スチャラカもくれんタマスダれ
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封娘捕物帖 巻之一 『狂人の愚断』

 花のお江戸は八百八町の治安を守るのは北町、南町の奉行を筆頭とする与力、同心たち。彼らの多くが居を構えるここ八丁堀に慌てた様子で男が転がり込んできた。
「親分、てえへんだてえへんだ!」
「おう、どうした静の字」
 静の字と呼ばれた若者は自分にかけられた声を探して首をせわしなく動かし、また休む間もなく走り出した。その先、縁側に腰掛けて煙草をふかしているのが彼が親分と呼んでいる殷雷である。
 静の字も若いが、殷雷もこれまた若い青年である。当世風に着流した服装に女のように長く伸ばした髪。見た目は一八そこそこ、実年齢は二二になったばかり。この若さで八丁堀でも二、三を争う与力と知れば人はどう思うだろう。
 殷雷は手下の無様な姿は気にせず――それどころか彼が屋敷に足を踏み入れてから目を動かせもしていない――煙管から白煙を吹き上げていた。
「殷雷親分、てえへんだ!」
 静の字こと静嵐は殷雷の目の前で急制動をかけた。舞い散る埃を手で追い払いながら、額に汗をかいた部下に殷雷は問いかける。
「静の字、三角形の面積は?」
「てえへん、掛ける、高さ、割る、二、です」
「よし。帰っていいぞ」
「おやぶーん!」
「ああ鬱陶しい、男に取りすがられたって嬉しかあねえぞ!」
 にこやかに退去を命じられて静嵐は泣いて殷雷に取りすがった。殷雷は乱暴に静嵐の胸をついて身を離す。その勢いで静嵐は後ろ向きに一回転して、
「おやぶーーーん。話を聞いてくだせえよ」
「うるせえ、てめえの話を真面目に聞いてられるかってんだ。今までのことを思い出してみろい!」
 言われて静嵐はここ一週間ほどの自分を振り返ってみた。
 昨日は溝に足を突っ込んで一日中草履を洗うはめになった。
 一昨日は寂れた寺の鬱蒼と茂った裏庭の林に男女が情を交わしているのを見て心中だと思って親分に知らせたら、何ということはない親に許されず密会を重ねていた男女の逢瀬だった。
 一昨々日は武家屋敷の人に依頼されていた化け猫退治に出かけて、軒下を調べたらそこを狙っていた猫に顔をおもいっきり引っ掻かれた。
 更に一昨々々日はと思いさすと、
「お前の下らない大騒ぎには付き合ってられないんだよ。ほら、小遣いやるから帰った帰った」
 パタパタとおまけに手を振って話を聞こうともしない殷雷に静嵐は涙目を見せた。殷雷は再び煙管をくわえて空へと白い円環を飛ばしていく。
「こら、そう邪険に扱うものではないぞ」
「爆燎の大親分!」
 屋敷の奥からどっしりとした大男が姿を現した。言葉ついでに殷雷の頭を小突いて庇から身を乗り出すと、陽の光を眩しそうに節々とした手で遮った。
 爆燎は残った手で自慢の髭を撫でながら静嵐に視線を向けた。当世風に着流した殷雷と違って彼はその巨躯を窮屈そうに紋付き袴に押し込めていた。彼は八丁堀の与力・同心集のまとめ役であり、大江戸の事件を一手に扱う、自他ともに認める八丁堀一の敏腕与力である。
「爆燎の爺い、静の字の話を聞いたって暇つぶしにもならんぞ」
 先程の拳の仕返しにとの殷雷の悪態に爆燎の拳が飛ぶ。
「それだからお主は半人前なのよ。虚心坦懐に話を聞かねば得るべきものも逃してしまうぞ」
「けっ、静の字の話を聞いて落胆してから台詞を言いな」
 殷雷が皮肉を言う度に拳撃を加えながら爆燎は静嵐に問いかけた。
「して、今日はいかなる向きだ」
「へい。殺しでやす」
「ほらみろ、爺い。たかが殺し……殺しだと!」
「わかったか小僧。さっさと静嵐に現場に案内してもらえ!」
 驚愕する殷雷をあざ笑い、爆燎は殷雷の長く伸ばした髪を掴みぶら下げた。そしてそのまま勢いをつけて屋敷外へ届けと放り投げた。
 無様に尻をつくかに見えた殷雷は必死に踏ん張り持ちこたえる。耐えきったと殷雷が思った瞬間を見澄まして爆燎は静嵐の襟首を掴んで投げつけた。無様に折り重なる二人にカラカラと笑い、
「殺しとなれば儂らの仕事だ。さっさと現場にかけつけて仕事してこい!」

 爆燎は牢人だったところを三年前に現在の北町奉行に見いだされ、全くの無名から与力に任命された。当時大江戸を騒がせていた辻斬りを捕まえたことが任官の理由である。与力・同心が実質世襲制になっていることからすれば異例の出世だ。頃良くというと悪いのだが、与力の家の血が絶えなければ同心にもなっていないだろうとは口さがない江戸っ子の弁だ。幕閣の一部では今でも伝統がどうのと愚痴を零す者もいるという。

「ほほう。殺しか。面白そうじゃないか」
 物騒な台詞をひきつれて爆燎の後ろから出てきた女を見て殷雷は呻いた。
「龍華……お奉行様が与力のむさ苦しい屋敷に何の用だ」
「お前もヤキが回ったかい殷雷。私が奉行所に収まるタマじゃないっことはお前も知ってるだろ」
 それは知っているが問題はそこにないではないか。殷雷はわざわざ言葉にして表さなかったが、腹の中の思いを無抜いたのか龍華は素直に理由を口にした。
「最近、魑魅妖怪が跋扈するわで治安が悪化しているからな。奉行直々の見回りというわけだ」
「それも理由になってないぞ。要するに奉行所に閉じこめられるのが嫌なんだろ」
「ちっ、ばれたか」
 殷雷の言葉にもあったように、龍華は大江戸の治安を守る総責任者の一人、北町奉行である。北町奉行という名称を見ると大江戸の北半分を管轄としているように理解しがちだが、そうではない。月ごとに北町奉行と南町奉行が交代で奉行所の職務に当たるのである。
そして今月は北町奉行の番月であった。

 爆燎を与力の職につけたのも龍華の手柄だ。そして、龍華が北町奉行に任命されたときの騒ぎは爆燎のときのそれとは比較にならなかった。女性が役職につくのも異例ならば、北町奉行への任命となると尋常の騒ぎで済むはずもない。事実、龍華が北町奉行に任命されたときには天地がひっくり返るほどの騒ぎが幕内で起きたという。
 そもそも、龍華の来歴も不明なのである。そのため「上様の御落胤である」「京の貴族の娘である」「吉原の遊女である」などなど様々な憶測が今も飛び交っている。龍華はそれらの噂に対し明確な反応を示すことはなく、むしろ自分が噂されることを楽しんでいるようである。
「私のことはどうでもいい。お前はお前の仕事をきっちり果たしな」
「言われるまでもない。いくぞ、静の字」
「へい!」

 殷雷と静嵐が屋敷から出ていったことを確かめると、龍華の眼に真剣の鋭さが宿った。
「爆燎よ。大事な話がある」
「はっ」
 腰を落として畏まる爆燎に噛んで含めるように龍華は言った。
「よく聞け。愚断が帰ってきた」
 爆燎の眉間に筋がよった。彼にしては珍しく声を潜めて訊ねる。
「愚断とは、あの愚断でございますか」
「他にどの愚断がいる。殺人狂にして稀代の知恵者、愚断だよ」
 嘲るように、嘆くように龍華は答えた。深く沈んだ表情で爆燎は質問を重ねる。
「奴は江戸所払いになったはずでは」
「将軍のお世継ぎが生まれたとやらで恩赦が出されただろ。それでだ」
 沈黙が屋敷を支配した。突如爆燎が龍華の顔を見上げる。
「まさか、静嵐の見付けた殺しも」
「今の段階ではなんとも言えんな」
 そして再び沈黙が辺りを支配する。
「そうでないことを祈るだけだ」
 重々しい雰囲気を破るに破れない、龍華の声だった。



「こいつはひでぇえな」
 仏を見た殷雷の第一声がそれだった。顔面を二つに切り裂いた一閃。右腕と左腕をそれぞれ切り裂いた一閃。両太股を刺し貫き、おまけに……。
「どてっ腹開けて内臓を引きずり出して……うえっぷ」
「まだだ静の字。舌も切り取って……ん、舌はないのか」
「ないみたいですね」
 見るのも嫌そうに、それでもちゃんと調べるところは立派だ。殷雷は静嵐を少しだけ見直すことにした。
「お前も同じ事を考えていると思うが、静の字」
「へい。愚断の仕業でやすね」
 愚断。今から十年前にお江戸を賑わせた殺人狂である。四肢を傷つけ、内蔵を体外に引き出し、相手に苦痛をじっくりと味会わせた後に舌を切り取るという残酷な殺しを江戸の瓦版衆が見逃すはずもなかった。
 かくして一躍江戸の注目が集まった愚断は対象を捕者方に限定するようになり、瓦版衆の期待に応えるように江戸与力・同心の数を半減させた。いや、ここまでは瓦版衆も望んではいなかった。
 かくして江戸の治安は急速に悪化し、夜が花のお江戸とも思えぬ静寂に支配されて数ヶ月。一人の牢人が愚断を生け捕った。新たに瓦版を賑わしたのは当時、一牢人でしかなかった爆燎である。
「くそ、龍華の野郎が直々に見回っているっていうのはこういうことか」
 龍華は頭脳が冴えるだけの女ではない。どこで修行を積んだのか、御前試合で将軍家指南役の柳生心陰流当主に勝利を収めた程の剣の腕前をもっている。
「どうしやす、親分」
「相手が愚断じゃそう簡単に尻尾は掴ませてくれねえだろ」
 愚断の殺しを目撃した人物はいない。十年前も愚断の住んでいた長屋から舌を連ねた鉄の輪を発見してようやく真っ当な証拠にありついたほどだ。
「ひとまず、お茶でも飲んで一休みするか」
「この光景見てよく腹に物が通りやすね」
 恨めしそうに呟く静嵐を引っ張って殷雷は馴染みの茶屋へ向かった。


 団子の皿を渡しながら話しかけてきたのは茶屋「あずきや」の看板娘だ。娘の笑顔に応えるように殷雷も相好を崩して向かい合った。
「はい、親分さん。今日もお仕事ですか? 大変ですね」
「いや、和穂ほど忙しくはねえな。こちとらブラブラと歩いてりゃいいんだから」
「またご冗談ばっかり。爆燎の次代を担うのは殷雷親分だって巷の評判ですよ」
「おっ、そいつは嬉しいねえ。でも俺は爆燎の後釜で収まるつもりはないぞ」
「ふふ。頑張ってくださいね」
 和穂の姿が店内に消えると殷雷は露骨な溜息をついた。
「まあ、なんていうか、鈍感な娘子ですよね」
「静の字、俺があんなちんちくりんにご執心だとかぬかすつもりじゃねえだろうな?」
 凄みを効かせて殷雷は静嵐に迫る。
「はいはい。分かってますよ。団子がお江戸で一番美味いからでしょう」
「分かってるなら下らねえことを言うんじゃねえ!」
 ここ「あずきや」はお江戸でも評判の茶屋――休憩所だ。ちょっと路地が入り組んだ場所にあって誰もが知っているわけでもないが、知る人ぞ知る、という店だった。
 店のウリはたっぷりとタレをかけた団子と、看板娘の和穂である。和穂は他の娘と比べて太い眉に難があるもの、誰にでも分け隔て無く優しく、「あずきや」の繁盛の一翼を担っている。
「まあ親分の気持ちを分からないでもないでやすけど」
「だから違うと言ってるだろう!」
 しかしつき合いの長い静嵐は知っていた。
 殷雷が前々から「あずきや」に通っていたことは事実だが、よくて週に一度の頻度だった。それが週に二、三度通うようになったのは和穂が「あずきや」に現れてからである。

 その日も女将は誰よりも早く店の仕込みの為に起き出した。すると、居間にちょうど年頃の娘が倒れているではないか。行き倒れがどうして戸締まりしていた店の中に入ってきているのだろうと不思議に思ったのはずっと後になってのことだそうだ。慌てて女将は娘に駆け寄った。幸いにも熱はなく、半刻足らずで娘は目覚めた。
 その娘こそが和穂である。和穂は自分の名前以外には何も覚えていなかった。女将はこれも何かの縁、と和穂の世話を引き受けた。その見返りといっては打算的に過ぎるのだが、店の表で働く和穂に男性客が誘き寄せられ、商売繁盛というわけである。
 ちなみに現在、和穂は「あずきや」の女将に養子として引き取られている。「わたしの可愛い娘さね」と和穂の肩を抱いて自慢するのが女将の日課となっていた。

「親分さーん、お団子のおかわりいかがですか?」
「おっ、いいねえ。じゃ串二つ頼むよ」
 でれっと鼻の下を伸ばしてますよ、とは言わないでいた静嵐だった。



 日没後も花のお江戸は華やかだ。それどころか、蕎麦屋や酒屋にとっては日が沈んでからが商売だ。
 人々は灯りに引き寄せられる蛾のように、むらがっては蕎麦をススってあれやこれや論評しながら次の店を目指す。
 吉原のような歓楽街は別にして、それでも深更となるとさすがに人影はほぼ途絶えてしまう。
 人気の途絶えた道を男はふらつきながら長屋へ向かっていた。誰が見ても酔っぱらっている足取りで、よく転ばないものだと感心したくなる程だ。
 微酔い気分の彼に声をかける者がいた。気障な男の声色だった。
「おい、兄さん」
 男は呼ばれるままに振り向いて、相手の凶眼を見た。
 嗤っていた。片目を細めて罠にかかった獲物に舌なめずりしていた。
 本能が叫ぶ。こいつは危険だ、今すぐ逃げろと。
 だがその警告が発せられたときには、白刃は男の目の前に迫っていた。

 それからは昨日の死体の再現だった。顔面を断ち割って一閃。返す刀で右腕を、次いで左腕を切り飛ばす。
 愚断にとっては人体も紙もさしたる違いはない。手を動かせば、斬れる。ただそれだけだ。
 剣を腰だめに構えて人の目にとまらぬ早突きで相手の両太股を射抜く。
 先ほど人体も紙もさしたる違いはないと言ったが、ある意味それは間違っている。紙は泣かない。血を流さない。虚しく命乞いを試みたりしない。
 人は、面白い。泣き、わめき、血を流す。そんな人の様を見るのが愚断は好きでたまらなかった。
「くくく……ふはははははは」
 愚断は四肢の機能を失って地面に倒れ伏した男を仰向けになるよう蹴り転がした。そして男によく見えるよう剣を見せつけて腹に突き刺す。
 声にならない悲鳴を上げる男の表情を味わいながら、愚断は男の腹を四角に切り裂いた。
むんずと腸を引きずり出し、表面についた血を啜る。

 何物にも代え難い、甘美な味だ。

 愚断は男の目を見た。男は大量出血で意識が薄れかかっている。愚断は溜息を一つ吐いた。
 愚断の腕が無造作に男の口蓋を犯す。すぐに目当てのもの、男の舌のありかを探し出した愚断は舌を引っ張り出した。
 痛みに男が正気を取り戻す。それさえも彼に最期を告げる為に行われていた。焦点の合った瞳に嗤いかけると、愚断は舌に刃を当てて、削ぎ落とした。



「くそっ、間に合わなかったか」
「昼間の殷雷の報告にもありましたが……間違いありませんな」
 闇夜の中、龍華の舌打ち混じりの声が聞こえる。
 龍華の傍に控えた爆燎も事切れた、と表現するにはあまりにも無惨な姿を晒す男に目を 向ける。 「出来れば間違っていて欲しかったのですが」 「十年前の再来だけは……」  爆燎は悪夢を振り払わんばかりに頭を振った。目を閉じた爆燎は十年前に死んだ同僚に思いを馳せているのか。
「似顔絵を作る。十年前のものでいい」
 唐突な龍華の言葉に爆燎は否定的な見解を返した。
「無駄です。あれは姿形を昔とはすっかり変えてしまっているでしょう」
「それでも、我々に打てる手はそれぐらいしかないんだよ」
 血を滲ませた龍華の言葉に爆燎は黙って頭を下げた。



 愚断の手がかりを何も掴めぬまま犠牲者だけは徒に増えてゆき、とうとう最初の殺しから数えて七人目の死者が確認された。
「最初はここ、次はここで……今んとこ最後はここか」
 地図の上、被害者の発見場所を赤く塗りつぶす。
 徹夜続きの見張りにしょぼしょぼする瞳を無理矢理押し開いても、じっくり見つめても、眠たさに瞼を半ば閉じて見ても、そこに法則性は見いだせなかった。
「調子はどうですか親分さん、と言うまでもないみたいですね」
 確かに筆を耳に挟んでうんぬん唸っている殷雷の姿を見れば捜査の進展状況は言わずとも知れていた。
 盆を胸に持った和穂は殷雷の抱えている地図に目を落とす。
「どれどれ。あ、そういえば静嵐さんはどうしたんですか?」
「あいつなら家で寝てるよ。ま、俺もそうした方がいいんだろうけどな」
 連日連夜の見回りで睡眠不足も限界に達していた。この状態だと愚断を見つけても捕らえるどころか自分が被害者となりかねない。
「親分は仕事熱心なんですね」
「け。よせやい。出し抜かれっぱなしなのが気にくわないんだよ」
「ふふ。もしかしてこの赤いバッテンは、あの」
「そう、仏が見つかった場所だ」
 じっと和穂は印のついた地図を見つめる。視線を左右に動かして、時には地図を回転させたりする。
 さして期待も持たずに殷雷は言った。
「何か分かったのかい」
「うーん……あっ、わかりました」
「本当か!」
「ひしゃく星じゃないでしょうか」
 ひしゃく星。天極に存在する星々の連なり。北斗七星とも呼ばれる。
 仏の数は七つ。そして、和穂に言われてみれば、地図の上にあまりにも大きく描かれていたために気づけなかったが、確かに北斗を象っていた。
「よくやった和穂!」
「まさかこんなカラクリが隠されていようとは。恩に着るぞ!」
「あの、親分さん。恥ずかしいのでやめて頂けませんか?」
「ん? 何をやめろというのだ」
「密着しすぎというか、男女七つにして席を同じうせずというか」
 和穂に抱きかかっていたことに気づき、慌てて殷雷は飛びすさって和穂との距離を取った。
「す、すまん。ちょいと喜びすぎた」
「いいんですよ。親分さんに喜んで頂ければ私も嬉しいです」
「さて、となると今日、愚断の奴が現れそうな場所は……」
 言いさして殷雷の言葉が止まった。北斗は七つ。仏の数も七つ。もう北斗は踏まれた後だ。次の予測もなにも、もう終わってしまっている。ちなみに、北斗を踏むとは道教の儀式の一つで北斗七星陣を描くことをいう。
「一から考え直しか」
 途方に暮れた殷雷を和穂が揺さぶった。
「まだそうと決まったわけじゃありませんよ。ほら、北斗にはもう一つ星があります」 「そうか、輔星か!」
 殷雷ははた、と膝を打った。
 輔星(アルゴル)は武曲星(ミザール)のすぐ傍にあって弱い光を放っている星だ。アラビアではこの星を兵士の視力の判定に使用したという。
「よし、今すぐ龍華に知らせてくる」
「頑張ってくださいね、親分」
「おう、今夜こそ愚断を捕まえてみせるぜ!」



 息せきかけて爆燎の屋敷に飛び込んだ殷雷が見たものは、和やかに酒を酌み交わす男女の姿だった。一人は北町奉行・龍華。もう一人はこの屋敷の主たる爆燎ではなかった。
 薄く細めた目に笑顔を浮かべている優男だ。もっとも、殷雷はただの優男ではないと知っていた。仕事が違うためその仕事を間近で見ることはほとんどないが、寝てても噂は飛び込んでくる。
 江戸っ子に大江戸一の名奉行とうたわれる「遠山の玄さん」こと南町奉行・護玄だ。
 龍華を動とすれば護玄は静。順列を無視して現場に出張らないと気が済まない龍華と、奉行所に鎮座して現場にいたかのように裁可を下す護玄。対照的な二人である。
「殷雷じゃないか。そんなに急いでどうしたんだ」
「二奉行が揃って昼間っから酒なんか飲んでるんじゃねえ!」
 こちとら徹夜で死にそうだってのに。きつく意気を挫かれた殷雷に龍華が声をかけた。
「愚断について何か分かったのかい」
「ああ。奴は北斗を踏んでいる」
「そうか。良く分かったな」
 あっさりと言われて、俺の苦労はなんだったのかと殷雷は家に帰ってふて寝したくなった。
「知っていたのか」
「いんや。気付いたのは今日の朝だ。なあ護玄」
「お前、俺が教えてやらなきゃ気付かなかっただろう」
 護玄が半眼を向けると龍華は居心地悪そうに視線から微妙に顔をずらした。
「それで殷雷。今日、愚断がどこに出るかは予想できてるよな」
「ああ。輔星のあたりだろう」
 殷雷の答えに二奉行は揃って顔を見合わせた。殷雷の予想しなかった反応だ。
「しまった、その可能性もあったか」
「まだ夜になるまで時間がある。配置換えは今からでも間に合うだろう」

「うむ。では打ち合わせ通りに」
 打ち合わせも済み、護玄は険しい表情で屋敷を後にした。
 事情の分かっていない殷雷に龍華が説明を始める。
「あいつが北斗図に気付いて、教えに来てくれたんだよ。
 おおむね人員の配置が概ね決まったところにお前がやってきて、輔星だ何だというから配置を考え直すはめになってしまったというわけだ」
「分かった」
 殷雷が自体を納得したところに屋敷の奥から完全武装の爆燎が姿を現した。兜・鎧・小手・脛当・具足を身につけた爆燎に殷雷は度肝を抜かれた。与力・同心の標準武装は鎖帷子・小手・脛当である。戦国の世でもあるまいし、これでは絵巻物に表れるような装備ではないか。
 しかし爆燎はさも当然といった顔で龍華の前を通り過ぎようとする。
「それでは龍華様、行って参ります」
「待て。ちょいと事情が変わった」



 北の輔星の位置に爆燎と龍華が位置し、愚断が現れる可能性のある場所すべてに与力とその部下が配置されることとなった。殷雷と静嵐は南の文曲星で愚断を待ち受けていた。

「暇でやすね」
 闇の中、殷雷がじっと目を凝らしていると静嵐の愚痴が聞こえてきた。
「殺人狂に襲われるよりゃましだろうよ」
「そりゃそうですけど」
 無駄口を叩いていると、久しぶりに人影が通りかかろうとしていた。男だ。
 男は千鳥足でふらふらと歩いていたがやがてバランスを崩してしまい、殷雷たちが隠れている路地のすぐ手前ですっ転んだ。
「おい、大丈夫か?」
「へ、へえ。済みません親分」
 ふと殷雷たちの気が緩んだそのときを狙い澄ましたかのように。
 白刃が煌めいた。

 男は床に崩れ落ちたままで斬撃を放った。狙いはこちらの足。移動力を封じることが目的だろう。腰の刀を抜く時間はない――
 鋼同士がぶつかり合う音が前方に木霊する中を殷雷は素早く後ろへ飛びすさった。  捕り物のときはいつも十手を手にする癖がなければ既にやられていたはずだ。悪寒を振り払うかのように殷雷は叫んだ。
「静の字!」
 殷雷の合図を待つまでもなく静嵐は呼び子を吹いていた。甲高く鳴る呼び子を聞けば、辺りの仲間たちが集まってくる手はずだ。
 だが仲間たちが集まるまで持ちこたえられるのか。一抹の疑問が殷雷の頭の中から抜けなかった。
 愚断は二人が初めに交錯した場所でゆらりと立ち上がる。
 にぃ、と愚断は嗤った。
「いい、いいぜお前。そうだよ。たまには手応えのある獲物を狩らなくちゃなあ。ふへ、ふへへへへ」
 嗤う愚断に応えるように殷雷は十手を握った左手を愚断へ向け、右手は刀の鍔を握っている。
 やがて愚断の嗤いが収まった。
 それが――
 愚断の腰が深く落とされる。
 闘いの――
 殷雷は動かない。
 火蓋を切った。

 体のばねを利用して愚断は飛びかかった。腰を落としたまま、横に滑るという異常な跳躍だ。勢いで加速された剣は殷雷の胸を狙う。
 殷雷はそれでも動かない。
 愚断の剣が殷雷の胸を突き破ろうとする刹那、十手が動く。愚断の剣は十手に行く先を変えられて殷雷の脇腹を傷つける。愚断は速すぎた。そこはもう、刀の領域だ。殷雷の刀が鞘走る。

『秘剣 虚刃』

 知覚できぬ程の速度で振るわれるが故にその名を持つ秘剣。
 だが、秘剣は衣服の切れ端を切り裂いたのみ。愚断は横に飛び退いてこれを躱したのみならず――
 二段目の『虚刃』が辛うじて殷雷の体を切り裂こうとした剣の軌道に割り込んだ。
 鉄と鉄とがぶつかり合い、きしんだ音が世界を支配する。
 殷雷の注意が刀に向いた一瞬で愚断は殷雷の視界から消失した。右、いや上だ。
 愚断は既に大上段に振りかぶっていた。
「キシャアッ!」
 紙一重の差で愚断の剣は殷雷を捉えられない。殷雷は三段目の『虚刃』を放つ。絶対的な間合いのそれさえも後方の飛び退かれてかすることさえ、ない。
 俺は遊ばれている。殷雷の奥歯がぎりっと鳴った。
「静嵐!」
 大声で一の部下を呼ぶ。いつまで待てども返事は帰ってこない。逃げやがったかあの野郎と歯ぎしりする殷雷に耳障りな嗤い声が響く。
「ははは! 無理、無理だよ。俺とお前だけが世界から隔離されている。この世界には俺とお前の二人しかいない」
 こいつは何を言っている――殷雷の困惑など知らぬ気に愚断は嗤い続ける。
「でもいいこともあるんだぜ。向こうから干渉できない代わりに、こちらからも干渉できないんだからな。そう、お前が頑張ればその静嵐って奴も無事でいられるってことさ」
 くけけ、と嗤い続けた愚断はふと目つきを変えた。冷めた目。その瞬間、愚断から発せられる気配が変わった。より濃厚な血と死の匂いに殷雷は気圧される。
「さっきから同じ一撃だけだ。お前には他に取り柄はないのか?」
「『虚刃』だ。結構自信あったんだがな」
「そうか。もう少し楽しめるかと思ったが」
 愚断は妙に人間くさい溜息を漏らした。
「ならば、死ね」
 殺される――殷雷はそのことを確信した。

 ちりん……。涼やかな鈴の音が戦場に木霊した。
 殷雷に興味を失った愚断は音の聞こえた方角へ首を傾けた。殷雷も鈴の音の主を探る。
 ちりん、ちりん……。鈴の音は聞こえども姿は見えない。
 ちりん。その音を最後に鈴の音はぴたりと止んだ。

「一体……」
 ただ単に風に飛ばされて鈴が音を立てていただけなのだろうか。それにしてはぴたりと鳴りやんだことが不自然だった。
 愚断はなおも辺りを見回していたが、やがて愕然として呟いた。
「結界が破られた?」
 その言葉が合図だったかのように、唸りを上げて飛び込んできた大槍が愚断と殷雷とを分かつ。
「朱塗りの大槍……また貴様か、爆燎よ!」
「いいや。今回は儂が相手ではない。お主を葬るのは龍華様よ」
 愚断は突然背後に気配が発生するのを感じた。

 前方に跳んだ愚断を追い、剣旋によって巻き起こされた烈風が襲いかかる。その速度は愚断の跳躍を超えていた。愚断は剣を当てて烈風を潰す。その視界の中には何者の姿もない。
 龍華は愚断の背後をとっていた。それと殷雷に分かったのも愚断の胸から刃先が飛び出したからだ。龍華はそのまま、両腕を上へ跳ね上げる。左右の両刀が愚断を抉り、孔雀が羽を広げた姿に血が飛び散った。呻き声を上げる愚断。
 苦悶の声を無慈悲に受け止め、龍華が無造作に剣を振り下ろした。脳天から臍を通り股間を抜けた剣から剥がれ落ちるように、とさっと軽い音を立てて、二つに分かたれた愚断の体が地面に転がっていた。

「調伏」
「お見事です、龍華様」
 淡々とした声の龍華に、爆燎も淡々とした声で応えた。
 殷雷はただただ呆気に取られてこの光景を眺めていた。
 お見事などという話では済まない。これはもはや人間業ですらない。
「龍華、貴様は何者だ」
 虚勢を張ることなどとても出来たものではない。我ながら、哀れに震える声だと殷雷は自嘲した。
「知ってるだろ。北町奉行さ」
「下らぬ嘘を……」
「今見たことは忘れな。その方がいい」
 有無を言わさぬ口調で龍華は命令した。
「ところで殷雷。吾等の他に誰かの姿を見なかったか」
 爆燎が自慢の大槍を引き抜いた。いつにもまして厳しい口調に、惚けかけた殷雷の意識が集まった。
「誰もいなかった。鈴の音が聞こえたような気もしたが」
「鈴の音?」
「…………」
「……」
 事件の終結が気を緩ませたのか、連日の徹夜も限界に来ていたのか。ともかく殷雷の意識が保ったのもそれまでだった。



 かくして江戸を騒がせた狂人・愚断はその命を永遠に失った。
 だが、殷雷の胸の内は愚断の生時より更に暗い帳に覆われることになったのだった。

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