スチャラカもくれんタマスダれ
※ボタンの上にマウスを置くと説明が出ます
――それは、とても昔の。
  夢を追いかけることも知らなかった頃の、夢――



 私は早くも後悔しかけていた。ベッドを抜け出てきたまではよかったものの、一歩屋敷
の外に出れば、森と見まごうばかりの木々に覆われた、星明かりが僅かに射し込む薄気味
悪い風景が広がっていた。折り悪くもその日は小雨のぱらつく天気だった。今、雨が降っ
ていないのは唯一の幸いかもしれなかったが、ぬかるんだ地面は私の恐怖心をいやがおう
にも煽っていた。
 そもそも、どうして私が深更に外を出歩いてるのかというと、どうにも眠りにつけなか
った私が侍女の一人に寝物語を頼んだことが発端なのであった。その侍女は何を思ったか
――まあ、お嬢様を怖がらせてやろうなどという下世話な感情だったのだろう――異国の
恋物語と見せかけた怪談話を語り始めたのだ。侍女の話っぷりは時には情感細やかに時に
は冷たく澄んだ口調でと私を引き込んだ。なにぶん、好奇心旺盛な子供だったのである、
私は。恐怖を押さえていた好奇心も物語が終わりを告げると同時にかき消えてしまい、残
った恐怖に怯える私は志貴兄さんならなんとかしてくれるはず、と兄さんが住んでいた離
れの屋敷へと向かったのだ。
 ところが、離れの屋敷までの道のりはとことん遠かった。光届かぬ景色に震え、風が葉
を揺らす音に怯える私には、ただでさえ子供の足には重荷の距離はまるで地球の反対側の
ように感じたのだった。そうそう、背の高さよりずっと上にある葉から落ちてきた雫が背
中の襟元に入って、飛び上がった挙げ句に足を滑らせて衣装を泥まみれにしてしまったん
だっけ。泥だらけになった姿に自分が情けなくなって、涙を拭こうとした手も泥にまみれ
ていたために頬にも泥がついてしまって。悔しいやら悲しいやらの感情でいっぱいになっ
た私は恐怖を忘れて、ただただ足をせわしなく動かして前に進んだ。
 やがて屋敷を覆う森で唯一、月の光を浴びることのできる小さな空き地に、あの人は空
を見上げて立っていた。その横顔は失った過去に思いを馳せているように私には思えた。
あの人の口が小さく開いて言葉を紡ぎ出す。

――今夜はこんなにも。月が、綺麗、だ――

 夜空には満月が。星に負けじと光を放っていた。たとえ涙を外に見せていなくとも、光
の中に佇む姿は雄弁に兄さんの心情を物語っていた。私はなるべく小さな声で兄さんに呼
びかけた。びくり、と兄さんの体が怯えたように揺れる。声のした方向に振り向いた兄さ
んは私を見つけて驚いたようだった。目をぱちくりとさせると、兄さんはとんでもないこ
とを言ってのけた。
「お前、本当に秋葉か?」
 私は心外なことを言われたと目を伏せて、シクシクと泣き始めた。途端に兄さんは取り
乱して慌てて弁解してきた。
「ご、ごめん。こんな時間に秋葉がいるなんて信じられなくて」
 私はしゅんしゅんと鼻を鳴らしながら上目遣いに兄さんを見つめた。端から冷静な目で
眺めてみると、随分とわざとらしいというかあざとい仕草である。もっとも、兄さんには
効果覿面で、狼狽する仕草も可愛らしい。平謝りする兄さんに怒りを解いた私は幾分か鼻
にかかった声で侍女に怪談を聴かされたこと、怖くなって兄さんに会いに来たことなどを
話した。
 兄さんは話を聞くと、離れの屋敷で一緒に寝ることを提案してきた。折角の提案を私は
もう歩けないと断った。私の返事にうーんと唸って名案を考え出そうとする兄さん。私も
兄さんに倣ってうーんと考えていると、ぽっと名案が浮かんだ。私はその頃には珍しく主
導権を発揮して、兄さんを切り株の傍に連れていった。まさかベンチの代わりに整えてあ
ったわけでもないだろうが、広場では唯一人が座ることのできる場所だ。私は兄さんを先
に座らせると、自分も兄さんの背中にもたれ掛かるようにして切り株に座った。
「寒くないか?」
 季節は梅雨の終わり頃で、パジャマ姿での夜の散歩にはまだ季節が早く、実のところ寒
かった。けれども、私は答えずに同じ質問できり返した。
「兄さんこそ寒くありませんか?」
「いや……」
 兄さんは言葉を一度切った。中天には銀色に輝く満月。無数の星を圧して、太陽の対極
に位置する寒々とした光を放つ月を、兄さんは憑かれたように魅入っていた。
「あったかい」
 兄さんから伝わる体温もまた、月の彩りを持っていた。温もりを伝えられぬ己が悲しく
て、一筋の涙が頬を伝わった。

[index]