第二話
最強のディレルからH市を守った
北浜雄一は
『土曜日の学校』
での試験に何を思ったのか
『憂鬱な気分で座り込む北浜雄一』
「はあ……やっぱゆううつだ」
週休二日制の学校の土曜日だというのに、俺は学校にやって来ていて、しかも体操服に
着替えて寒空の下、体を震わせていた。
学校側も、どうせなら学校のある第一、第三土曜日にやってくれればいいものを、とこ
こにいる人間はみな思っているに違いない。
「あっ、北浜先輩。今日は頑張りましょう!」
顔見知りが俺を見つけて近寄り、やたら元気に声をかけてくる。だが、とてもじゃない
が俺は元気を出せる気分ではない。
「南方……元気だな、お前は」
俺に話しかけたのは、俺の所属する数学部の後輩、南方だ。南方の熱気にあてられて、
俺は更にやる気を凋ませるが、よく考えてみれば、こいつと俺とでは今日ここにいる理由
が全く違うのだから、この落差も当然のものだろう。
ディレルと力を合わせて戦った俺たち二人。俺はあの後、ふらふらの状態で持久走に参
加し、途中で力つきてばったり倒れた。だから、こうしてもう一度走らなければならない。
その頃、南方は病院のベッドでぬくぬくしていたはずである。
しかも、紆余曲折はあったものの憧れの涼子ちゃんとつき合うようになったこいつのテ
ンションが低いわけがない。
そう、俺はため息をつくしかなかった。世の中に公平なことって少ないよなと。
『同時 サッカー部顧問に”数学部伝説の奇書”を渡す辰巳哲夫』
「……というわけでこれが、我が部の実績を表す、まあ報告書代わりみたいなものです」
俺の名前は辰巳哲夫。いやに時代がかった名前やが、自分では気に入っとる。俺のこの
学校での役職は数学部の部長。学校の歴史に燦然と輝く我が部の部長になれたことは幸せ
なんやが、俺が部長になったと同時に、この石頭がサッカー部顧問になったんや。
そして、今に至るまでに繰り広げられた水面下の駆け引きの数々。
こう言うとまるで俺が悪いことをしたようやが、そうやない。ともかく、この俺がいる
限り、数学部を廃部になんかさせやへん。そして、今、我が部の精鋭を総動員した奇書を
提出したところや。
「ほう? ……」
奴は頓狂な声を上げると、ぺらぺらとページをめくってゆく。それでちゃんと読んでい
ると言うつもりなのかいな。ぺらぺら、ではこの高密度に詰められた情報量が分かるはず
もなく、瞬く間に奴は”読み終えて”しまう。
「なかなかだが、これが数学部の実績となるとは思えんな」
……やはりそう来たかいな。俺は前々から心にしまっておいた解答を思い出しながら口
を開く。
「お言葉ですが、高校生には数学の定理の新発見を見つけるなんて出来ません。文化系ク
ラブがラクロスなぞ、と言われたので文化系らしいものを選んだのですが」
言葉だけは慇懃に、しかし心の中ではこなくそ、と思うとる。
こいつに辛酸を嘗めさせられているクラブは我が数学部だけでなく、文化系のほとんど
のクラブに、果てには運動部にまでその魔の手を伸ばしている。
今、俺を見つめている教師陣からの視線にも、頑張ってくれ、という応援の眼差しを幾
つか感じられるのは決して俺の思い違いではあらへんはずや。
「そう言われても、数学部だからな。そうだ、フェルマーの定理を解いてみたらどうだ?」
サッカー部顧問は言ってがははと笑った。自分では豪快な笑い声のつもりやろが、聞い
てる方にとっては野卑で疳に障る声や。うるさい黙れ、と言いたくなる気持ちを押さえつ
けて、俺は口を開く。
「そうは言いますが先生、そもそもフェルマーの定理が一体どういったものか知っていら
っしゃるのですか?」
俺のこの質問に、奴はうっと息を詰まらせる。ざまあ見さらせ、お前の知識がそんなも
んっちゅうことはとっくに分かっとるんや。
「あ、あれだろ? ピタゴラスの定理はn=2の時だが、n>=3の時にもそれが成立するか
、という」
「その通りです先生。n>=3の時にも成立するはずだ、ということですよね」
「そうだ。俺だってそのくらいは知ってる」
「は? なに言うてんのや。ピタゴラスの定理の時は成立するんやが、n>=3のときはよう
成立せいへんのやで。
しかも、つい三日前にアンドリュー・ワイルズがついに正解を導いたことすら知らんの
か? あれだけニュースで報道されていたのにのう」
馬鹿が墓穴を掘りおったで。よくこういう勘違いをしている奴がいるんや。n=2のとき成
立するものを拡張してn>=3のときも成立させようとしているって奴。
まあ、興味のないことについてよく知っとけ、と言うのもキツイことかもしれんがな。
ともかく、口調を一変させての俺の言葉に、教室内にいる教師たちから失笑が漏れていた。
いい気味や。少しは虐げられるものの気持ちを考えてみればいい。
「き、き、貴様! 教師に向かってその口調はなんだ!」
こういう奴もよういるわな、自分の過失を話題にされるたとき、相手が目下の相手だと
黙れ、とおらぶ奴。ほんまに勘弁してほしいもんや。
「……これは失礼。そう言えば先生は文化系のクラブが運動部の領域に踏み込んでくるな
、とおっしゃっていましたね。文化系のクラブが運動部の活動を行えるはずがない、と。
ですが、我が数学部はラクロスで確かに県内大会で上位の成績をとっております。私た
ちだって運動部の何たるかくらいわきまえている、ということの証明になりますな。
だというのに、先生はフェルマーの定理の何たるかも知らずして数学部の活動に制限を
加えようとなさるのですか?
この命題を証明する定理があるのでしたら、是非教えていただきたい」
「く……く……」
奴は顔をゆでだこのように赤く膨らませて、喉でつかえている怒りを生徒相手やからと
我慢してやがる。えろう面白い表情や。
俺は奴にトドメをさそうと更に話しを続ける。
「私たちはこれからもより運動部を理解するよう努力いたしますので、先生もどうかこの
本を読んで文化系クラブの何たるかを理解していただきたい」
俺は最後にそう付け加えて、見方の教師の無言の拍手を聞きながらどうどうと職員室か
ら退室した。ふう、こんなに長く喋ったのも久しぶりや。これが終わったら購買でジュー
ス買ってこな。
ぴ〜〜〜っ。
右手にある窓の向こう――校庭から甲高い音が響いてきた。
「おっ、ははぁサボリ組の再試験やな。っとあれは北浜に南方ではないか?」
そう言えば、近頃あの二人の様子がおかしいこともあった。たしか、その頃ちょうど体
育のテスト代わりの持久走があって……。
「まあ、頑張ってくれや」
何せ再試験だから、クラスの声援があるはずもない。一人応援していても悲しいやら空
しいやら、ろくでもない気持ちになるに決まっとる。俺は彼らの成績が少しでもいい方向
に向くように祈りつつ部室へ向かった。
『二日後 数学部、臨時部会に出席する北浜雄一』
と、以上のことを部長が語った。
「それは言い方にかなり難があるやん」
横から口を出して俺の思いを代弁してくれたのは、数学部ですらない徳湖である。もっ
とも、俺は部長に
『よく言ってくださいました、それでこそ部長です!』
と拍手したい気持ちが勝っていたが。
「そうですよ。相手が逆上したらどうするんですか」
やんわりと部長をたしなめたのは、もちろん我が数学部のマドンナ、涼子ちゃんだ。涼
子ちゃんの静かな叱責を受けて部長が縮こまる。
「そ、そう言われてもな、もう言ってしまったことだし」
「ただの言い訳よね」
「ぐっ、おまえらな、年をとれば人は温厚になる、なんて幻想を抱いてるんやないやろな?
そもそも俺とて、お前たちと一つしか年は離れてないねん」
そりゃそうだ。老人は常にとはいかないが、多くは縁側で猫を膝にのせて、おう祐介や
、と孫を優しい声で呼び止めるものとして描写される。しかし、実際は全く違う。年をと
れば、人はその分だけ頑固になる。今までの自分から変われなくなる。
年取った政治家が(思うに、日本の政治家の平均年齢はいくらなんでも高過ぎやしない
だろうか)よく口を滑らして馬鹿な発言をするのも、部落差別がなくならないのも、その
他もろもろのことも、年とって頭が固くなった老人の特性をよく表している、と俺は思う。
「でも、仮にも部長なんだし、そこは抑えてもらわないと思うわあ」
「耳に痛い発言だが、部員ではない人に言われてもなあ」
先程から徳湖の厳しいつっこみが目立っている。つっこみなら俺も負けないが、どうや
らまだ困惑から抜け出ていないらしい。
「どうしようか、涼子ちゃん」
俺はやはり困った様子の涼子ちゃんに話しかけた。涼子ちゃんは俺に向き直ってにっこ
り微笑む。
「さあ、どうしようか……北浜君には何か名案はあるん?」
ああ、見ろこの穏やかな言葉を。これが徳湖ならば
『何が、どうしようか、よ。そんなこと言う暇あったらもっといい手を考えなさい』
とにべもない答えが返ってくること必然である。
だだだだだっ!
廊下をかける足音がドアで隔てられた教室の中にまで聞こえてきた。どいつか知らない
が、教師に見つかったら思いっきり絞られるだろう。そう思っていたら、その足音はうち
の部室の前でぴたりと止まった。はて?
がっっっっ。
ドアを叩きつけるようにして開いたのは、こともあろうに教師であった。あまり馴染み
のある教師ではない。二年の担当ではないと思う。
「せ……先生、どうしたんですかそんなに慌てて?」
息を切らせてぜーぜーと苦しそうなその教師に、涼子ちゃんはお茶を差し出した。
「……あ、ありがとう。助かるよ」
どうしてお茶があるかって? 会議という雰囲気を出すための小道具だからだ。
そうだそうだ、この教師はうちの部活の担任だった。あまり部活に顔を見せることもな
いので、すっかり忘れていた。
「それにしても、先生もどないしたんです?」
「そ、そうだ。サッカー部顧問の……だが……今日急に体調を崩して、
病院で診てもらったら……と診断されたらしい」
途切れ途切れの言葉のせいで遠くにいる俺はよく聞き取れなかった。
「涼子ちゃん、病名はどうだって?」
「……急性の結膜炎だそうよ」
深刻な表情で答える涼子ちゃん。ん? まてよ。ということは……
「部長! 俺たちは、数学部は!」
「おおそうや、数学部は助かったんや!」
俺たちはひしっと抱き合って喜びを分かち合った。あの石頭がいなくなれば、この学校
はきっともっと良くなるはず。辺りの部員からも、喜びの声があちこちから上がり始めて
いた。
「でも、急にどうして……」
優しいなあ、涼子ちゃんは。相手は数学部のにっくき敵だというのに、身を案じている
んだからなあ。
「さあ、私には何とも。ただ、今日の朝には豪華な装丁の本を読んでいたな……」
俺の額を一筋、冷や汗が伝わって落ちる。抱き合っているので分からないが、きっと部
長も同じ気持ちだろう。
「ど、ど、どうしましょうか部長」
「そうやな……数学部伝説の奇書ではなく、数学部伝説の怪書に改めてやな?」
「あの〜、先生。出来れば、どのページまでサッカー部顧問がが読んでいたか調べて欲し
いのですが」
「は? いや、別に構わないが、どうしてだね?」
「いえ〜、はっはっは」
「はっはっはっは」
俺はただ一つのことのみを祈るだけである。どうか、しおりが俺の書いた小説の所に挟
み込まれていませんように、と。
やがて、用事も済んだし、一息もついた教師は部室を出ていった。後には興奮に打ち震
える部員たちが残される。
「そうや、これを記念してみんなで打ち上げせんか? ぱあーっと、な」
わあああっ! 先程にもます歓声が教室を震わせる。
「はあ、全く、このお祭り好きの馬鹿たちが」
「私は打ち上げはちょっと……」
この前の打ち上げでは、徳湖が一番乗っていた。数学部ではないのに平気な顔で入って
きて、(徳湖が部員ではないことを知らない正規部員も多いのでは)さんざん酔っぱらっ
た挙げ句に涼子ちゃんにからんで
「なにをぉ〜、あたしの酒が飲めねえっちゅうのか〜???」
……そのまま中年親父のような台詞で涼子ちゃんを困らせていたのだ。だから、涼子ちゃ
んが辞退しようとするのも分かった。
「いつも打ち上げっちゅうのも風流やないな……」
「何言ってるのよ部長さん、数学部に風流が必要あって?」
こういう疳に障ることを言うのは決まって徳湖である。普通人はこんなことを言う度胸
はない。
「あの……有志を募って旅行に行くってのはどうでしょうか」
「おっ、それええな」
「それなら、私も安心ね」
それまで少し離れた所でポーカーをしていた南方のおずおずながらの発言に、部長と涼
子ちゃんが頷いた。俺にも依存はない。と、いうことはこの数学部の首脳三人の意見が一
致して、めでたく方針が決まったというわけだ。
しかし、馬鹿騒ぎをこよなく愛する人種からはブーイングが飛んでいた。部長が貫禄を
発揮して、そいつらを黙らせる。俺たちはそれから、旅行の日程や人数などを詰めに入っ
た。
『三十分後 帰宅途中の北浜雄一』
「いよっ、南方。一緒に帰らねえか?」
「あっ、はい、いいですよ北浜先輩」
俺は帰りに南方を誘った。ちょっとした用事もあったからだ。
「それにしても南方、よく発言してくれた。また今年も徳湖が暴れる宴会になるのか、と
ちょっとブルーになったからな」
ははは……と南方はひとしきり笑った後、
「本当に暴れるんですか?」
と聞いてきた。俺は手短に去年の乱稚気騒ぎを説明する。俺の話を聞いていた南方はみ
るみる内に青ざめてゆく。
「さすが徳湖さんですね……」
「ちょっと、それはどういう意味かね南方君?」
げっ、噂をすれば影とはこのことか。いつのまにか俺たち二人の後ろに徳湖が立ってい
た。俺は弁解などしない。したところで無意味だし、こいつはそういった態度の方を余計
に嫌うからだ。
「え、え〜とこれは……」
そのことを知らない南方が弁解しようとする。だが、弁解を黙って聞いてやる徳湖では
ない。
「良かったわね〜、南方君。憧れの涼子先輩と旅行に行けるのよ〜」
「ははあ……なるほど」
海より深く俺は納得した。冷静に考えてみれば、いくらあの石頭が消えて嬉しいとは言
っても、それで旅行に行こうなんて考えまでは辿り着かないだろう。
二人でどこかに旅行するのは無理だから、他の部員も巻き込んで、その上で二人っきり
で……という目算があったのだろう。
俺たち二人のにやにやした目つきに、南方は顔を真っ赤に染めた。いいねえ、若いって。
「まあせいぜい、楽しんで来いよ南方」
「そうよ、個別行動中に涼子ちゃんをラブホテルに連れ込んだりしちゃダメよ♪」
「ぼっ、ぼっっ、ボクは……」
しかし、今の徳湖の口調には薄ら寒いものを感じたな。似合わないんだから、やめて欲
しいものだ。
「まあ、南方をからかうのはこのくらいにしといて……」
「からかってたんですか?」
「そういうことにしとけ。でだ、俺たちが本当に訊ねたいのはな涼子ちゃんのことだ」
俺の言葉が、それまでの雰囲気を冷却し、破壊した。おそらくは徳湖も、同じことを聞
きに来たのだろう。
「涼子先輩は、別段変わった所は見えません。前みたいに優しいし、雰囲気も安心できる
感じだし……」
それは分かっている。だが、遠くから見ていては気づかないことも多い。だから、なし
崩し的に涼子ちゃんの恋人状態、というにはまだ早いかもしれないが、一番涼子ちゃんと
親しい南方に聞いているのだ。
いや、一番涼子ちゃんと親しいと言えば実の弟である西中島良太だろうが、豪放磊落な
奴でも、実の姉に人体実験された、という恐怖が拭い切れていないらしく、俺たちの見る
ところ、まだまだ態度がぎこちない。
それは涼子ちゃんも分かっているようで、理由が分からないながら寂しげな目で西中島
良太を追っている姿が授業中、休み時間に限らず目撃されている。
「そう、それなら安心ね。じゃ雄一、いこか」
「おうっ、じゃあまたな、南方!」
俺は片手を挙げてさよならのポーズをする。南方はあいまいな笑みを返事とした。
ゆっくりと徳湖を側に歩く。太陽もだんだんと傾いてきて、いまや世界は飴色に染まっ
ていた。もの悲しげな風景がそうさせたのだろうか。徳湖が口を開いた。
「私は、やっぱり嫌な女かもしれない……」
かつっと道ばたに転がっていた小石を蹴飛ばして、
「南方君と涼子とを近づけさせたのも、南方君のため、というよりも……」
「それなら、もう十分に話し合ったことやろ。南方のため、涼子ちゃんのために、てな」
天詳によって、涼子ちゃんはディレルであったときの記憶からディレルという存在その
ものを消した。しかし、それだけでは世の中はすまない。
目を開けたら数日……いや一週間以上経っていて、自分は怪我をしていて、同時期に南
方も入院している。あまりにも不自然だ。
そこで俺たちは、涼子ちゃんが車にはねられそうになったところを南方が身を挺して助
けた、そのために南方も傷を負ったという筋書きをたてた。
それでもやや不自然だった。涼子ちゃんも南方も自動車にはねられたにしては軽傷で、
縫い目もない。分かるわけないと思うが、涼子ちゃんには銃創まである。そして、銀山の
驚異的手術。これはこれまた驚異的縫合によって、縫い目は非常に少なくなっている。
(らしい、徳湖によると)
それらに対する涼子ちゃんの不安を解消するための筋書きだった。南方は涼子ちゃんに
惚れているから、それを後押ししてやろうという気持ちもあった。
しかし、しかし、だ。別に天詳の腕前を疑うわけではないが、ディレル、それも最強の
ディレルが完全に消え去ったのだろうか。脳のひだに隠れてはいないだろうか。不安は尽
きない。
……そう、南方と涼子ちゃんとをくっつけようとした理由は、もうひとつある。涼子ち
ゃんを、側で見守ってもらうこと。
言葉を選ばなければ……涼子ちゃんを監視して欲しかったのだ。すぐ側にいる者ならば
、すぐ分かるだろう。そう思って。
「ええい、何後ろ向きに考えてる!」
俺はわざときっつい力で徳湖の背中を叩いた。殊更明るい声を出す。
「このまま何もなく進めば、俺たちは愛のキューピッドだぜ」
「でも……何かあったときは?」
「そん時はそん時や。それに……あいつは、南方はそれを知ってて、
それでも涼子ちゃんの側にいようとしてる。泣かせる話じゃないか」
「そうね……」
「なら、俺たちは南方の想いに応えるまでだ」
気が付けば、既に自分の、徳湖の家の前まで帰ってきていた。余程深く思いに沈んでい
たらしく、道中誰と会ったのか、何を見ていたのか、全く覚えていなかった。
「はあ……雄一は気楽でいいわね」
「ぼ、け。お前が気負いすぎてるだけだ」
こいつは他人には決してそんな振りを見せないが、今や多くのものを背負っていた。そ
れに対して、俺は普通の数学好きのどこにでもいる高校生だ。
そんな俺がこんな世界に関わってしまったのも、今も関わっているのも、きっとお互い
がお互いに甘えてしまっているからだろう。
恋とかそんな甘い感情ではなく、きっと、もっと単純な甘え。子供が親を慕うような。
「はい、はい。じゃあ気楽に、旅行にでも行ってみましょうか」
気楽に、と言うがその実は涼子ちゃんを見張ることに終始するのだろう。どうせならこ
いつを行かせないほうが100倍気楽にさせられるだろう。それを分かっていても、やっ
ぱり甘やかしてしまう俺はこう答えた。
「はぁ? 数学部でもないお前が数学部の旅行に参加するってのか?」
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