スチャラカもくれんタマスダれ
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秋のはじめに

 足音を聞いて、足音の持ち主が誰か見分けられると莉織は言っていた。莉織に影響されたのか、いまでは俺もこの家に住む人間ならば足音だけで区別できるようになっていた。
 最もせわしなくてうるさい足音は玲亜。ゆったりと歩いているのにどこか騒々しく聞こえるのは白兎。どっしりとして足音まで風格が漂っているロベルトの足音。以上のどれにも当てはまらなければ久遠だ。
 そして、この家いる家族はも一人。澄んでいるようでいて今ひとつ丁寧になりきれていない、そんあ足音の主だ。
 今日もいつもの時間通りに俺の部屋の前まで来たところで、その足音はやんだ。続いてこん、こんとドアを控えめに叩く音が俺の鼓膜をふるわせた。
 彼女は息を軽く吸い込んで、朝の挨拶を告げた。

「おはよう、夷月」



 朝食までは少し時間がかかりそう、と莉織は最後に付け加えて部屋を出て行った。
 俺は、布団から抜け出して枕元に置いてある目覚まし時計のタイマーを切った。
 この目覚ましはいつから使われなくなったのだろう、と改めて問うまでもない。莉織がこの家にやってきてからだ。
 いつもより念入りに身だしなみを整えてから食卓へつながる居間の扉を開くと、自然と食欲がわいてくる芳醇な香りがただよってくる。
 このにおいなら偶にかぐだけでも幸せになれるのではないだろうか。それが毎日だというのだから、厨房を預かる久遠の努力には頭が下がる。
 莉織や玲亜が手伝っているけれど、俺も手伝うべきだな。

「おはようございます、夷月さん」
「おはよう」
 俺が食卓についたことに気づいた久遠が挨拶してくる。挨拶を返した俺は厨房をのぞき込んで、莉織の姿を探した。
 莉織の姿はすぐ見つかったが、久遠と莉織の二人ともが忙しく動き回っていてとても、声を掛けられる雰囲気ではない。
 手助けを申し出るならこういうときだろう。
「おーい、莉織、久遠。何か俺に手伝えることはないか?」
 と呼びかけても、答えがない。
 もう一度呼びかけようと口を開いたときになってようやく、莉織から返事が返ってきた。
「ありがとう、夷月。でも、もうすぐ終わるから」
「そうか?」
「うん、だからもう少しだけ待ってて」
 という莉織は、俺に返事する間もほうぼうに目を光らせながら調味料やらフライパンやらエトセトラと格闘していた。
 家事をほとんどしたことがない俺があそこに入っても、かえって莉織の邪魔をするだけだろう。それならばせめて、食器の用意をするくらいのことはしようと思い立つ。
 ところが、どの食器を出せばよいのかわからない。莉織に指示された食器がどこにあるのかも分からない。久遠に教えてもらってなんとかやりとげたものの、逆に邪魔をしてしまったみたいだ。
 時刻は7時40分を過ぎようとしていた。
「もう、こんなに忙しいのに玲亜はどうしたの」
 珍しく莉織が愚痴をこぼしていた。
 てっきり玲亜と白兎は先に家を出ていたものだと思っていたが、どうやら違っていたらしい。
「手が足りないわ。誰かナタクを連れてきて!」
 と久遠も珍しく余裕がない。
「夷月さん、玲亜を起こしてきてくださいな」
 久遠に言われるまでもなく、玲亜を起こしに行こうと俺は席を立っていた。

 玲亜の部屋のドアを強めに叩いて、返事をしばらく待った。きっかり2秒待ってから俺は遠慮なしにドアを開けて玲亜の部屋に踏み行った。
 これまでの経験から、眠っている玲亜はドアを叩かれたくらいでは起きないと俺はわかっていた。
 莉織も眠っているときはノックの音くらいでは起きない。そんなところは姉妹だからなのかよく似ていた。
「玲亜、さっさと起きて朝食の支度を手伝ってくれ」
 思うんだが、この部屋に来るたびにぬいぐるみが増えているような。
 二週間前には机の横にいる、飛べない鳥をイメージしたモンスターのぬいぐるみはなかったはずだ。
 ぬいぐるみから視線を動かした俺は、机の上の惨状に目をとめた。
 机の上にはノートが一冊置かれていた。これだけなら感心ものだがあいにくと、ノートの上には文房具が散らばっていた。
 文房具を取りのけて、ノートをめくると見覚えのある公式が目にとまった。
 推測するに、昨日の復習をしている途中に眠くなって、片づけをせずにそのまま布団に潜り込んだといったところだろう。
 ふと、二年前のことを思い出した。予習をしていてどうしても分からなかったところを先輩に教えてもらったときのことだ。

 その日は先輩の両親が家に帰ってこない日に当たっていた。つまりは、先輩とホテルで一夜を過ごす日ということだ。
 その日珍しく、俺は先輩に頼み事をした。授業で使ったノートを持ってきてくれるよう頼んだのだ。契約以外の頼み事をすることはなかったので、先輩は不審そうな顔で俺を見つめていた。今にして思えば、とことんまで問いつめてみたかったのかもしれない。
 変な顔をしたものの先輩は快く了承してくれた。放課後、俺と先輩は商店街で待ち合わせて、商店街をぶらつき、店が閉まる頃にホテルに移動した。
 行為がすんだあとになって先輩は聞いてきた。
「それにしてもどうしたの。突然、授業のノートを見せて欲しいだなんて」
「大したことない。分からないところがあっただけさ」
「分からないところ? どこなの?」
 俺は教科書を開いて問題の箇所を指し示した。
「ここなんだけど」
 先輩は自分ではちょっとやそっとでは解けない難しい問題を目の当たりにしたふうに、形のよい眉をしかめた。
 暫くたっても計算をしる様子のない先輩に俺はしびれをきらした。
「先輩にも分からないなら、しかたないな」
「ちょっと!」
 教科書を閉じようとした俺の手を先輩がはっしとつかんだ。
 先輩としての意地を張っているんだなと単純に考えて、
「いいんだよ、先輩。分からないことは罪じゃない」
「それくらい分かってます!」
 先輩は怒っていた。理由が分からなかった俺は皮肉っぽく言った。
「じゃあ説明してくれよ」
 自筆のノートを適宜参照しながらの先輩の説明は、学校の先生よりも的確だった。俺がどうしても理解できなかった箇所を理解するまで根気よくつきあってくれた。
 説明が終わって先輩は言った。
「毎回学年一位を取る夷月くんにはかなわないけど、私だって成績が悪いわけじゃないんだから」
「なかなか説明してくれないから、分からなかったんだと勘違いしたんだよ」
 素直に感謝をすればよかったのにと、今なら思う。けれど、そのときの俺はガキで、言い訳をするのが精一杯だった。
「だいたいね、どうして本校で使っている教科書について夷月くんが質問してくるの? それは、うちの学校はエスカレータ制で受験なしで入れるんだから、受験勉強しなさいなんて言えないけど、わざわざ来年の教科書を勉強しなくたっていいじゃない」
「付属の勉強なんてつまらないこと、やってられるか。本校の教科書くらいじゃないと張り合いがないんだよ」
 先輩は呆れていた。
 先輩の気持ちが分からないとは言わない。大半がエスカレータ制で進学するくせに、付属三年間の勉強を二年で終わらせるという、受験校さながらのスケジュールを行う付属の教育方針が悪いのだ。
 最後の一年は総合的学習に費やされることになっているのだが、こいつが俺の肌に合わなかった。
 そこで俺は古本屋で本校の教科書を手に入れて来年の予習をすることにしたのだった。
「ふーん、今の付属ってそんな風になってるのね」
「先輩のときは違った?」
「私のときは三年かけて三年分を学習したわ。一年でがらりと変わったのね」
「一年早く生まれていればよかったよ」
 物事の流れで、そのまま勉強会を開くことになった。
 何でもお姉さんに聞いてみなさい、と先輩は胸を張った。

 ふと我に返る。
 物思いにふけって莉織たちの手伝いをさせるために玲亜を起こしに来た、という目的を忘れかけていた。
「玲亜、起きろ」
 膨らんだ布団を引っぱがした後には、誰もいなかった。
 この部屋にいないとなれば、白兎の部屋に決まってる。



 再び食卓に戻ってくるころには、もう朝食はできあがっていた。
 先ほどはいなかったロベルトもちゃっかりと椅子に座っていた。
 食事にはまだ誰も手をつけてないようだ。俺たちを待っていてくれたのだろう。
 なかなか俺が玲亜を連れて戻ってこなかったので、久遠が問いかけてきた。怒っているのかいつもよりきつい口調だ。
「玲亜と白兎さんを呼ぶだけなのに、こんなに時間をかけるなんて。夷月さんまでどうしたんですか」
「悪かった。ちょっとぼうっとしていてな」
「ぼうっと? もしかして夷月、熱があるんじゃ」
 心配そうな顔で莉織が顔をのぞき込んだ。俺は莉織の手を取って、自分の額へ導いた。
「な、熱はないだろう」
「よかった。夷月って、少しくらい熱があっても無理して学校まで行きそうだから。あれ? だったらどうしてぼうっとしていたの?」
 俺の返事は横からの大声にかき消された。
「莉織、ごめん! ほんっとごめん」
 手を合わせて頭を下げる、そんな漫画のような仕草で玲亜は謝った。
 玲亜の後ろに隠れるようにして白兎も部屋に入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
 気まずげに俺を見てから、白兎は自分の席へ向かった。
 白兎が席についても、玲亜はなかなか頭を上げようとしない。莉織が許してくれるまで頭を下げ続けるつもりだろうか。そんな玲亜に莉織も困惑気味だ。
「はい、はい」
 久遠の柏手が食卓の雰囲気を和やかに変える。
「謝罪もいいですけど、さっさと食事を片づけてくださいな。始業まで時間もあまりないことですし」
「さあ、玲亜様も食卓におつきになってください。おっ、今日はほっけの開きですか」
 壁時計に目を向けると、針は7時55分を指していた。どうやら今朝はゆっくりと食事できそうにない。



「行ってきます」
「行ってくるね」
 白兎に並んで玲亜が玄関をかけだしていった。この時刻ならそう急がなくても大丈夫なのに、慌ただしいやつらだった。
 玄関に佇んでいると用意を調えた莉織が駆け寄ってきた。
「用意はいいか?」
「私は大丈夫。夷月こそ忘れ物してない?」
 すかさず久遠はちゃちゃを入れた。
「ハンカチ、ちりかみを忘れないでくださいね」
「忘れるかっ! 行くぞ、莉織」
 行ってらっしゃい、見送る久遠の声を背に俺たちは玄関から飛び出す。
 まだまだ夏を思わせる朝の光が俺たちを照らしていた。

 朝の通学路は、莉織といるだけで全く違ってくる。
 俺では気づかない、気づこうともしない変化に莉織は敏感だった。
 通学路脇にある空き地に咲いているたんぽぽや、上へ上へと伸びてゆく夏を思わせる入道雲のような季節の変化には特に敏感だ。そういったものを見つけると、きまって莉織は俺にほほえむのだった。
「夷月、ちょっと待っててくれる?」
 俺の返事を待たずに莉織はかけだした。道路脇でしゃがんだと思うとすぐ戻ってきた莉織は手に何かを隠して、悪戯っぽく笑った。
「さて、何でしょう?」
 莉織の手のひらに入るくらいのものだから、そう大きなものではない。それくらいの連想は働いても、中に何が入っているのかという肝心なことはひらめなかった。
 俺は白旗を上げた。
「じゃーん。答えは、これ」
 莉織の手のひらには一枚の葉っぱが乗っていた。
 半分は赤っぽく紅葉していて、もう半分は緑色をそのまま残している木の葉だった。もともと弱くて、紅葉の時期についに耐えきれなくなって散っていった木の葉だった。
「この葉っぱを見ると、もうすぐ秋だって思う。夷月はそうじゃない?」
「もう紅葉の季節か。これだけ暑いと、もうすぐ秋だなんて信じられないけどな」
「もう、夷月ったらすぐそうなんだから」
「そうか、秋なんだよな。莉織が来てからもう一年にもなるんだな」
 一年前の俺は家に寄りつかず、ファミレスとホテルをはしごして、夜を明かしていた。そんな生き方が似合っていると思っていた。
 先輩までも自分の生き方に巻き込んでいた俺に違った生き方を示してくれたのは、莉織だった。
「そうだ、紅葉狩りに行かないか? 去年は引っ越してきたばかりでばたばたしていて、紅葉をゆっくり眺める時間もなかっただろ」
「本当ですか? 是非行きたいです」
「電車で一時間ばかりのところに紅葉の名所があるからそこに行こう。二人だけだと寂しいから、白兎たちを呼んでもいいな」
「うんうん。素敵ねえ」
 二人の会話に突然口を挟んでくるややこしい物体。
 いつも眠たげに細められた目、他人の神経の逆なでする四六時中緩められた口元、後ろでさっと髪をポニーテールにまとめている。
「おはようございます、あすりん」
「おはよ、りっちゃん。夷月もおはよ」
「ああ」
「もう、またそんな返事して」
「私、夷月くんに嫌われちゃったのね。りっちゃぁぁん」
「よしよし」
 わざとらしい仕草で凛は莉織に泣きついた。莉織も凛の芝居につきあって凛の頭を優しく撫でる。
 抱きついたまま、抱きつかれたままの姿勢でも二人は普通に歩いていた。そんな器用さは他に使うべきだろうと思ったが、わざわざ口に出したりはしない。
「それよりも夷月くん、紅葉狩りなんて、風情ただよう提案よね。もちろん、私もついていくわよ」
「それはもちろん、あすりんなら大歓迎ですよ」
「げっ」
 思わず本音を漏らしてしまった俺をじと目で見据える凛。
「不満そうねえ、夷月くん」
「お前が家に来るたびに俺の平和が侵されているんだよ」
「そんなことないです。みんなで行った方が楽しいですよ、きっと」
 莉織が俺の顔を見上げてくる。心持ち悲しげに、心持ちうるんだ瞳で。ああ、その顔に弱いんだよな。
「わかった。凛もメンバーに加えよう。ただし、酒の持ち込みは禁止な」
「ええーーっ。お酒なしに宴会を開こうって言うの」
 先ほどとは違って、本気で驚いているようだ。
「宴会なんか開いたら紅葉狩りの雰囲気が台無しになるだろう。花見じゃないんだぞ。特にお前は酒が入ったら何をするかわからない」
「そんなことないわよ」
 忌まわしい過去の出来事などなかったようなすまし顔で凛は答えた。
 俺はきっぱりと言ってやった。
「お前に酒を飲ませたら紅葉狩りがどんぐり拾いになる」
「失礼なこと言うわね」
「どんぐり拾いもいいなあ」
 いがみあう俺と凛をよそ目に、莉織は一人のんびりと紅葉狩りに思いをはせていた。

 莉織は紅葉狩りとどんぐり拾いの両方をやる気になっていた。
 俺はどんぐり拾いなんてガキっぽいことをしたいとは思わなかった。
「どんぐり拾いくらいならロシアだって出来るんじゃないか?」
「それを言うならロシアにだって紅葉はあるわよ」
「ロシアには赤く染まる木は少ないんです」
「ふうん、そうなんだ。たしかあそこはカエデの木が中心だったわね」
「ああ。俺が見た写真では赤く色づいて見事だった」
「楽しみです。そうそう、どんぐりの話でしたね。もちろんロシアにもどんぐりはあります。私もどんぐりを拾ったことはあるんですけど」
 そこで莉織は言葉を切って、恥ずかしそうに俯いた。俺の耳に届くのがやっとの声で、
「そのときはどんぐりの身からパンを作るのが目的で、どんぐりを拾って楽しもうなんて余裕はなくって」
「夷月くん、こんな哀れな女の子の頼みを聞いてあげられないの?」
 どんぐり拾いの日程について話していると前方の集団から小柄な女の子、ちまりが駆け寄ってきた。
 凛に用があるのだと思って見ていたら、ちまりは凛の近くを素通りして俺の背中に身を隠す。
「おい、ちまり。お前何を」
 声をかけようと後ろに振り向く視界の中で、ちまりを追って雄基が近づいてくる姿が目に入った。
 ちょうど、ちまりと雄基に挟まれる位置に俺は立っていた。
「なあに、雄基」
 いっそ攻撃的と言ってもよい口調でちまりは雄基を迎えた。
 小柄なちまりが身を縮ませて攻撃姿勢を取っているとまるで、ハリネズミが針を立てているように見えた。
「なあ、俺が悪かったって。だから機嫌を直してくれよ」
「期限をな・お・し・て・く・れ・よ、ですって? それが一人前のレディに向かって言う言葉? それにその言い方じゃあたしが悪いみたいじゃない」
「悪かったって。もう『チョロ助』なんて言わないからさ」
「その言葉を今まで何回聞いたと思ってるのよ。今度という今度は許せないわ。さあ夷月くん、あの男に言葉の使い方を教えてあげて」
 行け、夷月28号とちまりは叫んだ。
「どうして俺がそんな面倒なことをしなけりゃいけないんだよ」
「幼なじみでしょ? ねっ、あたしを助けると思って」
 幼なじみと言っても、俺とちまりに接点はほとんどなかった。それを言うならば、ちまりと雄基のなじみは俺よりずっと深かった。
 他人の事情に深入りする気はなく、俺は雄基に道を譲ろうとする。
 しかし、俺が動くたびにちまりはちょこまかと動いて常に俺の後ろを陣取った。雄基から身を守りながら、俺の影から挑発を続けることも忘れない。
「えーい、もう面倒だ。夷月、そこをどきやがれ!」
 しびれを切らした雄基が俺を押しのけようとする。自分はいま夜中の裏道を一人歩いている、そんな錯覚が俺を襲う。
 反射的に動かした左腕が雄基の胸をえぐっていた。
「ふっ、いい気味だわ」
 地面にのびた雄基を冷たく見下ろして、
「さ、行こうか。急がないと始業時間に遅れるよ」
 始業時間をおかしてまで雄基を助けようとする人間は一人もいなかった。



 この町に莉織が来てからもうすぐ一年。
 今ではもう俺が商店街を案内しなくてもいいどころか、初めとは立場が逆になって、莉織に教えられることもしばしばだ。
 手に持っているアイスクリームを売っている店は、夏休み前に莉織が見つけてきた。
 甘ったるくない上質な味わいを持つそれは、悔しいことに俺が知っているどの店よりも美味しかった。
 嘗めるようにアイスを食べている姿を見ている俺の視線に莉織が気づく。
「ひょっとして、こいつ食べるの遅いな、とか思ってる?」
「いや、別に」
「今日の昼ご飯、あすりんが早く食べろ早く食べろってうるさかったの」
「何か急ぎの用事でもあったのか?」
「早くしないとクーポンがなくなってしまうから早くしろーって。ほら、ただで街頭やスーパーの入り口に置いてある。学内は今日が入荷日だったの」
「なるほどね」
 祭りが好きそうに見えて実はそうではない、ように見せかけておいて実は大好き、という凛らしいと言える。
「私が食べるのって、そんなに遅いかな」
「ゆっくりだと俺も思うが、文句が出るほどじゃないだろ。ゆっくり食べた方が消化にもいい」
 などと話しながら俺たちは寄り道を楽しんだ。

 玄関を開けると上がりかまちの向こうに久遠がかしこまっていた。
「お帰りなさい、二人とも」
 普段と違う久遠の様子に俺たちはとまどった。
「お手紙がお二人あてに届いています」
 俺たちに手紙を渡すと久遠は自室に下がった。
 俺は手紙に目を落とす。夷月へ。と書いてある筆跡には見覚えがあった。
 封筒を裏返すと、表と同じ達筆で差出人の名前が記載されていた。
 親父からの手紙だった。
「今度は何を言ってきやがった」
 吐き捨てた言葉に傷ついたように俺を見つめる莉織の視線を引きはがして、俺は一人自室に向かう。

 盛り上がりに欠ける夕食を終えて、俺はベッドに横になっていた。
 親父から送られた手紙は封を閉じたまま机の上に放っていた。
 静かな部屋にドアをノックする音が響いた。俺は返事を返す。
「入っていいぞ」
「失礼します。夷月」
 と俺を呼びかけて途中でやめる莉織。
 俺がベッドに寝ていることに気づいて、近くへ寄った莉織はベッドに腰掛ける。莉織の髪の毛がベッドの上に散らばった。
 ベッドに広がる長い金髪をなでる俺の手に重なる、莉織の手。
 二人とも無言のままで時が過ぎていった。
「夷月、おじさまからの手紙は見た?」
「いや、まだだ」
 ずっと前に他人より遠くなってしまった父だった。そんな父からの手紙など見たくもなかった。
「見て」
「あとで見るよ」
「嘘ばっかり。以前届いた手紙だって読んでなかったじゃない」
 莉織は机の上に置いていた手紙をとって俺に差し出した。
 手紙を眺めるだけの俺にいらだったように、莉織にしてはきつい口調で言った。
「見なさい」
 静かな口調のなかに含まれていた強制力は俺に手紙をつかませるくらいに、強力だった。
 封を破った封筒には便せんが一枚、折りたたまれて入っていた。
 罫線が引かれた便せんの中ほどに二行だけ文字が書きつけられていた。
 一行目は日付。文字は次の日曜日を指定していた。
 そして、二行目に連なっている文字はどこかの住所を示しているらしい。その住所に何があるのかは書いていない。
 上から下まで眺めたり、裏にひっくり返してみたところで、その二行の他には何も書かれていなかった。
「莉織、お前の手紙には何が書かれていた?」
「たぶん、夷月と同じです。日時と住所、他にはなし」
 俺と同じく父の意図が読めないらしく、困惑した表情で莉織が言った。
「ちなみに、あぶり出しかどうか玲亜が確かめました。紙が燃えてしまいましたけど。他に夷月さんは試してみたい手段はありますか?」
 愚問に答える気分ではなかった。一番ありそうな可能性を確認する。
「これが何かの暗号を示していることはないのか?」
「久遠が調べたところによると、その住所は実在しているそうなの。有名どころのホテルが建っているって。知ってる?」
 莉織が挙げたホテル名には聞き覚えがあった。
「何を考えているんだ」
 糞親父は、という言葉は莉織のために飲み込んだ



 母が死んで一年が経った。
 母の死から初めて、父が日本の地を踏んだのは一周忌の式があるからだった。
 通夜や告別式は言うに及ばず四十九日になっても、父は帰らなかった。
 父の代わりに執事のロベルトが働いた。「旦那様には大事な用事があるのですよ」と煩雑な儀式の一切を受け持ち、万事そつなくこなしてみせた。
 今回の一周忌に当たり、ロベルトは喪主の役割を俺たちに任せた。
「本来は私などが務めるべきではない役目でした。ぼっちゃま方、よろしく頼みましたよ」
 喪主の重責は白兎が一手に担うことになった。俺がなるべく家に寄りつかないようにしていたからだ。
 最初は家を避ける俺に色々と文句を言ってきた白兎も、最近は面と向かって何か言うことはない。だが、このときばかりは別だった。
「夷月」
 と自分を呼ぶ白兎の声を無視して俺は自室に入ろうとした。そのとき珍しいことに、白兎が俺の肩をつかんで引き留めたのだ。
 俺が虚をつかれた間に、白兎はドアを閉めてもたれかかった。
 まだ諦めてなかったのか、と俺は舌打ちした。
「夷月」
「なんだよ」
「父さんが帰ってくる」
 それだけ言うと、白兎は素早く自分の部屋に戻っていった。
 すれ違い際の白兎の眼に暗く燃える炎を見たような気がした。母を焼き尽くした忌むべき炎だ。
 そして今日、父が帰ってくることになっていた。
 俺は鯨幕に覆われた敷地の外で父を待っていた。
 親戚たちがほぼ出そろった頃になっても、会場に本来の喪主の姿はなかった。今日も来ないのではないかと思い始めた頃、俺は視界の隅に黒塗りの車を認めた。
 初めは普通の車に見えたそれは、だんだんと奇矯な全貌を明らかにしていった。
 縦に長すぎるほど長い、金持ちの代名詞となっている高級車だ。こんな車を使いそうな人間を、俺は一人だけ知っていた。外交官の真似事をする政治家と陰口をたたかれている父だ。
 秘書が開けたドアから父が出てきた。一年半ぶりに会った父はマスコミに姿を現す際と同じ鷹揚な態度だった。母を失った悲しみに明け暮れた男のようには、見えなかった。
 俺が声をかけるに値する男ではない。
 俺は声をかけなかった。
 父の視線がこちらを向いた。確かに俺の姿を眼にしたはずだ。一年半も放っていた息子をだ。
「予定時間は15分です」
「短いな」
「これでも他方にぎりぎりまで時間を割いてもらったのですよ」
 秘書と言葉を交わしながら父は敷地の玄関をくぐった。
 ちら、と視線を向けただけで言葉を交わそうともせずに、父は式場となった家に帰還した。
 言葉を交わすこともなかった日の翌日、父が日本を出発したことを聞いた。
 俺が家族を信じられなくなった頃のはなしだ。

 両親が死んでから一年が経った。
 両親の死から一周忌となるこの日多忙な激務の間を縫って、おじさまが我が家を訪ねていた。
 通夜や告別式は言うに及ばず、四十九日のときもおじさまはわざわざ足を運んでくれていた。
 私たちの代わりに執事の久遠が働いた。「すべて私にお任せください♪」と煩雑な儀式の一切を受け持ち、万事そつなくこなしてみせた。
 今回の一周忌に当たって、久遠は喪主の役割を私たちに渡した。
「本来は私などが務めるべきではない役目よね。莉織、玲亜よろしく頼んだわよ。特に莉織、お姉さんなんだからしっかりね」
 私たちは二人で協力して一周忌の準備をした。スパイに怯えながら暮らしている私たちは、一周忌の準備をしているときだけは現実を忘れることができた。
 でも、そもそもこの行事をするきっかけのことを思い出してしまうと、もう駄目だった。特に玲亜の怯えようはひどかった。
 玲亜と一つの布団にくるまって、子守歌を一晩中歌って、ようやく泣きやんでくれた玲亜のことを思い出す。
 私もそう。事件の傷跡は普段見えないところにある。でも、ちょっとしたことで噴き出そうになる。
 そして今日、一周忌の日。
 私は一人外に出て、おじさまを待っていた。
 親戚たちを集めることもできない。密告されることが怖いからという理由で、親戚を呼ぶことも出来ない。そんな中でおじさまはただ一人のお客様だった。
 おじさまは予定の時刻になっても来なかった。まさか、と浮かんだ考えを私は精一杯、振り払った。私たちをかばっていることが分かって尋問を受けているとか、いくらでも悪い事態は予測できた。
 もう家に入りなさい、と久遠が言った。
 私はおじさまが来るまで外にいると言い張った。
「まったく、莉織は強情なんだから。仕方ないわね」
「ありがとう、久遠」
「ただし、日が暮れるまでよ。日が暮れたら莉織が石になっていても家に入ってもらいます」
 日が暮れるまで待っても、おじさまは姿を見せなかった。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」
 お鈴が鳴って、お父様の葬式が終わった。
「さて、次は奥様の番ね」
 私たちは困ってしまった。
 真言宗の供養のやり方は久遠が知っているけれども、母が信じていたロシア正教の供養のやり方は知らなかった。
 これまでは母の供養は博識なおじさまがやってくれたのだけれども、今日限りはおじさまも来られないみたいだった。
「南雲様を見ていて、だいたいは手順を覚えたわ。おじさまも見られないようだし」
「駄目! そんな曖昧な手順の供養は認められない」
 私たちが落ち込まないようにと久遠は軽い態度を取るようにしているので、時たまに失言する癖がついてしまった。
「駄目か。うーん、かといって奥様だけ別の日にってわけにもいかないわよね」
「ええ……」
 と悩んでいると、突然に久遠の目つきが鋭くなった。
「二人は隠れていなさい!」
 そう言い残して久遠は部屋を出て行った。
 まさか、父様と母様を殺したマフィアがこの家を見つけたのだろうか。
 久遠の気のせいであることを祈りながら、玲亜の手を引いて私はいざというときの隠し部屋に移動した。
 玲亜と二人寄り添って、久遠の帰りを待ちわびる。もし久遠が戻ってくるのが遅いようなら、私たち二人だけでもここから続く隠し通路から脱出するよう言い含められていた。
 暫くして、二人分の足音が聞こえてきた。
 一つは久遠の足音。もう一つはおじさまの足音だった。
 隠し部屋から飛び出した私たちをおじさまは抱きすくめた。
「はっは、莉織、玲亜、また大きくなったな」
 おじさまが来てくれたおかげで母様の供養も無事執り行うことが出来た。
 この何もない場所で起こった、何のたわいもないことにもおじさまは興味深そうに頷いて、話を聞いた代わりにと、おじさまが見てきた世界のあちこちの話を聞かせてくれた。
「ねえ、おじさま。えーと、誰だっけ。名前忘れちゃったな。おじさまの子供のお話をしてよ!」
 玲亜の頼みに待ってましたと頷くはずだったおじさまの顔に、何故かは分からないけど寂しさが一瞬だけ浮かんでいた。
「すまないな。今年は忙しくて、息子たちと遊ぶ暇が全くとれなかったんだよ」
「えーーっ。楽しみにしてたのに。全くって、一日も遊べなかったの? そんなことないでしょ? ねっ、ほんの少しだけでもいいから」
 いくら玲亜がせがんでも、おじさまは口を開かなかった。
 楽しみにしていただけに玲亜をなだめるのは難しかった。おじさまが次の話を始めても、玲亜は仏頂面を崩さなかった。
 おじさまが持ってきたおみやげをもらってやっと玲亜は機嫌を直した。まだまだ話はあるぞ、とおじさまは次々と異国の生活を話してくれた。
 私が感じたかすかな違和感はおじさまの話を聞くうちにどこかへ消えてしまった。
 次におじさまが来られたときも、その次も、おじさまは自分の子供たちの話だけは決して口に出そうとしなかった。いつしかその話はタブーとなり、タブーだということが理解できるようになって初めて、おじさまも堅い口を開いて息子たちのことを話し始めた。
 私たちがおじさまのこどもと一緒に暮らすなんて夢にも思わなかった時代のはなし。



 次の日曜日、俺たちは一家そろって指定されたホテルに向かった。
 家から車で二十分ばかり移動すると、目的のホテルに到着した。
 駐車場で車を降りて、ぞろぞろと移動する。入り口の案内板には、「南雲様」ご一行様の名前があった。
「はい、南雲様ですね。お話はうかがっております。ひとまず芙蓉の間へお上がりください」
 受付のホテルマンはきびきびと答えた。
「おーい、山根くん」
 受付に呼ばれたボーイこと山根氏に先導されて、俺たちは芙蓉の間へ向かった。
 芙蓉の間は二十畳ほどの広さの部屋だ。おそらくは小規模なパーティー会場として使われているのだろう。ただ、今はテーブルの一つも出されていないのでフローリングの冷たさが身にしみた。
 部屋のどこを見ても父の姿はなかった。まったく、時間を守ったためしがないんだからな。
 昔から父はそうだった。きっと今回も「忙しい」のだろう。
「そういや、久遠はどこ行った?」
「久遠なら、ちょっと」
 ごにょごにょと言葉を濁す莉織。
 なるほど、トイレか。俺も行っておくか。

 芙蓉の間に戻ってくると、見慣れた人間の姿はなかった。俺を見つけたボーイがかけよってくる。
「夷月さまですね」
「ああ」
「用意が調いましたの。さあ、こちらへ。私が会場までご案内いたします」
 ボーイに連れられてホテル内を移動する。
 案内された場所に俺は目を疑った。
 俺が案内されたのは離れに建てられた、頂上に十字架が鎮座する白塗りの建物。つまりは、結婚式場だ。
 おそるおそる式場に足を踏み入れる。入ってすぐのところに莉織や白兎たちが固まっていた。広い会場だというのに、莉織たち以外に人はいない。内装のきらびやかさがなければさぞかし閑散と感じただろう。
 莉織にどうなったのか尋ねてみる。
「私たちもここに案内されたばかりで、何がなんだか」
 いつの間にかロベルトも集団から外れていた。
「ロベルトはどうしたんだ? それに久遠も」
「さ、さあ」
 事態の展開に戸惑っている俺たちの横を、礼服姿の男性が通り過ぎた。一瞬ロベルトと見間違えたが、体型からして違っていた。
 男は式場の前方のマイクを手に取るとマイクの調子を確かめた。「あ、あー。本日は晴天なり」
 礼儀正しく背筋を曲げる姿勢に呼応するかのように会場の証明が落とされ、出入り口の扉が閉められた。
「新郎、新婦のご入場です」
 スポットライトを浴びて、壇上にタキシード姿の男性とウェディングドレス姿の女性が一人ずつ壇上に上がった。
 二人の素顔を確認できなかった俺は、いまいる場所では駄目だと会場の前方へ移動する。
 二人の顔の輪郭がはっきりとしてゆく。さほど進まないうちに俺は壇上にいる二人が誰であるか理解した。それでも俺は歩みを止めなかった。最前列まで進んでやっと、止まる俺の足。
 タキシードを着た男は父で、純白の衣装に身を包む女は久遠。
 はは、これは何の冗談だ?
 どこまで前に進んでも答えは同じだった。

「はは、はは、ははははははは」
 笑いが止まらなかった。
「久遠、これは一体どういうこと?」
「どういうこと? 面白いこと言うわね、莉織。私の姿を見て分からないの」
「違う、そうじゃない! どうして前もって話してくれなかったの。これじゃ夷月が可哀想よ! 夷月さんはまだあの事故から立ち直れていないのに」
「可哀想? そこの軟弱な坊やのこと? 前もって話そうたって、聞いてくれなかったに決まってるわ」
「そうかもしれないけど!」
 俺は久遠を避難する莉織を制止した。
「いいんだ、莉織。久遠の言っていることは間違ってない。親父の再婚話なんて俺は耳を貸さなかったろう」
「でも!」
「こう言ったら怒るかもしれないがな、お前には関係ない。全ては俺たちと、親父の問題だ。そうだろ、白兎」
「そうだね」
 白兎はきっと父を見据えると、語気鋭く問いつめた。
「母さんのことはどうなるのさ、父さん」
「それを私に答えろと? 私がどう答えてもお前たちの気にいる答えにはならないのだろう? それでも答えろと言うのか?」
「それでもだ」
 ふむ、と頷くと親父は言った。
「アレにはすまないことをしたと思っている。しかし後悔はしない。
 後悔しなかったと言えば嘘になる。それでも私は後悔の気持ちに揺り戻されたりはしない」
「それが答えなんだな」
「そうだ」
 主張を変えるつもりがない、いや主張を変えることのない人間に俺たちの主張をぶつけても何も代わりはしない。それは分かっているつもりだった。
 けれども心のどこかに、話し合えば分かってくれるのではないかという考えだってあったのだ。
 かすかな期待を打ち砕かれた俺がここに留まることはない。
 俺の気持ちをいち早く見抜いた莉織が俺の腕にすがってきた。
「待って下さい。私たちが、私たちが悪いんです」
「さっきも言っただろう。お前たちは関係ない」
「違います。夷月だって知っているでしょう? おじさまは私たちのために、自分たちの家族を捨ててしまったの。私たちのせいで子供たちとの仲がうまくいなかい立場に立つことになって、それでおじさまは私たちの問題によりかかるようになってしまったの」
「だからといって、一度も日本に帰れないほど忙しかったはずはないだろう」
「そんな余裕はなかったのよ、当時」
 疲れた口調で久遠が言った。
「崩壊寸前だった連邦は御子柴博士の研究に唯一とも言っていい希望を見ていたの。おぼれる者は藁をもつかむなんて、現実はそんなに生やさしくないわ。連邦はマフィアに情報を流してまで私たちを追い求めた。あなた達のお父様が逐一情報を知らせてくだされなかったら、きっと私たちはこの世にはもういなかったでしょうね」
「いい、あなたたちのお父様は外交官という身分が剥奪されるかもしれないのに」
「それくらいでやめて、久遠」
「しかし……分かったわ」
 久遠の語り口にほとんど俺は圧倒されていた。
 久遠が語る当時の状況は、俺が想像できる範囲を超えていた。
 莉織が昔のことを語りたがらないのも納得できる。
「でもこれだけは言わせて頂戴。夷月、白兎。もしお父様が私たちを見殺しにしてあなた達の家族を守っていればそれで納得できるのね。お母様がノイローゼにかからなければ、兄弟仲が壊れることもなく、さぞ幸せな暮らしが待っていることでしょうね。
 井戸の仲の蛙のように、自分の周りだけ幸せならそれでいいのよ。あなたたちは」
 久遠の鋭い舌鋒に式場が静まりかえった。
 ある一面の真実をついているからだろう、久遠の言葉に反論する言葉は見つからなかった。
 俺は自分が年端の行かないガキであることを思い知らされた。
 白兎も俺と同じように反論ができないでいた。
 久遠の言葉に説得されて、俺に残ったもやもやした思い。もとの5分ほどに縮まって、俺と同じく所在なさげに立ちつくしている。
 自分が責められているかのように莉織の顔から血の気が引いていた。
 音の途絶えた会場に足音が響いた。壁に、床に反響して会場を埋め尽くすような錯覚。
 白兎が父に背を向けて歩いていた。出口を目指している。
「白兎!」
「ごめんね、玲亜。自分でも子供じみた意地だと思うんだけど、母さんのことを思うと、どうしてもここが割り切れないんだ」
 心臓を指す白兎の指。
「見損ないましたよ、白兎さん。あなたはもっと物わかりがよい方だと思ってました」
「久遠さんも、ごめん。久遠さんの言っていることは間違ってないと思う。けど、けどさ。僕たちも玲亜たちも救われる道はなかったのかな。
 そんな道はなかったのかもしれないけど。じゃあね、久遠さん。久遠さんは幸せになってください」
 だんだんと遠くなる白兎の背中を見つめる。
「待て、待ってくれ」
 俺はしがみつく莉織の手をふりほどいた。駆け足で白兎に近づく。
「兄貴一人で何ができるってんだ。心配だから俺もついてゆくぜ」
 意識して俺は白兎を兄と呼んだ。



「ふう」
 夷月と白兎さんが抜けた会場で最初に聞こえたのはため息の音でした。
「こうなることは分かっていた。祝福されようなんて高望みはしてなかったよ」
「おじさま、どうしてですか? どうしてこんな真似をなさったのです」
「人間とは不完全な存在だな。こんな簡単なこともできないとは。
 私も白兎たちと同じさ。分かって欲しかった。分かり合いたかった」
「でも、これじゃあ!」
 どちらも不幸になるだけだ。
 私は夷月が去った扉を見つめ続けていた。
 日本に来てすぐの頃、なかなか帰ってこない夷月を待ち続けていたときのことを思い出す。夷月がまた昔の夷月に戻ってしまうのではないか、と怖くなってくる。
 まだまだこれからだったんですよ、夷月。
「行きなさい」
「えっ?」
「私たちのことはいいから、息子を頼むよ」
「そんな、おじさまを置いては行けません!」
 おじさまはゆっくりと首を振った。
「私の我が儘に子供らを付き合わせる気はないよ。君たちがここに残ったら、私はとても後悔するだろうね」
「そうそう、玲亜も捨てられた子犬みたいに泣いてないで、白兎さんを追いかけなさい。そろそろ母離れ、私離れしてもらわないとね」
 気の利いたジョークを考えついたときの表情でおじさまは言った。
 久遠もいつも通りに笑っていた。
「おじさま、ありがとうございます」
 今ならまだ遠くに行っていないはず。もう二度と夷月を離したりするもんか。

「あの子も大きくなったものだ」
「そりゃそうよ。私の自慢の娘ですもの」

「あーー、失敗だったかなあ。今更戻るわけにもいかないし」
 白兎は早くも後悔しかけていた。
 真面目一本で家出もしたことがない白兎とはいえ、あまりにも情けない台詞だ。
 だが、俺も白兎にくらべればましという程度だった。
「取りあえず、家に戻って資金を調達するぞ」
「そうだね」
「そうだね、ではありません」
 俺たちの会話に割り込んだロベルトがゆっくりと近づいてくる。
「夷月さまだけならまだしも、白兎さままで家出なさるおつもりですか。まったく」
「ロベルト、俺たちを止めるつもりか?」
「いえいえ、めっそうもない。このロベルト、どこまでもぼっちゃま方についてゆきますぞ」
「はあ? ロベルトの主は親父だろ。それがどうして俺たちについて来るんだ」
「おや、お知りではなかったので? 私と旦那様との契約はもう切れております。再契約では白兎さまが私の旦那様なのですよ。ついでに申し上げますと、白兎さまたちが今住んで下ります土地、建物は白兎さまと夷月さまの共同管理という形になっております」
 俺たちは顔を見合わせた。
 所有権が俺たちに移っている理由も分からなければ、ロベルトが今話す理由も分からない。
 ロベルトは一拍の間をおいて、ため息混じりに話す。
「旦那様はもう二度と日本に、今の家に帰ってくるつもりはないのですよ」
「なんだって?」
「それが旦那様が考えたけじめなのでしょう」
 ロベルトは目を伏せる。
「私の知る限りただ一つの旦那様の欠点です。旦那様は、残された者の感情を本当には理解していないのです。私だって、の言葉で切り捨ててしまえる人です」
「だから、すぐ戻って謝れとでも?」
「まさか。私はこう願っているだけです。願わくば、ぼっちゃま方には残した人を悲しませるようなことのないように、と」
 それまで俺たちの顔をのぞき込んでいたロベルトがふと視線を外して、俺たちの後ろを見た。
「ほら、残されていた人たちがやってきましたよ」
 ロベルトに促されて後ろを振り返る。
「夷月ーー」
「白兎ーっ」
 先に飛び出した玲亜が白兎に飛びついた。
 遅れてやってきた莉織は俺の目の前に立って、口をぎゅっと結んだ。
 頬に痛みが走った。莉織が叩いたのだと、予想外の出来事に驚いた俺は理解できなかった。
「もう、私を置いてどこかに行くなんて二度と考えないで」
 そして、俺の頬に手をあてた。
「痛かったですか?」
「目が覚めた気分だ」
「痛かったってことじゃないですか」
 向こうでも仲直りが行われたようだ。意気揚々とした玲亜。
「さあ、じゃあ戻っておじさまたちを祝ってあげないと!」
「しかし……」
 なおも躊躇する俺たち。
 そのとき、事態を傍観していたロベルトが言った。
「コホン。それならば早くしませんと、旦那様は帰ってしまいますぞ」



「というわけなんです」
「なるほど、そんなことがあったんだ」
 落葉真っ盛りというのも変な表現だけど、とにかく落ち葉舞い落ちる中で私はりっちゃんの話を聞いていた。
 りっちゃんが用意したお茶を一口すすって問いかける。
「それで、おじさんたちは?」
「どうにか夷月を引っ張って式場に戻った頃には、もういませんでした」
「もう完全に、おじさんの勝ちって感じね。ある意味仲直りできたってことかな?」
「そうなんでしょうか?」
 なるほど、それでここ最近の夷月くんの機嫌が悪かったり、りっちゃんの顔色が暗かったわけね。
 口の堅いりっちゃんを口説き落とした割には、大した話じゃなかったわね。
「うりゃー、魔球一号、どんぐりスパイラル!」
「うわぁ、やめてよ玲亜!」
「続いて二号、銀杏コンポジット!」
「ちょっ、反則、それはいくらなんでもやめ、やめーーー」
「問答無用!」
 遠くから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 落ち葉の隙間から見える空は、高く高く澄み渡って気持ちの良い風を運んでいる。
「いい天気ね」
「はい。絶好の行楽日和ですね」
 ずさ、ずさと足音をたてて近づいてくる人影。
「これくらいでいいか、莉織」
 手に持った袋をりっちゃんに渡す。
 ビニール袋は銀杏で満杯になっていた。無駄口たたかず銀杏拾いなんて、ほんとご苦労様なこと。
 相変わらず変なところで律儀だなあと思って夷月くんを見ていると、彼は私が不審な態度をとっていると言いたげな目つきで睨みつけてきた。
 ふむ。まだ私の恐ろしさが分かってないみたいね。ここは一つ思い知らせてあげましょう。
「どうしたの、マザコンの夷月くん?」
「なっ!」
 私は夷月くんに近づいて、耳元で囁いてやった。
「夷月くん、どうちたんですかぁ。ママのおっぱいが恋しくなったんですかぁ?」
「てめえ!」
 夷月くんのパンチをひらりとかわし――かわしたつもりでいつもと違う地面の感触がつかめずにしりもちをついてしまった。
「誰に聞いた?」
 りっちゃんは既に、安全圏内に移動して観戦を始めていた。あの子もこういうところがあなどれない。
 夷月くんは私の襟首をつかんでいるけれども、それ以上の行動は起こさない。
 極上のからかい笑顔を浮かべて、
「んふ。ひ、み、つ」
 夷月くんは暫く私を睨みつけていたけど、私が口を割らないとみると手を離してそれ以上私の相手をしようとはしなかった。
 まあ、丸くなったこと。いや、丸くなったかどうかは関係ないかな。昔から女性には甘かったしね。
 お茶請けのどら焼きに手を伸ばして、私は呟いた。
「まあ、大丈夫でしょ。ほつれた家族の絆だっていつか繋がるかもしれないしね」
「あすりん、それ私の台詞……」

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