアをたたきつけた。ドアが歪み、僅かな光が漏れ出した。そこから抜け出そうと、彼はドアをこじ開ける。

「……おい。おい、しっかりしろ!」
 自分を揺さぶっている青年の手をつぐみは跳ねとばした。
「いきなり何すんだよ」
 更に文句を言おうとした青年はつぐみに睨みつけられて言葉を萎ませた。
「わたしに触らないで」
「はあ?」
 つぐみは青年をじっくりと観察した。青年を一通り見ての感想は、彼に似せてある、だった。
「それに。あなた、何者?」
「はあ? 何者って言われてもなあ……」
 つぐみは青年を無視して走り出した。
「おい、どうしたってんだよ!?」
 後ろから聞こえてくる青年の声を無視して、つぐみは階段を登る。目指すは、イルカをモチーフにしたアトラクション、カエサル・ドルフィン。

「おい、どうしたってんだよ」
 青年はつぐみの場所を早々に探り当てた。あまりにも早すぎる青年の到着は、17年前の事故のこと知るライブリヒの人間であることを示していた。
 青年の言葉には答えず、つぐみはただ前を向いていた。イライラを沈めるために、かち、かちとペン――のかたちをしているもの――を鳴らしているとやがて、目の前から見覚えのある少女が走り込んできた。
「生存者、発見ーーー!」
 少女は『LeMU』の係員の制服を着ていた。勝ち気そうな瞳の上に亜麻色の髪が乗っている。遅れて、もう一人の少女が飛び込んできた。こちらは学校の制服とおぼしき服を着込んでいる。二人目の少女に見覚えがなかったことに、つぐみは微かに安堵した。
「せんぱぁい、いきなり走り出さないでくださいよ……あれ?」
 遅れてやってきた少女の視線はつぐみに……いや、つぐみが先ほどから持っていたペンに目を向けていた。つぐみが少女の顔に視線を向けると、少女の顔色が青ざめていた。
「どうしたのよ、マヨ」
「いえ……なんでもありません」
 係員の少女は深く聞き出そうとはしなかった。つぐみがペンをかち、かちと鳴らすごとに、マヨと呼ばれた少女の体が震える。
「それでは自己紹介をば。私の名前はは田中。田中優。本当はもっと長い名前なんだけどね。めんどうだから、優でいいよ」
 田中優……舌の上でその名前を転がす。これは何の冗談なのか。
 優は制服の少女を前に突き出すと、催促した。
「ほら、マヨも挨拶しなさい」
「あ、はい……。松永沙羅です。よろしくお願いします」
 沙羅はさきほどからずっと、非難するかのような目線でつぐみを見つめていた。勝ち気そうでいて、守ってもらわないと崩れてしまいそうな脆さを沙羅は持っていた。つぐみと、同じように……。
 つぐみの脳裏に、ライブリヒの人間から言い渡された言葉が頭に浮かぶ。『そうでしょうね。でも、そこにあなたの子供達がいるとしたら?』。感覚でわかる。この少女が自分の娘なのだと。でも、どう挨拶しろというのか。子供を守れなかった、無力な母親が今更何を言えるのだろう。
「俺の名前は――」
「あ、あんたは後でいいから」
「なんだよ、それは!」
「そっちの女の人、自己紹介をどーぞ!」
 しばし迷い、つぐみは一言だけ口にした。
「小町めぐみよ」
「聞き覚えのある名前?」と優は小声で沙羅に確かめた。沙羅は
「何言ってんですか。私を少年と勘違いしてるんじゃないですか」
 と答えた。少年――ここに姿を見せていないが、もう一人いるらしい。少年を入れて、六名。17年前と同じ人数だ。ライブリヒは何を考えているのだろう。
 そこに突然、ドレス姿の女性が飛び込んできた。まっさきに気づいた優が女性の名を呼ぶ。
「空、無事だったのね」
「はい。おかげさまです」
「じゃ、空も自己紹介頼むわね」
「はい。それでは、自己紹介させて頂きますね。私は茜ヶ崎空。『LeMU』の開発室室長代理ということになっています」
「お偉いさんなんだな」
「たいしたことありませんよ。ええと……どなたでしたっけ」
 すかさず優が全員の名前を列挙し始めた。
「私は説明しないでいいよね。で、この子が沙羅。私の可愛い可愛い後輩なのだ。そして、向こうにいる女の人が小町めぐみさん。あと、ここにはいないけどドリットに少年が一人」
「あ、他にもいらっしゃるんですね」
「一人だけだけどね。それじゃ、少年も私たちの帰りを待ちこがれているだろうし、ドリットシュトックに向かいますか!」
 空と優とのやりとりの間、沙羅はずっとつぐみを見ていた。身を切られる思いで、つぐみはその視線を無視して歩き出す。
 歩き出したつぐみたちに向けて恨めしそうに青年が言った。
「おい、優……」
「あ、どうしたの? さっさと行かないとお腹も減ってきたし、ねえ沙羅」
「……え? あ、そういえばそうですね」
 場の雰囲気を打ち破って、青年が叫ぶ。
「俺の名前を紹介させないのはわざとだな。そうなんだろ」
「ああ、そういえばあなたのお名前はまだ聞いていませんでしたね」
「どーでもいいんじゃない、そんなこと?」
 青年は膝を抱えていじけだした。
「どうして、ここにいる女はこんなやつらばっかなんだ……」
「あの、……ええと、元気を出してください」
「しっかたないわね。わかったからさっさと自己紹介しなさいよ」
ったく偉そうに、とぶつくさ言う青年。
「先輩。彼おいて先に少年と合流しましょう」
「だあ、待ちやがれ。いいか、俺の名前はなあ」



「倉成、武だ」
 血流が逆流するかのような感覚。『LeMU』内に平手打ちの音が響き渡った……。
「ふざけ、ないでよ」
 それは、彼の名前だった。

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