4/4 Sunday
「魚は10分ごとに裏返してから焼くこと。ごはんはあと40分で炊けるから時間を合わせて焼くように。煮物はあと20分したら火を止めて味を染みこませなさい」
慌ただしくエプロンを脱ぎながら水希ちゃんはそう言った。
「いつも悪いな」
日曜日のかき入れ時にわざわと時間を割いてくれるありがたい幼なじみにと、悪いとは思っていないような無表情で返事をするのは、言うまでもなくうちのお兄ちゃんだ。
「はいはい、悪いと思っているならそれらしい顔で言いなさい。それじゃ、明日お昼前に来るから」
「まったねー」
なずなの返事に笑顔で答えると水希ちゃんは慌てたように――実際急いでいるのだ――廊下に出ていった。すぐにバタン、と玄関の閉じる音がする。
「晩ご飯まで時間あるけど、なずなはどうする?」
今日はお兄ちゃんと対戦したい気分だけどそういうわけにもいかないので、二階の自分の部屋で大人しく読書することに決めた。
30分後に声をかけるからという宣言どおり、30分後に一階からお兄ちゃんの呼ぶ声。ちょうど区切りのよいところだったので、なずなは栞をはさむと廊下に出て、階段を下りようとしたところで下から慌てた声が飛んできた。
「そこでじっとしてろ!」
あーっ、やっちゃった。つい、誰も見ていないからと自分の足で階段を下りようとしたんだよね。
階段を上まで昇ってきたお兄ちゃんに見えるようになずなはむう、とほおを膨らませる。
「いつも言ってるけど、お兄ちゃんは過保護すぎるよ」
「そんなことはない」
数年前に一度お風呂でこけたからと、今でも一人で風呂に入ることを許してくれない人は過保護と言っていいと思う。男の子でなければ水希ちゃんに任せずに自分が妹を風呂に入れている、絶対に。
だけどこの件については文句を言って聞き入れてもらえた試しがないので、溜息を一つつくと、なずなはお兄ちゃんの背中に身を任せた。もう大人の男のひとの、大きな背中だった。
食後のお茶で一息ついたなずなたちは明日の予定を確認し始めた。
明日、なずなは初めて御凪学園に行く。入学式にはまだちょっと早いので学園見学――それも間違いではないけれど、入学に際して学園の障害者向け設備の最終チェックをしにいくのです。というのも、1年たらずの突貫工事で作ったから実際に利用者、つまり、なずなが確かめてみようというのが明日の趣旨。
「まずは校庭から教室までの移動。次に教室から家庭科室、図書室、体育館などの施設へ移動して、最後に校庭を一回り、か。どこか忘れている場所はないか?」
「購買部は?」
すると、なぜかお兄ちゃんはなずなをギロリとにらんで
「危険だから駄目だ」
「なにそれ!? 横暴だよ! なずながお弁当忘れたらどうするの?」
「携帯で俺か水希を呼び出せばいい」
うあ、駄目だ。また過保護モードに入っちゃった。仕方ない、明日、水希ちゃんやみんながいるときにもう一度お願いすることとして
「じゃあ、かわりに自動販売機の場所を教えてよ」
「校舎内と校庭に幾つかあるから、明日周りながら教える。他にはないか?」
「男子トイレがないよ」
なずなの指摘にお兄ちゃんは頭を抱える仕草をした。
「どうして女子のお前が男子トイレに入る用事があるんだ」
「くっふっふ。もしかすると男子トイレでナニをしちゃうことがあるかもしれないでしょ♪」
「ナニって何だ。それと女の子がそんなことを楽しそうに言うんじゃない」
「はーーい」
「とにかく、女子トイレの場所は……俺は知らないから水希に教えてもらってくれ」
そんなこんなで確認作業は終了。昔懐かし2D格闘ゲームでお兄ちゃんをこてんぱんにのしたら寝る時間になっていた。
部屋の電気を消した一時間後、なずなはまだ眠れずにいた。遠足を楽しみにしている子どもの気持ち、それがないとは言えないけれど、心を占めていたのは自分がうまくやっていけるのかという恐れだった。
7年前の事故以来、なずなは障害者学級に通っていた。”普通”の学校とは違い、どこかしら人とは違うことを強いられた仲間たちの場所だ。そこではなずはを見て「かわいそうに」と思う人はいなかった。でも、これからは違う。車椅子の子は学園内になずな一人だけだ。商店街で買い物をしているときにふと感じる「距離のある他者」を見る視線を、毎日受け続けることになるだろう。
怖い。
気がつくとなずなはお兄ちゃんの部屋のドアをノックしていた。
「お兄ちゃん、起きてる?」
「ああ」
「お話がしたいんだけど、入っていいかな」
「ちょっと待て」
なずなが不安に思っているとき、不思議と。お兄ちゃんを呼んで答えがなかったことはない。
「眠れないのか」
お兄ちゃんはときどき言わずもがななことを言う。
「うん」
「そうか」
部屋のなかに沈黙が広がる。3分、もしくは5分? いつもの無表情を眺めているうちに、お兄ちゃんはなずなの言葉を待っているのだとわかった。
「お兄ちゃんと同じ学園に行けるようになって嬉しいと言ったけど、あれは嘘。本当は心臓がつぶれそうなくらいに緊張してる。”普通”の学校で仲間はずれにされないか、ちゃんと笑っていられるか、心配ばかりしてる」
「前に言ったかもしれないけど、学園のやつらはみんないいやつばかりだ。それに、俺も水希も、虎太郎だっている」
「でも、中には悪い人もひどい人もいるかもしれない。お兄ちゃんたちだって、いつまでも学園にいるわけじゃないよ。お兄ちゃんたちが卒業したら、学園になずなが知っている人はいなくなっちゃう」
「それまでにはきっと友達を作れるさ」
「本当にそう思う? お兄ちゃんだって変な妹だっていつも言ってるのに?」
そうだな。でも……とお兄ちゃんは笑って言った。
「下ネタが好きな困った妹だと思ってる。だけど、なずなのいいところを分かってくれる友達が出来ないような学園なら、俺はなずなの入学を応援したりはしない」
お兄ちゃんは右手をなずなの頭に載せて、くしゃっと梳るようにしてなずなの頭をなでた。
「俺は学園の仲間たちを信じてる。そんな仲間たちがいる学園を信じている。なずなを困らせる奴がいたとしても、そんな奴らがいることを忘れられるくらい、いや、そんな奴らなんてどうでもいいくらいに楽しい場所だって」
「お兄ちゃんは学園にもう2年間通っているからそう言えるのかもしれない。けど、なずなは学園に行ったことがないんだよ。そう言われてもなずなは信じられないよ」
「それじゃあ、なずなは俺のことも信じられないのか?」
お兄ちゃんはずるい。そんなことを言われて違う、と言えるはずがない。
「違う。違うけど……」
「大丈夫」
ぽん、と頭に手をあてて。
「その心配がなくなるまで、俺がそばにいてやるから。約束したろ? いつまでもなずなの側にいるって」
「うん……わかった」
だけど不安がぬぐえたわけではなかった。まだまだなずなにはお兄ちゃんが必要だった。
「あのね。今日だけでいいから、お兄ちゃんの布団で寝てもいい?」
少しだけ気持ちが落ち着いたので冗談を付け加えることも忘れない。
「もちろん、性的な意味で」
「あのなあ。……。性的な意味でなければ入っていいぞ」
本当に困った妹だ、と呟くとお兄ちゃんは黙ってベッドの半分をなずなに分けてくれた。
4/5 Monday
次の日。水希ちゃんの作った昼食を食べてから
「それじゃ、なずなは学園に行く準備をするね」
と声をかけてから廊下に向かうなずなに水希ちゃんが声をかけてきた。
「一人でちゃんと制服に着替えられる? 手伝ってあげよっか」
「もう、やだな〜水希ちゃん。子供じゃないんだし、一人で着替えられるよ」
「あんたがそういうならいいけど、無理そうだったら声をかけなさい」
「は〜い」
先週までは水希ちゃんに着替えを手伝ってもらっていたからの言葉だと分かっているけど、もう一人でできることは水希ちゃんも知っているはず。お兄ちゃんをブラコンと揶揄する水希ちゃんだけど、なずなから見れば過保護具合はかなりのものだよ。
と、最後にネクタイを締めて準備完了。部屋の外で待っていた水希ちゃんと合流する。
「ふむふむ。似合ってるじゃない」
「そう?」
お兄ちゃんたちと同じ制服を着たいというのも、進学先を決めた一つの理由。それになにより、褒められて悪い気はしなかった。
一階に降りてお兄ちゃんにも制服姿を披露する。
「……」
一見、いつもの無表情だけど、
「あーー。泣きそうなのを我慢している顔ね、これは」
「だね」
「……さっさと行くぞ」
「照れ隠ししなくてもいいのにね」
「そうよね。顔を見ればわかるんだから」
「虎太郎くん、なずなちゃん達が来たよ」
「おう。時間ぴったり、さすがだな」
校門で待っていた梶原さんと梶原さんにぺこりと頭を下げる。
「こんにちわ。今日はなずなのために集まってもらってありがとうございます」
「いいってことよ。俺達も自分達の成果ってやつを目の前で確認したいからな」
「考えてみれば私たちも随分と無茶をしたわね。陽菜子にもさんざん迷惑をかけた気がするわ」
「そんなことないよ。私も楽しかったよ」
「へえ、それはどうしてかな〜?」
水希ちゃんは意味ありげに会長さんに目を向けた。
実をいうと。なずなは御凪学園の制服で嫌いな点が一つある。水希ちゃんと陽菜子さんが並んで立っているのを見ると、特に世の中の不公平とゆーものをひしひしと感じる。
「うがーー!」
「っていきなりなにすんのよ!」
「胸が、この胸が、なずなを傷つけるのです!」
水希ちゃんの胸をもみもみしながらなずなは主張をぶつけてみた。
この制服、胸のありなしがはっきり出るんだよね。
「なずな君、時間がないのでセクハラはそのへんにしておいてくれ」
「むむむむむ」
陽菜子さんの胸も揉んでみたかったけど、会長さんの背に隠れている彼女に無理矢理というのも可哀想だ。
「わかりました。陽菜子さんの胸は会長さんにお任せします。なずなの代わりに質感と弾力を楽しんでください!」
「えええええーーーーっ!!」
「落ち着け、梶原。俺は嫌がる女性の胸を触るような変態じゃないから」
「う、うん。そうだよね。虎太郎君は紳士だもんね」
と言いつつ、陽菜子さんはどこか残念そうだった。
(嫌ってことはないんだけど。私に魅力がないってこと?)
小声でそんな言葉が聞こえてくる。前言撤回。とても残念そうだった。
校庭を横切ってまずは昇降口へ。入り口のガラス戸の付近にある坂を登れば、あとは廊下まで水平に移動できるようになっていた。
なずなは車椅子に括り付けていた上履き袋を膝に載せ、靴を履き替えようとしてはてな、と動きを止めた。
「お兄ちゃん、なずなの下駄箱はどれを使えばいいの?」
「ええと。なずな君の出席番号は……」
会長が答えを出す前に、お兄ちゃんが指で示してくれた。
「ユウ、妹の下駄箱の場所を暗記しているのはどうかと思うわよ。助かったけど」
下駄箱に張られた番号――たぶん出席番号――は左上から右下にカウントアップされているけれど、なずなの番号だけほかと外れていた。入り口に近く、下から数えて2番目。車椅子でも使いやすいようにと考えられた場所なんだと思う。
お兄ちゃん達は少し離れた場所で上履きに履き替えている。このまま廊下に進むこともできるけれど、今日の疑問その2。このまま土で汚れた車椅子で校内に入ってもいいものでしょうか。
迷っているなずなが運ばれた先は、金属で出来た何かの機械の上だった。横から見ると台形で、ものすごく低い跳び箱に見えなくもない。
「なずな、右手にある赤いボタンを押してくれ」
「らじゃー! それでは、ぽちっとな」
ボタンを押すと、跳び箱でいうと手をつく場所にある筒が回転し始めた。あっという間に車椅子の前輪が掃除されてしまった。
「お兄ちゃん、これ凄いよ!」
「そうだろう?」
自分のお手柄を自慢して笑っているお兄ちゃんの顔。レアものです。
外に出るのが嫌だった理由の一つとして、家に戻ってきたときにお兄ちゃんや水希ちゃんに車輪を掃除してもらわないといけない、ということがあったけど、これがあれば気兼ねをする必要もないね。
「これはもう、一家に一台欲しいよね!」
「……」
何故かお兄ちゃんの笑顔が曇った。
「あはは……一般家庭にはちょっと無理よね。100万単位の値段がついているから」
「むう。残念」
「50万出せば家庭用の洗浄機を買えるんだけど、一度車椅子から降りてもらう必要があるのよね。それだと誰かの手を借りないといけないでしょ?」
「エレベーターの設置に比べれば安いものだってのに、校長の野郎が50万の方に値切ろうとしたんだよな」
「介助者なしでも生活できるように校舎をリフォームしたのだから洗浄機も同様の意識で望むべきだ。って、あのときの虎太郎君はカッコよかったなあ」
「いんにゃ。横で祐也が無言の圧力を加えてくれたおかげだよ」
「って、あのとき陽菜子はその場にいなかったと思うんだけど」
「あれ??」
そうまでして会長を美化したいかね〜と苦笑する水希ちゃんだった。
それはさておき。昇降口から教室、図書室などをエレベーターを使いながら回って、体育館へ。校舎と体育館の間の通路はもと階段だったものをスロープにしたんだそうだ。おかげで問題もなく行き来できることを確認して、それからは校舎の周りをぐるりと一周した。
「おおむねは問題ないようだな。気付いた点はあるか、なずな?」
「うーん、そうだねーー。購買には行かない方がいいと思ったよ」
「ああ、あれね。意外と気付かないものよね」
直立歩行している生徒を基準として作られた購買のカウンターは高すぎて、なずなと店員さんがお金のやりとりをするのは難しいという結論だった。その点、自動販売機はお金の投入口が低い場所にあって考えられているんだなあと感心したり。
「そこんところは祐也や俺達がサポートするとして、日々の生活は大丈夫そうだな」
と会長さんがまとめる。
「なずな君も疲れたろう。一度生徒会室に戻ろうか」
「はい」
ところで行き先がなぜ生徒会なのかというと、お兄ちゃん達が生徒会に所属しているからだ。生徒会というより春日井なずなを御凪学園へ迎え入れる会が正しいわよね、とは水希ちゃんが昔言っていたことだけど、お兄ちゃん達の気持ちは嬉しい一方で心苦しいという思いも少しだけある。校長さんが許可を出しているんだから、そこまで気にすることじゃないのかもしれないけどね。
あああそんな気持ちはなるべくしまっておかないと。とにかくそんなわけで、生徒会室というと堅苦しい気分になってしまう人もいると思うけど、何回か入ったこともあるし、なずなにとっては心おけない場所になっているのです。
会長さんに続いて――ドアくらい自分あけられるってば――部屋に入ると、バン!というクラッカーの鳴る音に引き続いて
「なずなちゃん、御凪学園入学おめでとう!」
机の上にはお菓子と飲み物。視線を上げると、さきほどと同じ文句の横断幕が垂れ下がっていた。
部屋の奥でくるりとこちらに振り返って会長さんは宣言した。
「これより、春日井なずな君の歓迎会を行う!」
「お〜〜〜」
「どんどんぱふぱふ〜」
「わーい。って、入学式がまだなんだけど……」
「気にするな!」
「できれば入学式のあとにしたかったけど、生徒会が一学生の歓迎会をひらいたというのは外聞のいい話にはならないのよね」
「だから、そこのところは我慢してくれ」
ああ、まただ。大きな嬉しさと、小さな心苦しさ。後者を誤魔化すように、なずなは口を開く。
「それにしても、こういうときのお菓子の定番はポテチやチョコレートだと思うんですけど」
机の上に置かれたおかしは水ようかんや大福などの和菓子で、飲み物はお茶が中心だった。なずなは心当たりのある人をにらんでみた。
「その目は何かしら、なずな? あたしの目の色が黒いうちに、あたしの目の前で洋菓子を食べられるわけがないでしょう」
「なずなちゃん、ごめんね。水希を説得しようとしたんだけど、どうしても譲ってくれなくて」
「あはは。歓迎会だけで嬉しいですから」
しばし机を囲んで歓談タイム。
梶原さんを冷やかしたり会長さんをなじったりで時間は過ぎてゆく。
「ところで、そちらの方はどなたですか?」
生徒会室にいるのは6名。なずな、お兄ちゃん、水希ちゃん、会長さん、梶原さんともう一人。最後の一人はなずなの知らない人だった。
「そうか。なずな君は鈴ちゃんに会うのは初めてだったな」
「はじめまして、なずなちゃん」
「どうも、はじめまして。春日井なずなです。これからよろしくお願いします」
一人だけ私服を着ているから、たぶん生徒会の人ではないんだろう。そてにしても、梶原さんは上の名前で呼んでいるのに鈴ちゃんさんは下の名前で呼んでいるんだ。梶原さんは思っていた以上に望み薄かも。などと思っていると
「鈴ちゃんは俺たちの担任で、生徒会の顧問も受け持っている。これからもお世話になると思うから、仲良くしておいた方が得だぞ」
「虎太郎くん、そういう考え方は先生よくないと思うの。お世話になるならないに関わらず、人づきあいはするものじゃない?」
「そうだよ〜虎太郎くん」
「まったく、陽菜子を生徒会室に呼んでいるのは便利に使えるからとか思ってたりしたら承知しないわよ」
「なんか俺、極悪人みたいに言われてないか? 助けてくれ、祐也」
みんなの会話が耳に入ってくるけど、解釈が追いつかない。え、なに?
「鈴ちゃん……先生?」
確かに一目見て、大人びたひとだなと思った。けど、先生ってことは、少なくとも就職しているということで。
鈴ちゃん先生ははっきりと苦笑いを浮かべていた。
「若く見られるのは悪く思わないけど、貫禄がないってことかしら」
「生徒が親しみを持っているということですよ」
「それも、言葉を言い換えているだけという感じがしなくもないのよね」
なごやかなお茶会も、やがて日が暮れてお開きとなった。校門で会長さん達と別れて、今はお兄ちゃんと水希ちゃんと私の3人で道を歩く。細長い影が3つ、私たちの前方で揺らめいていた。
商店街と自宅との分かれ道に差し掛かろうとするとき、ふと、これが最後の機会だという予感がなずなを貫いた。
「もうすぐお兄ちゃんと一緒の学園に通えるんだね」
「ようやくか」
車椅子が止まる。
お兄ちゃんは過去を振り返っているような面持ちで言った。
「長かった」
「ごめんね」
その言葉を聞いて思わず、口に出してはいけない言葉が逃げ出してしまった。
「ごめんって、何がよ?」
怒ったような口調で水希ちゃんが言った。
「生徒会に立候補したり、学園の施設を改築したり。なずなが学園に通うために使った時間と労力とか。いろいろ」
「あたしたちは家族みたいなものでしょ。そんなことを気にする必要ないじゃない」
「でも――」
「それ以上言うと殴るわよ!」
険悪になりかけた雰囲気のなかでその声は何故かよく響いた。
「――ああ、そういうことか」
震えるなずなの体を抑えるように、震える気持ちを落ち着かせるように。お兄ちゃんは車椅子ごとなずなを抱きかかえていた。
「さっきは言い方が悪かったな」
さわさわと、片方の手でなずなの頭をなでながら。
「待ち遠しかったよ」
悔やむような口調だった。もしくは、郷愁を覚えているかのような口調だった。
「あの事故からずっと、なずなを一人残して学校へ行って。ふとした時になずなは今どうしているんだろう。ちゃんと勉強しているだろうか。いつになったらなずなと同じ学園に通えるのだろうかって。そんなときだ。お前が言ってくれたのは。覚えているだろ?」
『お兄ちゃんたちと、同じ学園に通いたい』
「それまで俺はなずなを待っているだけだった。自分からは何もしなかった。ただ無力にうち震えて、悲劇の主人公ぶって。嘆き悲しんでいるだけでは何も変わらないのに」
「だけど、なずなの言葉を聞いて初めて、俺にもやれることがあるって、俺が何かをやらなくちゃいけないんだって気付いたんだ。水希もそうだろ?」
水希ちゃんは頷いて、お兄ちゃんの上に覆い被さるようにして私を抱きしめた。
「ユウから話を聞いたときは愕然としたわ。なずなにはリハビリしなさいと厳しく言ってたくせに、自分は何もしていないって。そのとき初めて思い知った。もう情けないったらありゃしない」
「そして、俺達の話を聞いていた虎太郎が言ったんだ。なら生徒会に立候補しようぜ、って」
「あれはなんというか、さすが虎太郎って感じよね。わたしには思いもつかなかったわ。やってみなければ分からないだろう? だっけ簡単に言ってくれちゃって」
「無茶なことを言うと俺も思ったよ。けれども、水希と二人考えても良案は出なかった。可能性が見えなかったんだ。虎太郎の案には夢があった。もう、この話に乗るしかないと思ったんだ」
「そして、今――なずなはここにいる。俺たちはこの時が待ち遠しかったんだ、本当に」
そう、無理だと分かってた。奇跡のようなことが起きたとして、お兄ちゃんたちに迷惑がかかることも分かっていた。
「なずな、お前の望みはなんだ? 俺や水希に迷惑をかけたくない?違うだろう。お前の本当の望みは――」
それでも、なずなは、こう思ったんだ。
「なずなは、お兄ちゃんたちと同じ学園に通いたい」
その日の帰り道。いつしか日は暮れて電灯の淡い光がなずなたちを照らしていた。三人の影は寄り添うように、一つの影を地面に刻んでいる。電灯に近づくにつれ、離れるにつれ。くるり、くるりと。ステップを踏むように揺らめいていた。