第三話
数学部主催の旅行に参加した
北浜雄一は
『加賀百万国の都』
にて何を見たのか
『二日後 数学部部室に呼び出された北浜雄一』
一人机に座って、頬杖をついてパンを食べる。あれほどまでに恋い焦がれた普通の食事
風景がここにはあった。
「いよぅ北浜、愛妻弁当はどうしたんだ?」
弁当というと、二週間前に徳湖が俺の為にと作ってきていた(俺は決して俺のために作
ってくてくれた、などと語るつもりはない)唐揚げ弁当のことだろう。実態を知らない奴
は気楽に言ってくれる。俺が心底から喜んでいたと思っていたのか? 俺が心の奥底で血
の涙を流していたことを判っていてくれたのは誰一人としていないのか?
ぎろっ。俺の考えを何か超次元の感覚で察したのか、諸悪の根元が俺にきつい眼差しを
送ってくる。
『やかましいわ、アホ』
『ほほう、私の弁当で命を助けられたのは誰だったん?』
『もともと命の危険に晒されたんはお前のせいやろ』
言葉を介さず視線だけで熱い会話を交わす俺達だ。
「はぁ、なるほど。夫婦喧嘩してるってわけか。まあ早く仲直りしてやれよ」
横で意味の通らないことを呟いているクラスメイトは全く無視して、俺達の視線は更に
熱い火花を散らす。
『雄一がそんな軟弱者だとは知らなかったわ』
『俺も徳湖がここまで自分勝手だとは思っていなかったな』
「くくく……」
「ふふふ……」
二年三組の教室は俺たちから発せられる異様な異様な雰囲気に包まれ、怯えた生徒達が
「ここから逃げよう」とアイコンタクトを交わしていた。
「あ〜、あ〜。ただ今マイクのテスト中」
そんな時だ。全校舎に覇気に欠けた声が放送されたのは。
「数学部副部長、西中島涼子。数学部書記、北浜雄一。至急、数学部部室まで来ること。
繰り返す。数学部……」
放送も無視して、というより俺の耳には聞こえちゃいなかったのだが、俺と涼子は冷た
い睨み合いをそのまま続ける。と、ふと俺の視界が学生服のブレザーに遮られた。
「聞こえてなかったん? 部長さんが呼んでいたんよ?」
更にブレザーは学園一の美少女の顔に置き換わった。うなじをかきあげる仕草に何とは
なしにドキッと来る俺。涼子ちゃんはいつ見ても可愛いなあ。南方にはもったいない。
「あ、いや。聞いてなかった」
「ともかく、はよ行かんと部長さん怒ってしまうかも」
『なぜさっさと来なかった!』と怒りをぶつける部長は想像できなかった俺は、何も言
わずに再び焼きそばパンを囓り始める。
「北浜君ん?」
「堪忍して欲しいんだけどなぁ。今日は折角焼きそばパンを入手できたというのに」
「それやったら私が後で食堂のおばさんに頼んであげるから、ほら行こ」
なんということだ。これでは俺はまるで好きな女の子を虐めている小学生みたいではな
いか。格好がつかないと悟った俺は、俺の腕を引っ張って動かそうとしていた涼子ちゃん
の手をやんわりと解いてようやく椅子から腰を上げる。
俺と涼子ちゃんが部室に入っても、部長はすぐにはこちらに向き直らなかった。もしか
してノックが聞こえなかったのだろうか? 俺の疑念を余所に、背中を見せていた部長が
回転椅子を滑らかに回して俺達と視線を合わせる。
「ようこそ、諸君」
「あんたは悪の科学者かっ!」
すかさず俺は突っ込みを入れる。
「おお北浜、今日も絶好調みたいやな」
「部長ほどではありませんね……」
「それより部長、話って何です?」
涼子ちゃんが話を促した。もしここに涼子ちゃんがいなかったら漫才だけで昼休みは潰
えてしまったかもしれない。
「ああ、サッカー部の佐藤が病気で休んどるやろ。それで、見舞いに行ってやったんや」
「それはいいことやね」
「ただ見舞いに行っただけですか?」
「ああ。奇書を持って行ってな。見せびらかしながら数学部に対する処遇を改めるよう説
得したんや」
「それは脅迫と言うのでは?」
思わず震え声になってしまった俺の意見に、涼子ちゃんがしきりに首を縦に振っていた。
しかし部長はあくまで平然としたスタンスを崩さず、あまつさえ顔の前で指を振って、
「説得言うたやろ。真摯で紳士な説得や。それに、手段を選んどるほど、俺らの立場は強
かない」
「なるほど……」
思わず納得する俺。
「それだけですか?」
まだ視線を宙に彷徨わせたまま、上擦った声で涼子ちゃんが質問する。
「いや。それが実はな、それから佐藤教諭の容態が悪化して帰らぬ人に……」
「ええっ!?」
「……嘘や、嘘。ただ、腹膜炎が悪化して下垂体なんたらを誘発したとか何とか。それで
今日、学校に退職届けが届いたそうや。サッカー部の顧問は臨時としてバレー部顧問が受
け持つこととなったし、これで数学部は安泰やな」
「部長さん、やりすぎやあらへんの?」
「持病が悪化したんやろ。年取ると大変やな〜」
扇子をパタパタ仰いで、胸元に風を入れる部長は、やはりどこか白々しい態度に見えた。
「あ、そやそや。旅行は今週の土曜、予算は五千円の予定や。そういうことで調整しとい
てな」
「ちょっと高いですね……って、何処に行くかも決めてないですよ?」
「行き先は金沢や」
「どうしてです?」
「俺の趣味。これは部長命令だと思えぃ」
「そんな……横暴な」
俺は流石に呆れ果てた。
「本当は部活動の資金から回したいんやがな、奇書の製作でほとんど使うてしもうたから
な。でもな、これでも一泊二日、宿泊代込みやで?」
「あ、それなら安いかも。でもどうして?」
「うちの知り合いが金沢で宿を経営してるよってな」
キーンコーンカーンコーン。オールドファッションな呼び鈴に俺達はここが学校である
ことを思い出した。
「っと、時間やな。お前らも早く教室戻れよ」
さんざん人を引っ掻き回して、自分だけ混乱の坩堝から脱出する。部長は生まれながら
のトラブルメーカーに違いない。さて、次の授業は……。
「科学、それも実験じゃないかああっ!」
理科室(理科という科目は無いのに理科室と名前が付いているのはこの学校の七不思議
の一つである)では今からどんなに急いでも間に合わない。そこで俺は驚愕のあまり、思
わず大江戸上方言葉で喋ってしまうのだった。
『四日後 南方圭司、駅前にて』
「まったく、みんなだらしない。もう待ち合わせ一分前やってのに。そう思わない?」
ふてくされている顔も魅力的な彼女、西中島涼子。彼女は正真正銘僕の「彼女」だ。
「仕方ありませんよ。北浜先輩たちが時間より早く来るなんて考えられません」
「まあ、そうやけどね……」
10分前、5分前……しかし、僕たち以外はまだ来ていなかった。二人でいることによ
うやく慣れてきた僕にとって、すぐ誰か来るだろうと甘い気持ちでここに臨んでいたから
尚更、二人という事実に緊張した。
涼子先輩が、霞むようなぼそぼそとした声で呟いてきてくれる。
「このまま誰も来なかったら、二人で……」
「え?」
もしかしてふ、ふ、二人で旅行? ああっ、先輩いらっしゃらないでくださってありが
とうございます。そして神様、あなたのご加護にも感謝致します。と僕が自分の世界に浸
っていた矢先だった。
「いよう、二人とも……って、タイミング悪かったか俺?」
僕は声をかけてきた人影、北浜先輩に視線を向けた。うっ、と先輩が尻込む珍しい姿が
見えた。もしかして、恨みがましい目つきをしていたのだろうか、僕は。
心中反省をしていると、からかうような調子の声が鼓膜に響いてきた。
「おお、ちゃんと集まっとるな。感心感心」
と、まるで部長のような物言いをするのは立野先輩だ。
「どうしたん雄一? 気まずそうな顔をして。ははぁん、さては二人のらぶらぶパワーに
当てられたな?」
「ら、らぶらぶパワー……」
あまりな単語に僕は閉口する。
「うむ。独り者には辛い光景だからして、これから数学部の雑用は出来る限り南方に回す
ようにしよう」
多分冗談だろう。それにしても北浜先輩の冗談は笑えないものも多い。あたふる僕と違
って涼子先輩は、
「立野と北浜君の二人は、待ち合わせをしてなくたってほぼ同じ時間にくるやない。その
点で言ったら、私たちもまだまだよ。そうだ、二人とも付き合っちゃえば?」
「なぜそう、俺と徳湖をくっつけようとする悪意に満ちた陰謀はこの世に満ちあふれてい
るのだろう?」
「強気に否定したらしたで、照れているんだと誤解してくれるのが問題ね」
まあ確かに、この二人が付き合っている図、というのは想像出来ないし、出来れば想像
したくないとも思う。僕がくだらないことで悩んでいると、今度こそ部長の声が飛んでき
た。
「おっ、みんな集まっとるようやな。では出発しよか」
「おー!」
意気揚々と僕たちは構内へ……と思ったら、僕たちを呼ぶ声がした。
「ま、待ってくれ。わ、わいも行くんや……」
僕の知らない男の人だ。年の頃は14,5。つまり教師じゃないってこと。その男の人
を見て、北浜先輩はぎょっとした顔を見せた。そして、唇を青ざめさせて、そこに百年の
仇敵がいるかの様な声音で呟いた。
「西中島良太……お前がなぜここに!?」
『同時 副交感神経が緊張状態に入った北浜雄一』
聞き覚えのある声に振り向いてみれば、ここにいるはずのない人間がそこにいた。そう
、話が宿敵、永遠のライバル、がたいのいい気のいいあんちゃんこと西中島良太だ。だが
一体どうしてここに!?
「貴様、さては我が数学部の秘密を盗むつもりだな?」
「どこの数学部に盗まれると困るような秘密があるんや」
「宿敵の誼で教えてやろう。我が数学部は決定問題の成立の証明に成功したのだ!」
「なんやと? 決定問題は成立しないことが証明されとるやないか」
「だからこそ世界を揺るがす大証明成り得るのだよ。これにより、計算機科学は新たなる
局面を迎える。IT推進が景気の起爆剤と盲信している馬鹿総理にはとうてい理解しえな
い、まさしく革新的な転換だ!」
「特許はまだ得てへんのやろ?」
「まだ論文を書いている段階なのだよ。今回の旅行は旅行と銘打ってはいるが実のところ
、大日本帝国憲法を伊藤博文らが製作した時に三宅島に籠もった時のように、人知れず論
文を完成し特許を申請するためなのだ」
「あの〜、そうだったん?」
涼子ちゃんが目元に影を落として不安そうに聞いてきた。
「どうせいつもの漫才に決まっとるやろ、いくよ涼子」
徳湖が涼子ちゃんの腕を取り、力一杯引っ張って構内に入る。こら徳湖、そんなことを
しては涼子ちゃんの服が伸びてしまうではないか。
「……冗談はともかく、ここに来た理由は何だ西中島良太」
西中島良太はちらっと俺の後ろにきつい眼差しを向けて、暗く燃える瞳を爛々と輝かせ
た。
ちろちろと奴の舌が蛇のようにのたくっているのは気のせいだと思いたい。
「北浜、お前だけでも不安やってのに、恋人気取りの南方が姉ちゃんと旅行するなんて俺
は不安でたまらんわ。いつお前らが姉ちゃんを攫って崩れかけたマンションに監禁してし
まうやろか、そう思うといてもたってもいられなくなったんや」
言ってくれるではないか、俺がそんな鬼畜な人間に見えるというのか? 取りあえず殴
って分からせてやろう、と思った俺の背後から、
「シスコンですね」
との南方の一言。俺は顔の右横に振り上げていた拳を押さえた。下腹に熱い感覚が広が
ってゆく。じんわりと広がる染みのようにわき起こってくる感情に俺は身を任せる。
「ぶわーっはっはっは!」
それこそ町内に響き渡るかのような声量で笑ってやった。西中島良太はうっと言葉につ
まった。だがたちまち顔を真っ赤に染めない所は流石我が宿敵を名乗るに相応しい。
「シスコンやあらへん。純粋に姉ちゃんを心配に思う気持ちから出たもんや」
「それをシスコンと言うんじゃないですか?」
またしても的確な南方の突っ込みに、さしもの奴もがっくりと肩を落とす。
「もうええわ。何とでも言ってくれ。わいが参加することは許可してくれるんやろ?」
俺は奴の心を癒すかのように、なるたけ優しく奴の肩に手を置いて、まじめな声音で言
った。
「断るわけないだろう。ところでシスコン良太、旅費は自分で払うんだろうな」
「だ、か、ら。シスコンやないて言うとるやろ!」
「手をわななかせながら絶叫する西中島良太の声は町内に響き渡り、シスコンとしての名
を町内に言葉通り響かせたという。目出度し、目出度し」
「目出度かないわいっ!」
「福井駅の乗り換えをご案内致します……」
車内のアナウンスに促されて手元の旅券に目を通す人々を後目に、二時間ばかりの乗車
の中で賭けポーカーに飽きた俺達はぼーっと窓の外の風景に意識を移していた。
「うぃうぃるすーんあらいぶあっと ふくいすてーしょん……」
南方が何やら呟いているが、日本は特急電車に英語放送が流れるほど国際化はしていな
い。
「ほら見なさいって皆の衆! 原発が見えて来たわよ!」
徳湖の言葉に、俺を含む全員が思わず窓の外を注視する。しかし、原子炉も施設を取り
囲む鉄網の姿もからっきしだ。
「阿呆。駅から海岸沿いにある原発が見えるわけないやん」
皆の視線が外に向かった絶妙のタイミングでこの一言。殺したろか、このアマ。
「でも、原発は危険よね」
涼子ちゃんらしい一言だ。それにうんうんと頷いているのは徳湖。とはいえそんな良識
的な理論に徳湖が頷いているはずもなく、どうせ理由はと言えば、
「いつ北のスパイが占拠するか楽しみね」
ほれ。こいつはいつもこうだ。血腥いことしか言わない奴である。
「いや立野さん、チェルノブイリ級の原発事故が起きたら北やて無事では済まんはずやか
ら、そんな手には出ないはずや」
「そうやな。日本海が汚染されて困るのは日本だけやないやろ」
西中島良太に続いて部長も徳湖の意見に反論する。ところで、日本海とは世界共通の呼
称なのだろうか? 勝手に自分の国の名前を付けて地図に載せているが、そのうち国際法
廷が設置されたら提訴されはしないだろうかと憂慮してしまう。
「でも、脅しの材料としては充分よ。自衛隊と地対空ミサイルで防備を整えるべきだわ」
「さっきはスパイがどうこうのって言ってなかったかいな?」
西中島良太が鋭い斬り込みを見せる。いくら徳湖でも1対3はきついか? だがその程
度で挫けるようでな徳湖ではない。
「硬軟両面の備えが必要だと言いたいのだよ」
言っていることは論理的っぽいが、硬質の声が心中をよく表している。
「原発を廃止してクリーンエネルギーに転換することで解決しませんか?」
南方も加わって1対4。
「クリーンエネルギーの研究はまだまだよね」
面白いので俺も参加する。
「政府が原発にばかり金を注ぎ込むからなあ。防衛予算も防衛とはかけ離れた空中給油機
に重点を置いて、レーダー開発が等閑になっているしなあ」
「あ、あれは邦人救出のために……」
「自衛隊機でどれだけの人数が運べるってんや。天安門事件の時みたいにお偉いさんの待
避に使われるのが落ちやろ」
「そもそも自衛隊の使用している銃は組み立てが難儀な上、湿気にも弱くて更に……」
こうして、俺達の徳湖虐めは電車が目的地に着く一時間後まで続いたのだった。
「さて皆の衆、金沢と言ったら何だ?」
駅から一歩出た途端に、部長は俺たちに何やら問いかけてきた。兼六園と答えて欲しい
のだろう。もしくは、何かの銘菓か。
「はい!」
威勢良いかけ声と共に挙手したのは徳湖だった。部長は少し嫌な顔をしたが、すぐに気
を取り直して
「金沢と言えば?」
「忍者寺よ!」
「……はあ?」
さすがにこれは俺も度肝を抜かれた。言うにことかいて忍者寺とはな。自信満々で答え
る徳湖を、通りすがりの人々までもが奇異の視線で眺めている。
「と、言うわけで。行くわよ雄一」
言葉と同時に徳湖は俺の腕を掴み、もう片一方の腕では哀れな南方が引きずられている。
涼子ちゃんが心配そうに見ているが、止めるわけでもない。と、別にこれは涼子ちゃんが
薄情だからではなく、徳湖を理解しているからだ。そして徳湖の神髄を理解している俺も
、事ここに至っては、と自らの足で歩き始めたのだった。
「お、おい? 金沢に来て兼六園を見学しないつもりか?」
遠く後ろから部長の嘆き声が聞こえてくる。南方に涼子ちゃんがついてきて、その涼子
ちゃんに西中島良太がついている。ということは、兼六園行きは部長一人か。
「待て。戻って来い。戻って来てくれ〜」
当然、徳湖がそんな声に耳を傾けるはずもなかった。
「忍者村、忍者村……あ、これですね」
南方はガイドブックから件の忍者寺を探し当てたらしい。忍者村のページ(推測)を開
いて涼子ちゃんに見せてやっている。
「立野、要予約って書いてるけどどないするん?」
「任せなさい。準備は万端やから」
無い胸を張って徳湖が自慢げに鼻を鳴らす。この分だと、今日一日はこいつのペースで
一日が終わってしまいそうだ。俺は徳湖に気づかれないように、小さく溜息をついた。
『五時間後 ホテルのフロントに立つ北浜雄一』
どさっ。肩に重くのし掛かっていた荷物をソファーに乗せて、ようやく俺は人心地つく
ことができた。
「やー、ご苦労ご苦労」
諸悪の根元こと徳湖が気楽に声をかけてくる。俺は息も絶え絶えに徳湖を詰った。
「お土産は最終日に買うものやって決まってるやろ……」
「そんなんゆーてたら、お土産なんか買えんやろ」
まあ、確かにそうなのだが、自分で持てる量を買うのが普通だろう。
「それにどうして俺がお前の荷物持ちなんだ」
「ありがとう雄一! 私嬉しい! 今ジュース買ってくるね!」
突如ぶりっ子を始める徳湖を無言で俺ははたき倒す。
「うう……さんざん私を弄んで捨てるのね。私の身体だけが目当てだったなんて。分かっ
てたけど、分かってたけどそれでも私は……」
「火曜サスペンス劇場みないな台詞はやめろ」
俺が半眼で呟くと、徳湖は素早く立ち直って邪気のない笑顔で言い放つ。
「いやー、頼りに出来るのは雄一だけやから」
「頼むからそれで俺を巻き込むのはやめてくれ……」
それは、俺の心からの願いだった。
だのに俺は今、再び徳湖の荷物を運んでいる。
「俺はお前の丁稚ではないぞ」
俺は背中のリュックに埋もれそうな頭をどうにか動かして徳湖の瞳を見つめる。
「まあまあ。気にしないことね」
はあ……とやるかたないため息を一つ洩らして、俺は歩みを進める。
「っと、雄一、ここよ」
俺は丁寧にリュックを地面に降ろし(乱暴に扱うと徳湖が文句を言ってくるのだ)、こ
れ以上何かを押しつけられる前に逃げようと決心した。後ろを振り返らずに、左足を強く
踏み込む。一秒でも早くここから逃げ出すために。
ばすっ。回りを確認していなかったので、通りがかりの客に体当たりをかましてしまっ
たらしい。
それにしても酒くさい。こういった手合いには早急に謝り倒すのが最良だ。
「すみません。ちょっと急いでいて……」
自らの心情を伝えるには相手の顔を見て、こちらの顔を見てもらうに限る。その信念に
基づき、俺は相手の顔に目線を向ける。俺は絶句した。後ろで徳湖が同じく驚いている気
配を感じる。
「左方天詳、あんたが何故ここに」
俺が知っている左方天詳は間違っても酒に溺れるような人間ではなかったが……何か嫌
な事でもあったのだろうか? 例えば一族の命令に背いた為に破門されたとか。
「ん? 君たちは誰だ? どうして私を知っている?」
目の前の男は左方天詳であることを認めたが、俺達の顔を認識してない。アルコールに
よって重度に脳内が麻痺しているようだ。
「はっ! もしかして」
天詳の顔から酒気が抜けた。ほっ、どうやら正気を取り戻してくれたらしい。
「貴様ら、ディレルだな。見つけたからには、この左方天詳が封じてくれる!」
天詳は俺の胸を強く突いた。俺はその抗いようのない力に後ろへ身体を浮かせる。俺が
宙に漂って、俺の足が再び地を踏みしめる時には既に天詳は愛用の扇子を抜きはなってい
た。こいつはまずい。「ぬぅるだらおつそうっそわいうよ!」
俺は咄嗟に耳を塞ごうとしたが、間に合わない。俺の身体はいつかのように吹き飛ばさ
れる。がっぎ。後頭部にかかった衝撃に、俺の意識は闇に沈んでいった。
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