スチャラカもくれんタマスダれ
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封娘捕物帖 巻之二 『町の噂』

 江戸城の奥まった一室に一組の男女が集っていた。東を向き座っている男は南町奉行を
拝命する護玄、北を向いているのが北町奉行の龍華だ。凛とした美貌の中にも女性らしい
柔らかさを潜ませている龍華は豊かな長い髪をそのままに男装していた。滝を描いた水墨
画に視線を向けた龍華は護玄に目を向ける。目を瞑る護玄とはこの部屋に入って以来、一
言も声を交わしていない。
 護玄の瞳が開いた。入れ替わりに龍華の瞳が閉じられる。ややあってどたどたと耳障り
な足音が廊下に響いた。足音は次第に音を増し、襖越しに人影が写ると部屋を静寂が包み
込んだ。
 男は当然の如く上座に着いた。時候の挨拶を述べる護玄に右手を挙げて制止し、右手に
持っていた巻物を読み上げる。
「北町奉行龍華。この者、吟味無しに愚断を処断した罪により一ヶ月の謹慎を申しつける。
異存はないな」
 堅く目を瞑り答えない龍華を忌々しげに睨み付けた上座の男は次に護玄に目を向けた。
護玄にも異存がないと見て取ると立ち上がった。態度が無言で二人に対する敵意を表して
いた。男は最後にもう一言付け加える。
「なお、その間の奉行所の職務は南町奉行が執り行うこと」
 男が退出するのを横目で眺めていた龍華は、男の足音が聞こえなくなるや足を無造作に
投げ出した。
「やれやれ、鳥居様はご立腹の様子だな」
「子飼いの狼を噛み殺されたんだ。そりゃそうだろ」
 十年前、辻斬りの証拠がありながら愚断が死を免れたのには理由がある。愚断の腕に目
をつけ私的な刺客として雇っていた幕閣がいた。その幕閣が裏から手を回して死刑だった
ところを大幅に軽減して江戸所払いにしたのである。それどころか、護玄が調べたところ
によれば、その幕閣は自らの所領に愚断を招き、年貢低減を主張する百姓達に差し向けた
疑いがある。
 そして今回もまた、愚断捕獲の為に動いていた奉行所に愚断を生け捕りにするように、
との横槍が入った。出所がかつて愚断を助命した幕閣の地位、人脈を引き継いだ鳥居だと
知った龍華たちは十年前の轍を踏まぬようにと、愚断抹殺に動いたのだ。
 結果は龍華の一ヶ月の謹慎処分。龍華たちの予想通りだ。一つ頷いて、龍華は清々しい
笑顔で言った。
「そんじゃ、一ヶ月休養を取らせてもらうよ」
「休養って龍華、お前」
「違うのか?」
「違わないか。はあ。納得したこととはいえ、気が重い」
 奉行所の職務は激務である。奉行が一月ごとに北町奉行と南町奉行で交代される理由の
一つもそこにある。いつもの二倍の期間を勤め上げねばならないとなれば、いくら真面目
が取り柄の護玄とはいえ、弱音も吐きたくなる。
「まあ、そう言うな。油揚げでも陣中見舞いに持っていってやるからさ」
「人をおちょくるのもいい加減にしとけよ……」
 滅多に見せない護玄の怒声に龍華の笑顔が固まった。



「親分、見回りに行きましょう」
「嫌だ」
 静嵐の誘いを一言の元に却下した殷雷は縁側にごろりと横になった。春の穏やかな日差
しの降り注ぐ天、生命の精華が花開いた庭に目を向けて、幸せそうに目を細める。
「今日もお江戸は日本晴れ。てなわけで、俺はぬくぬくと昼寝して猫と友達になろうと思
っているから邪魔するな」
 殷雷は爪でまだ新しい縁側の板を引っ掻いた。猫の気持ちが分かるのではないかと思っ
たからだ。
 うららかな風に乗って運ばれてくる草花の匂い。冬を乗り越えた喜びにわく匂いは、明
日への期待を予感させる。
 一年の中で最も過ごしやすい気候を迎えて、忙しく働く人々の熱気。この時期は江戸へ
の奉公人を迎える季節でもあり、新しい風が江戸の町に彩りを添える。
 殷雷が見回りをサボろうとするのも尤もだった。殷雷を仕事に誘おうとする静嵐も出来
れば殷雷と同じように家でのんびりとしたい気分は十分にある。
 だが、静嵐は春に浮かれる心境にはどうしてもなれなかった。溜息を添えて、取りなす
ように話しかける。
「人の噂も七十五日と言いますよ。もう江戸っ子は他のことに興味が移ってますって」
「まだ二週間しか経ってないぞ」
「大丈夫ですって」
「一週間前もその台詞に騙されたんだよ」
 とりつく島がない殷雷に、自分も寝ころんでしまおうかと静嵐が思ったそのとき、屋敷
の主が姿を見せた。
「お早うございます」
「うむ」
 鷹揚に答えた主――爆燎は縁側に体を丸める殷雷に目を向けると呆れた口調で言った。
「まだふて腐れておるのか。あれは小僧を鳥居の視界から外すためだと説明しただろうに」
「他の方法だってあるだろう。絶対に龍華は面白がってやがる」
 答えながら、殷雷は忌々しい二週間前の出来事を思い出していた。



 目を開けると天井の景色が広がった。殷雷は眼前の光景に違和感を抱いた。寝起きゆえ
か。いや違う。殷雷の済む長屋の天井はもっと煤で薄汚れている。
 頭を左右に動かしてみた。右側には上等な襖から淡い光が射し込み、左側には竜虎の掛
け軸と青磁の陶器が飾られていた。殷雷は自分の住む長屋ではないと今度こそ確信した。
 のろのろと起きあがると襖に手をかける。急に強くなった光を左手で遮って、やや暗い
視界の光景をゆっくりと脳内に送り込んだ。飾りのないこの光景には見覚えがある。爆燎
の屋敷だ。
「ようやく起きたか」
 爆燎は素振りをしていた手を止めると、木刀を立てかける壁に向かった。鍛錬が終わっ
たのだなという殷雷の予想を裏切って、木刀が殷雷目掛けて飛んできた。
「稽古をつけてやろう」
「腹が減っては戦が出来ぬと言うだろう。朝食後にしてはくれぬか」
「愚か者め、そのような理屈が戦に通ずると思っておるのか」
 汗を吸って赤みを帯びた木刀のささくれ立った表面をなぞりながら殷雷が言うが爆燎は
にべもない。体を沈め、槍を腰溜めに構える爆燎に答えて殷雷も構えを取った。
 爆燎が一歩前に出る。ただの一歩で殷雷は槍の領域に絡め取られた。寸時をおかず放た
れる鋭い一撃は殷雷の体の中心を狙っていた。
 穂先に合わせるように殷雷の木刀が動く。槍の軌跡を避けながら穂先に木刀を当て、弾
く。これで爆燎との間に遮る物は何もない。一気に勝負をつけるべく走る殷雷。だが、爆
燎が弾かれた槍を戻す速度は更にその上をゆく。再度の突きは殷雷の木刀を砕いた。尚も
勢いは止まらず、殷雷の脇腹を打ち付ける。
「ぐぼっ」
 穂先はつぶしてあるが、だからこそ生じる衝撃に体内の空気をはき出す殷雷。
「まだまだだな」
 爆燎は槍を壁に立てかけた後殷雷に近づくと、
「だが一撃目を弾かれるとは思わなかった。この調子で鍛錬するがよい」
 爆燎は小姓に木刀の残骸を片付けるよう命じ、「後で龍華様に顔を見せるように」と言
い残して書斎に姿を消した。

 静嵐が汲んできた井戸水をたっぷりと染み込ませた手拭いを鈍痛を発する脇腹に載せて
横になっていると、龍華が顔を見せに来た。龍華は殷雷の様子に眉を寄せる。昨日の愚断
との戦いで殷雷は傷を負っていないから不審に思ったのだ。
 暫し観察して大した怪我ではないと判断した龍華は有無を言わさぬ口調で、
「ついて来い。お前に話したいことがある」
「いいだろう。俺も龍華に尋ねたいことがあるからな」
 着替えを終えた殷雷を引き連れて龍華は街を練り歩いた。日本橋まで足を伸ばした一行
は結局、八丁堀の武家屋敷に戻ってきた。
「まあそう怒るな殷雷。ところで、町に何か変化はなかったか?」
「何もなかったぞ」
 無駄に時間を使ったと不機嫌な殷雷を気にしていない態度で、龍華は一枚の紙を渡した。
「そいつはお前が眠っている間に売り出された瓦版なんだがな」
 人の常として、文字よりは中央に躍り出ている絵図に心惹かれる。殷雷の目に止まった
のも、中央に位置した絵だった。一言で表すならこんな絵だ。死体を足蹴にして、愚断の
首を片手に下げている絵を仏さまと殷雷が拝んでいる絵。
 文字に目を移してみると、
「愚断から逃げまどう殷雷。そこへ颯爽と現れる龍華。一刀の下に愚断の頭を体から斬り
離し……。うむ。我ながらもっとよい表現がなかったものか」
 申し訳程度の大きさで書かれている文字を声に出した龍華が付け加えた言葉を殷雷は無
論、聞き逃さなかった。
「待て、もしかしてお前がネタを渡したのか?」
「失礼な」
「そうだよな、いくら龍華でも……」
「着想から図版の大きさ、文字の配置まで全て私が指定したぞ」
 ふんぞり返って自慢げに語る龍華に殷雷の双眉が険悪につり上がった。飛びかかる一歩
手前まで筋肉を畳み込んで、更に質問を加える。
「んなことをしやがった理由はあるんだろうな」
 龍華は勿論だ、と鷹揚に頷いた。
「万が一お前が愚断を殺したと判断されたなら、お前の腕では自分の身を守れないと思っ
たからだ」
 うって変わって真剣な表情で語る。殷雷は突然、身の安全に話が及んだ理由が分からな
かった。どういうことだ、との殷雷の追跡に龍華はああそうか、と前置きして話を始めた。
 愚断はただの人斬りではない。職業的暗殺者である。依頼人の身分を問わず、物事の是
非も問わず、殺しとくれば何でも引き受けた。依頼主には当時の幕閣の人間も含まれてい
た。それがために十年前、本来なら打ち首になるはずだった命を助けられた。龍華が愚断
を切り捨てたのも、今の幕閣の中に愚断と繋がりを持つ人間がいないとも限らないからで
ある。
「だからどうしたってんだ」
「殷雷。お前もほとほと頭の巡りが悪いな。ここに愚断を殺した奴がいる。また一方には
使い勝手のよい狂者を殺されたと逆恨みする奴がいる。どうだ」
「それだけで俺を殺そうってのか? 頭の巡りが悪いのはそいつの方だろ」
「逆恨みをするような奴に限って権力を持っていて、愚断を殺害した取り方一同を全員目
の敵にしている。そして、そいつは取り方に圧力をかけるために、愚断を殺した奴を殺し
返すという寸法だ」
 殷雷は龍華の説明に一部の理があることを認めた。龍華が自分を庇おうとしてくれるこ
とも正直嬉しかったのだ。庇われているということが気に入らないことも確かだが、昨日
見せた龍華の腕の冴えを知った今では、文句は言えない。
 今まで口を付けていなかった湯飲みの茶を殷雷は喉に流し込んだ。
「ぬるい」
「さっさと飲まないからだ馬鹿者。まあいい、汲み直してきてやろう」
「お、済まないな」
 調理場へ消えようとする龍華を引き留めて殷雷は尋ねた。どうしても腑に落ちない点を
見つけたからだ。
「それはそれとして、俺を貶めるような記事を作らなくても良かったんじゃないか」
 龍華はにっこりと微笑んで奥へと姿を消した。武家屋敷からも姿を消した。
 誤魔化されたと気づいた殷雷が江戸中を龍華求めて走り回っても、龍華の消息は一つと
して掴めなかったという。



 周囲からの好奇の視線に晒されながら殷雷は日本橋を歩いていた。八丁堀から爆燎に追
い出され、静嵐には泣きつかれた殷雷はここ二週間勤務をサボっていたこともあり、見回
りに出ることに決めたのだ。
「あううう、親分痛いですよう」
「ほほう、そうか。痛いようにしてるから当然だな」
 苛立ちは静嵐の首を絞めることで紛らわせ、久方ぶりの町を眺める。早足で道を通り過
ぎる人々もいれば、笑顔を貼り付けた店主と丁々八手のやりとりをする客もいる。それぞ
れの理由をもって、今日という日を過ごす人々がそこにいた。
 首を巡らすなかで、見知った顔を見つけた殷雷は声をかける。
「よう、和穂」
「久しぶりです、殷雷親分」
 自分を呼んだ相手に気づくと、花のような笑顔を一瞬見せて、和穂は深く頭を下げた。
いつも通りの挨拶に安心した殷雷は、何か用事があるのか聞いた。
「おかみさんの親戚が奉公にあがるということで、道案内ついでに江戸の観光を頼まれた
んです」
「は? 言っちゃなんだが、団子屋風情が奉公人を取るような余裕があるのか」
「はは。うちじゃありません。奉公にあがる先はきちんとした商家です」
「なんだそりゃ。別に和穂が案内しなくてもいいんじゃねえか」
「日頃世話になっているおかみさんに頼まれたら、嫌とは言えません。それに、お小遣い
も頂きましたし」
 何に遣いましようかねえ、と笑う。

 静嵐の発案で三人は茶屋で休むことにした。注文した饅頭とともに茶が出され、三人が
めいめいに手を付けていると、
「吠えていられるのも今のうちだ白雲!」
「ふん、その言葉そっくり返してやるわ」
 喧噪を突き破る大声が日本橋に響き渡った。和穂は目をぱちくちさせると、声が聞こえ
てきた方角に目を向けた。しかし、雑踏に遮られて喧嘩と思しき風景は見つからない。吃
驚して饅頭を喉につまらせた静嵐を横目で眺め、殷雷は茶を啜った。
「親分さん、何を落ち着き払っているんですか! 喧嘩ですよ止めないでいいんですか?」
「親父、団子一本追加だ」
「おーやーぶーんー、さん」
 茶を喉に流し込んで一息ついた静嵐が、これまた和穂の剣幕とは対照的な表情で答える。
「和穂さんは江戸に来て間もないから知らないんでしょうけど、あの二人の喧嘩は日常茶
飯事のものなんです」
「だからって、止めないでいいことにはなりません」
「まあ聞いてください。そもそも、あの二人は……」

 江戸には庶民の人気を集めた二つの花火製造元がある。一つは、終白雲率いる鍵屋。も
う一つは鍵屋から別家した沙界元率いる玉屋である。もともと界元も鍵屋の花火師だった
のだが、白雲が鍵屋を継ぐことに決まったとき、白雲とソリの合わなかった界元が理想を
共にする花火師たちと新しく花火製造所を立ち上げた。それが玉屋である。

「そういった経緯があって、両者は酷くいがみ合っているんです。けど、両者とも『次の
花火大会で決着を付ける』が口癖ですし、実際に口喧嘩から発展することはないんで、見
て見ぬ振りをしてるんです」
 はい、終わりと手を打って、静嵐は皿に手を伸ばした。だが、皿には団子の串しか載っ
ていない。
「親分、あっしの饅頭はどこ行ったんで?」
「は? 俺はてっきり、一個で足りたのだとばかり」
「親分んんん!」



 その日の夕方、界元は死んだ。死因は馬からの転落死だった。目撃者は一様に、馬が突
然暴れ出して界元を振り落としたと証言した。馬番は気性の穏やかな馬でとても信じられ
ないと語った。
 玉屋の陰謀と囁かれる中、玉屋の跡継ぎとして一人息子の景陣が選ばれた。景陣は軽挙
を戒めるよう訓告を出したが、一触即発の空気を町民は敏感に感じ取っていた。
 そのような不穏な空気の中。一方の鍵屋の頭領格、白雲もまた急死した。胸をかきむし
ったかと思えば血を吐いて倒れた、とは娘の玲夢の言である。また、白雲に心臓病の持病
は無かった。
 鍵屋の跡取りは容易に決まらなかった。白雲のただ一人の子供である玲夢は医学を志し
ていて花火に興味を持たなかったからである。揉めに揉めた時期頭領の座は結局決まらず
、暫定頭領として万返が選ばれた。万返は玉屋が分家する前に生まれた花火師の長老格で
ある。
 ここに至り陰謀説は消滅し、町民の興味は界元と白雲の死因に向かった。捕り方も二人
が相次いでこの世を去ったことをいぶかしんで動き出した。疑問の余地ある死の謎を解く
ため、同心たちが町へ飛ぶ。

 殷雷は鍵屋の看板を見上げた。凶事があったためか、看板はどこか色あせて見えた。店
番に一声かけて、玲夢と万返を呼んでもらう。
 客間に通された殷雷はすぐさま話を切りだした。
「暫くあんたがたの護衛をやらせてもらう」
 殷雷の言葉に玲夢が反応した。身を乗り出すようにして殷雷を問いつめる。
「それではやはり、父は誰かに殺されたのですか」
「今の段階では確証はない。だが、その疑いがある」
「玉屋の者ですね、そうでしょう?」
「お嬢様」
 意気込む玲夢を遮ったのは、落ち着いた声音だった。年の功か、万返の一言で玲夢は大
人しくなる。
「もう一度尋ねるが、白雲に持病は無かったんだな?」
「はい。父の健康は私が総て把握していましたから、間違いありません。年にしては健康
で、それどころか稚気を抜けなくて困っていたのに……」
「済まん。思い出させてしまったようだな」
「いえ」
 声をかけづらい雰囲気になってしまったことを殷雷は後悔する。万返が頭を下げながら
護衛の件お願いします、と言った。



 殷雷が玲夢の護衛を開始して三日経つ。殷雷は護衛の仕事をこなすだけでなく、屋敷の
人間の様子も探っていた。白雲殺しの犯人として、最も怪しいのは屋敷の人間だからだ。
「親分さん、厠までついてくるつもりですか」
「そうか、済まねえな」
 殷雷は角を曲がる玲夢を見送った。目星を付けた人間の中には玲夢も入っていた。
『血を分けた肉親を疑わなけりゃならないとは、世知辛い世の中になったもんだ』
 胸の重さを押し出すようにして殷雷は溜息をついた。

 屋敷廻りの見回りをさせていた静嵐が姿を見せた。そういえば定期報告の時間だったな
と殷雷は思い出す。
「静嵐か。様子はどうだ」
「怪しい奴は見あたりません。暇でしょうがありやせんよ」
「そうか」
 屋敷の内と外その両方を調べて何も出てこないということは、事件でもなんでもないの
ではないか。殷雷はそう思い始めていた。
「親分、煎餅でも食べませんか」
 静嵐が懐から出した菓子に殷雷は手を伸ばした。菓子袋には胡麻煎餅と醤油煎餅がそれ
ぞれ三枚ずつ入っている。殷雷は暫し考えて、胡麻煎餅を摘んで口に入れる。ぱりぽりと
呑気な音が辺りに響く。
「ふああ。暇ですねえ。ほんと、こんな仕事なら大歓迎ですよ」
「お前、また菓子をせびり取って来たのか」
「人聞きの悪いことは言わないで下さい。『毎日のお勤めご苦労様ですな』と毎日労って
くれる万返老に失礼でしょう」
「あの爺さんもマメだよなあ」
 使用人を捕まえて茶を頼む殷雷を静嵐が冷やかした。

 菓子袋にあった煎餅を食べ終えると、静嵐は名残惜しそうに立ち上がった。
「ああ、また仕事か。面倒だなあ」
 やる気の見られない静嵐を小突いて殷雷も立ち上がった。
「玲夢。いつまで厠に行っているつもりだ」
 玲夢の消えた角に向かって呼びかけるが返事はない。
「おい玲夢!」
 大声を張り上げていると通りかかった下女が、
「お嬢様なら外出なさりましたよ」
 下女の言葉に殷雷は固まった。
「静嵐、てめえが外の見回りをせずに休んでいたからだ!」
「ひどいですよ親分、あっしのせいにするんですか!」
 責任をなすりつけあいながら二人は屋敷の外へ飛び出した。

「ったく、狙われているかもしれないとは言っておいただろうに」
「油断してた人間が言う台詞じゃないっすよ」
「黙れ」
 通行人に玲夢の背格好を話して行方を尋ねる殷雷たち。幸いにも、玲夢らしき人を見た
という人間は次々と見つかった。
「大女だから目に付きやすいみたいっすね」
「そうだな」
「なかなか見つかりませんね」
「俺たちが休んでいた時間からすると、そろそろ見つかってもいい頃だと思うんだがな」
 二人は足を止めて小休止した。細い裏路地は見通しが悪いが、どうやら一本道のようだ。
もう少し進んでから玲夢の行方を尋ねることにしよう。
 そんな二人の足下に稲妻の勢いで手裏剣が突き刺さった。間髪入れず、長屋の上から口
上が聞こえてきた。
「天呼ぶ、地呼ぶ、我が呼ぶ。野暮天を殺せと心が叫ぶ」
 聞き覚えのある声、聞き覚えのある口上に殷雷たちの頬に一筋の汗が垂れた。
「乙女の望みを叶えるため、今、恋愛の使者ここに登場。とうっ」
 殷雷の行く手を遮るようにして、くのいち装束の女が立ちふさがった。頭痛を堪えるよ
うに手を頭に当てた殷雷は震える声で呻いた。
「くそ、接触しないよう万難を排してきたってのに、どうしてこんなところにいやがるん
だ」
「深霜親分、どうしてここに」
「いやね静嵐、親分と呼ばないでと何回言ったら分かるのかしら」
「あーあー、すいません。深霜の姉御」
 深霜は殷雷と同僚の与力である。自称、集団行動にソリが合わず御庭番衆を放逐された
美少女忍者。現在は、立候補して景陣の警護についていた。
「とにかく、そっちに玲夢はいるんだな」
 嫌々ながら殷雷は口を開いた。くのいち装束に身を包んでいる深霜と関わってはならな
いことは、奉行所の全員がよく知っていた。
「まあ、そう。だけど通さないわよ」
 腕を掴んできた深霜を振り払い、殷雷は先へ進んだ。後ろから追いかけてこようとする
深霜と止めようとする静嵐のやりとりが聞こえてくる。
「ちょっと殷雷、待ちなさい!」
「あーはいはい、ここで大人しくしてて下さいね」
「ちょっと静嵐、どこ触ってるのよ!」

 深霜を静嵐に任せて走ること暫し、玲夢の後ろ髪が目に入った。呼びかけようとした殷
雷はその場にもう一人男がいることに気づいて口を閉じる。
 男と玲夢は抱き合っていた。尚かつ、顔をというか、特に唇を近づけている。殷雷は深
霜が止めに来た理由をようやく悟った。
 二人の顔が近づいて、一度離れたときに声をかける。
「おい玲夢、よくも俺たちをまいてくれたな」
 覗き見ていた気まずさのため声に力がない。殷雷が追ってきたことに気づいた玲夢はば
つの悪い表情で答えた。
「ごめんよ。どうしてもこの人に会いたくてね」
 胸を叩かれた男は殷雷に向けて頭を下げた。その顔に見覚えがあるような気がしたが、
どうもどこで見たのか思い出せない殷雷。
「野暮なことしてんじゃないわよ。景陣さんに失礼でしょう」
「おお、そうだ。景陣だ。鍵屋の旦那になった」
「そうみたいっすね。人相書にそっくりっす」

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