スチャラカもくれんタマスダれ
※ボタンの上にマウスを置くと説明が出ます
「――、――」
 俺はまだ眠いんだってば。だからそう催促しないでくれ。ベッドの下においてある目覚
まし時計は今日も快調に動作している。ありがたいんだけどうざったい。
 べし。ボタンを押した。これであと五分は眠っていられる。ありがとう歯車、さような
ら人類。
「――、――」
 ボタンを押したのにしつこく俺を起こそうとするとは、今日の目覚ましはやけに職務熱
心だ。
 べし。ボタンを押した。これであと五分は……
「ぅう」
 10秒もたたないうちに、いつもと違う音が聞こえてくる。ひょっとして壊れてしまっ
たのだろうか。ならばぶつべし。家電は叩けば直るように工場長さんが作っているんだか
ら大丈夫さ。
 べしべしべし。
「ぅう。――さま、――」
 ゆさゆさ。体を揺さぶられながら、だんだんと意識は覚醒していく。
「――さま、志貴さま」
 聞き覚えのある女性の声。今日も翡翠の声とともに一日が始まってゆく。って、翡翠?

 がばっ! 勢いよく体を起こした俺の目に白いカーテンにしきられた、遠野志貴にはも
ったいない部屋が飛び込んでくる。それともう一つ、部屋を縦横に走る『線』。
 メガネをかける俺に遠慮がちに翡翠が声をかけてきた。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
「着替えはいつもの通りです。それでは今でお待ちしています」
 さっさと立ち上がって部屋を出ていこうとしている翡翠を慌てて呼び止める。
「何か用事がおありでしょうか」
 いつもと同じように聞こえるその声。違うのは、こちらを向いて話してないということ
だった。
「あのさ。もしかして、目覚ましと取り違えて翡翠を叩かなかったかな」
 びくっと翡翠の体が震える。
「そのようなことはございませんでした。志貴さまはまた寝ぼけてらっしゃっるのです」
 声が震えてしまっているのに、なんとか取り繕おうとしている翡翠は何というか、ちょ
っと可愛い。
「ごめん、翡翠!」
 言葉を言い終えるまえに、翡翠は足早に部屋を出ていってしまった。これはちゃんと謝
罪できたことになるのだろうか。
 ここでぼやいていても始まらない。俺は手早く着替えをすませて居間へ向かった。


 居間には椅子に座って優雅に紅茶を飲んでいる秋葉に琥珀さんが付き添っていた。
「おはよう」
「おはようございます、兄さん。今日も起きるのが遅いんですね」
 のっけからジャブですか、マイ妹よ。けどまあ、顔を見る限り機嫌は悪くなさそうだし。
これが秋葉なりの親愛の情の示し方だと思っておこう。
「おはようございます」
 対照的なのが琥珀さんだ。琥珀さんの微笑みはいつも他人を安心させてくれて、さあ今
日も一日頑張ろうという気持ちにさせてくれる。
「お食事なら食卓にありますよ」
「はい。ところで――」
 部屋をもういちど見回して、翡翠がいないことをもう一度確認してから訊ねる。
「翡翠の顔が見あたらないけど、どうかしたのかな」
「翡翠ちゃんなら、今日は志貴さまの顔を見られませんって言ってましたよ」
 秋葉がカップを皿に戻す。ただそれだけの動作だというのに洗練された美しさがあった。
「どういうことですか、兄さん」
 厳しい眼差しで秋葉が睨みつけてくる。眉がピクリと動いて見えるのは、気のせいでは
ないのだろうな。
 俺は正直に翡翠の頭を間違えてぽかぽか叩いてしまったことを話した。
「はあ」
「どうして目覚ましの人の頭の区別もつかないんですか」
 琥珀さんは納得しがたいといった顔での、秋葉はあからさまにこちらを馬鹿にした顔で
の返事だ。
「眠っていたからだとしか答えられないけど。どうしてと聞かれたって」
「いいですけど、ちゃんと翡翠ちゃんに謝ってくださいよ」
「もう謝った、と思う」
「なんですか『と思う』というのは」
 また秋葉は人を軽蔑するような目で俺を見る。純然とした誤解であり偏見である。
「だから、途中で逃げられたんだよ!」
 むかっぱらがたっていたのか、どなりつけるような形になってしまった。秋葉は俺の剣
幕に驚いて真正面に向けていた目を逸らす。
「ま、まあ。謝ったのならよしとしてあげます」
「秋葉さま、秋葉さま」
 琥珀さんが自分は謝ろうとしない秋葉に苦笑している。俺はそんな光景を後に食卓へ向
かう。時計の針は7時10分を指していた。

「ふう」
 これで残るはサンドイッチ一つ。今日も琥珀さんの料理は非の付け所がなく、なおかつ
俺の趣味思考を把握したものとなっていた。
「おいしそうだねー。これ、わたしがもらってもいいかな」
「まあいいか。もう充分に腹はふくれているし」
「ありがとう志貴」
 俺は嬉しそうにサンドイッチを頬張っている金髪紅眼の――。
「アルクェイド!」
「ん? おはよう志貴」
 朝から元気に答えるアルクェイド。朝だからか、いつもよりふにゃ〜っとしているよう
に思える。
「おはようじゃなくてだな」
 そのとき、靴音をたてずに居間に翡翠が入ってきた。
「秋葉さま。お客さまです」
「わかっているわ。既にここにいるから」
 先程とは比較にならない苛烈な眼差しでアルクェイドを見据えながら不機嫌な声音で秋
葉は答えた。
「それでは」
 そそくさと出ていく翡翠。結局翡翠は俺と一度も目を合わそうとしなかった。
「ごちそうさま。うーん志貴って毎日こんな美味しいものを食べているんだ」
「琥珀さんの料理の腕には非凡なものがあると俺もかねがね思っていた。じゃなくてだな
、どうしてお前がここにいるんだよ」
「どうしてって、志貴に会いに来たんだよ」
「そ、そうか」
 嬉しい答えに気のゆるんだ俺に、秋葉の眼差しが鋭く突き刺さる。
「どこから入ってきたのでしょうか、アルクェイドさん?」
 あそこ。とアルクェイドが指さした先には、窓から見える中庭しかない。
「アルクェイド、靴は履いてないな」
 一応確かめる。うん、確かに履いてない。
「志貴。それはわたしが住宅に入るのに靴も脱がないと思ってたってこと?」
「今度からは玄関から入ってくださいませんか」
「最初はそう思っていたんだけどね。召使いさんが『お待ち下さい。秋葉さまにお伺いを
たててきますので』なんて言ってたから、これは時間がかかりそうだなーと思って中庭を
散歩していたら、志貴の姿が見えたから、つい」
 こういったところがアルクェイドの魅力だ。と思うのだが、妹に今にも射抜かれそうな
視線を受けている今は余計なことをしないでくれと思ったりして、板挟みのつらさを味わ
う遠野志貴である。
「こういった不作法なことをやらなければ入るな、とは言いませんけどね。兄さんもよ、
ちゃんと聞いてる?」
 秋葉の矛先はついに自分にも向けられた。多分に八つ当たりだ。
 このままだと折角の朝の時間が台無しのまま終わってしまう。ここはアルクェイドには
悪いけど、用件だけ聞いて帰ってもらうとしよう。
「んでアルクェイド。今日はどんな用事だ?」
「うん。大事な相談があるんだ」
 開けっぴろげな笑顔で言われても説得力に欠けるな。
「さっさと用件を済ませて帰ってくれないかしら」
 という秋葉の呟きが聞こえるが、これはわざと聞こえるようにしているんだろうな。
 アルクェイドはそんな秋葉のイヤミに気づいたそぶりさえ見せず、
「志貴、結婚しよっ!」

 その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
「今、なんとおっしゃいました?」
「ねーねー志貴。式はいつがいい? 子供は何人? 私は女の子が一人は欲しいなあ」
 場の雰囲気に気づいていないのか、はしゃいで俺の首に腕を絡ませたりしているアルク
ェイド。それをみて更に眼差しを鋭くする秋葉。
 ――そう、殺気と言い換えてもよいオーラが秋葉の全身から発散されていた。
「許しません」
「へえ」
 アルクェイドの眼の色が変わった。獲物を狙い、追いつめ、一撃で屠り、血を啜る。獰
猛な狩人がそこにいた。
「面白いじゃない。妹にわたしと志貴の結婚を阻止する権利があるわけ?」
「私は遠野家の当主です。一族の婚姻を取り決める責任があります。琥珀」
「はい。遠野家当主権限第97条。遠野家の当主は一族の成婚に際し、その是非を裁断す
る」
 すらすらと朗読される条文を一通り聞いたアルクェイドは、軽く鼻を鳴らした。
「ふん、そんなもので私と志貴の気持ちを遮ることが出来ると思ってるの?」
「兄さんはあなたに騙されているだけです。きっと魅惑の魔眼でも使ったに違いないわ。
この汚らわしい吸血鬼」
「言ってくれるわね。ちょっと人とは違うみたいだけど、私に勝てると思っているの?」
 まさにその場は一触即発。とはいえ、秋葉が真祖の姫とも恐れられるアルクェイドに勝
てるはずがない。一方的な虐殺は目に見えていた。なにか、二人の衝突をくい止めるもの
はないのか?
 部屋を隈無く探す、何かがあったはずだ。ふと、時計に目を止める。
「琥珀さん、いま何時?」
「8時10分。いけません秋葉さま、これでは学校に間に合いません!」
「間に合わないなら行く必要もないでしょう」
「秋葉さま!」
「秋葉!」

「わかりました。行きましょう、琥珀」
 秋葉が部屋を出ていって、安堵した俺は床に尻餅をついた。
「はーうー」
「もう志貴、どうして邪魔するのよ!」
「俺に妹がずたぼろにされる光景を目の当たりにしろって言うのか」
「うっ……」
 言葉に詰まったアルクェイドの肩に手を載せる。
「志貴?」
「それにしても、どうしていきなり結婚だなんて」
 いやまて、こいつの行動パターンの傾向からすると――
「ははぁ。さては、TVに影響されたんだろ」
「へへへ」
 頬をかいて誤魔化したつもりのアルクェイドの頭を一発殴る。
「いったーい!」
「心臓が縮むと思った俺の痛みに比べるなら、なんてことないだろ」
 まあアルクェイドも本気じゃなかったみたいだし、夕方にでも秋葉と話し合えば解決す
るだろう。朝の琥珀とのアクシデントもあったというのに、今日は忙しい日みたいだな。
「さて、それじゃあ学校に行きますか」
「私もついていっていいかな」
「どうせなら授業も受けたらどうだ」
「イヤよ。アイツがいるもの」
 授業中にはシエル先輩はいないと思うけどな。苦笑は面に見せず、取り敢えず鞄を取り
に二階の自分の部屋へと向かった。


 ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえる。誰だろうか、こんな不作法なことをやっている
のは。後でお仕置きするか減俸処分にするかしなければ。
「秋葉さま、秋葉さま」
「琥珀、どうしてあなたが車に乗っているの」
「今の秋葉さまを放っておいたら死人が出ますから」
「言ってくれるわね」
 またギリッという聞き苦しい音。
「誰よ、歯ぎしりしているのは!」
 運転手は答えない。もとより彼に返答を期待しているわけではなかったが、このときば
かりはそんなことさえ気に障ってしかたない。
「気づいてらっしゃらないんですか。秋葉さまですよ」
「なんですって!」
 衝動的に琥珀の頬を叩こうとした自分を寸前で押しとどめる。冷めた眼で私を見ている
琥珀。がらんどうの、その瞳。
「……くっ!」
 また湧き起こる衝動・衝動・衝動。どうにも収まりそうにない。
「秋葉さま。わたしはどうなったっていいんですよ」
 がらんどうなのは、瞳だけでなく。言葉までもが、空虚で自分をもっていない。目の前
の存在は、ひどく自分をいらだたせる。
 叩いたらすっきりするのだろうか。否、もっと嫌な気持ちになるに決まっている。自分
の頬が紅く染まっていくことになんか頓着せずに、
『少しは楽になられましたか』
 なんて言葉さえも笑顔で、中身のない人形のがさもこちらを気遣っているかのような微
笑みを見せるに決まっている。
「あれ? わたしに八つ当たりしないんですか」
 八つ当たりなんて言うから思わず叩いてしまった。
「痛いですよー」
「そんな強く叩いてないわよ。まったく、よりによって八つ当たりとくるの。私は今まで
一度も琥珀に八つ当たりしたことはないわよ」
「それは嘘です」
 涙顔を真顔に戻した琥珀は、私が口を挟むより先に話を進める。
「ついこの前。そう、志貴さんがお屋敷にお戻りになられた日のことは忘れてませんよね」
「何かあったかしら」
「おおアリですよ。志貴さんがなかなか来ないものですから、私の『お一人で帰ってこれ
ますよ』との意見に賛成した自分が馬鹿だった、兄さんが途中で交通事故に巻き込まれて
いたらどうしてくれるのよ、とかなんとか言われましたねー」
「確かにそういうこともあったわね」
「あったわね、じゃありません。きっと忘れてしまうだろうと思って、ちゃんとメモだっ
て取ってるんですから。忘れたふりしたって無駄です」
 やけに物覚えがよいと思ったら、メモをとっていたというわけね。今度から琥珀の前で
は口には気を付けることにしましょう。
「まあ、今回はわたしに任せといて下さい」
 といってドンと胸を叩く琥珀。暗くチリチリと燃える瞳がとても不安よね。


 キーンコーンカーンコーン。今のチャイムで昼休みは終わって、今は5分間ある移動時
間というわけだ。
 昼休みが終わって寂しい思いをするのは惜しいような、名残惜しいような気持ちはよく
あることだけど、今日に限っていつも以上に寂寥感を感じているのは、有彦とシエル先輩
が姿を見せなかったからだった。
「志貴くん、一緒にお弁当を食べましょう」
 と弁当箱を持って下の学年の教室にやってくるシエル先輩に、
「俺も食べるっす!」
 と横から割り込んでくる有彦。騒がしくて困ったものだが、ないと寂しいものだ。
 ちなみに有彦の姿は朝から見ていない。このところ真面目に登校していたので出席日数
に余裕が出てきたからもうそろそろ休むだろうとは思っていたので、予想通りといえば予
想通り。
 シエル先輩なら来れないということを一言断りそうなものだけど、何かあったのだろう
か。例えば吸血鬼を掃討しているとか、上司に呼び出されているとか、アルクェイドに喧
嘩売ってるとか、そういった抜き差しならない事情があったのだろうか。
「なあ遠野」
 もの思いにふけっていた俺に話しかけてきた人物に見覚えはあった。クラスの一員であ
ることは知っているが、名前は知らない。そんな間柄の奴だ。こちらから話しかけること
は勿論、話しかけられることもまずない、いわゆる赤の他人という存在だ。
 遠野志貴は視線だけで答えを促す。有彦がいうには、こういったところが俺を冷たく見
せているとか。
「さっきメイド帽をかぶった女性が来ていたけど、あれってお前関係なの?」
 俺が貧血で倒れたときに琥珀さんが迎えに来てくれたことがある。それで、この学校で
はメイド帽=俺つながり、といった等式がそれ以来成立している。
「見てないから分からないけどな、多分そうだろ」
「羨ましいねえ。あんな可愛いメイドさんにかしずかれて大富豪気分か」
「おい!」
 聞き捨てならない台詞に声が大きくなってしまった。すると、
「いやぁ本当に羨ましいよ、ホント」
 と人の神経を逆なでしながら俺の席からそいつは離れていった。幸福なんてないんだよ
とシニカルに笑いながら、切実に欲しがっているタイプは全く気に入らない。欲しいもの
を欲しいといえない奴は俺は好きじゃなかった。
「ちょいちょい。拳振るわせてますけど何かあったんですか」
 あれ、この声はシエル先輩じゃないか。
「こんにちわ」
 軽く手を挙げて挨拶するシエル先輩にあわせて俺も片手を軽く挙げる。
「こんにちわ。今日は随分と遅かったね」
「はあ。やっぱりデートの約束をすっぽかすのはイケナイことでしたか」
 デート、に教室中の男子が反応して俺に厳しい目を向ける。有彦、どうしてこんなとき
に視線避けのお前はいないんだ!
「デートじゃないでしょう」
「すっぽかしたのは悪いと思ってますから、改めてセッティングしましょう。今晩六時に
遠野くんのお屋敷でいいですよね」
 シエル先輩は俺の反論は聞いてくれないらしい。
「お泊まりしていいですか」
「だめ、絶対に駄目です!」
 周りの人々はのっぴきならないオーラを抱えて俺に迫っている。だれかフォローをして
くれないと、非常にまずい状況だ。
「というのは冗談です。遠野くんのお屋敷の子に誘われたんですよ。琥珀さんと言いまし
たっけ」
「俺は聞いてないけど」
「有彦くんも誘っているらしいですよ」
「学校に来ていないのにどうやって連絡を取ったんですか」
「さあ。そこらへんはわたしの管轄外ですから本人に聞いてください」
 キーンコーンカーンコーと5時間目のチャイムが鳴った。廊下側の生徒も窓側の生徒も
三々五々に席へと戻ってゆく。ただし、視線はこちらを向けたまま。視線の鋭さから察す
るに、琥珀さん云々という話はその場限りの言い逃れと思われているようだ。
「それじゃあ私はこれで」
 返事をしようとしたときには、シエル先輩の姿は教室から消えていた。入れ替わりに、
国語教師がゆっくりと教壇へ歩み寄る。
「起立、礼! 着席!」


 威厳より圧迫感を感じさせる敷地内と外を区分けする扉に、今更ながら自分はここにあ
ってないよな、と思いながら歩いてゆく。そういえば相続税はどうなってるんだろうか。
払うのは秋葉なんだろうけどさ、と下らないことを考えながら扉を開く。そこには畏まっ
てお辞儀をする翡翠に挨拶を返す。あ、ちゃんと迎えに来てくれたんだな。
「朝はゴメン」
「何のことだか分かりません」
 精一杯の笑顔で答える翡翠はいじましくて仕方ない。
「それじゃあ、ただいま」
「……」
 翡翠は何故か下を向いてしまった。無意識に何かマズいことをしてしまったのだろうか。
「ただいま」
 仕方ないので、もういちど言ってみる。翡翠は暫く黙っている。
 まだ黙っている。と思えば顔をいきなり上げて、
「おかえりなさいませ志貴さま。まずはお風呂にしましょうか、それともお食事にしまし
ょうか。それともア・タ・シ?」
 と言って再び恥ずかしそうに俯いてしまった。こんなことを翡翠が言うはずもないし、
入れ知恵をした悪人がいるということだ。
「琥珀さんだな。やっていい冗談と駄目な冗談があるだろうに」
「はい…」
「琥珀を責めてるんじゃないよ」
「おかえりなさいませ、志貴さん」
 そこに張本人(予想)が現れた。外で聞いていたかもしれないが、大事なことなので俺
は繰り返す。
「琥珀さん、やっていい…」
「どうです? 萌えましたか? 萌えましたよね? だって翡翠ちゃんですもんね。萌え
なきゃ嘘ですよね」
 俺に反論を許さぬスピードで矢継ぎ早に言葉を繋ぐ琥珀さん。
「それはともかく今日はパーティですよ。アルクェイドさんシエルさんに有彦さんもお呼
びしてます」
 一瞬、アルクェイド――シエル先輩――秋葉の三つ巴の争いが脳裏に浮かぶ。それを無
理矢理意識の外に追いやって、
「今度からは前もって伝えてくれませんか?」
 にっこり笑って琥珀さんは答える。
「ダメですよ。面白くなくなっちゃうじゃありませんか。あっいけない、お料理の仕上げ
をしないと」
 小走りに厨房へ去ってゆく琥珀さんを見送って、俺は翡翠にカバンを渡す。手慣れたと
考えたいところが、怠惰になったということかもしれない。

 さて、いま俺は居間の扉の外にいるのだが。
「志貴さま、入室なされないのですか」
「そういう琥珀も入ってないじゃないか」
「わたしは使用人ですので、志貴さまについていくだけです」
 居間の外、扉を隔ててでさえも緊迫した空気が感じられていた。こんな中に入るのは自
殺行為に決まってる。いま俺がそう決めた。
「じゃあ、今日の晩ご飯はコンビニ弁当にしとくから琥珀さんに伝えておいてくれ」
 シュタッ! と勢いよく手を挙げて、こうして俺は新天地へと旅立とうと振り返る。
「駄目ですよ志貴さん。健康の秘訣はバランスの取れた食事です」
「うわあっ!」
 振り向いた目と鼻の先に琥珀さんのドアップが迫っていた。
「琥珀さん、どこにいたんですか?」
「どこって、調理場です」
「調理場からどうやってここに出てきたんですか」
「不便なので秘密の通路を造らせていただいているんですよ」
「そうですか……」
 退路を封じられ、観念して居間と自分とを遮っていた扉を押し開ける。
 ヒュオオオオ、と擬音が鼓膜をふるわせたと思ったのは果たして錯覚なのだろうか。寒
々と冷えた空気が外へと逃れようと俺を襲っているのも、自分がつくり出した幻なのだろ
うか。
 部屋に足を踏み入れた俺に、秋葉の視線が突き刺さる。
「遅れてすまないな、秋葉」
「いえ。そのくらいなんともないです。それより、今日のこの会合がどういった意味か分
かっていますね?」
「琥珀さんはパーティだと言っていたけどな」
「聞いてよ志貴!」
 ソファーから立ち上がったのはアルクェイドだ。
「この妹が、わたしと志貴との結婚を認めないって言うのよ」
「今朝のまだ続いてたんだな……。で、シエル先輩はどうしてここに?」
「アルクェイドが暴れ出したときに取り押さえる役目だそうです」
 肩をがっくりと落としてシエル先輩は語る。
「わたしはこんなことに巻き込まれたくなかったんですけど」
「だったらどうして来たんですか」
「それは、そこにいる琥珀さんがですね――」


「ふう。このお菓子で今月の部費も使い果たしてしまいましたね」
 ずずっとお茶を啜ってしまったことでナーバスになる要素が一つ追加されて、思わず溜
息をついてしまった。
「おはようーございます!」
 和室の雰囲気をぶち壊しにする脳天気な声につれられて飛び込んできた女性はメイド帽
を被っていた。見覚えがある女性だ。たしか――
「遠野くんのお屋敷の琥珀さんでしたっけ」
「はい。琥珀です」
「遠野くんならここにはいませんよ?」
「いえー。今日はシエルさん、あなたを探しに来たんですよ」
「わたしですか?」
「是非ともあなたのような希有な能力をもつ人材が必要なんです」
 にこにこと邪気のない笑みを浮かべる彼女。なんとはなしに、邪気のない笑みは邪気の
ない人間であると導く推論があると世の中はもう少し幸せかも、なんて思ったりした。
「それは私の本業についてですか」
「わたしの主の秋葉さまが、アルクェイドと対立せざるをえない状況に陥ってしまいまし
たので、助力願いたいのです」
 あのアルクェイドと対立する理由。興味がわかないといったら嘘になる。
「状況とは」
「アルクェイドが志貴さんと結婚すると突然いいだしたんです」
「そんなことでわたしは自分の生命を危険にさらしたくありません。お断りします」
 わたしは即答する。それも当然、彼女にはかないっこないからだ。
「へー。これを見てもそう言えますか」
 彼女はポケットから数枚の写真を取りだした。近所の繁華街で腕を組んで歩くカップル
の写真。どうということはないありふれているであろうモノ。ただし――
「あなたと有彦さんがデート中の写真ですね」
「これがなにか?」
 人を脅そうというのだろうか。それにしては、瞬き一つしない笑顔は不気味である。こ
ういった相手にプライバシーがどうのと言っても無駄だ。あくまで泰然とした態度で接す
ることがコツ。
「これを上司のNさんに見せたらどうなるでしょーねー」
「ごめんなさい何でも聞きますから」


「――というわけなのです」
「ならデートがどうのこうのと俺の立場を危うくしないで欲しかったです」
「だって、そうでもしないと憂鬱でゆーうつで」
 からかわれた遠野志貴の末路も気にして欲しかったです。
「ところでNさんって?」
「あ、わたしのメル友です」
「埋葬期間のトップとメル友ね。おーい妹、こいつ解雇した方がいいよ」
「黙りなさい。使用人の雇用は私が決めることです」
 お、話が飛んでいるぞ。しめしめ、このままどこか遠くへ飛んでいってもらおう。しっ
かし、誰か忘れてるような気もするんだけどなあ。
「その意見にはわたしも同意しますね」
「いいのよ危険だって分かって使ってるんだから」
「秋葉さま、それはちょっと言い過ぎではありませんか」
「わたしは気にしませんけどね。ちゃんとお給料さえ払ってくれるなら」
 ようやく、その誰かが脳裏に浮かぶ。
「ところで、有彦はどこにいるんだ」
「有彦さんなら暖炉の中にいますよ」
 朗らかな声で琥珀さんが答えた。俺は暖炉に放り込まれていた毛布に目をとめた。昨日
までなかった、丁度人間大の大きさを持つ毛布に。

「おい、大丈夫か」
「死ぬかと思ったぜ」
 とは言っちゃあいるが、ピンピンしていて元気そのものだ。多少、顔色が悪いのは仕方
ないが、それだけで済んでいるというのは有彦を誉めるべきか。それとも琥珀さんの手段
を誉めるべきだろうか。
 まあ、窒息死してたりしていたらこれからの寝覚めが悪くなるだろうし。
「突然、そこの琥珀さんに誘拐されてよ、気が付いたら毛布でくるまれていたんだからな。
ハッハッハ」
「いや秋彦、そこは笑うところじゃないぞ」
 なんと度量の広い奴だ。もしくは、酸素不足がたたっているのか。
「琥珀さん」
「ええとですね。万が一、写真だけで強迫できなかった場合を考えて本人を人質にとって
おいたんです」
 背筋に冷や汗を感じながら俺は『絶対に社会に出してはいけない人だな琥珀さんって』
と考えていた。
「それはともかく、結婚の話です」
 せっかくここまで話が飛んでいたのに秋葉が話を元の線に戻してしまった。
「志貴はわたしと結婚するの!」
「いいえ、兄さんには兄さんに相応しい人を私が見つけてきます」
「相応しい人が『それは遠野秋葉です』とか言ったら容赦しないわよ、このブラコン!」
「なんですってぇ!」
 アルクェイドに掴みかかる秋葉。俺とシエル先輩は傍観し、琥珀さんは『ふれー、ふれ
ー、秋葉さま』と応援している。
「あのー、志貴さま」
「どしたの? 琥珀」
「秋葉さまもアルクェイドさまも気づいてらっしゃらないようですけど、婚姻は20歳か
らではありませんでしたか?」
「そういえばそうだっけ。そのことを二人に言ったらどうかな」
「秋葉さまなら20歳のことをいま考えるべきだ、と仰ると思います」
「そうだなー」
「そうですねー」
「あの、止めないでいいんですか?」
「そうだなー」
「そうですねー」
「みなさん、私が腕によりをかけて作った食事でもいかがですか?」
 琥珀さんが湯気の立つ料理を並べたテーブルに覆いをいま、取りあげた。
 三人の溜息が唱和して、これから喉を通るであろう美味に思いを馳せていた。
「頂きます」
「おっ、いいねー。これがいつも遠野が食ってる料理かあ」
「当然、わたしも貰えるんですよね」
「あ、あの……」
「結局、遠野志貴の意志が最重要なんだしな」
「ほら、志貴だってああ言ってるじゃない!」
「つまりアナタじゃないかもしれないってことでしょう!」
 真っ二つに分かれた居間の雰囲気。でもま、どちらも愉しいのかもしれないな。

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